給料カードを義母に渡すのを拒んだ私を、夫は深夜の国道に置き去りにした。私は泣かずに去った。翌日、夫は泣いて電話をかけ続けた

第2部

     

「お母さん、どうしたの? こんな時間に」

娘の彩佳の声が、少し眠たそうに聞こえてきた。26歳の彼女は看護師として自立し、私の最大の理解者だった。

「うん。今、国道の辺りにいるの。お父さんとおばあちゃんは先に帰ったわ。私、車を降りたから」

「まさか……置き去りにされたの?」

彩佳の声が怒りで上ずった。私は優しく遮った。

「大丈夫。迎えに来なくていい。タクシーを呼ぶから。もう戻らないわ」

電話の向こうで彩佳が息を飲んだ。聡明な娘は瞬時に理解した。

「分かった。私の家に来て。待ってる」

タクシーの中で、私は銀行アプリを開いた。給与振り込み先を、夫と共有していない個人口座に変更する。指先一つで、24年間の家のルールが音もなく変わった。

「来月からカードを預かる」だったかしら。どうぞ預かってちょうだい。ただし、一円も振り込まれることはないけれど。

彩佳のマンションに着くと、娘が冷え切った私の手を包み込んだ。部屋に入り、温かいお茶を飲みながら、私はバッグから封筒を取り出した。綺麗に記入された離婚届と、何冊もの銀行通帳のコピー。

「ずっと準備していたのよ」

通帳には蛍光ペンで線が引かれていた。義母への仕送り八万円、義妹のみ子の子供の学費五万円、高志の車のローンと個人ローン。毎月、決して安くない金額が私の給料から消えていた記録だ。

「たしさんは自分がこの家を支えていると思っている。でも現実は違うの」

翌朝、高志のスマートフォンに通知が届いた。

「家賃引き落とし失敗。残高不足」

彼はシステムのバグだと決めつけ、深く考えなかった。同じ頃、かよは高級スーパーでカードを出した。エラー音が鳴り響く。

「はあ? エラー? しっかりやってちょうだい」

何度試しても機械は動かない。かよの顔から血の気が引いた。

午前十時、高志の会社に妻の上司・高瀬部長から電話が入った。

「今後、早苗さんへの直接の接触は一切控えてください。すでに代理人を立てたと報告を受けております」

高志は呆然とした。ただ車から下ろしただけだ。なぜ話がそこまで大きくなっている?

昼休み、妹のみ子から催促の電話が殺到した。

「お兄ちゃん、学費が入ってない! どうなってるの?」

高志はまだ「早苗の嫌がらせだ」と高を括っていた。夜、自宅に戻ると部屋は真っ暗で夕食の匂いもしない。郵便受けには森下法律事務所からの通知が入っていた。

「どうせ嫌がらせだろう」

彼はそれをゴミ箱に捨て、ソファに寝転がった。明日には妻が泣いて謝ってくる——本気でそう信じていた。

一方、私は彩佳と静かな夕食を囲んでいた。誰の顔色も伺わず、嫌味も聞かない。ただそれだけのことが、こんなにも幸せだった。

翌朝、高志はコンビニでカードが使えず、現金で弁当を買った。銀行アプリを開くと、生活費用口座の残高は数百円しかなかった。

「まさか……全額引き出しやがったのか」

背筋に冷たい汗が流れた。だが彼はまだ「気を引きたいだけだ」と現実を直視しなかった。

昼、自動車ローン会社から電話が入った。

「ご指定の口座が解約されております。奥様名義の口座でしたので」

高志の頭が真っ白になった。車のローンまで妻の口座から出ていた。給料口座を確認すると、自分のカードローンと飲み代、ゴルフ代でほとんど消え、残りは数万円だけだった。

「俺の給料は生活費に回っていなかったのか……」

初めて見えた現実に呼吸が浅くなる。一家の大黒柱だと思っていた。それは全て幻だった。

その直後、かよからパニックの電話がかかってきた。

「ガスが止まるかもしれない! 管理費も未納だって! 早苗さんはどこにいるの?」

高志の頭の中で全ての点が繋がった。ガス、電気、管理費、母親の生活費——全てが一斉に止まっている。自分が立っていた場所は、妻の我慢の上だったのだ。

会社のトイレに駆け込み、彼は給料明細を何度もスクロールした。毎月七万円しか家に入れていなかった。残りは全て早苗の給料が補っていた。

み子とかよが電話で詰め寄ってくる。

「お兄ちゃんの給料があるでしょう! なんとかしてよ!」

高志は静かに言った。

「俺の給料なんてとっくにないんだよ。母さんの生活費もお前の学費も、車のローンも全部、早苗の給料から払っていたんだ」

電話の向こうが凍りついた。

その夜、高志とかよ、み子は暗いリビングで途方にくれていた。誰も自分の力でお金を生み出せない。早苗という金づるを失っただけで、生活は一日で崩壊した。

み子が手のひらを返したように叫んだ。

「お兄ちゃんのせいよ! 深夜に車から下ろすなんて最低!」

兄妹の醜い言い争いが始まった。かよも金切り声で息子を責める。お金というメッキが剥がれた瞬間、家族の絆などあっさりと消えた。

高志は弁護士の森下に電話をかけた。

「急に生活費を止められて困っているんです。話し合いが終わるまでは入れて欲しい」

森下の声は冷徹だった。

「早苗様はご自身の特有財産を持たれただけです。あなた様の生活費はご自身の収入で賄うべきです。一切の援助は打ち切ります」

電話が切れた。高志は力なく座り込んだ。

翌朝、離婚協議書が届いた。マンションの頭金一千万円は早苗の独身時代の貯金であり、所有権の大部分は彼女に帰属する。一ヶ月以内の退去を求める——。

同封された家計ノートのコピーには、残酷な真実が並んでいた。かよへの仕送り、み子の学費、高志のローン。全て早苗の給料から出ていた記録だ。

「俺はなんてことを……」

高志の目から涙が溢れた。だが遅すぎた。

一方、私は新しい小さな部屋で穏やかな朝を迎えていた。自分のためだけにお茶を入れ、窓から差し込む日差しを浴びる。誰の足音にも怯えない。郵便受けに怖い通知も入らない。

休日、彩佳が遊びに来る。

「お母さんのご飯、やっぱり世界で一番美味しいね」

二人で笑いながら料理をする。理不尽に耐えた二十四年間は、決して無駄ではなかった。

高志とかよは家賃が払えず狭いアパートに引っ越し、車も手放した。毎日お金のことで罵り合う日々。み子も塾をやめさせ、深夜のパートを始めた。

高志は今でも私の古い番号にかけ続ける。だが、その声が届くことはもうない。

私はベランダに出て春の風を胸に吸い込む。見上げる空はどこまでも青く澄み渡っていた。

人は支えを失って初めて気づく。自分が立っていた場所が、誰かの我慢の上だったということに。