母の葬儀の日、私は祭壇に飾られた遺影を見ながら、何度目か分からない涙を拭った。
母は長い闘病の末に息を引き取った。覚悟はしていた。それでも、もう声を聞けないと思うと胸が締めつけられる。
そんな葬儀の途中、ポケットのスマホが震えた。一度、二度、三度。画面に表示された名前は夫のかずやだった。
朝から姿が見えなかったので、事故でもあったのかと思い、私は会場の外へ出た。
「もしもし、かずや? 今どこに?」
「いつまでサボってるんだよ。」
耳を疑った。
「え、知ってるだろう。母さんの親戚が集まってるんだ。みんな待ってるから、今すぐ来い。」
「今日は私の母の葬儀よ。」
するとかずやは、面倒そうに言った。
「お前の親の葬儀とか知るかよ。親戚付き合いは嫁の仕事だろ。」
私は目を閉じた。母のために流していた涙が、その瞬間だけ止まった。
「わかりました。だったら早く。」
私は電話を切り、家を振り返った。
お母さん、少しだけ待っててね。もう我慢する理由はありませんでした。
私の名前は千春、54歳。夫のかずやは57歳。私たちは3年前に再婚した。
私はコールセンターで管理職をしている。かずやは市役所勤務。知人の紹介で出会った時は、穏やかで、人の話をよく聞く男性だった。
母が病気だと話すと、「会える時にできるだけ会ってあげた方がいい」と言ってくれた。母も安心していた。「千春にも、これから一緒に歩く人ができたのね。」その言葉が嬉しくて、私はかずやとの結婚を決めた。
ただ一つ、条件があった。かずやの実家の近くへの引っ越し。夫の父親・秋夫さんが農家をしているため、時々手伝いたいという理由だった。私は了承した。時々なら問題ないと思ったからだ。
ところが、新居へ引っ越したその日、チャイムが鳴った。立っていたのは義母の正子。
「ちょっと、家の中見せてもらうわね。」
返事をする前に、正子は入ってきた。キッチン、風呂、トイレ。まるで検査でもするように部屋中を見て回る。
そして突然、「土日は農作業をお願いね。」
「え?」
「かずやは平日働いて疲れてるでしょう。私も働いてますけど。」
すると正子の顔から笑顔が消えた。
「コールセンターでしょ? 市役所勤務のかずやと同じだと思わないでよ。」
私は言葉を失った。
「家事もあなた、畑もあなた。嫁なんだから当然でしょう。」
その夜、私はかずやに話した。
「お母さんから、家事も農作業も全部やれって言われたの。」
当然、止めてくれると思っていた。ところが。
「俺も母さんに賛成だけど。」
一瞬、聞き間違えたと思った。
「夫婦で分担するって話してたでしょ。」
「そんな細かいこと、いちいち覚えてないよ。」
「細かいこと?」
「千春の方が融通の聞く仕事なんだから、やってくれればいいだろう。」
そして最後に、「母さんのこと悪く言わないでくれないか。」
私はその時、初めて気づいた。結婚したのは穏やかな大人の男性ではない。母親の言うことなら何でも正しいと思っている、57歳の息子だったのだ。
そこからの日々は、想像以上だった。正子は突然家へ来て、「今日はかずやの好きなビーフシチューにして」「明日は畑をお願い」「アイロンが甘いわよ」と指図する。そして夫のかずやは「母さんの言う通りにしろよ」それだけ。
ある週末には、正子とかずやだけで温泉旅行へ行った。出発前、正子は笑顔で言った。
「私たちがいない間、畑お願いね。」
私は思わず聞き返した。
「かずやは旅行よ。農作業を手伝うためにここへ住むって話でしたよね。」
正子は肩をすくめた。
「息子には休ませてあげないと。」
二人が旅行へ行き、私は一人で義実家へ向かった。畑にいたのは義父の秋夫さん。秋夫さんは私を見るなり顔を曇らせた。
「千春さんかい? なんで君が来るんだ?」
事情を話すと、秋夫さんは深いため息をついた。
「本当に申し訳ない。」
秋夫さんだけはいつも私を気遣ってくれた。
「お母さんの具合はよくありません。先生からも覚悟してくださいと言われています。」
「そうか。」
しばらく黙った後、秋夫さんが言った。
「千春さん、実は君に聞いて欲しいものがある。」
秋夫さんが取り出したのはスマホだった。流れてきたのは、かずやと正子の声。
「千春さんのお母さん、そろそろ亡くなるんでしょ?」
義母の正子だった。続いてかずやが、「医者からは長くないって聞いてる。」
「じゃあ、遺産もたっぷり入るわね。」
私は息を止めた。
「千春さん、一人なんでしょ? 親父さんと千春に入るんじゃないかな。」
「あなたは夫なんだから、そのお金で家を立て直してもらえばいいじゃない。」
かずやが笑った。
「それもいいな。母さんの部屋も作れるし。」
二人は笑っていた。私の母がまだ生きているのに。亡くなった後のお金を、もう自分たちのものとして話していたのだ。
「夜中に偶然聞いたんだ。」
秋夫さんは頭を下げた。
「すまない。俺は家族として、あの二人を止められなかった。」
「お父さんが謝ることではありません。」
「千春さん。」
秋夫さんはまっすぐ私を見た。
「君の好きなようにしていい。俺も協力する。」
その一ヶ月後、母は亡くなった。かずやには前日の夜に伝えた。
「明日は母の葬儀だから。」
「ああ、確かに。」
家族のグループメッセージにも「母が亡くなりました」と送った。かずや、正子、秋夫さん。三人全員に既読がついた。
それなのに、葬儀当日、かずやと正子は来なかった。
そして冒頭の電話だ。「親の葬儀とか知るかよ。」
葬儀が一段落した頃、私は葬儀場にいる父に言った。
「お父さん、少しだけ言ってくるね。」
父は何も聞かなかった。「言っておいで。」その一言だけ。
玄関を出ると、秋夫さんが待っていた。
「俺も行く。」
私たちは喪服のまま車に乗った。着いたのは正子の妹の家。中から笑い声が聞こえている。
玄関を開けると、かずやが不機嫌そうに言った。
「遅いぞ。」
そして、私の服装を見て顔をしかめた。
「なんで喪服なんだよ。」
私は静かに答えた。
「母の葬儀から来たからよ。」
親戚たちの笑い声が止まった。
「え、今日お母さんのお葬式だったの?」
すると正子が慌てた。
「千春さんのお母様、亡くなったの? 知らなかったわ。」
私はスマホを出した。家族のメッセージ画面。「母が亡くなりました。」その下には、三人分の既読。
「お母さん、ちゃんと読んでますよね。」
親戚たちの視線が一斉に正子へ向いた。
「これはそれにかずや。昨日、明日は葬儀だって直接話したよね。」
かずやは目をそらした。
「忘れてただけだよ。」
「忘れた? 親戚の集まりが急に決まったんだ。」
私は笑ってしまった。
「それで、私の母の葬儀よりこっちを選んだの。」
「大げさにするなよ。」
かずやが声を荒げた。
「葬式なんて、千春がいれば十分だろ。」
その瞬間、もういい、と低い声が響いた。秋夫さんだった。普段ほとんど怒らない人だ。
「お前たちは、どこまで恥をさらせば気が済むんだ。」
正子が叫ぶ。
「あなたは黙ってて。」
「お前が黙れ。」
秋夫さんはスマホを取り出した。
「この前の会話は、みんなにも聞いてもらう。」
正子の顔色が変わった。
「やめなさい。」
録音が流れる。
「じゃあ、遺産もたっぷり入るわね。」
「そのお金で家を立て直してもらえばいい。」
「母さんの部屋も作れるし。」
部屋が静まり返った。誰も笑っていない。親戚の一人がつぶやいた。
「まだ生きてる人の遺産の話をしてたの?」
かずやが慌てた。
「冗談だよ。」
私は首を振った。私は笑えなかった。母が苦しんでいる間、私は一日でも長く生きて欲しいと願ってた。その横で、あなたたちは亡くなった後のお金を楽しみにしてたのよ。
かずやは黙った。
秋夫さんが言った。
「正子、俺は離婚する。」
今度こそ、正子の顔から血の気が引いた。
「は?」
「もう十分だ。」
「待ってよ。私、ずっと専業主婦だったのよ。」
秋夫さんは静かに答えた。
「大好きなかずやに養ってもらえばいい。」
そして、私はバッグから一枚の紙を出した。離婚届。
「かずや。」
「なんだよ。」
「私も離婚します。」
「ちょっと待てよ。」
急にかずやの声が弱くなった。
「俺は母さんに言われただけなんだ。」
私はかずやを見た。
「57歳でしょ。いつまでお母さんのせいにするの?」
それ以上、言葉は必要なかった。
私は誰の目も見ずに家を出て、母の葬儀へ戻った。そして祭壇の前に座り、遺影を見つめる。
「ただいま、お母さん。」
その日、私は母を失った。同時に、間違えて選んだ家族とも別れる決心をした。
数ヶ月後、かずやとの離婚は成立。私は以前住んでいた町へ戻り、仕事も続けている。秋夫さんも正子との離婚を進め、時々連絡をくれる。そして週末には、私の父と食事をするようになった。
先日、母の写真の前に、母が好きだった花を飾った。写真の母は、昔と変わらず笑っている。
生前、母は何度も言った。「千春が幸せなら、お母さんはそれでいいの。」私はずっと、結婚していることが母を安心させることだと思っていた。でも、違ったのかもしれない。我慢して自分を粗末にしてまで守るべき家族なんてない。
お母さん、私は写真に向かって小さく笑った。
「今度はちゃんと自分を大切にするね。」
母の返事はもう聞こえない。それでもその日は、少しだけ。「それでいいのよ。」そう言ってくれたような気がした。



