第2部

「お前、今何と言った?」
義父の低く雷のような声がリビングに響いた。
つい数秒前まで私を家から追い出そうと声を荒げていた健一は、石のように固まっていた。血の気が引き、口をパクパクと金魚のように動かしているだけだった。
私はその異様な光景を前にしても、なぜか心が冷たく吹き抜けていくのを感じていた。
健一のシャツから漂ってきた見知らぬ甘い香水の匂い。出張だと言って家を出たはずの夫が、なぜ平日の夕方に帰ってきたのか。私の直感はすでに最悪の答えを導き出していた。
健一は慌てて洗面所へ逃げ込んだ。その隙に、ソファに投げ捨てられたスーツのポケットから一枚のレシートが滑り落ちた。
都内の高級ホテル併設ブランドショップのレシート。日付は今日の午後。金額はダイヤモンドのネックレス――8万5000円。
私が息子のおむつを買うために100円単位で特売品を計算し、自分の食事を抜いているというのに。
義父が静かに、しかし圧倒的な威厳で言った。
「見せなさい。隠さなくていい」
私は震える手でレシートを差し出した。義母は両手で顔を覆い、泣き崩れそうになりながら私を抱きしめてくれた。
「ごめんなさいね、ゆみさん。本当にごめんなさい」

義母の温かい腕の中で、私はずっと張り詰めていた心の糸がプツリと切れるのを感じた。
私は息子を抱きしめたまま、この2年間で受けてきた仕打ちをポツリポツリと話し始めた。生活費を極限まで削られていること。毎日のように言葉の暴力を浴びせられていること。息子が生まれてから一度も抱っこしてくれないこと。高熱を出した日にも「俺に移ったらどうする」とホテルへ逃げ込んだこと。
義父は石のように固い表情で聞き、握りしめた拳を白くしていた。
「ゆみさん、よく聞いてくれ。君はもうあいつのために1ミリも我慢する必要はない。これからは私たちが君と陸の味方だ」
洗面所から戻ってきた健一は、シャワーを浴びて小綺麗な格好になり、何事もなかったかのようにヘラヘラと笑った。
「いや驚いたよ。父さんも母さんも来るなら事前に連絡してくれればいいのに。さっきは少し声を荒げて悪かったね。大阪の出張が急にキャンセルになってさ」
義父は冷たい目で息子を見下ろした。
「それはおかしいな。今朝お前の会社の専務から私に挨拶の電話があった時、君は3日前に有給申請を出していると聞いたがね」
健一の顔から完全に表情が消えた。
義父はかつて健一が勤める会社の親会社で役員を務めていた人物だ。その影響力は今も健在だった。
その夜、健一は親がいなくなった途端に再び私を怒鳴りつけた。
「お前、親父たちに何を吹き込んだ? 俺がいない間にあることないこと泣きつきやがって」
私は初めて明確に反論した。

「私は何も言っていません。お義父さんがご自分で調べたことです」
彼は苛立ちに任せてクッションを蹴り飛ばし、自分の部屋に閉じこもった。
私はソファの隙間に手を入れ、黒い見慣れないスマートフォンを見つけた。
画面に通知が浮かび上がった。
『高橋美ほ け一さん、今日は夢みたいな時間をありがとう。ネックレスずっと大切にするね。奥さんにバレてない?』
私は冷静にその画面を何枚も撮影した。
翌朝、健一は慌ててそのスマホを探し出し、再び傲慢な顔を取り戻した。そして夕食の席で突然言った。
「ゆみ、お前にはもう我慢の限界だ。離婚だ。本月末までに荷物をまとめて出ていけ。慰謝料なんて払う筋合いはない。もちろん陸は俺が引き取る。無職の女に親権が取れるわけがないだろう」
さらに残酷な言葉が続いた。
「お前には帰る実家もないだろう。親が死んで天涯孤独の身なんだからな。俺に捨てられたら野垂れ死ぬしかないんだよ」
私は唇を噛みしめ、血の味を感じながらも泣かなかった。
翌朝、義父から電話があった。
「今から私のいる場所へ来てくれないか。君のこれからの人生を決める大切な話だ」
そこは静かな法律事務所だった。弁護士の山田先生が待っていた。
「不定行為をしている側からの身勝手な離婚請求は原則として認められません。逆にゆみさんからは健一さんと高橋美ほさん双方に高額な慰謝料を請求できます」
義父はすでに探偵を雇い、健一の行動をすべて監視させていた。
「ゆみさん、今は絶対に反抗せず、今まで通りの従順な妻を演じてください。彼が調子に乗って暴言を吐けば吐くほど、それは彼自身を縛る鎖になります」
私はボイスレコーダーを受け取り、深く頷いた。
健一は私に「親権及び監護権放棄並びに養育費請求権の放棄に関する誓約書」まで突きつけてきた。
電話で美ほと楽しげに話す声も、すべて録音した。

「今月中にあいつを追い出すから、みほは来月には引っ越してくればいい」 「あのネックレス、今日も会社で自慢しちゃった。ゆみさんにはあんなの似合わないもんね」
美ほの狙いは健一ではなかった。義父が築き上げた資産――1億円の生前贈与だった。
土曜日、健一は「新しいパートナーを紹介する」と喜んで美ほを連れて実家へ向かった。
そこには親族と、健一の会社の重役たちが集まっていた。
健一が私を「寄生して金だけ食いつぶす女」と怒鳴りつけた瞬間、義父が立ち上がった。
「皆様、今日お集まりいただいたのは、我が佐藤家の嫡男・健一の不始末についてご報告するためです」
探偵が撮ったホテルの写真、経費流用の証拠、美ほが本命の恋人と「マザコン男から1億円踏んだら海外で暮らそう」と話している映像が次々と公開された。
美ほは健一を切り捨てた。
「け一さんみたいな外面だけの空っぽな男、誰が本気で愛すると思うの? 私はただあんたの家の金が欲しかっただけ」
会社からは即刻解雇。美ほは横領と窃盗の容疑で逮捕された。
義父は静かに宣告した。
「私は今日、すべての株式と生前贈与するはずだった1億円を、ゆみさんと陸のための信託基金に移した。健一、お前の手元にはもう1円も残っていない」
私は最後に言った。
「健一さん、あなたは私に『誰のおかげで飯が食えていると思っているんだ』と言いましたね。今、その言葉をそのままお返しします。あなたは誰のおかげで今まで人間として扱われてきたのですか。それを自ら壊したのは、他の誰でもないあなた自身です」
健一は警備員に引きずり出された。
その夜、義父は私に一通の封筒を差し出した。
マンションの所有権移転書類と、陸のための信託基金の通帳だった。
「今日からあの家は君と陸のものだ。私たちは永遠に君の味方だ」
半年後、駅前でボロボロの作業服を着た健一とすれ違った。日払いのバイトで食いつなぐのがやっとだという彼が、土下座してすがってきたが、私は一度も振り返らなかった。
今、私の家には陸の笑い声と、義父母が届けてくれる季節の花の香りが満ちている。
かつて「無価値な女」と罵られた私は、自分の足でしっかりと大地を踏みしめ、本当の家族と共に生きている。
奪われた尊厳は、今、静かに、しかし確かに、私の未来を照らしている。


