あの日、彼女は高級レストランで俺が差し出した婚約指輪を見て、鼻で笑った。「貧乏臭い指輪ね。友達に自慢できなきゃ指輪とか意味ないから」それだけ言い残して、ヒールの音を響かせて店を出ていった。四年後、妻の還暦祝いのプレゼントを買いに訪れた宝石店で、俺たちを迎えたのは、よりを戻そうと迫ってくる元彼女だった。彼女が俺の妻を見下して笑った時、妻は静かに左手を差し出した。あの日の屈辱が、今ここで報われる…

あの日、彼女は高級レストランで俺が差し出した婚約指輪を見て、鼻で笑った。「貧乏臭い指輪ね。友達に自慢できなきゃ指輪とか意味ないから」それだけ言い残して、ヒールの音を響かせて店を出ていった。四年後、妻の還暦祝いのプレゼントを買いに訪れた宝石店で、俺たちを迎えたのは、よりを戻そうと迫ってくる元彼女だった。彼女が俺の妻を見下して笑った時、妻は静かに左手を差し出した。あの日の屈辱が、今ここで報われる...

彼女の顔を見た瞬間、四年前の光景が頭の中でフラッシュバックした。俺の人生であんなに恥ずかしくて最低な出来事は他にない。高級宝石店の店員が、あの時と同じ見下した笑みを俺に向けた。

「この店に安物はないですけど」

俺の名前は石田ミツル。中小企業で働く三十三歳の会社員だ。今の俺には「妻」という言葉がぴったりだが、もし誰かに人生で一番最悪だった日を尋ねられたら、すぐに答えられる自信がある。

あの頃、二十九歳だった俺は、まだ何の役職もない平凡なサラリーマンだった。それでも実家を出て一人暮らしをし、友人も彼女もいて、不足のない人生を送っていた。彼女の名前は江ノ木田アンナ。年齢は俺の一つ下で当時二十八歳。ジュエリーショップの店員で、綺麗なものや可愛いものに目がないおしゃれな女性だった。

俺は一度だって彼女のすっぴんを見たことがない。アンナはいつもしっかりメイクをしていて、本人に言わせれば「髪の毛の調子がいまいち」という日でも、俺から見れば普段通り綺麗にセットされていた。

そんな美意識が高くて頑張り屋の彼女と出会ったのは、友人に騙し打ちのような形で参加させられた合コンだった。初めてこういった場に参加した俺は、美人で会話が上手く、何よりずっとニコニコしている彼女から目が離せなかった。俺は初めて自分から女の子に連絡先を聞き、二人でのデートに誘った。何度か遊びに行って、運よく交際にこぎつけた。

俺にとってアンナは高嶺の花的な存在で、彼女に釣り合うための努力は欠かせなかった。ファッションに気を使うようになり、筋トレも始めた。そんな俺とは対照的に、アンナは自分の美しさや魅力に自信があった。「自分を連れて歩けるんだから、デート代は男が払うのが当然」と常々言っていたし、彼女が財布を出すところを見たことは一度もない。それまで交際経験がなかった俺は、アンナに言われるがまま、彼女に尽くす生活を送っていた。

付き合い始めてから一年以上が経ち、俺は彼女との結婚を考え始めていた。今年は二十代最後の年だし、仕事も調子がいい。アンナは仕事柄、婚約指輪にも詳しいだろう。おそらく有名な指輪を渡せば、一発で値段が分かってしまう。もしかすると、絶対に選んでほしくないブランドなど、こだわりがあるかもしれない。彼女が働く店で買うわけにもいかないから、他店で選ぶことになる。もしライバル店だったり、アフターサービスが最悪だったりしたらどうしよう。一体どこで何を買えば喜んでもらえるのか。俺は指輪の選定に頭を抱えた。

悩みながらも時間をかけて納得のいく指輪を用意した。そうして順調にプロポーズの準備を整えていった。

アンナは理想が高く、ちょっとやそっとのことでは喜んでくれない。俺はこのプロポーズのために、人生で初めて高級レストランの予約を入れた。店内はおしゃれな照明に高級感のあるタイル張りの床。テーブルクロスまで上品な生地で、緊張感が高まる。普段は中食の蛍光灯が眩しい定食屋に通う俺が、この高級な場所に馴染めているだろうか。そんな不安がつい頭をよぎる。しかし、料理を楽しむうちに、俺はすっかりリラックスした気分になっていた。

コース料理はついにデザートが運ばれてきて、アンナの表情を見る限り、彼女も楽しんでくれているようだ。俺は再び緊張を感じながら、さりげなく指輪を取り出す。昨日一人で練習したその動きはスマートだった。彼女の前にリングケースを差し出して、シンプルな言葉を伝えた。

「俺と結婚してください」

美味しい食事を食べて、最高のシチュエーションでプロポーズに臨んだ。しかし、一瞬笑顔を見せたはずのアンナが、俺が差し出した指輪を見た途端に表情を曇らせた。思っていたのと違う反応に、心臓が大きく脈打って、息が詰まった。

「え、これどこの? 貧乏臭い指輪ね」

アンナは俺の手から奪うようにケースを取って、指輪を品定めし始めた。その顔は少しも嬉しそうではなく、むしろゴミでも渡されたかのような表情だ。俺は頭の中が真っ白になって、急に喉の渇きを感じた。

「あ、これオーダーメイドなんだよ。この石が好きって、前に言ってたでしょ」

俺はあまりに辛辣なアンナの態度にショックを受けつつ、絞り出すように「結婚指輪を選ぶ時は一緒に店に行こう」と言葉にした。しかし、すっかり白けた態度の彼女は、パタンと勢いよくケースを閉じて机の上に置いてしまった。

「ねえ、意味わかんないんだけど。普通ここは高級ブランドでしょ。友達に自慢できなきゃ、指輪とか意味ないから」

アンナは俺を睨みつけながら、友人の誰々はあのブランドだったとか、先輩のあの人は一粒のダイヤをもらったとか、次々に他人を引き合いに出して文句を言った。目立つのが嫌でレストランのプロポーズプランを使わなかったはずが、今やあちこちのテーブルから視線を感じる。しかし、そんなことなど全く気にしない様子のアンナは、最後に念のためというように指輪の金額を尋ねた。

「正直に言って、いくら?」

周りのお客さんたちは気まずそうに視線をそらし、俺はもっと気まずい思いをしながら「三十万少々」だと小さな声で答えた。するとアンナは鼻で笑って立ち上がった。

「顔がいいから付き合ってたけど、終わりだね。やっぱ結婚は金持ちじゃないと意味ないわ」

アンナは吐き捨てるようにそれだけ言い残すと、ヒールの音を響かせて店を出ていってしまった。残された俺は、トラウマレベルで恥ずかしかった。それでも翌日、一度だけアンナに連絡した。結果はもちろん残敗。取り付く島もなくこっぴどく振られて、俺の初めての恋愛は幕を閉じた。

「見かけても話しかけないでね」

あれから四年の月日が経っている。俺はいろんなことを乗り越えて、別の女性と結婚した。今日は妻であるヒナタと一緒に、彼女の母の還暦祝いのプレゼントを選びに来たところだ。未だにこういった高級宝石店には縁がないが、愛する妻のためなら足取りは軽い。しかし、楽しい気分で店内に入った俺たちは、最悪な出会いで固まった。なんと、店員として俺たちを迎えてくれたのは、同業他社から転職していたアンナだったのだ。

「ちょっと、聞いてるの? 相変わらずボーッとしてるのね」

最悪としか言いようがない。向こうはすぐに俺に気がついて、ヒナタを無遠慮に眺めながら「新しい彼女?」と問うてきた。俺はそばにヒナタという味方がいることを思い出し、まっすぐアンナと向き合った。それからヒナタとアンナにお互いを紹介すると、すぐに二人の違いが現れる。微笑んで挨拶したヒナタに対して、アンナは俺を指差しながら鼻で笑った。

「よくこんな男と結婚したね」

俺はアンナの言葉にカチンと来たが、「ヒナタへのプレゼントを買いに来た」と告げた。早く店員としての振る舞いに戻ってくれることを祈っていた。しかし、俺の言葉を聞いた彼女は、あからさまに面倒くさそうな顔で、今度は俺を品定めするように上から下まで眺めた。それからプッと吹き出してニヤニヤしながら口を開いた。

「お客様、ご冗談ですよね? この店に安物はないですけど」

運がいいのか悪いのか、俺たちの他には客も店員もいない店内に、アンナの笑い声が響き渡る。俺はさすがに腹が立って、この店で買い物する気は失せてしまった。ヒナタに視線を送って、この店を出ようと合図する。ところが、ヒナタは先ほどと変わらずニコニコしながら俺を引き止めて、自分がアンナの前に立った。ヒナタの思わぬ行動に、俺だけではなくアンナも驚いている。そして次の瞬間、ヒナタはすっと左手を出した。

「指輪を見せてください。これに合いそうなものをいくつか」

これというのは、ヒナタの薬指に重ねてつけられた、有名ブランドの婚約指輪と結婚指輪だった。ヒナタの毅然とした態度に押されて、アンナはしぶしぶ彼女の左手に視線を落とした。すると大きく目を見開いて、次の瞬間にはブルブルと震え出した。

「ちょっと、どういうこと? 私にはあんな安い指輪をよこしたくせに」

確かにヒナタの指に輝くそれは、婚約指輪だけで二百万円を超えている。今回は失敗しないようにと、ヒナタに好みのデザインを聞いてから有名ブランドで見つけたからだ。値段だけならアンナの言う通りかもしれないが、俺は彼女の言葉を聞き流すことができなかった。過去の自分を否定されたように感じていた。そこで俺は、四年前にあの指輪を選んだ経緯と、決して安い指輪で済ませようとしたのではなく、結婚指輪は好きなものを選んでもらうつもりだったと、あの時言ったことを再度説明した。妻の前でこんな話をするのは褒められたものではないが、ヒナタには笑い話としてすべて話してあった。

「年収で俺の話をちゃんと聞いたアンナは、少し揺らぎつつも、それでも過去のことだと俺の思いを認めず流した。そして、ヒナタの指輪はローンで買ったのかと笑った」

「貧乏人が見え張っちゃって。その上、まだプレゼントなんて。運良く結婚できたからって、必死すぎ」

アンナはがっつり俺を見下していて、なぜか俺を貧乏人だと思っているようだった。しかし、俺は先ほどのヒナタの行動から、彼女がここで買い物を選びたがっていると思っていたので、店を出ることなどすでに頭にない。なんとかアンナの誤解を解こうと思い、「指輪を買う予算は十分ある」と言い返した。

俺の焦った様子を見たアンナは、すっかり調子を取り戻して「しょぼいサラリーマンが頑張ったくらいで、あの頃と大して変わらないだろう」と笑った。確かに課長代理になったとはいえ、年収は未だに七百万円に届くかどうかというところ。給料で貰える額なんて、株の配当金とあまり変わらない。そう考え込んでしまった俺は、アンナの声に現実へと引き戻された。

「配当金?」

ああ、声に出ていたらしい。ヒナタが苦笑いしていて、俺はどうやら全部口に出してしまったのだと気がついた。

実は俺には、二億円近い資産がある。とは言っても、その大部分は祖父の遺産だ。俺の母方の祖父は資産家の家に生まれて、自身でも会社を経営する、まさに「孫の手に余る」金持ちだったらしい。祖父は太く短い人生を送り、浴びるほど酒を飲んで、最後の日までタバコを吸い、四十八歳でこの世を去った。母の兄には子供がなく、俺が唯一の孫だった祖父は、寝床に伏せながら俺にも遺産が分配されるようにと遺言を作成した。おかげで俺はまだ数字も数えられないほどの幼少期に、莫大な代金を手に入れることになった。自分で言うのもなんだが、好奇心旺盛だった俺は学生時代にその金で投資を始めた。アンナと交際していた頃には順調に資産を増やしていて、あれから四年が経った今では、年間の配当金が六百万円を超えている。アンナとのデートは何から何まで俺の支払いだったが、それでもなんとかなっていたのは、この金があったからだ。今から考えると、アンナが配当金のことを知っていれば、あの頃の俺の生活はもっと困窮していただろう。

実はアンナに「株をやっている」と話したことがある。その頃のアンナは「配当金」と聞いても何のことか分からないほど知識がなく、株という言葉だけで「おじさんっぽい」と眉をひそめた。それ以来、俺は彼女に株の話をしようとは思わなかった。配当金については、アンナと結婚してから話しても遅くはないだろうと思っていたからだ。そのためアンナは、俺のサラリーマンとしての収入しか知らず、大した資産は持っていないと思っていたのだろう。

俺の説明を聞いて、今更ながらに真実を知ったアンナは、目の色を変えてよりを戻そうと迫った。別れてからの数年で何があったのかは知らないが、少なくとも「配当金」という言葉の意味が分かるくらいには、いろんな経験をしたらしい。おそらく金に目がくらんだアンナは、身を乗り出して俺の手を取ろうとする。

「そんな女、捨ててやり直さない? 私の方がずっと美人だし。今夜なら開いてるけど」

俺は全身の毛がぞわっと逆立つ思いだった。確かにアンナは美人だったが、今目の前にいる女は、不気味なだけの笑顔を浮かべる妖怪のようだった。この女が曲がり角から出てきてマスクを外しながら自分は綺麗かと尋ねてきたら、一目散に逃げる自信がある。俺が身を引かせたのを見て、何を勘違いしたのか、アンナは畳みかけるようにヒナタをけなした。

「ほら、こんなおばさんのどこがいいの? 顔もスタイルも全然普通じゃん」

俺はカッと頭に血が上るのを感じた。

「黙れ。お前と復縁とか、考えただけで吐き気がする」

ヒナタと出会って、今までの人生は何だったんだと思うような幸せな日々を過ごしている俺は、ばっさりとアンナを拒絶した。アンナは自分から振ったので、ちょっとその気を見せれば簡単に俺が転がされると思っていたようで、目を丸くした。一瞬の間を置いて切れたアンナが暴言を吐き始めると、奥から別の店員が慌てて飛び出してきた。俺はアンナのあまりの勢いにびっくりしてその場に固まっていたものの、ヒナタに促されて店を出た。

「もうこの店には来ません。あなたも二度と顔を見せないで」

外に出た俺が振り返ると、俺たちを追いかけてこようとしているアンナが真っ赤な顔で、別の店員に引き止められていた。

その後、初めからアンナの悪意を感じ取っていたらしいヒナタに「あんな人に見くびられるような態度を取るな」と叱られた。しかし、あんなに色々言われて気分を害しただろうと思っていたヒナタは、どこか満足そうに見えた。俺たちは最悪な気分を塗り替えるように、その足で別の店に向かい、無事に希望の商品を購入することができた。

ところが、翌日以降、次々とアンナとの共通の友人たちから連絡が来始める。アンナがトラブルを起こしたのは初めてではないそうで、事情を知った友人たちがすぐに俺の言い分を信じてくれたのが幸いだった。今もアンナからの復縁要請や「連絡先を教えろ」というのを遮断してくれて、友人たちには本当に感謝している。アンナはあれから店内で騒ぎを起こしたことが上司にバレて解雇となり、今は両親に文句を言われつつ、実家で食べて寝るだけの生活をしているらしい。俺を振った時に目指していた金持ちとの結婚どころか、順調に独身記録を更新中だ。

株のことを含めてすべて知っているヒナタは、もうアンナのことを話題にも出さない。俺たちの普段の生活は相変わらず穏やかで、何不自由なく二人で日々を過ごしている。それでもたまには贅沢も必要だと思っているので、来月のヒナタの誕生日には少し奮発して海外旅行に行く予定だ。

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