同窓会で、高校時代のイケてたグループのリーダーだった男が、壇上でワイングラスを掲げて叫んだ。「俺の年収、聞いてビビったか?」その瞬間、彼は私の顔めがけて赤ワインをぶちまけた。100人の視線が、ワインでずぶ濡れになった私に注がれる。彼は嘲笑した。「どうせお前は、俺の会社の社長と同じ名前の、ただの日陰者だろ?」私は静かにハンカチで顔を拭いて、彼に尋ねた。「で、どこの支社だ?」彼の顔から笑みが消え…

同窓会で、高校時代のイケてたグループのリーダーだった男が、壇上でワイングラスを掲げて叫んだ。「俺の年収、聞いてビビったか?」その瞬間、彼は私の顔めがけて赤ワインをぶちまけた。100人の視線が、ワインでずぶ濡れになった私に注がれる。彼は嘲笑した。「どうせお前は、俺の会社の社長と同じ名前の、ただの日陰者だろ?」私は静かにハンカチで顔を拭いて、彼に尋ねた。「で、どこの支社だ?」彼の顔から笑みが消え...

同窓会の会場で、男が突然ワイングラスを掲げた。高らかに響く声。手にした赤ワインが、地味なスーツの男の顔に、派手にぶちまけられた。ざわめきが止み、静寂が訪れる。100人の視線が、ワインで濡れた男に注がれた。

「あーあ、悪い悪い。手が滑ったわ」

謝罪の言葉は、嘲りの笑みとともに吐き捨てられた。しかし、ワインをかけられた男――朝倉尚弥は、慌てる様子もなく、ハンカチを取り出して、静かに顔を拭き始めた。そして、落ち着いた声で言った。

「で、どこの支社だ?」

その問いかけに、場の空気が張り詰めた。男は嘲弄の笑みを消し、怒鳴り返す。

「はあ? 俺はゼフィールテクノロジーズの営業課長だ。なんだ、その言い草は」

「どこの支社だと聞いているんだ。本社の者か?」

「横浜支社だ。それがどうした!」

ちょうどその時、宴会場の扉が大きな音を立てて開いた。入ってきたのは、黒いスーツを着た女性だった。彼女は会場を見回すと、ワインで濡れた朝倉を見つけ、一直線に歩いてくる。100人の視線が、その背中を追った。

女性は朝倉の前で立ち止まり、深く頭を下げた。

「社長、お探ししました」

一瞬の静寂。それから、同窓会の喧騒は、かき消された。すべての視線が、彼女の言葉を反芻する。

「社長?」

戸惑いの声が漏れる。そして、その場にいた男は、嘲笑を浮かべたまま、立ち尽くしていた。

それは、16年ぶりの同窓会で、その男の世界が音を立てて崩れ去る瞬間だった。

あの夜のオフィス。朝倉は、会社の最上階にある社長室ではなく、いつものようにフロアの隅にある自分の机で、残業をしていた。外は夜も更け、ビルの灯りもまばらだ。彼が開いていたのは、入社2年目の社員が書いた企画書だった。内容は粗削りだが、光るものがあった。

朝倉は、メモ帳にその社員の名前を書き留めた。

「いい企画だ。会議にかけてみよう。説明は、これを書いた本人にやらせる。仕事ってのは、作った人間の名前で世に出すもんじゃないからな」

朝倉は、いつもそうだった。自分が前に出るより、その仕事を生み出した人間を、きちんと表に立たせる。手柄よりも、誰と組み、何を作るか。彼にとって大事なのは、いつもそこにあった。

あの夜、自宅のポストに一通の封筒が届いていた。差出人は高校の同窓会実行委員。卒業からもう16年が経っていた。会場は地元のホテル。日時は、1ヶ月後の土曜日。

朝倉は、封筒を手にしたまま、玄関でしばらく動けなかった。高校時代の自分が、ゆっくりと蘇ってくる。あの頃、彼は目立たない生徒だった。いつもパソコン部の部屋で、一人、古い機械と向き合い、ゲームを作っていた。父のことも思い出した。

朝倉の父は、小さな会社で機械を作る技術者だった。何人かの仲間と、チームを組んでいた。父は、よく同じ言葉を口にしていた。

「尚弥、一人で作れるものなんて、たかが知れてる。チームワークが全てだ」

夕飯の席でも、夜遅く帰ってきた時でも、父はその言葉を繰り返した。仲間の話をする時の父は、いつも嬉しそうだった。朝倉は、その背中を見て育った。

文化祭の日のことも、覚えている。パソコン部の展示に、足を止める者はほとんどいなかった。ただ、一人、同じクラスの早瀬千春だけが、朝倉の作ったゲームを最後まで遊んでくれた。

「これ、朝倉君が作ったの? すごい、面白いよ!」

その一言を、朝倉は今も覚えている。あの時の千春の笑顔。同窓会の案内を手に、朝倉は迷っていた。自分を覚えている同級生が、どれだけいるだろう。それでも、彼はあの頃の仲間に、もう一度会ってみたかった。出席の欄に、丸をつけた。

会場は、地元で一番大きなホテルの宴会場だった。シャンデリアの下に、百人ほどの同級生が集まり、皆、着飾って、ワイングラスを手に、笑っていた。朝倉は、入口の近くに立っていた。地味なスーツは、華やかな場所で少しだけ浮いて見えた。それでも、彼は背筋を伸ばし、静かに会場を見渡していた。

声をかけてきたのは、幹事の村瀬だった。

「朝倉、来てくれたんだな。久しぶりだなあ」

「村瀬、久しぶり。幹事、お疲れ様」

「おお、相変わらず落ち着いてるなあ。16年の月日の流れを楽しんでくれ」

村瀬は、人懐っこく笑って、次の同級生のところへ去っていった。しばらくして、一人の女性が朝倉のそばに近づいてきた。早瀬千春だった。16年ぶりでも、朝倉にはすぐに分かった。

「もしかして、朝倉君?」

「早瀬、か。元気そうだな」

「うん。元気だけが取り柄だから。確か、早瀬って看護師になりたいって言ってたな。あれ、叶えたのか?」

「うわあ、よく覚えてるね。うん、今は救急で働いてるよ。忙しいけどね」

「そうか。すごいな。ちゃんと夢を叶えたんだ」

「そうかな。ただ、目の前の人を放っておけないだけ。あの文化祭の日、朝倉君のゲーム、楽しかったな」

千春は、少し照れたように笑った。あの時の笑顔のままで。

その時、会場の中ほどから、大きな笑い声が上がった。声の主は、相馬剣だった。高校のサッカー部でエースだった男だ。光沢のあるスーツを着て、手首には大きな金の腕時計を光らせている。相馬は、数人の取り巻きの真ん中で、その腕時計を見せびらかしていた。

「これ、去年ドバイで買ったやつ。まあ、庶民には一生縁はねえだろうけどな」

相馬の目が、朝倉の方を向いた。地味なスーツの男を、上から下までゆっくりと舐めるように見る。

「あれ? お前、朝倉じゃねえか? 元気にしてたか?」

「相馬か。久しぶりだな」

「うわ、何そのスーツ? コスパ重視? 高校の時から何も変わってねえな。で、お前、今何やってんの? まさかまだパソコンいじってんじゃねえだろうな」

「まあ、そんなところだ。IT系の仕事だよ」

「IT? どこの会社だよ。ああ、どうせ聞いたこともねえような小さなところだろう。しがないプログラマーってわけか。かわいそうにな」

相馬の取り巻きが、どっと笑った。周りのテーブルからも、いくつかの視線が集まってくる。だが、朝倉は顔色一つ変えなかった。

「そうかもしれないな」

「はあ? つまんねえ男だな、昔から。そうやっていつまでも日陰でちまちまやってるつもりかよ。今時、流行らねえんだよ、そういう小賢しい生き方はよ。だから、お前はいつまでも、その他大勢のままなんじゃねえの」

たまりかねたように、千春が一歩前に出た。

「相馬君、久しぶりに会っていきなり、それはないんじゃない?」

「おお、早瀬か。相変わらず正義感だけは一人前だな」

相馬は鼻で笑って、取り巻きを連れて、また会場の中心へ戻っていった。その背中を見ながら、千春が小さく吐き捨てた。

「昔と全然変わってないね、あの人」

「ああ」

朝倉は、そう言って、手にしたウーロン茶を一口だけ飲んだ。だが、相馬の絡みは、これで終わりではなかった。

宴が進むにつれて、相馬の声はどんどん大きくなっていった。今度は、仕事の自慢だ。相馬の周りには、また何人かの同級生が集まっている。

「この前、でかい契約を取ってな。相手は、誰でも名前を知ってる大企業だよ。あれを一人でまとめたの、この俺なわけ」

「マジで、すげえな」

「そうだろ。まあ、うちの支社の売上なんて、半分は俺が作ってるようなもんだよ」

朝倉は、少し離れた席で、その自慢話を聞いていた。高校の頃の相馬は、こんな男だっただろうか。エースだったけど、あいつの周りには、いつも仲間がいた。今はどうなんだ?

朝倉が静かにグラスを見つめていると、千春が飲み物を取りに近くを通りかかった。相馬の目が、その姿を捉える。

「よう、早瀬。さっきは随分、偉そうだったな。で、お前、今何の仕事してんだっけ? 看護師だっけ?」

「そうだけど」

「看護師ってあれだろ? 夜中まで働いて、他人の世話して、それで給料いくらもらえんの? どうせたかが知れてるだろう」

近くのテーブルが、しんとなった。相馬は、構わず声をさらに上げる。

「俺なんか、うまいこと相手を持ち上げて金をもらってくるだけだぜ。それで、お前の何倍も稼ぐ。同じ働くなら、頭を使った方がいいだろう」

千春は、まっすぐに相馬を見返した。

「相馬君は、お金の話しかないんだね。私の給料が安いのは、その通りかもしれない。でもね、夜中に運ばれてくる人の手を、私は何度も握ってきた。お金のことなんて考える暇もない。目の前の人の命が助かるかどうか、だから」

近くの同級生の何人かが、小さく頷いた。だが、相馬は鼻で笑うだけだった。

「はいはい。綺麗事は、そういう稼げないやつほど言うんだよ」

16年前、教室で看護師になりたいと話していた千春の横顔を、朝倉は覚えている。その夢を叶えた人間が、今、目の前にいる。気がつくと、朝倉の拳に力がこもっていた。だが、彼は深く息を吐いて、拳をほどいた。自分が怒鳴れば、千春に恥をかかせるだけだと分かっていた。

相馬は満足そうに、また取り巻きの方へ戻っていった。後には、少しだけ疲れた顔をした千春が残された。

「大丈夫か?」

「うん。慣れてるから。ああいう人には」

「慣れちゃだめだろ。ああいうのには」

千春は、少し驚いたように朝倉を見た。それから、ふっと肩の力を抜いて、小さく笑った。

「ありがとう。朝倉君は、昔から変わらないね」

だが、この夜の相馬は止まらなかった。酒が進むほどに、その言葉はどんどん毒を増していった。宴も終盤。帰り支度を始める同級生もちらほら出てきた頃だった。だが、相馬の声だけは、衰えるどころか、さらに大きくなっていった。その手には、なみなみと注がれた赤ワインのグラスがあった。その相馬が、ふらつく足で朝倉のテーブルへやってきた。

「おお、朝倉、まだいたのかよ。お前、高校の時からそうだよな。教室の隅、部屋の隅、今日は会場の隅。筋金入りだな」

「おい」

取り巻きがヘラヘラと笑った。そのまま、相馬は朝倉に馴れ馴れしく腕を回した。酒の匂いが鼻をつく。

「教えといてやるよ。そういう生き方は、時代遅れっつうんだよ。すみっこがお似合いのやつは、一生すみっこなんだよ」

「隅は意外といいぞ。落ち着くんでな」

「はあ? 負け惜しみだけは一人前かよ」

相馬は腕をほどくと、思い出したようにスーツのポケットからスマートフォンを取り出した。

「いや、お前の名前、検索したことなかったわ。お前が若い頃のレベルなら、検索したら名前出てくるかもな。朝倉尚弥っと」

相馬は、スマホの画面を眺めて吹き出した。

「見ろよ、これ受けるわ。『朝倉』って打ったら、うちの支社長が出てきたわ。同名の人物ってやつか? 『ゼフィールテクノロジーズ代表取締役社長 朝倉尚弥様』だとよ」

「ええ? 何それ? 写真は?」

「写真? それがうちの社長、顔出しNGなんだわ。写真の一枚も出てこねえの。まあ、どうせじじいだろうけどな」

相馬は、スマホを朝倉の鼻先に突きつけた。

「なあ、朝倉。同じ名前でもよ。片や大企業の社長様。片や名前も出てこねえ。日陰者。ここまで差がつくかね。人生ってのはよ」

「さあな。差がつくのかもしれないな」

「え、肝心のお前は、ほら、やっぱり何も出てこねえ。俺くらいのレベルになるには、まだまだだなあ」

「有名になるのが仕事じゃない」

「はいはい。そういうことにしといてやるよ」

千春が、たまりかねたように口を開いた。

「相馬君、そろそろやめなよ。飲みすぎだよ」

「うるせえなあ。俺は今、朝倉と話してんだよ。看護師は引っ込んでろ」

そう言うと、相馬はテーブルの上をスプーンで叩いた。高い音が会場に響き、100人の視線が集まってくる。

「みんな、ちょっと聞いてくれよ。いい機会だからよ。発表します。俺、今年度、年収1200万超えました」

会場が微妙にざわついた。拍手をする者は、ほとんどいなかった。だが、相馬は構わず続けた。その目は、真っ直ぐに朝倉へ向いていた。

「朝倉、お前は、いくらなんだよ?」

「言う必要はないだろう」

「ほら、言えない。言えねえよなあ。だってよ、言ったら惨めになるだけだもんなあ」

相馬は、朝倉の顔を覗き込んだ。ニヤニヤと口元を歪めて。

「俺の年収聞いてビビったか?」

相馬は、自分の言葉に自分でケタケタと笑った。会場のあちこちで、目をそらす者、俯く者が出始めた。それでも、誰も止めなかった。朝倉は、微動だにせず、相馬を見ていた。

「そうか。稼げるようになったんだな」

その声には、悔しさも、怒りも入っていなかった。ただの感想だった。相馬の顔から、笑みが消えた。

「なんだよ、その顔。張り合いのねえ顔してんじゃねえよ。お前のせいで、気分悪くなっただろうが。そんな悪いことをする奴には」

相馬の右手が跳ね上がった。次の瞬間、グラスのワインが、朝倉の顔に、まともにかかった。前髪から顎の先まで、赤い雫が滴り落ちる。白いテーブルクロスに、点々と赤い染みが広がった。一瞬の間を置いて、会場のどこかでグラスの倒れる音がした。それから、100人の宴会場から、音が消えた。

「朝倉君!」

千春が駆け寄ろうとしたが、相馬の取り巻きが、ヘラヘラ笑いながら遮った。相馬は、肩で息をしながら、それでもまだ勝ち誇った顔で、朝倉を見下ろしていた。

「悪い悪い。手が滑ったわ」

誰も笑わなかった。ワインの雫がカーペットに落ちる音さえ聞こえそうな静けさの中で、朝倉はじっと立っていた。100人の会場で、誰も声を出さなかった。誰も動けなかった。この静けさに耐えられないように、ワインをかけた本人の相馬だけが、大きな声を張り上げた。

「どうした? どうした? みんな、俺が悪いってのか? 先に気分を悪くさせたのは、こいつですよ」

返事はなかった。相馬は舌打ちをすると、濡れた朝倉を見下ろして吐き捨てた。

「大体よ。お前と俺じゃ、住む世界が違うんだよ。俺はな、天下のゼフィールテクノロジーズで、営業課長やってんだぞ。分かるか? 泣く子も黙る業界最大手だよ。お前みたいな名前も出てこねえ日陰者とは、なあ」

その時だった。朝倉が胸ポケットからハンカチを取り出した。ゆっくりと額を拭く。頬を拭く。顎の先の雫を、丁寧に抑える。その仕草には、慌てたところがまるでなかった。100人が見つめる中で、朝倉はハンカチを畳み直し、顔を上げた。

そして、口を開いた。

「ゼフィールテクノロジーズね。で、どこの支社だ?」

「はあ?」

会場が静まり返った。相馬の口が、半開きのまま止まっている。

「ゼフィールテクノロジーズの営業課長なんだろう。どこの支社だと聞いている」

「い、横浜支社だけどよ」

相馬は答え、そのまま我に返ったように声を荒げた。

「てか、なんで俺がお前に答えてんだよ。意味分かんねえんだよ。なんでお前、あれか? ゼフィールを受けて、書類で落ちた口か? そうだろ?」

「さあな」

「悪かったな。受かった側でよ」

相馬は、のけぞって笑った。ただ、その笑い声に続く者はいなかった。会場のあちこちで、同級生たちが顔を見合わせている。濡れた前髪の下で、朝倉はもはや相馬を見ていなかった。

「ゼフィールテクノロジーズ、横浜支社営業課長、相馬剣…か」

千春が、人をかき分けて駆け寄ってきた。手には、おしぼりをいくつも抱えていた。

「朝倉君、これ… 何なのよ、あいつ。酔っ払いにしても度が過ぎてる。…何で、何であんなこと」

千春の声は、途中から震えて言葉にならなかった。目の縁が赤くなっている。朝倉は、おしぼりを一つ受け取ると、少しだけ笑って見せた。

「大丈夫だ。安物のスーツで助かったよ」

「もう、こんな時まで落ち着いてるなんて、どうかしてる」

幹事の村瀬も、青い顔で飛んできた。

「朝倉、すまん。大丈夫か。俺がもっと早く止めてれば」

「村瀬のせいじゃない。気にするな」

その時、朝倉のポケットでスマホが震えた。取り出して画面を見る。会社からの着信だった。それも3件。朝倉は、着信の名前をしばらく見つめてから、スマホをしまった。こんな夜に3件…何かあったな。

会場では、村瀬が上ずった声で、締めの挨拶を始めようとしていた。気まずさを、なんとか流してしまうという空気が漂う。相馬は、まだ酔っ払い、取り巻きに囲まれて、何事もなかったかのように笑っていた。

村瀬がマイクの前で、ぎこちなく咳払いをした。

「えー、それでは皆さん、お時間となりましたので、そろそろ…」

その時だった。宴会場の扉が、大きな音を立てて開いた。入ってきたのは、黒いスーツを着た女性だった。髪を一つに束ね、走ってきたのか、肩で息をしている。女性は会場を見回すと、ワインで濡れた朝倉の姿を見つけて、一直線に歩いてきた。100人の視線が、その背中を追いかけた。女性は朝倉の前で立ち止まり、頭を下げた。

「社長、お探ししました」

その一言が、会場に落ちた。

「お電話を3度差し上げたのですが、明朝の最終契約の件で、今夜中に社長の決済が必要です。先方は海外で、時差の関係で朝を待てません。それで、直接お迎えに上がりました」

「新藤さん、ここは同窓会だ」

「承知しております。ですが、これだけは、社長にしか決められませんので」

その言葉が、波のように会場へ広がっていく。一番近くのテーブルの同級生が、隣と囁き合う。その隣が、隣へ。

「今、社長って言ったよな?」

「誰が?」

「朝倉が」

「いや、待てよ。さっき相馬が検索してたあれ。ゼフィールの社長。同名の人物だって笑ってた。あれさか?」

ざわめきが、しん、と変わった。

「社長って…朝倉君が?」

新藤は、そこで初めて、朝倉の顔をまともに見た。濡れた前髪、ワインの染みたスーツの襟。新藤の眉が、ぴくりと動いた。

「社長、そのお顔、どうされたんですか?」

「何でもない。ちょっとぶつかって、ワインがかかっただけだ」

「ちょっと、ですか」

新藤は、何かを言いかけて飲み込んだ。だが、その目は一瞬だけ、会場の奥の相馬を捉えていた。

その相馬が、大声で笑い出した。

「おいおいおい。なんだよこれ。ドッキリかよ? 朝倉、お前、いくら払ったんだよ、その劇団員によ」

相馬は、酔った足取りで手を叩きながら、こちらへ歩いてきた。その袖を、取り巻きの一人が引いて、耳元で慌てたように囁いた。

「そう、みんな言ってるぞ。ゼフィールの社長じゃねえかって」

「ほら、さっきの検索の、同名の人物ってやつは」

「ゼフィールの社長? こいつが? あのなあ、姉ちゃん。うちの社長はな、そんな安物のスーツ着ないんだわ。悪いけど、俺、ゼフィールの社員なの。分かる? 身内は騙せねえんだわ」

「失礼ですが、あなたは」

新藤が言いかけると、朝倉は短く制した。

「新藤さん、いいから」

朝倉は、村瀬の方へ頭を下げた。

「村瀬、すまない。仕事の話が入った。少しだけ、外させてもらう」

朝倉は、新藤を連れて、廊下へ出ていった。扉が閉まる。残された会場は、蜂の巣をつついたような騒ぎになった。

「おい、どうなってんだよ」

「本物なのか?」

「分かんねえよ。でも、あの秘書さん、一般人には見えなかったぞ」

取り巻きの一人が、恐る恐る相馬の袖を引いた。

「なあ、相馬。もし本物だったら、やばくねえか? お前、さっきワイン」

「わけねえだろう!」

相馬の声が裏返った。

「そんなわけねえんだよ。あいつは朝倉だぞ。教室の隅でパソコンいじってた朝倉だぞ。あんな奴が社長なわけないよな!?」

相馬はスマホを取り出し、震える指で画面を叩いた。『ゼフィール、社長、顔』。何度検索しても、写真は一枚も出てこない。出てこないことが、さっきまでは笑いのネタだった。今は、それがじわじわと首を締めてくる。

「なんでだよ。なんで写真がねえんだよ」

「社長の顔…どんなだったか?」

「ああ、そういえば俺、社長の顔を見たことねえわ」

「入社式の挨拶だって、別の役員が代読してたからな」

「まさかな…」

相馬は、グラスに残ったワインをそのまま一気に煽った。酔いで、不安を上塗りするように。

一方、その頃。廊下に出た朝倉は、新藤の報告を聞いていた。

「という条件で、先方の役員が社長の承認を待っています。詳しい数字は、こちらに」

「ああ、後で目を通す」

新藤はタブレットを胸に抱えたまま、頭を下げた。

「社長、申し訳ありませんでした。失礼を承知とはいえ、無断でプライベートな場に踏み入ってしまいまして」

「気にするな。新藤さんは仕事をしただけだ。おかげで助かった」

そう答えながら、朝倉は廊下の窓の外を見ていた。暗いガラスに、ワインの染みたスーツの男が映っている。耳の奥に、今夜の相馬の得意げな声が蘇ってきた。

『横浜支社の大きな契約。あれを一人でまとめたの、この俺なわけ』

横浜支社の大きな契約。役員会議のあの報告書だ。あれは、6人のチームが半年かけて、やっと取った仕事だ。このまま黙って帰れば、あの6人の手柄は、盗まれたままだ。

父の言葉が、耳の奥で蘇る。

『尚弥、仕事ってのは、チームワークが全てだ』

朝倉は、ネクタイの結び目に手をやり、閉め直した。

「新藤さん、決済の前に、一つだけ片付けたいことがある」

「はい」

「10分だけ、社長として話をする」

新藤は、驚いたように一瞬だけ目を見開いた。それから、深く頭を下げた。

「承知しました」

やがて、廊下の扉が開いた。朝倉が戻ってきた。その足は、自分がいた元の席へは向かわなかった。迷いのない足取りで、会場を横切っていく。向かう先は、相馬のテーブルだった。

朝倉は、相馬の目の前で足を止めた。

「相馬、1つだけ聞かせてくれ」

「はあ?」

「さっき自慢していた、でかい契約の話だ。あれは、本当にお前一人で取ったのか?」

「はあ? ああ、そうだよ。俺が取ったんだよ。支社の連中なんて、雑用しかしてねえんだよ。それがどうかしたかよ、どっかの社長さんよ」

相馬は、わざとらしく両手を広げて見せた。取り巻きの笑いを待つように。だが、誰も笑ってはいなかった。

朝倉は、目を閉じた。一呼吸。そして、開いたその目から、迷いが消えていた。

「そうか。よく分かった」

朝倉は、胸ポケットから、使い込まれた革の名刺入れを取り出した。一枚を抜き、相馬の目の前のテーブルの上に置いた。

『朝倉尚弥
ゼフィールテクノロジーズ
代表取締役社長』

「同名の人物じゃない。本人だ」

相馬は、笑おうとした。だが、口元が引きつったまま、動かなかった。

「はは…同名の人物をいいことに、こんな真似で適当なこと言いやがって」

言葉が、途中で止まった。見覚えがあったのだ。真っ白な紙、左上の青い会社のロゴ。裏返せば、英語の表記。それは、相馬自身が毎日、客に配っている名刺と何から何まで同じものだった。紙の手触りまで同じだった。違うのは、たった一つ。そこに刷られた肩書きだけだった。

『代表取締役社長』

「え、あの、これ…」

声が、みるみるしぼんでいった。名刺を持つ指先が、小さく震え始める。顔から赤みが消えて、土気色に変わっていく。取り巻きの一人が、こっそり覗き込んだ。

「おお、相馬、どうした? 顔、真っ青だぞ」

相馬は、答えられなかった。名刺から、目が離せなかった。

「まだ信じられないなら、思い出させてやろう。さっきお前がみんなに自慢していた、でかい契約の話だ。知らないのか? 社長のところにはな、全国の支社の報告書が、毎月全部上がってくるんだ。もちろん、横浜支社の分もな」

相馬の膝が、テーブルの下でガクガクと震え始めた。

「今年の4月10日、横浜支社営業二課、北都運輸とのシステム一括契約。契約額、8億3000万。どうだ? お前の自慢話と、合ってるかな?」

「そ、それは…」

「で、さっきお前は、うちの秘書が偽物だと笑ったな? 『俺はゼフィールの社員だ。身内は騙せない』と。いい言葉だ。全くその通りだよ」

朝倉は一呼吸置いて、続けた。

「身内は騙せない。だからな、相馬。お前の嘘も、この身内には、最初から全部バレていたんだよ」

相馬の手から、名刺が落ちた。ひらりと舞って、ワインの染みたカーペットの上に落ちる。拾おうと伸ばした手が、空を掴んだ。そのまま、椅子からずるりと崩れ落ちた。膝が床についた。立ち上がろうとして、立ち上がれない。さっきまで会場を支配していた男が、床の上で、口をパクパクと動かしていた。

そのすぐ傍らで、千春は両手で口を覆ったまま、立ち尽くしていた。村瀬は、マイクを握りしめたまま、石のように固まっていた。

「そうだな。俺が今夜、どこで腹を立てたか分かるか?」

「うわ、ワイン?」

「違う。あんなもの、洗えば落ちる。ワインかけは、俺を怒らせた。だが、それだけじゃない」

朝倉の声は、大きくなかった。だが、その低い声は、100人の会場の隅々にまで届いていた。

「お前は、夜中に人の命を救う仕事を、金の物差しで笑った。それも、許しちゃいない」

「た、違う…」

「だが、それが一番じゃない」

「じゃあ…」

「『雑用』と言ったな。支社の連中は、雑用しかしていない。お前は、たった今、100人の前でそう言ったんだ。北都運輸に半年間通い詰めた6人のことを。報告書の隅にはな、6人全員の名前が、ちゃんと書いてあった。俺は、全員の名前を言える。今、ここでだ。言ってやろうか?」

「うぅ…」

「お前の1200万も、そういう社員たちが汗をかいて稼いだ金から出てるんだ。その仲間の手柄を盗んで、名前を隠して、挙げ句に『雑用』と呼んで笑った。それだけは、俺は絶対に許さない」

「100人の前で自慢した嘘は、100人の前で返してもらうぞ」

「ま、待ってくれ。待ってください!」

相馬は、膝をついたまま、会場の方へくるりと向き直った。

「み、みんな、すまん! 俺が嘘をついてました! 申し訳ない! この通りだ!」

床に額を擦りつける。それから、弾かれたように顔を上げ、朝倉に向かって、もみ手のような格好で声を絞り出した。

「なあ、社長! これからも、一生懸命働かせていただきますんで!」

会場に流れていたのは、さっきまでの怯えた静けさとは違う、白けた静けさだった。100人の前で年収を自慢した男が、同じ100人の前で、床に額を擦りつけている。余りの変わり身の速さが、却って惨めさを際立たせていた。

「変わり身だけは、早いんだな」

朝倉は、冷ややかに言った。

「その謝罪が本物かどうか、決めるのは俺じゃない。お前が『雑用』と呼んだ、あの6人だ。今夜の件も含めて、例の契約の経緯は、改めて調査する。6人からも話を聞く。処分は、会社の規定と手続きで決まる。覚悟だけはしておけ」

「そ、そんな…」

相馬は、言葉を失った。もう、作り笑いすら出てこなかった。

「最後に、一つ。さっき、『どこの支社だ』と聞いたな。あれはな、本当は聞くまでもなかったんだ」

朝倉は、一呼吸置いて、言った。

「どこの支社だろうと、全部、俺の支社だ」

相馬の目が、見開かれたまま、動かなくなった。そこへ、新藤が歩み寄ってきた。

「社長、先ほどの海外との契約の件ですが、お時間です」

「ああ」

朝倉は、新藤の差し出したタブレットを受け取り、画面に目を走らせた。指先で、署名欄に触れた。

「この条件でいい。進めてくれ」

「はい。320億円の最終契約、承認いただきました。先方に伝えます」

会場のどこかで、引きつった声が漏れた。

「320億…」

年収1200万を自慢した男は、床に座り込んだまま、その数字を聞いていた。朝倉は、村瀬の方へ向き直ると、頭を下げた。

「村瀬、騒がせてすまなかった。幹事、本当にお疲れ様」

村瀬は、マイクを持ったまま、何度も何度も首を横に振った。朝倉は、扉へ向かって歩き出した。ワインの染みたスーツのまま、背筋だけは伸びていた。後に残されたのは、倒れたグラスと、床に座り込んだ男と、100人のざわめきだった。

ホテルのロビーを抜けて、夜の車寄せに出たところで、後ろから声が追いかけてきた。

「朝倉君! 待って!」

朝倉が振り返ると、千春が息を切らせて立っていた。走ってきたんだろう。肩が上下している。

「もう…歩くの早いよ」

「すまないね」

「1つだけ、聞いていい?」

「ああ」

「なんで、ずっと黙ってたの? 社長さんだなんて、一言も言わないで。あんなに言われて、笑われて、言い返せばよかったのに」

朝倉は、少しだけ考えてから、答えた。

「今夜、ここに来たのは、社長の朝倉じゃなくて、パソコン部の朝倉として、みんなに会いに来たから。会社が大きくなったのは、俺一人の力じゃない。一緒に走ってくれた仲間と、社員のおかげだからな。肩書きを自慢する気には、どうしてもなれなくて」

「まあ、あそこまで絡まれるとは思ってなかったけど。俺の存在感も、捨てたもんじゃなかったな」

朝倉は、ワインの染みをつまんで見せた。千春は、それを見て、ふっと笑った。

「私が覚えてる朝倉君はね、文化祭でゲームの説明を一生懸命してくれた朝倉君だよ。今夜、はっきり分かった。あの時のまんま、何にも変わってない」

「そっちこそ、夢をちゃんと叶えてた」

千春は、くすぐったそうに笑った。それから、ふと会場の方を振り返った。

「相馬君、これからどうなるのかな?」

「調査をして、規定通りの処分になる。それ以上でも、それ以下でもない。そこから先は、あいつ次第ってところだろう」

「あいつ次第…人は、そう簡単には変わらないけどね」

「変わらないとは限らないさ」

車寄せに、黒い車が滑り込んできた。運転手の窓から、新藤が顔を覗かせる。

「社長、お迎えに上がりました」

「ああ、今行く」

朝倉は、千春に向き直った。

「16年分の話の続きは、また今度、聞かせてくれ」

「ああ、今度はワインのかからない店がいいな」

「うん。約束ね」

車が走り出した。窓の外を、ホテルの明かりが流れていく。

「社長、お疲れさまでした」

「ああ、久しぶりに長い夜だったな」

朝倉は、シートに体を預けて、目を閉じた。

同窓会から3日が経った。ゼフィールテクノロジーズ横浜支社に、本社の調査チームが入った。北都運輸との契約について、営業二課の6人全員から話を聞いた。メールの記録も、打ち合わせの議事録も、訪問の履歴も調べた。出てくるのは、同じ事実だった。契約を取ったのは6人のチームであり、相馬はその手柄を、社内でも酒の席でも、自分一人のものとして語っていた。報告書の主担当の欄には、相馬の名前だけが載っていた。6人の名前は、端に小さく並んでいるだけだった。

1週間後、相馬は、本社の会議室に呼ばれた。

「相馬敬語(けいご)、本日付けで、課長職を解く。異議はありませんか?」

机の上に、小さな箱が置かれた。吊るし直された、新しい名刺の箱だった。相馬は、その一枚を手に取った。

『ゼフィールテクノロジーズ 横浜支社営業二課 相馬 敬語』

「営業二課」の下の、かつて「課長」と書かれていた欄は、空欄だった。

あの夜、社長の名刺を『虚仮』と笑った男の手の中で、肩書きの消えた自分の名刺が、かさかさと鳴っていた。

フロアに戻ると、視線が刺さった。課長から、入口近くの平社員の席へ。ダンボール箱1つ分の引っ越しは、10分で終わった。誰も、声をかけてこなかった。

その夜、一人残ったオフィスで、相馬は白い封筒に「退職願」と書いた。

その数日後、支社の朝礼に、思いがけない客が来た。社長の朝倉だった。社長が支社に顔を出すのは、初めてのことだった。

「北都運輸との契約について、改めて、会社として報告する。あの契約は、営業二課の6人が、半年かけて取ったものだ。記録は正式に訂正した。6人とも、いい仕事だった。ありがとう」

社長が、深く頭を下げた。フロアが、どよめいた。6人のチームの真ん中で、係長の江口が目を赤くしていた。相馬は、それをフロアの一番後ろで見ていた。ポケットの中の封筒を、上着の上から握りしめながら。

朝礼が終わると、相馬は、そのまま朝倉を追いかけた。

「社長、お時間いただけますか?」

会議室で、二人きりになった。相馬は、封筒を差し出した。

「退職願です。調査にも、処分にも、不満はありません。ただ、もう、ここにはいられません」

朝倉は、封筒を見たが、受け取らなかった。

「座れ、相馬」

相馬は、立ったままだった。朝倉は、構わず話し始めた。

「うちの会社の根っこの話をさせてくれ。俺の親父は、小さな機械の会社の技術者だった。何人かの仲間とチームを組んで、朝から晩まで機械を作ってた。ただ、相馬、その親父の隣に、誰がいたか知ってるか?」

「え?」

「お前の親父さんだ」

相馬の目が、見開かれた。

「お、親父…」

「昔、俺たち、会ってるんだよ。親父たちの会社の夏祭りでな。覚えてないか? うちの親父と、お前の親父さんには、口癖があった。飯の席でも、酒の席でも、同じことばかり言ってた」

『一人で作れるものなんて、たかが知れてる。チームワークが全てだ』

「相馬…お前の父さんも、そう言ってなかったか?」

相馬の肩が、小さく揺れ始めた。

「『ゼフィール』って名前も、俺がゼロから考えたんじゃない。親父たちのチームの人たちの、呼び名だったんだ。『慈風』っていう、春を運んでくる風のこと。風の姿は誰にも見えない。それでも、春が来たことは、みんなが知ってる。… とかなんとか、言ってたな」

「縁の下で機械を作り続けた、親父たちの精一杯の洒落だったんだろうな。俺は、この会社を、あの人たちの背中を思い出しながら作った。だから、うちの根っこには、最初から、あの言葉しかない。『チームワークが全てだ』ってな」

その言葉が、相馬の中で、何かの鍵を開けた。

中学のサッカーの試合で、相馬はハットトリックを決めた。得意になっていた。それを見に来ていた父は、帰り道、一言だけ言った。

「活躍したな」

「だがな、一人で点を取るな。チームで勝て」

あの時は、意味が分からなかった。むっとして、返事もしなかった。

高校2年の冬、病室のベッドで、痩せた父は、相馬の手を握っていった。

「剣、母さんを頼むな」

それだけ言って、父は少しだけ笑った。

… その約束を、守れなかった。父が亡くなってから、看護師の母は、昼も夜も働いた。家に一人の夜が増えた。寂しさは、いつの間にか、怒りに変わった。母を泣かせて、サッカーをやめた。

それでも、就職を選んだのは、父と同じチームで物を作る会社だった。技術がないから、営業として。理由は、自分でもうまく言えなかった。ただ、親父みたいになりたかったのだと。

気がつくと、声が漏れていた。

「お、俺… サッカーで、ずっとチームでやってきた。分かってた、本当は。俺、全部…

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一人で点取るんじゃなくて、チームで勝つんだって。親父に教わってたのに… 」

涙が、後から後から溢れて落ちた。34歳の男が、会議室の真ん中で、子供のように泣いていた。

「親父みたいになりたくて、この会社に入ったのに。気づいたら、真逆の人間に… 」

「同名の社長がいることなんて、入社した時から知ってたのに。まさかお前だなんて。親父たちのチームの名前の会社だなんて… 」

「看護師の女を見ると、お袋を思い出して…

ずっとイライラして… 俺は、最低だ」

朝倉は、泣き崩れる相馬の前に、椅子を引いて腰を下ろした。

「その退職願いは、受け取らない」

「え… でも… 」

「やめるのは、簡単だ。だが、それは逃げだ。やり直したいなら、場所は、もうあるだろう」

「お前が名前を消した、6人の隣だ。その6人に、決めてもらえ。お前ともう一度、チームを組めるかどうかを」

相馬は、袖で涙をぬぐって、何度も何度も頷いた。

「1から…

1から、やり直させてください」

その日、フロアに戻った相馬は、平社員の島へ歩いていった。6人の前で、深く頭を下げた。

「申し訳ありませんでした。俺が、皆さんの手柄を盗みました。… こんな俺ですが、隣で、1から勉強させてください」

長い沈黙の後、係長の江口が口を開いた。

「顔を上げてください、相馬さん。言葉より、仕事で見せてもらいます。見てますから。これから、ずっと」

「はい」

その様子を、廊下から見ていた朝倉は、誰にも気づかれないうちに、支社を後にした。

同窓会から4ヶ月が過ぎた。季節は、春になっていた。本社の社長室で、朝倉は新藤の持ってきた月報をめくっていた。横浜支社のページで、その手が止まった。

「営業二課が、また大口を取りました。今度は、医療機器メーカーのシステム一式です」

報告書の担当者欄には、7人の名前が並んでいた。6人の名前の後に、一つ増えている。『相馬 敬語』。その名前は、7人の一番最後に、書かれていた。

「社長の話では、朝は誰よりも早く来て、資料の準備をしているそうです。手柄の話は、一切しなくなったと」

「そうか」

朝倉は、月報を閉じた。口元が、少しだけ緩んでいた。

その週末、朝倉は駅前の小さな定食屋にいた。テーブルの向かいには、千春がいる。約束通り、16年分の話の続きだった。

「ここ、ワインもシャンパンもないから、安心だね」

「ああ。かかるとしても、味噌汁くらいだな」

「それはそれで、嫌だよ」

千春は笑ってから、少しだけ声の調子を変えた。

「こないだね、相馬君から、手紙が来たの」

「手紙?」

「うん。謝罪の手紙。便箋3枚、ぎっしり。同窓会でやったこと、全部謝ってあった。それでね、最後の一行に、こう書いてあったの。『お母さんに、ちゃんと親孝行します』って」

「そうか」

「看護師をしてるお母さんのこと、私、全然知らなかった。… ちゃんと届くといいな。あの手紙の分まで」

朝倉は頷いた。それ以上は、何も言わなかった。言わなくても、届く場所に、あの男はもう歩き出している。

「あのね、私もちょっとだけ変わったんだよ」

「うん?」

「後輩がね、患者さんの家族に理不尽に怒鳴られて、へこんでたの。前の私なら、こう言ってた。『大丈夫。そのうち慣れるよ』って。でも、言ったの。『慣れちゃだめだよ』って」

千春は、少し悪戯っぽく笑った。

「誰かさんの受け売りだけどね」

「いい先輩だな」

窓の外を、春の夕方の光が流れていた。二人の前で、定食の味噌汁が、湯気を立てている。豪華なものは、何もなかった。それでも、16年分の時間が、少しずつ解けていった。

あれから、また数ヶ月。夜の10時、本社のオフィスに、朝倉はいた。フロアの照明は、もう半分が落ちている。あの夜の前と、何も変わらない、いつもの日常だった。

その日の仕事を終えると、朝倉は席を立ち、窓を少しだけ開けた。夜の町から、柔らかい風が吹き込んでくる。冬の冷たさは、もうどこにもなかった。

朝倉は、呟いた。

「なあ、親父。あの慈風は、今日もちゃんと吹いてるよ」

姿の見えない風が、今夜も、どこかで誰かの春を運んでくる。その風の名前を知る人は、少ない。それでいいと、朝倉は思う。肩書きでも、年収でもない。誰かと組んで、誰かのために働く。その当たり前の尊さを、16年ぶりの同窓会は、残していった。