
私はみ咲の腕を掴んだ。
「佐藤み咲……お前、本当にここで働いているのか?」
み咲は唇を噛みしめ、目を伏せた。
「食べていかなければなりませんから……。」
私は信じられなかった。財閥会長の妻だった女が、こんな寒い現場で肉体労働をしているなんて。
その時、み咲のポケットから電話が鳴った。古い携帯電話。か細い子供の声が聞こえた。
「ママ……鼻血が止まらないよ……僕、怖いよ。」
み咲の顔が真っ青になった。彼女は慌てて電話を切り、荷物を放り出して倉庫を飛び出した。
私は呆然と立ち尽くした。子供? み咲に子供がいる。病院?
秘書に命じて調べさせた。数日後、報告書が届いた。
子供の名前は五藤優太、7歳。父親欄は空白。出産日は離婚から9ヶ月後——つまり、私の子供だった。
み咲は妊娠したまま追い出され、1人で子供を産み育てていた。実家は倒産し、両親は亡くなり、頼る人もいなかった。食堂で皿洗い、夜はコンビニ、妊娠中も働き続け、出産後も休まず働いた。
2年前、優太が急性白血病と診断された。治療費は数千万円。み咲は肉体労働の現場に出た。男たちも逃げ出す寒さの中で、1人でレンガを運び続けた。

私は病院へ急いだ。508号室。ドアを開けると、み咲が優太を抱きしめていた。
「出て行ってください。これは私の子供です。」
私は膝をついた。床に額を押しつけた。
「すまない……本当にすまない。8年前、俺は母の言葉を信じ、お前を追い出した。お前が妊娠していたことも、優太の存在も、何も知らなかった。」
み咲は泣きながら首を振った。
「今更……何になるの? 8年間、私は1人だった。優太が熱を出して泣く夜も、治療費がなくて頭を抱える夜も、誰もいなかった。」
私は額を床に何度も打ちつけた。血が滲んだ。
「殺してくれ。俺を殺してくれ。それでも足りない。」
み咲が私の肩を掴んだ。
「やめて……血が出てるじゃない。」
私はみ咲の手を握った。荒れた手、ひび割れた手、タコだらけの手。レンガを運び続けた手。
「これからは俺が全部やる。お前と優太を守る。死ぬまで償う。」
み咲は泣きながら首を振った。
「許せない……許せないわ。でも優太のため……優太がパパを欲しがってるから……」
その時、優太が目を覚ました。小さな声で呼んだ。
「ママ……?」
み咲が慌てて優太を抱きしめた。私は優太の目線に合わせて膝をついた。
「優太……俺は……お前のパパだ。」
優太は不思議そうに私を見つめた。そして小さな手を伸ばし、私の頰の涙を拭った。
「パパ、泣かないで。僕がいるよ。」
その瞬間、私の心は完全に壊れた。8年間知らなかった息子の温もりが、初めて私の胸に落ちた。
手術の日、私は手術台に横たわり、優太の隣で麻酔を受けた。最後に見たのは、み咲の涙に濡れた顔と、優太の小さな寝顔だった。
「必ず助ける……家族として。」
手術は成功した。私の骨髄が優太に適合した。医師は「奇跡だ」と言った。
回復室で目覚めると、み咲が私の手を握っていた。
「ありがとう……本当に、ありがとう。」
私は弱々しく笑った。
「これからが本当の始まりだ。」
3ヶ月後、優太は退院した。私たちは新しい高層マンションに移り住んだ。最上階の広い部屋。窓からは東京の夜景が輝いていた。
優太は部屋中を駆け回り、笑い声を上げた。
「パパ! ママ! ここ僕たちの家?」
私は優太を抱き上げ、み咲の肩を抱いた。み咲はまだ少し戸惑っていたが、ゆっくりと微笑んだ。
母も時々訪ねてきた。最初はぎこちなかったが、優太の笑顔を見て、少しずつ変わっていった。
ある春の日、家族4人で桜のお花見に行った。優太が花びらを追いかけ、母とみ咲が弁当を広げる。私はその光景を眺めながら、胸がいっぱいになった。
夜、バルコニーでみ咲と2人になった。
「み咲……愛してる。これからもずっと。」
み咲が私の胸に顔を埋めた。
「私も……ようやく、家族になれたね。」
優太が寝室から飛び出してきて、2人の間に割り込んだ。
「僕も! 僕も一緒に!」
3人で抱き合い、笑った。
8年前の寒い工事現場で、私は失ったものを取り戻した。あのレンガを運ぶ小さな背中が、私の人生を変えた。
今、私はようやく「本当の家族」を手に入れた。
これからは、絶対に離さない。妻と息子を、この温かい日々を、永遠に守り続ける。


