「お前じゃなくて、お兄さんを支えたいから。私たち、別れましょう」
ヘラヘラと笑いながら妻が言った言葉に、俺はその場で凍りついた。
俺の名前は安藤守。28歳。そこそこ有名な企業に勤め、1年前に妻のエリカと結婚した。彼女は元々同じ会社で働いており、車内でも評判の美人だった。向こうから声をかけてくれて交際が始まり、順調に結婚までこぎつけた。
エリカは結婚を機に会社を辞め、専業主婦になった。毎日家事をしっかりこなし、笑顔が絶えない自慢の妻だった。そろそろ子供のことも考えようと話し合っていた矢先、俺の母が病気になった。治療すれば治るものの、通院や生活の負担が心配だった。
妻と相談し、実家の近くに引っ越すことにした。子供ができた時のためにも広い家は悪くない。妻も大賛成してくれた。
俺が母をそこまで気にかけるのには理由があった。家族は父と、3つ年上の兄・太、そして母の4人。父は仕事ばかりで家にほとんどいない。兄は数年前に会社を辞めてからずっとニートだった。一日中家にいるのに家事もせず、自分のことまで母にやらせている。母が病気になったのも、そんな兄のせいではないかとさえ思っていた。
兄は昔から苦手だった。年上というだけで偉そうに振る舞い、気に入らないことがあればすぐキレる。両親もそんな兄を責めず、「今は休ませてあげよう」と言い続けてもう数年経っていた。
そんなある日、休日の俺は妻と一緒に実家を訪れた。母の体調を確認し、他愛もない話をしていると、二階から足音が聞こえてきた。
リビングの扉が開き、俺は固まった。そこにはジャケットを羽織り、髪をしっかりセットした綺麗な格好の兄が立っていたのだ。ニートになってからずっとパジャマ姿で部屋からも出てこない兄が、こんな姿で出かけるなんて。
兄は「出かける」とだけ母に伝え、そのまま出ていった。
妻は兄に会ったことがなかった。ニートだと言いづらく、今まで兄の話をしてこなかったのだ。「俺の兄だ」と説明すると、妻は「顔が似ているね」と言った。兄の様子が気になった俺は母に聞いてみる。
「あんな格好で、どこに行くの?」
母も首をかしげながら「詳しいことは知らない」と言う。最近、綺麗な格好で出かけることが増えたそうだ。
「お兄ちゃんも色々頑張っているのかしらね」
嬉しそうに答える母を見て、それ以上は追及できなかった。
その日を境に、妻が頻繁に実家へ行くようになった。俺の休日にたまに一緒に行く程度だったのが、平日にも一人で行くようになったのだ。
「守も仕事で疲れてるでしょ。平日は私がお母さんの様子を見てくるよ」
ありがたい提案だった。家族を大切にしてくれる妻に感謝した。最初は週に2日ほどだったのが、徐々にその回数は増えていった。妻は「お母さんと話すのが楽しい」と言う。
そんなある日、妻がこんなことを言い出した。
「お母さん、あんまり守に連絡して欲しくないみたいなの。逆に気を使っちゃうからって言ってたわ」
俺が心配してこまめに連絡するせいで、母が気を使ってしまうらしい。母は気にしいな性格だから、そう思うのかもしれない。少し寂しい気もしたが、妻が「私がいるから大丈夫よ」と笑顔で言ってくれた。
妻は実家に行くと長居することが増え、夜に帰ってくることもある。夕飯も母と一緒に食べているらしい。帰ってくると楽しそうに母との会話を教えてくれた。
しかし、その日は話が違った。
「お兄さん、お金持ちなのね」
妻はぼそっとそう言った。母の話をしていた時の笑顔はなく、真顔だった。兄は31歳で実家の世話になっているニートだ。お金持ちなわけがない。しかし、わざわざ妻に兄の悪口を言うのも違うと思い、何も反応しなかった。
それから少し経ったある日、母から連絡が届いた。
「最近忙しいみたいだけど、たまには帰っておいでね」
俺は違和感を覚えた。妻に「連絡して欲しくない」と言っていたのに、母は俺に寂しそうな連絡を送ってくる。変だと思いながらも、次の休みに実家へ行くことにした。
久しぶりに会った母は、俺の顔を見るととても嬉しそうにした。
「ごめんね、忙しいのに。来てくれて嬉しいわ、ありがとう」
「俺こそ、エリカに任せっきりで最近来られなくてごめんな。母さん、俺があんまり来ると気を使うってエリカから聞いてさ。だから最近は来るの控えてたんだ」
すると母は不思議そうな顔をして、ぽかんとした表情で言った。
「え、エリカさんと話したのは一度だけよ。その時に、守が忙しいからなかなか来れなくなるって言われて」
俺は混乱した。
「え? エリカ、ここんとこほぼ毎日のように来てるだろ?」
母は真剣な顔で力強く首を横に振った。
そこで俺たちは気づいた。妻は嘘をついていたのだ。実家には一度しか来ておらず、ずっと俺を騙していた。そして嘘がバレないように、俺と母それぞれに適当な嘘をついて、二人を引き離していたのだ。
怒りが湧いてきたが、直接問い詰めてもうまいこと誤魔化されるかもしれない。俺は妻を尾行することにした。
数日後、妻が実家に行くと言った日、俺は前もって休みを取っていた。会社に行くふりをして家を出て、妻が家を出るのを待つ。俺が家を出てすぐに、妻も出発した。
家を出る時の妻のテンションの高さ、服装。こんなことを考えたくなかったが、すぐに浮気していると察した。この際だ、きちんと相手をこの目で確認しよう。もし会社の知っている人だったらどうしよう。心の中がざわついた。
妻は待ち合わせ場所に着き、相手を待っている。やがて現れた人物を見て、俺は固まってしまった。
なんと、妻の待っていた相手は俺の兄・太だったのだ。
二人は人前でも構わず腕を組み、いちゃいちゃしている。浮気していると確信した俺は、黙っていられず、そのまま楽しげな二人に突撃した。
二人とも驚いた顔をした。しかしそれはほんの一瞬で、すぐに開き直ったように話し始めた。
「なんだ、ついにバレちゃったか」
兄はヘラヘラと笑いながら言う。妻も兄と同じようにヘラヘラしている。
「本当ね。でもそろそろ言おうと思ってたし、ちょうど良かったわ」
「どういうことだよ?」
俺は理解できず、言葉を失った。
「私、あなたじゃなくてお兄さんを支えたいの。だから、私たち別れましょう」
妻は平然とした顔でそう言った。
「は? そんな急に離婚って、どういうことだよ!」
冷静に話せず、俺は感情的になってしまった。そんな俺を見て、兄は馬鹿にするように笑った。
「だから、エリカちゃんはお前じゃなくて俺を選んだの。残念だけど仕方ないよな」
抑えていた怒りが込み上げてくる。状況は理解できなかったが、二人が浮気していたこと、妻が兄を選んだことは分かった。それでも、一度きちんと話し合うべきだと妻を説得しようとした。
「エリカの気持ちは分かったよ。でも一度、きちんと話し合おう。二人なんだし」
「はっ、あんたと話すことなんてもうないよ。そもそもあんたと結婚したのは、お金目当てだしね」
妻は悪びれる様子もなく、ぺらぺらと話し始めた。
元々、出世しそうな社員を厳選して、その中で一番早く昇進した人と結婚しようと決めていたらしい。それがたまたま俺だっただけで、好きでも何でもなかったと平然と言い放った。
結婚する前から、ずっと騙されていたのだ。驚きとショックで何も言い返せない俺に、妻と兄は笑いながら「離婚届、出しておいてね」とだけ言って立ち去ってしまった。
俺はその場から動けず、しばらく一人で立ち尽くしていた。
あの日から半年が経った。傷つき悲しかったが、色々と考えて離婚を決めた。無事離婚届も提出した。周りには慰謝料を請求するべきだと言われたが、今後一切関わりたくないという思いが強く、何も請求はしなかった。そもそも専業主婦の妻とニートの兄に払える金があるとも思えなかった。
半年も経てば悲しみは消え、むしろ今は清々していた。俺は離婚を機に実家へ戻ることにした。母の病気はすっかり良くなり、今は家族で出かけたりと楽しい生活を送っている。
そんなある日、知らない番号から着信が入った。出てみると、電話の相手は元妻だった。着信拒否にしていたため、別の番号からかけてきたのだろう。
「一体、今更何の用だ?」
冷たく聞く俺に、元妻は泣きながら話し始めた。
「ごめんなさい、私が悪かったの。お願い、助けて」
「は? 今更何を言ってるんだ」
「ケ太がビットトレーダーだって聞いてる。でもそれも全部嘘で、騙されていたの。私、被害者なの」
話を聞いてみると、兄は元妻に「自分はビットトレーダーだ」と嘘をついていたらしい。想像もしていなかった兄の嘘に、思わず吹き出しそうになった。
「ずっとお金があったのに、急になくなったの」
それはそうだろう。兄はビットトレーダーでもなければ、働いてもいない。兄は両親のお金で贅沢をして暮らしていたのだ。
二人の浮気が発覚してから、両親に色々と聞いた。兄は元妻と遊ぶために「就活のためのスーツを買う」「資格を取る」などと嘘をつき、両親から金をせびっていたらしい。両親は息子を信じて、兄の言うままにお金を渡していた。
元妻は初めて兄に会った時、綺麗な格好をしていたため、ニートだとは想像もせず、「俺よりも収入がいいのでは」と近づいたようだ。兄もずっと家にこもっていたため、若くて綺麗な元妻に近寄られ、思わず見栄を張って嘘をつき、二人で贅沢をしていた。
しかし、浮気が発覚し、両親は激怒。兄を家から追い出した。
確かに嘘をつかれて騙されたという面では、元妻も被害者なのかもしれない。しかし離婚を突きつけてきた時、「お金目当てで、好きではない」とはっきり言われた。結婚前からずっと俺は騙されていたのだ。今までの散々人に嘘をついてきたバチが当たったのだろう。
それに俺が一番許せなかったのは、母のことを騙したことだ。元妻の嘘のせいで、俺は母と過ごす時間を奪われたのだ。病気の治療をしている心細いであろう時間を、一緒に過ごすことができなかったのが本当に悔しかった。
「今更何を言われても、君を許す気なんて全くないよ。また金目当てに男に近づいたらいいんじゃない?」
俺がそう言うと、元妻は何も言えずにいた。
「最後だ。もう電話してこないでくれ」
そう伝えて、俺は電話を切った。
あれから元妻と兄は別れたらしい。元妻はまた仕事を始めたようだが、金目的で男に近づき、色々と揉めているようだと会社の人から聞いている。これからも同じことを繰り返していくのだろう。かわいそうな人だと感じた。
兄は元妻と別れ、金もなく、追い出された実家に訪ねてきた。しかし、弟の妻と浮気しておいて、両親が許すはずがない。ひどく叱って追い払っていた。何年もニートだった兄を雇ってくれるところもあまりないだろう。今はバイトをして、なんとかその日暮らしの生活を送っているらしい。
両親は「今まで自分たちが兄を甘やかせていたせいだ」と俺に謝ってくれた。俺は両親を責めるつもりはない。兄がいなくなったことでお金も浮き、最近は父と母の二人でよく出かけている。元々仕事ばかりだった父も、今回のことで色々と考え直したようだ。
俺はより一層仕事を頑張り、いつか両親に恩返しができればと思っている。



