第2部+

「この百五十万円、あなたは会社の特別経費口座から引き出していましたね」
浩司は去勢を張るように胸を張りました。
「俺の会社の金だ。社長の特権だろうが」
私は静かに首を振りました。
「その口座に入っていたお金は、全て亡き父が倒産寸前だったあなたの会社を救うために個人的に貸し付けていたものです。父の遺言により、その債権の全てを私が相続しました」
リビングの空気が、一気に凍りつきました。
十五年前、資金繰りに詰まった浩司は、父に土下座して泣きついていました。父は厳しい条件を出しました。「返済できなければ、あなたが保有する自社株の全てを担保として移す」。浩司は今日まで一円も返済していませんでした。
「私はこの半年間、担保権を実行し、正式にあなたの会社の筆頭株主になりました」
山本先生が、臨時株主総会の議事録をテーブルに滑らせました。
「田中浩司は、すでに代表取締役を解任されております」
浩司の膝がガクンと折れました。みほが金切り声を上げ、義母は杖を取り落としました。義弟夫婦も青ざめています。彼らが当てにしていた毎月の援助は、会社の不正な経費流用だったのです。

私はさらにファイルを開きました。法人カードの利用明細。みほへのブランド品やエステ代だけで、一年間に一千万円以上。
「これは業務上横領です。新社長の加藤さんは、すでに損害賠償請求の準備を進めています」
みほは床にへたり込みました。彼女が首につけていたルビーのネックレスは、私の亡き母の形見でした。浩司が勝手に持ち出して渡していたのです。
「みほさん、あなたは五年前に子宮の摘出手術を受けていますね。妊娠が不可能な体でありながら、義母の『孫が欲しい』という欲望につけ込み、私を『馬詰め』と嘲笑っていた」
みほの顔から全ての血の気が引きました。義母が絶叫し、みほを突き飛ばしました。二人は床で取っ組み合いを始めました。
その時、インターホンが鳴りました。新しい社長の加藤さんと、警察の知能犯係の刑事が二人。
「田中浩司さん、伊藤みほさん。会社の資金約一千万円を不正に横領した疑いで、同行をお願いします」
浩司とみほは連行されていきました。残された義母と義弟夫婦に、私は最後の書類を突きつけました。

「あなたたちが十二日前に私のクローゼットから持ち出した品々は窃盗です。父の写真を叩き割ったのは器物損壊。そして三十年間の精神的苦痛に対する慰謝料を含め、二千五百万円の時効中断付きの損害賠償請求書です」
彼らは震える手でサインをしました。選択肢など残されていなかったのです。
「さあ、すぐに出ていってください。二度と私の前に姿を表さないで」
彼らがドアの外に出た瞬間、私は重い金属のドアを閉め、二つの鍵を回しました。ガチャリという音と共に、三十年の鎖が断ち切られました。
それから一年。

私はあのマンションを売却し、鎌倉の海が見える小さな一軒家に引っ越しました。リビングには油絵のキャンバスが広がっています。窓を開けると、塩風と穏やかな波の音が届きます。
山本先生が最終報告に来てくれました。
「浩司さんとみほさんは実刑判決を受け、服役中です。出所後も一億八千万円の借金が待っています。義母と義弟夫婦は家賃数万円の古いアパートで、昼夜を問わず清掃のアルバイトをしながら、義父の介護を一人で担っているそうです」
私は静かに頷きました。もう、彼らの話は十分でした。

週末、私は父の墓前に白い百合を供えました。
「お父さん、私やっと自分の足で立てるようになったよ。これから誰の顔色も伺わず、自分のために生きていくね」
夕日に染まる海岸沿いの道を、私は一人で歩きました。五十八歳。世間では人生の終盤と言う人もいるかもしれません。けれど私にとっては、今日が本当の人生の一日目なのです。
過去の苦しみは、もう私を縛る鎖ではありません。それは、これからを強く優しく生きていくための、確かな糧に変わったのです。



