夫は浮気相手のことを「真実の愛」と呼び、ドラマの主人公のように胸を張って宣言した。そして台風が直撃する大雨の真っ只中、臨月のお腹を抱えた私を車から引きずり下ろして、一目散にその女の元へ走り去っていった。
私、山本明かり、32歳。夫の光彦とは合コンで出会い、彼の熱心なアプローチに押されて付き合い始めた。6歳年上の彼は、付き合っている時から何事も自分がリードしたいタイプで、結婚してみると家事は一切せず「家事は妻の仕事だ」と言い放つ、亭主関白な夫だった。共働きなのに、だ。不満はあったが、それなりに生活は回っていたし、私も慣れてしまって、まあ幸せだと思っていた。
変化が起き始めたのは、私の妊娠が発覚した頃だった。それまで残業があっても1時間ほどだった光彦の帰りが、だんだん遅くなり始めた。毎日3時間も4時間も遅くなるなんて、以前では考えられなかった。
ある日、日付が回ってから帰宅した光彦から、ふわりと石鹸の香りがした。妊娠してから匂いに敏感になっていた私は、すぐに気づいた。
「お風呂に入ってきたの?」
「ああ、疲れたから会社近くのサウナに寄ったんだ」
彼は何の動揺もなく、さらりと答えた。今まで光彦からサウナの話題なんて聞いたこともない。私は不審感を抱いたが、それを悟られてはいけないと思い、表面上は今まで通りに接しながら、注意して様子を見ることにした。
彼の行動を注意し始めて1ヶ月ほど経った頃、光彦は「出張だ」と言って、珍しく2日間家を空けた。彼は営業職だが、担当は県内の会社ばかりだ。過去に泊まりがけの出張なんてない。しかも、公共交通機関ではなく、自分の車で行かなければならないという。普通に考えて怪しすぎる。石鹸の香りの一件から浮気を疑っていた私は、これは間違いなく不倫旅行だと直感した。
絶対に証拠を掴もうと思った。そして、1泊2日で帰ってきた光彦の旅行カバンを片付けていた時、カバンのサイドポケットから、くしゃりと押し込まれたレシートが落ちてきた。緊張しながら広げてみると、日付は昨日。臨県の温泉地にある土産屋のものだった。すぐに彼の車のナビを確認すると、案内履歴の一番上には、臨県の有名な温泉旅館が表示されていた。
やはり、そうだったのか。覚悟していたつもりだったが、いざ確定するとショックは大きかった。心のどこかでは信じたい気持ちがあったのかもしれない。私はナビの履歴とレシートを写真に撮り、証拠として保管した。妻の妊娠中に不倫なんて、最低だ。腹の底から怒りが湧いてきた。
しかし、お腹の子のことを考えると、問い詰めることもできず、私は何も行動に起こせないまま、時間だけが過ぎていった。お腹の子はスクスク育ち、ついに臨月に入った。最近やっと、光彦の前で作り笑いをすることにも慣れてきた。
あの日、猛烈な勢力の台風が直撃すると予想されていて、光彦の職場は全員が自宅待機を命じられていた。テレビでも最大限の警戒が呼びかけられている。臨月の私は、早めに避難できるよう準備を始めた。雨の中を歩くことになるかもしれないから、着替えやタオルは多めに。バッグの中身を点検して、ベランダに物を出したままだったことを思い出し、慌てて片付けに行った。
「光彦、ちょっと手伝って!」
何度も声をかけたが、彼は寝転がってテレビを見ながらスマホをいじっていて、返事すらしない。雨が降り始めているのに、私は一人で全ての準備をするしかなかった。
見る見るうちに雨風が強くなり、私たちの住む地域は警戒レベル3に指定された。スマホの緊急速報で知った私は、光彦に声をかけた。
「そろそろ避難しよう。車で動けるうちに避難所へ向かいたいの」
大きなお腹を抱えた私は、移動に時間がかかる。避難がギリギリになれば、私が足手まといになることは確実だった。
「行きたくないなら、先に私だけでも車で避難所まで送ってくれない?」
しかし、いくら頼んでも、光彦は「大丈夫だ」と鬱陶しそうに答えるだけ。そうこうしているうちに、スマホから警戒レベル4のアラートが鳴り響いた。彼はようやくしぶしぶながら動き始めた。
外に出ると、叩きつけるように大粒の雨が降っていた。濡れた地面は滑りやすく、私はお腹を庇いながら一歩ずつ慎重に車へ向かった。やっとの思いで車に乗り込むと、足元はすっかり濡れていた。
車内は重苦しい空気が流れ、光彦は機嫌が悪く、雨のせいで役に立たないワイパーに怒りをぶつけている。避難所までの道のりを半分ほど過ぎたところで、雨音に紛れてスマホの着信音が聞こえた。チラリと確認した光彦は、車を路肩に寄せ、急に優しい口調で電話に出た。
「ああ、待ってろ」
そうだけ言って電話を切ると、彼はムスッとした顔で私を見た。
「どうしたの?」
「降りろ」
彼は探るように、車を降りるよう命令した。
「避難所まではもうすぐでしょ? どういうこと?」
「いいから降りろ!」
感情を剥き出しにして怒鳴られた。こんなところで下ろされたら、どうなるかわからない。
「私は臨月なのよ!」
腹が立って言い返したが、光彦は大げさな手振りまでつけて、とんでもないことを言い出した。
「彼女が助けを求めてるんだよ! 俺が行かなくちゃ、何かあったらどうするんだ!」
彼女、だと? この非常時に、堂々と浮気相手のことを暴露して、一刻も早く駆けつけようとしている。邪魔な私を車から下ろすつもりらしい。頭の血管がぶち切れそうになって、私は叫んだ。
「身重の妻と、自分で動ける浮気相手と、どっちが大切だと思ってるのよ!」
すると光彦は私を睨みつけ、まるで主演俳優のように胸を張った。
「あの子には俺しかいないんだ。彼女とは真実の愛なんだよ」
その歯が浮くようなセリフに、私は呆気に取られた。しかし、彼女のヒーローである光彦の暴走は止まらない。突然車を降りると思うと、私が乗る助手席のドアを外から開け、大雨の中へ私を引きずり出した。お腹を庇って尻餅をついた私に目もくれず、彼は再び車に乗り込むと、あっという間に走り去っていった。
視界が悪いほどの雨の中、私は呆然とテールランプを見送った。避難用の荷物は光彦が持っていってしまい、手元に残ったのはスマホと財布が入った小さな鞄だけ。しかし、何としてもお腹の子を守らなくては。私は大雨の中、傘も差さずに避難所へと歩き始めた。
避難所に着くと、私はズブ濡れで、入り口付近で服の裾を絞っていた。すると、それに気づいた人たちが次々と出てきて、乾いたタオルを渡してくれて、臨月のお腹を持つ私に心配そうな言葉をかけてくれた。家族であるはずの夫には大雨の中放り出されたのに、赤の他人はこんなにも優しい。私は思わずワッと泣いてしまった。名前も知らない女性に背中を撫でられて慰められ、ようやく落ち着いた私は、父に電話して迎えに来てもらうことにした。完全に光彦に見切りをつけて、実家に帰ることを決めたのだ。
避難所で2時間ほど待つと、両親が迎えに来てくれた。実家に到着してようやく安心した頃、私のスマホに光彦からの着信が入った。今更何を言うつもりだろう。腹が立って無視を続けたが、しつこく何度もかかってくるので、渋々出てみることにした。
「助けてくれ…」
電話の向こうで、光彦の切羽詰まった声が聞こえる。
「どちら様ですか?」
私が冷たく言うと、彼がひるんだのがわかった。
「臨月の妻を台風の中に放り出して、浮気相手の元へ一目散に向かった男なんて、とても夫とは思えないわ。避難所で出会った見知らぬ人の方があなたよりはるかに優しかった。あなたなんて、他人以下よ」
そう言い放つと、光彦は形だけの謝罪を口にした。
「悪かった。だから、助けてくれよ」
彼は私が聞いてもいないのに、話し始めた。浮気相手から助けに来てほしいと言われた光彦は、私を放り出した後、慌てて彼女の家に向かったが、行ってみれば風の音が怖いというだけのことだったらしい。しかし、自分を頼って連絡してきた彼女が可愛くて仕方なく、つい彼女の家で過ごしているうちに、大雨で周囲の状況が一変してしまった。
本当に救えないのは、ここからだ。光彦と浮気相手は、家の周りに水が迫っているのに「足首程度の水だから」と車で避難を試みた。そして、何も考えずに走り慣れた道を進んだ結果、膝上まで冠水した深い場所に突っ込んでしまい、車が完全に水没して動かなくなったという。
「はあ…」
私は大きなため息をついた。身重の妻を台風の中に放り出しておいて、よくもまあ助けを求められたものだ。
「いい大人なんだし、車を捨てて避難すればいいでしょ。私に歩いて避難させたんだから、あなたたちも歩けるでしょう」
私が冷たく突き放すと、光彦はもごもごと言い訳を始めた。「彼女は体が弱い」とか「避難所までが遠い」とか。聞いているだけで頭が痛くなってくる。
「そんなに動きたくないなら、車の屋根で一晩過ごせばいいじゃない」
そう言ってやると、彼は「誰に見られるかわからないのに、そんな恥ずかしいことはできない」と、この後に及んで世間体を気にしているような発言をする。もう、呆れるを通り越して笑えてくる。私は思わず嘲笑を漏らすと、それを感じ取った光彦は、自分が笑われていると勘違いして怒り出した。
「なんだよ!」
「どっちが馬鹿なんだか」
そう言って、私はきっぱりと言い切った。
「私はお腹の赤ちゃんを守らないといけないから、他人以下の人間を助けている余裕はないの。離婚するから、せいぜい今隣にいる人と『真実の愛』を貫いていればいいわ」
光彦が何か叫ぶ前に、私は電話を切った。
その後、私は実家で安心して体を休め、光彦のいない時を狙って荷物を取りに帰ったり、離婚に向けて準備を進めた。実家は浸水を免れていて、浮気の証拠も無事に残っていた。光彦たちは不貞を認め、夫側の有責として離婚が成立した。浮気相手には慰謝料を、光彦には慰謝料と養育費を請求した。浮気相手は光彦より一回り年下のフリーターで、彼女の親が慰謝料を肩代わりしたらしい。相手のご両親は彼女を田舎に連れ戻し、光彦の「真実の愛」は呆気なく幕を閉じた。
風の噂では、光彦は「臨月の嫁を台風の中に捨てた」という話が会社で広がり、肩身の狭い思いをしているらしい。あの性格では、周囲の視線に耐えられず、長くは持たないだろう。
私は予定通りに無事出産し、今は元気な赤ちゃんを抱いている。両親に助けてもらいながら、慣れない育児に奮闘中だ。職場は少し遠くなってしまったが、もうすぐ産休が明ける。しっかり働いて、子供と一緒に幸せになってやる。



