「母さん、なんで生きてんだよ。」
検査結果を伝えた瞬間、一人息子の週一はそう言った。三ヶ月前、癌かもしれないと伝えた時、週一夫婦は「これからは俺たちが支える」と言って、通院や食事の世話をしてくれた。あれほど献身的だった二人が、なぜ私の言葉一つで豹変したのか。
私の名前は松本洋子。六十二歳。話は半年前に遡る。
夫を亡くして五年、私は夫と買った家で一人暮らしをしていた。息子の週一とは、二年ほど前からほとんど連絡を取っていない。きっかけは、週一夫婦が家を買おうとした時だった。
「頭金が足りないんだ。一千万円、生前贈与してくれないか?」
突然そう頼まれ、私はすぐに返事ができなかった。自宅以外にある預金は、夫が残してくれた分を合わせても二千四百万円ほどだった。これから病気や介護にいくらかかるのか分からない。まず老後資金を計算してから考えたい、と伝えた。
すると嫁は、電話の向こうで小さく笑った。
「自分の息子より、自分の老後の方が大事なんですね。」
週一も私を責めた。
「もういいよ。母さんには頼らない。」
それから誕生日も正月も、二人から連絡はなかった。寂しかったが、お金を渡さなかった私が悪いのだろうか、と考えるうちに、こちらからも電話をかけられなくなった。
そんな私が就活を始めたのは、七十歳だった兄が自宅で亡くなったからだ。兄は一人暮らしで、発見されたのは亡くなってから数日後だった。警察から連絡を受け、部屋へ入った時の光景を、私は今も忘れられない。どこへ連絡すればいいのか、通帳はどこにあるのか、葬儀をどうしたかったのか。兄は何も残しておらず、私は遺品整理の業者と何度も部屋を往復した。書類一枚を探すだけで何日もかかった。
孤独死という言葉は知っていたが、残された家族が何を決めなければならないのかまでは知らなかった。兄の手続きを終えた私は、自分のエンディングノートを買った。預金、保険、葬儀の希望、緊急連絡先。書き始めると、空欄の多さに手が止まった。もし私が倒れた時、息子は来てくれるのか。高齢者向けの住まいへ移る時、身元保証は誰に頼むのか。終末期の治療や死亡時の手続きは、誰が私の希望を知っているのか。考えるほど、一人でいることが怖くなった。
その夜、下腹部の重さが続き、婦人科を受診した。画像を見ていた医師が、慎重に言葉を選んだ。
「卵巣に腫瘍があります。悪性の可能性もあります。」
悪性という言葉だけが、頭の中に残った。帰宅しても、私は電気をつけないまま玄関に座り込んでいた。今の日本では癌は珍しい病気ではない。そう分かっていたのに、自分のことになると息ができないほど怖かった。そして、週一の番号を表示したところで、指が止まった。二年ぶりの電話で、何から話せばいいのか分からなかった。それでも、私は通話ボタンを押した。
「お母さん、癌かもしれないと言われたの。」
翌日、週一夫婦は果物と温かいスープを持ってやってきた。週一は病院まで車を出すと言い、嫁は冷蔵庫へ作り置きの料理を並べた。
「お母さん、これから必要なことは、私たちも一緒に考えます。」
二年ぶりの冷たい声とは別人のようだった。手術の日、二人は待合室で手術が終わるのを待っていてくれた。麻酔が覚めて週一の顔を見ると、あの子は私の手を握った。
「母さん、二年間一人にしてごめん。」
私は目を閉じたまま泣いた。息子がそばにいてくれる。そのぬくもりが、ただ嬉しかった。
退院すると、嫁は週に二度家へ来るようになった。洗濯物を取り込み、買い物を引き受け、私のエンディングノートまで一緒に整理してくれた。
「もしもの時、口座が分からないと週一も困りますから。」
「そうね。週一に迷惑をかけないよう書いておくわ。」
私は口座の欄を埋めた。嫁はエンディングノートの次のページをめくった。
「この家、査定に出したことはありますか? お父さんの遺産って、今はいくら残っているんですか? 遺言書には週一が全部相続するって書いてありますよね。」
気づけば、私の体調より財産整理の進み具合を尋ねる時間の方が長くなっていた。それでも私は疑いたくなかった。
週一は病院へ送る車の中で、前に頼んだ生前贈与の話を持ち出した。
「母さんが落ち着いたらでいい。前に断られた一千万円。もう一度考えてくれないかな?」
「どうして今なの?」
「母さんともう一度、家族としてやり直したいんだ。新しい家で一緒に暮らせば、何かあった時もすぐに駆けつけられる。」
私の部屋まで考えてくれている。その言葉が嬉しかった。
「ありがとうね。エンディングノートと遺言書を整理してから考えるわ。」
その翌週、私は組織検査の結果を聞くため、一人で病院へ向かった。診察室で医師の説明を最後まで聞き、渡された結果の紙をバッグへしまった。病院を出た後も、週一へは電話をかけなかった。
それからも週一夫婦は優しかった。ただし、電話の最初に聞く言葉は決まっていた。
「先生はあとどれくらいだって?」
「体調に変化はない?」
「遺言書はもうできた?」
そして、「癌かもしれない」と伝えた日からちょうど三ヶ月が過ぎた頃、私は二人を夕食へ呼んだ。食後、週一が落ち着かない様子で時計を見た。
「母さん、それで先生はなんて?」
私は二人の顔を見て、検査結果を告げた。
「腫瘍は良性だったの。定期検査は必要だけど、まだ長く生きられるそうよ。」
「良かったですね」と言うはずの嫁は、唇を結んだ。週一は両手で髪をかき上げ、吐き捨てるように言った。
「母さん、なんで生きてんだよ。」
私は聞き返した。
「え、週一、あんた今何て言ったの?」
「だって話が違うだろ。俺たちは来月、家の代金を払わないといけないんだぞ。」
嫁が慌てて週一の腕を掴んだが、もう遅かった。二人は私から一千万円が入る前提で、新しい家の契約を結んでいた。すでに手付金として三百万円を払い、残金の支払い日は翌月に迫っていた。
「遺言書を整理したら一千万円を出すって言っただろう。」
「私は『整理してから考える』と言っただけよ。渡すとも、遺言書に書くとも言っていない。」
その言葉で、週一が顔を歪めた。
「癌って言ってたじゃないか。だから今頃、一千万円すぐに手に入る予定だったんだぞ。」
私の回復を喜ぶより先に、週一が気にしたのは一千万円と家の支払いだった。二人が支えようとしていたのは、私の暮らしではない。三ヶ月後に自分たちのものになるはずの財産だった。
嫁は急に声を柔らげた。
「お母さん、週一も混乱しているだけです。長く生きられるなら、私たちも嬉しいです。ただ、家の契約があるので、約束通り一千万円だけ先に…」
「約束はしていないわ。」
「でも、私たちは三ヶ月も支えたんですよ。」
その一言で、見舞いも料理も送迎も、二人の中では請求書だったのだと分かった。私は最後にもう一つだけ確かめた。
「もし私が見守りのある住まいへ移ったら、身元保証を週一に頼める? 施設からの緊急連絡と、入院費の一時的な立替えが必要になるの。」
週一は即座に首を振った。
「バカ言うなよ。仕事中に施設から連絡されても困るし。三ヶ月も付き合ったのに、どうして金まで立て替えなきゃいけないんだ。」
私が三ヶ月後も生きると分かった途端、二人の支えは終わった。
「今日は帰って。生前贈与も相続も、全て考え直します。」
週一は椅子を蹴るように立ち上がった。
「母さんが癌なんて言ったせいだからな。」
私は何も答えなかった。だが、私の死を当てにして家を買う契約を結んだのは、二人自身だった。
翌朝、私は就活相談を受け付けている地域の窓口へ電話をした。兄の遺品整理で苦労した経験、卵巣の腫瘍、息子との関係を、全て話した。紹介された専門家と一緒に、私は終末期までの暮らしを最初から組み直した。
自宅は不動産会社三社へ査定を頼み、およそ三千万円で売却できる見込みが立った。預金二千四百万円と合わせれば、財産は約五千四百万円になる。私はそのお金を、自分が安心して生きるために使うことにした。見守りと介護相談のある高齢者向け住宅の入居費に二千二百万円。入院時の連絡や費用の一時立替え、亡くなった後の手続きを頼む身元保証と死後事務の契約に、預託金を含めて三百万円。年金で足りない生活費は月十九万円と見積もり、十年で二千二百八十万円。今後の治療や介護の予備として五百万円。合計すると、十年後に残る見込みは百二十万円だった。もちろん、もっと長く生きれば残らない。費用が上がっても同じだ。私は遺言書を書き直し、最後に残った財産は地域の高齢者支援団体へ寄付すると決めた。
二週間後、私は週一夫婦をもう一度呼んだ。今度は食卓ではなく、家の売却査定と入居契約の見積もりを並べた机の前だった。嫁は書類を見るなり声をあげた。
「家まで売るんですか? それじゃあ週一が相続するものがなくなるじゃないですか。」
「私が三ヶ月後に死んでいたら、家と預金で五千四百万円ほど残ったでしょうね。」
週一の目が動いた。
「でも、私は命が尽きるその日まで生きるから。だから、このお金はこれからの住まいと治療や身元保証のために使うわ。」
私は十年分の計算表を二人の前へ置いた。
「十年後に百二十万円残っていた場合、あなたが請求できる可能性のある遺留分は、最大でも六十万円ほどだと説明を受けたわ。実際にいくら残るかは私にも分からないけれど。」
「たったの六十万円?」
一千万円を受け取るつもりだった嫁の声がかれた。週一は机を叩いた。
「ふざけるな。癌って言ったのは母さんだろう。俺たちはそれを信じたんだぞ。」
「ええ、医師は『悪性の可能性がある』と言っただけ。『癌です』とは言っていない。余命三ヶ月は、私があなたたちについた最初で最後の嘘よ。」
週一の顔から血の気が引いた。
「最初から俺たちを試してたのか。」
「あなたたちに、まだ私を心配する気持ちがあるのか知りたかったの。良性だと分かったのは手術の二週間後。それからも遺言書と家の話ばかりする二人を見て、三ヶ月の日まで黙っていたわ。」
私は逃げずに認めた。でも、生前贈与の契約書も、私が一千万円を渡すと約束した記録もない。確認せずに三百万円を払ったのは、あなたたちでしょ。
嫁の声が初めて崩れた。
「お願いです。せめて手付け金だけでも出してください。あのお金まで失ったら、私たち本当に何も残らないんです。」
「私が余命通りなら、家も預金も自分たちのものになるって思ったんでしょう。」
二人は黙った。
「残念だったわね。私には、まだこれからの人生がある。五千四百万円は、そのために使うわ。」
週一は何度も「親子だろう」と繰り返したけれど、私は一千万円も三百万円も渡さなかった。
一週間後、週一から短いメッセージが届いた。資金を用意できず、家の購入は白紙になった。売手側の都合で契約を解除し、手付金三百万円も手放したという。それは私が与えた罰ではない。私の死と財産を確かめず、自分たちで結んだ契約の結果だった。
私は予定通り自宅を売り、見守りのある住まいへ移った。入居初日、職員はエンディングノートの保管場所と緊急連絡の手順を一つずつ確認してくれた。夜中に具合が悪くなれば呼べるボタンがあり、入院が必要の時は契約した身元保証の窓口へ連絡が行く。誰かの機嫌を取らなければ助けてもらえない暮らしは、もう終わった。
週に二度は同じ棟の人たちと水中運動へ行き、月に一度は施設のバスで美術館へ出かける。先日は、兄の遺品整理で見つかった古い家族写真を小さな額に入れて、部屋へ飾った。私は今も定期検査に通っている。帰りには、同じ住宅の女性と喫茶店で次の旅行先を相談する。次の旅行は半年後に決まった。その日を楽しみに待てることが、今の私には何より嬉しい。
自分の財産を自分の老後に使うと決めたことは、後悔していない。けれど、病名を偽って息子夫婦を試したことだけは、今も胸に残っている。あの嘘は、本当に許されるものだったのだろうか。私が悪かったのでしょうか。



