第1部:満面の笑みでサインを

「行ってらっしゃい」
出張に行く夫のかずを見送り、私は家事に手をつけようとしていた。そんな私の元へ、義母の清みがニヤニヤしながら近づいてきた。
「実はね、私、息子からこんなものを預かっているのよ」
そう言うと、義母は嬉しそうに離婚届を私に突きつけた。
「あはは。どう? びっくりした?」
夫はすでにその離婚届に記入済みだ。証人欄にまでサインが入っている。
「かずったらなかなかなお子さんに話を切り出さないから、出張のかずの代わりに私が話を進めてあげようと思ったのよ」
私が驚きのあまり黙っていると、義母はさらに続けた。
「さあさあ、ボケっとしないの。かずが出張に行っている間に、さっさとこれを書いて市役所に出してくるのよ。10分以内に出しなさい」
義母は私に10分以内の提出を迫った。
その言葉に、我慢の限界を迎えた私は、感情を隠しきれず、これまでに見せたことのないような笑顔を義母に向けてしまった。
「ありがとうございます」
満面の笑みでそう言うと、私はさっさと離婚届に自分の名前を記入した。
「な、何よ、その笑顔は。まさかあんた、息子と離婚できるのが嬉しいとでも言うの?」
「さあ、どうでしょうね」
私が離婚を拒んで泣き叫ぶことを想像していた義母は、笑顔であっさりと応じた私が面白くないらしい。そんな私を義母は一生懸命に知り尽くした罵言を浴びせてくるが、私は笑顔でことごとく無視する。
「では、行ってきますね」
記入済みの離婚届を手にすると、私はさっさと家を出た。
背後で義母がぐちっている。
「なぜあの女はスキップなんかしているのよ。自分が捨てられたことを分かっていないのかしら。この身のほど知らずが」
私はそんな義母から解き放たれることも嬉しかった。外で一人空を仰ぎ、呟いた。
「やった。これで私はあの家族から解放されるわ」
そして私は離婚届を持って速やかに市役所に向かった。
私・なお子は、かつて市役所に勤めていた。そこで仕事の先輩だったかずと出会い、職場結婚をした。地域のために働きたいという思いで公務員になった私だったが、結婚を機にかずと義母の命令で仕事を辞めることになった。
「女は結婚したら家庭に入るものだろう」
かずと義母は古い考えの持ち主だった。そのため私は仕事を辞めさせられ、義母の厳しい監視下で生活することになる。買い物以外の外出は禁じられ、実家との電話は1日10分のみ許される日々。

夫は次第に別室で寝るようになり、帰宅も遅くなっていった。結婚10年、子供には恵まれなかった。義母はそれを一方的に責めた。
「子供の一人も産めないだなんて、どういうつもりなの? この役立たず嫁が」
近所の若い嫁の話を引き合いに、チクチクと嫌味を言い続ける義母。夫に相談しようとしても、夫婦関係は冷え切っていた。
最近、かずはこそこそスマホをチェックし、新しい下着が増えていた。女の勘が疼く。義母も独り言のように言っていた。
「またあの女のところにいるのかしら。若い奥さんに乗り換えてもらった方がかずのためになるかもね」
義母公認の浮気。私はそう悟りながらも、表面では何も言わずに耐えていた。
そして今日、義母は自ら離婚届を突きつけてきた。
私は笑顔でサインし、家を出た。これでようやく、長い我慢の結婚生活から解放される。
第2部:偶然の写真が暴いた真実

市役所は私の元職場だ。元同僚たちが多く、夫と共通の知り合いだらけだった。
「こんにちは。お久しぶりです」
そう声をかけると、みんな驚いた顔をした。手元の離婚届に気づいたのだろう。
「実は、かずと離婚することになりました」
同僚たちはさらに不思議そうな表情になる。
「え? 離婚するの? なんで? だって私たち、かずさんからなお子さんが出産すると聞かされていたんだけど」
私は自分のお腹を指差した。
「見ての通り、私は妊娠なんてしていないわよ」
どうやら夫は職場には「立ち会い出産のため」と嘘をつき、有給を取っていたらしい。私には「日帰り出張で帰りは遅くなる」とだけ伝えていた。
私は同僚たちに全てを話した。義母から離婚届を突きつけられた経緯、夫の怪しい行動、義母の独り言。
「それは限りなく黒に近い気がする。もしかしてかずさん、この忙しい時期に嘘をついて有給を取って不倫旅行しているんじゃ……」
「それにかずさん、最近全然残業なんかしていないよね」
同僚たちの証言で、夫の信用は職場で地に落ちた。全て自業自得だ。
無事に離婚届を提出した私は、実家へ向かった。両親はちょうど日帰り旅行から帰宅したところだった。
母は大満足の様子で写真を見せてくれた。
「なお子の言う通り、素晴らしい景色だったわよ。写真もばっちり撮れてるわ」
私はその写真を自身のSNSに投稿した。

『両親に勧めた近場の温泉が隠れた名所だったので皆さんにもおすすめ。芸能人もお忍びで来るらしいですよ』
投稿は地域の有名インフルエンサーの目に止まり、大きく拡散された。
翌日、かずから怒りの電話が入った。
「おい、なお子。お前がSNSに投稿した写真のせいで俺たちは今大変なことになっているんだぞ」
どうやら写真の中に、かずと愛人の糸井ゆかりが映り込んでいたらしい。手をつないだり抱き合ったりしている親密な様子がはっきり写っている。
糸井ゆかりは地元出身の現役アイドルで、観光大使でもあった。じわじわと人気が出てきたタイミングでの不倫発覚。ファンたちによってかずの身元は瞬く間に特定され、市役所職員であること、既婚者であることが暴露された。
市役所には全国から抗議の電話が殺到し、通常業務に支障が出る騒ぎになった。
実は私は、以前かずの部屋を掃除した際に手帳を見つけ、ゆかりとの不倫旅行の計画を知っていた。ショックは受けなかった。愛情はすでに消えていたからだ。
そこで両親に事情を話し、協力を仰いだ。あえてかずたちが行く予定の温泉を旅行先に指定し、偶然を装って写真を撮ってもらったのだ。
かずは私を責め立てたが、私はそ知らぬ顔で答えた。
「写真は両親が旅行の思い出に撮っただけよ。背後にあなたたちが映っていたのは偶然に過ぎないわ」
その後、義母は「名誉毀損で訴えてやる」と毎晩のように実家に押しかけてきた。近所迷惑を起こしたため警察が駆けつける騒ぎになり、義母は厳重注意を受け、実家に近づくことを禁じられた。
父は大企業の経営者で、地元の工場誘致活動に取り組んでいた。当初は市役所の顔を立てて協力する予定だったが、不倫を知った父はこう言った。
「不倫をするような誠意のない人間が関わっているなら、この話に応じるわけにはいかない」
工場誘致は見送られ、市に大きな損失を与える結果となった。
義母が実家に押しかける様子を近所の人が撮影し、「話題のアイドルと不倫公務員の母親が理不尽に民家を襲撃」とSNSに投稿。義母の素性がバレ、悪い意味で有名人になってしまった。
かずは数々の問題行動により市役所から懲戒処分を受けた。
一方、私は弁護士を通じて慰謝料と財産分与を得た。義母公認の浮気による精神的苦痛は、十分に認められるものだった。
糸井ゆかりは記者会見で「既婚者だと知らなかった」と涙ながらに訴えたが、かずと義母が「離婚届の証人欄にゆかりの署名がある」と暴露。さらに炎上し、ゆかりは芸能活動を急停止に追い込まれ、姿を消した。
かずと義母は新しい嫁として迎えるはずだったゆかりに逃げられ、がっくりと肩を落とした。
私は父の子会社で事務として働き始めた。離婚してあの親子から解放された私は、久しぶりに社会に戻り、生き生きと働き、自由な一人暮らしをスタートさせた。
そして40歳を前に、真面目な年下の会社員と出会った。かずからの冷たい扱いで自信を失っていた私は、年下からの熱烈なアプローチを受けて、少しだけ自分を取り戻した。
急ぐことはない。今は彼と良好な関係を築き、ゆっくりと恋を育んでいる。
あの日、義母が突きつけた離婚届に笑顔でサインした瞬間から、私の新しい人生は始まっていたのだ。

