第2部

京子はまだ笑っていた。
「本当にかわいそうな人ね」
彼女は高級なカップを手に取りながら言った。
「18年間、何も分からずに社長夫人をしていただけでしょう?」
和彦も続けた。
「俺が社長として頑張ってきたから、今の会社があるんだ」
その言葉を聞いて、私は胸の奥が冷たくなった。
彼は本気でそう思っている。
毎晩遅くまで会社の資料を作っていたのは私だった。
銀行との交渉資料を作ったのも私。
会社が危機に陥った時、何度も頭を下げに行ったのも私だった。
和彦が愛人と食事を楽しんでいる間、私は一人で会社の数字と向き合っていた。
そして翌朝、私が徹夜で作った資料を和彦は自分の手柄のように社員へ見せた。
「さすが社長です」
社員からそう言われるたび、和彦は満足そうに笑った。
私は何も言わなかった。
会社を守るためだった。
社員を守るためだった。
でも今日、その我慢は終わる。
「いつまで座っているんだ?」
和彦が苛立った声を出した。
「もうお前は家族じゃない」
私はゆっくり立ち上がった。
「そうですね」
「私は今日からあなたたちとは他人です」
その言葉に、京子は安心したように笑った。

「分かったなら早く出て行けばいい」
私はスマートフォンを取り出した。
「何をするつもり?」
和彦が怪訝そうに聞く。
私は答えず、ある人物へ電話をかけた。
数回の呼び出し音。
そして相手が出た。
「黒田先生。準備は整いました」
「今すぐこちらへお願いします」
電話を切ると、部屋は静まり返った。
「誰を呼んだの?」
京子の声には少し不安が混じっていた。
「もうすぐ分かります」
しばらくして――。
廊下から複数の足音が聞こえた。
扉が開く。
そこに立っていたのは、会社の顧問弁護士である黒田先生だった。
彼は長年、この会社の全てを見てきた人物だった。
和彦はすぐに笑顔を作った。
「黒田先生、ちょうど良かったですよ」
「この女が会社に関係ない書類を持ち出して困っているんです」
京子も続ける。
「早く追い出してください」
しかし黒田先生は二人を無視した。

そして私の前まで歩いてくると――。
深く頭を下げた。
「久美子さん、お待たせしました」
その瞬間、部屋の空気が凍った。
和彦の顔から笑顔が消える。
「……何をしているんですか?」
黒田先生は静かに答えた。
「私は本日、久美子さんの代理人として参りました」
「代理人?」
和彦は理解できない顔をした。
黒田先生は茶封筒を受け取る。
そして中から書類を取り出した。
「まず、確認します」
「現在この会社の株式51%を所有しているのは――久美子さんです」
部屋が静まり返った。
「嘘だ」
和彦が小さく呟いた。
「そんなはずがない」
京子も震えながら叫ぶ。
「この会社は家族のものよ!」
黒田先生は淡々と説明した。
18年前、この会社は倒産寸前だった。
その時、私の父が自分の工場を売って資金を出した。
会社を救うために。
その代わり、正式な契約によって株式を受け取った。
そして父が亡くなった後、その権利を受け継いだのが私だった。
「つまり……」
黒田先生は和彦を見た。
「あなた方が家族の会社だと思っていた場所は、実際には久美子さんが守ってきた会社です」

和彦は言葉を失った。
さらに黒田先生は続けた。
「あなたが社長として使っていた資料」
「それを作っていたのも久美子さんです」
「銀行との交渉も、会社の危機を救った判断も、全て彼女でした」
和彦の顔が青ざめる。
「嘘だ……」
私は静かに彼を見た。
「あなたは一度も知ろうとしなかっただけです」
その時、扉が開いた。
入ってきたのは、会社の創業者である会長だった。
和彦は助けを求めるように近づく。
「父さん!こいつらが会社を奪おうとしている!」
しかし会長は和彦を見なかった。
私の前まで来ると、深く頭を下げた。
「久美子さん……今まで本当にありがとう」
和彦の顔から血の気が引いた。
「父さん……?」
会長は静かに言った。
「この会社を救ったのは、お前ではない」
「久美子さんだ」
その一言で、全てが終わった。
18年間、私が背負ってきた苦労。
誰にも認められなかった努力。
それがようやく明らかになった。
その後、株主総会の決定により、京子は専務を解任された。
和彦も社長の座を失った。
二人は何度も謝った。
「戻ってきてくれ」
「何でもするから」
でも、もう遅かった。
私が欲しかったのは地位でもお金でもない。
ただ、一人の人間として尊重してほしかっただけだった。
数ヶ月後。
私は正式に会社の代表となった。
社員たちは温かい拍手で迎えてくれた。
「社長、これからもよろしくお願いします」
その言葉を聞いた時、涙がこぼれた。
18年間、誰にも見えない場所で積み重ねてきた努力は、決して無駄ではなかった。
人は肩書きで価値が決まるのではない。
誰にも見られない場所で、どれだけ誠実に努力したか。
それが本当の価値なのだ。
私はようやく、自分自身の人生を取り戻した。


