食卓で義姉が笑顔のまま「お母さんはもう認知症です。施設へ入れて、この家は売りましょう」と言った時、私は自分の耳を疑った。私が68歳の姑で、この家の持ち主だというのに、皆の視線は私を「かわいそうなボケ老人」と断定していた。しかし、彼女が知らないことがあった。私はここ数ヶ月、細かく証拠を残していたのだ。涙を拭うふりをしながら、私は彼女が隠した老眼鏡の日付を全て暗記していた。今日、この食卓で、彼女…

食卓で義姉が笑顔のまま「お母さんはもう認知症です。施設へ入れて、この家は売りましょう」と言った時、私は自分の耳を疑った。私が68歳の姑で、この家の持ち主だというのに、皆の視線は私を「かわいそうなボケ老人」と断定していた。しかし、彼女が知らないことがあった。私はここ数ヶ月、細かく証拠を残していたのだ。涙を拭うふりをしながら、私は彼女が隠した老眼鏡の日付を全て暗記していた。今日、この食卓で、彼女...

「お母さんはもう、認知症です。施設へ入れて、この家は売りましょう。」

日曜の昼、家族全員が囲んだ食卓で、娘の夫の母・君江さんがそう言い放った。隣で娘の里美が箸を落とす。息子の巧は凍りつき、5歳の孫の蓮までが、大人たちの顔を不安そうに見比べていた。君江さんが呼んだ、もう一人の息子夫婦の姿もある。名指しされた「お母さん」とは、私のことだ。

親族の視線が私に集まる。かわいそうに、という目。やっぱり、という目。私は湯飲みをゆっくりと置き、君江さんの目を見て言った。

「なら、今ここで確かめましょうか。」

私は柴田さち子、68歳。亡くなった夫が残してくれたこの家で、娘夫婦と暮らしている。どうして私が、自分の家でボケ老人にされかけているのか。話は10ヶ月前に遡る。

3年前に夫を亡くしてから、この家には私と、2年前から同居を始めた娘夫婦、そして孫の蓮がいる。家も土地も、私の名義のままだ。君江さんは巧の母親にあたる。ご主人を2年前になくし、10ヶ月前のあの日、貸し付けを下げてうちへ来た。

「れん君のお世話を、私にも手伝わせてもらえないかしら。ほら、私も一人でしょ。」

少し痩せた肩で、君江さんは笑った。

「お家が見つかるまででいいの?」

里美は困った顔で私を見た。巧は畳に手をつくように頭を下げた。私は迷わなかった。

「いいですよ。うちにいらっしゃい。」

お母さん、即答? と蓮が目を丸くした。夫の母親のことで散々揉めていた娘には、意外だったらしい。

「年寄り同士、こともあるのよ。」

私はそれだけ言って、1階の和室を君江さんの部屋にした。

最初の一ヶ月、君江さんは良く働いた。蓮の送り迎えを買って出て、夕飯の支度も並んでしていた。里美は助かると喜び、巧も安心した顔をしていた。私は、その頃から変わらず夜寝る前に日記をつけている。夫が生きていた頃からだから、もう20年になる。その日あったこと、使ったお金を1円単位で家計簿に。万年筆のインクを変えながら、1日も欠かしたことがない。

変わり始めたのは、3ヶ月を過ぎた頃だった。

「さち子さんは奥にいてちょうだい。台所は私が仕切るから。」

気づけば、冷蔵庫の中身も調味料の置き場所も、君江さんの決めた通りになっていた。蓮の送り迎えも君江さんの仕事になり、私が行くと言えば「あらいのよ。おばあちゃんが2人も行ったら変でしょ」と拒まれた。洗い物を変わろうとした私に、君江さんは言った。

「1日中家にいて、家のことは全部私任せ。さち子さんって、まるでお客様ね。」

冗談の顔だったけれど、目は笑っていなかった。ここは私の家だ。喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。里美の前では、君江さんは別人のように優しい。「さち子さんと2人、仲良くやってますから」と。時々、当たり前のように言うこともあった。

「この家も、もう巧たちのものみたいなものでしょ。」

次は、お金だった。

「さち子さんの通帳、私が預かりましょうか? 最近の詐欺は手口が巧妙なんですって。」

「結構よ。自分のことは自分でできますから。」

私が断ると、君江さんは肩をすくめた。その数日後、台所で里美に囁く声を聞いた。

「里美さん、最近ね、さち子さんのお金の計算が怪しいのよ。あなたからは言いにくいでしょうから、私が見ておいてあげる。」

違うと割って入ることもできた。でも、証拠のない言い合いになれば、間に立たされるのは里美だ。娘は姑と実母の間で、どちらの顔も潰せない。私は黙って、その夜も家計簿をつけた。レシートの1枚まで貼って残した。

やがて、おかしなことが起き始めた。老眼鏡が消えた。3日探して、冷蔵庫の卵のケースの上から出てきた。

「やだ、さち子さん、冷蔵庫に眼鏡って。」

君江さんが大きな声で笑い、里美が困ったように笑った。消したはずの鍋の火がついていたこともある。買い物から戻った君江さんが「火がつきっぱなしだったわよ」と声を潜め、里美の顔から笑いが消えた。極めつけは、孫の蓮の迎えだった。

「今日はさち子さんの番だと伝えたはず」と君江さんは言ったが、私はそんな伝言を聞いていない。保育園で一人ぽつんと残っていた蓮に、私は何度も謝った。

「お母さん、最近疲れてるんじゃない? 一度、病院で見てもらう?」

里美の目に、心配と、それだけではない色が混じり始めていた。私自身も、自分が信じられなくなりかけていた。本当に私が忘れたのだろうか。

その夜、私は日記を開いた。鍋の日のページに、万年筆の字でこう書いてある。「10時20分、味噌汁の火を消す。ゴミ出しへ。」

私は消していた。時刻まで書いてあった。老眼鏡が消えた3回の日付も、全部書いてある。3回とも、里美と蓮が出かけて、家に私と君江さんだけが残った日だった。偶然にしては、揃いすぎている。

数日後、決定的なことが起きた。探していた郵便貯金の通帳を、君江さんが自分の部屋の茶箪笥へ、すっと差し入れるのを廊下の鏡越しに見てしまったのだ。

わざとだ。

全身の血の気が引いて、それから腹の底が静かに冷えていった。今すぐ叫ぶことはできた。でも、ボケたことにされかけている老人が「あの人が隠したのだ」と言えば、どう聞こえるか。被害妄想。その一言で、君江さんの筋書きは完成してしまう。里美は夫の母と実の母の間で、引き裂かれる。騒いだら負けるなら、静かに備えるだけだ。

翌日、私は係り付けの病院へ行った。ちょうど、毎年受けている検診の時期だった。

「先生、今年は少し詳しくお願いできますか? 物忘れの検査も。」

先生は軽減な顔一つせず、時間をかけて検査をしてくれた。結果は書面でもらった。「年相応、認知機能に問題なし」。検診の日付を確かめて、日記帳の間に挟んだ。日記と家計簿は、それまで以上に細かくつけた。日付、時刻、家に誰がいたか、1円単位の出入り。

商店街では、床下店の奥さんに声をかけられた。

「さち子さん、大丈夫? 君江さんがね、心配してらしたわよ。最近、物忘れがひどいんだって。」

外堀は、もう埋められ始めていた。私は「あら、ありがとう」とだけ返して、大根を一本買って帰った。

その夜、廊下の先の部屋から明かりと声が漏れていた。

「たく、あのね、さち子さんはもう限界だと思うの。施設の方がご本人のためよ。この家を売れば費用も出るし、蓮の学費だって、あなたたちのための話なのよ。」

巧の返事は、長い沈黙だった。実の母親に泣きながらああ言われて、すぐに突き離せる息子はいない。

数日後、君江さんは期限で言った。

「今度の日曜、みんなで食事会をしましょうよ。大事な話もあるし、お兄さんたち夫婦も呼ぶわ。」

舞台は揃った。そして、日曜が来た。食卓には恵方寿司の桶が並び、巧の兄夫婦が上座に座らされていた。君江さんは終始にこやかにお酌をして回り、デザートの梨が出たところで背筋を正した。

「今日はね、皆さんに大事なお話があるの。」

そして、あの宣言だった。

「さち子さんは、もう認知症です。施設へ入れて、この家は売りましょう。」

「母さん、何を言って…」腰を浮かせた巧を、君江さんは手のひらで制した。

「黙ってて。眼鏡を冷蔵庫にしまう。お鍋の火は消し忘れる。蓮のお迎えはすっぽかす。ご近所だってご存知よ。それにね、ご本人にも自覚があるの。先日、こっそり病院へ行かれたんだから。」

勝ち誇った顔だった。私は湯飲みを静かに置いた。

「なら、今ここで確かめましょうか。」

「何を確かめる必要があるのよ。」

「今日は8月10日、日曜日。蓮の保育園の月は2万6000円。先月の電気代は8420円。それからね、君江さん。」

私は君江さんの目を見た。

「老眼鏡が消えたのは6月9日、7月2日、7月23日。3回とも、家にいたのは私とあなたの2人だけ。見つかった場所は、冷蔵庫の卵のケースの上。おかしいわね。私、卵のケースには手を触らないのに。」

座敷が静寂に包まれた。私は日記帳と家計簿を開いて回し、最後に1枚の書面を君江さんの前へ置いた。

「そして、これがこっそり行った病院の結果。先生の所見です。『年相応、認知機能に問題なし』。」

君江さんの顔から、見る見る血の気が引いた。

「だって、そんな…お医者様だって間違えることくらい。」

「じゃあ、メガネはどうして3回とも、あなたと2人きりの日なの?」

「知らないわよ。私はただ、心配して…。そうよ、あなたたちのために、私がどれだけ…。」

言い訳が責任転嫁に変わっていく。その時だった。

「君江さん、もうやめてください。」

立ち上がったのは、それまで一言も発さなかった巧の兄の妻、典子さんだった。

「うちでも、同じことをなさったでしょう。私の指輪を隠して、私が疑われるように仕向けて、それで夫と大喧嘩になって、家を出て行かれたんです。孫の世話を手伝いに行くなんて嘘です。君江さんは、行くところがなかったんです。」

巧が呆然と母親を見た。

「母さん、兄さんの家を出たのは、こっちに呼ばれたからだって言ってたじゃないか。」

君江さんは畳に視線を落とし、絞り出すように言った。

「…仕方ないじゃない。私はただ、居場所が…。」

「知ってましたよ。」

私が言うと、君江さんは弾かれたように顔を上げた。

「あなたがうちへ来る少し前、典子さんからお電話をいただいたの。君江さんがそちらへ伺うかもしれません。うちで会ったことはお恥ずかしくて詳しくは言えませんが、どうか…って。事情までは聞かなかった。でもね、あなたに行き場がないことだけは、分かっていました。」

里美が息を飲んだ。

「お母さんが即答だったのは、それで…。」

「そう。だから孫の世話という話に乗ってあげたの。その方が、あなたのメンツが立つでしょう。年寄りが沽券をなくす辛さくらい、私にも分かるもの。」

典子さんが目を伏せた。

「私があの時、ちゃんとお話ししていれば…。」

「聞いていたとしても、私は迎えたと思うわ。」

君江さんの肩が、小さく震え始めた。見下していた相手に、最初から手のひらで転がされていた。その事実が、どんな恥辱よりも深く刺さったのだろう。

「でもね、君江さん。」

私は初めて、声に力を込めた。

「あなたは私の家で、私をボケ老人に仕立てて、この家を売ろうとした。それだけは、なかったことにはできません。」

長い沈黙の後、口を開いたのは巧だった。

「母さん、この家を出るのは、里美のお母さんじゃない。母さんだ。」

静かで、動かない声だった。君江さんは、もう言い返さなかった。

1週間後、君江さんは家を出た。巧が、見守りのついた高齢者向けの住まいを探し、当面の費用も持った。

「会いに行くのは、俺1人にします。この家には、もう玄関先で。」

玄関先で、君江さんは深く頭を下げた。

「お世話になりました。」

「お元気で。」

私は、それだけ返した。許すとは言わなかった。それでいいのだと思っている。

数週間が経った朝、縁側で家計簿をつけていると、里美が湯飲みを2つ運んできた。

「お母さん、今夜は何が食べたい?」

「バーバ、あのね、今日ね…。」

蓮が私の膝を叩く。遺恨なんて、どこにもない。私は今日も、この家の主として一日を書き留める。

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