昼休みに、突然夫から電話がかかってきた。
「会社で面倒なことが起きてさ。部下が大きなミスをして、俺まで責任を取らされそうなんだ。今日はかなりイライラしてる。いつものところで会って、少しストレスを発散したいんだ」
夫の声は、家で私に話すときよりずっと甘かった。私はスマホを握りしめたまま、静かに言った。
「夕方6時でどうだ?食事は後で適当に」
「……あなた、今、誰に電話したつもりだったの?」
電話の向こうが一瞬で静まり返った。
「え?」
夫の声が裏返った。しばらく沈黙したあと、急に笑い出した。
「なんだ、お前か。今のは冗談だよ。同僚を驚かせようと思って、電話をかけ間違えただけだ」
「同僚と“いつものところ”であって、ストレスを発散するの?」
「だから冗談だって言ってるだろう。忙しいから切るぞ」
夫は逃げるように電話を切った。
私はさち子、64歳。食品会社の経理部で働いている。夫の高一とは結婚して38年になる。一人息子の直樹はすでに独立し、少し離れた町で暮らしている。
私たちは共働きだったが、料理も洗濯も子育ても、ほとんど私の役目だった。夫は仕事から帰ると、食事ができるまでテレビを見ていた。少しの不満はあった。それでも給料は家に入れていたし、息子が成人するまでは、離婚を考えるほどではなかった。
夫婦の関係が変わり始めたのは、息子が大学を卒業して就職した頃だった。
私は会社から「経理部長を任せたい」と言われた。責任は重くなったが、給与も大きく上がった。その話をすると、夫は自分ことのように喜んでくれた。
「すごいじゃないか。これで老後も安心だな」
その夜は久しぶりに二人で外食をした。私はこれから夫婦の時間を取り戻せると思っていた。
ところが数年後、夫が突然言い出した。
「これから金は別々に管理しないか?」
「どうして?」
「息子も独立したんだ。生活費だけ同じ額を出して、残りは自分で好きに使えばいい」
私の収入が年々増えていくのが面白くなかったのかもしれない。それでもお金で揉めるよりはいいと思い、私は了承した。
それから私たちは決まった生活費だけを共有口座へ入れ、残りを各自で管理した。最初は気楽だったが、お金と一緒に時間まで別々になっていった。夫は休日になると一人で出かけ、私は友人と食事をしたり、一人で買い物をしたりした。旅行に行くこともなくなり、外食も別。冷蔵庫には夫用と私用の食材が並んだ。
同じ家に住んでいるのに、私たちは夫婦ではなく、生活費を出し合う同居人のようになっていた。
そんな日々の中、昼休みに夫が怪しい電話をしてきたのだ。
夫は不倫をしている。そう考える以外にありませんでした。
ですが、私は夫を問い詰めなかった。息子はもう独立している。お金も時間も別々。夫が自分の人生を好きにするなら、私も好きに生きればいい。そう思ったからだ。
ただ、電話の後、夫は急に私と夕食を食べるようになった。
「今日は俺も家で食べるよ」「今度の休みにどこかへ出かけるか」
不倫がバレたかもしれないと思ったのだろう。あの電話は一度きりの謝りだったのかもしれない。そう思った。
が、半年もすると、夫はまた休日に出かけ、私たちは元の暮らしへ戻った。
それから数年後、郵便受けに聞いたことのない金融会社から夫宛の封筒が届いた。私は開封せず、そのまま夫へ渡した。
「こんな会社から手紙が来ていたわよ」
封筒を見た夫の顔が、一瞬だけ引きつった。
「俺は知らない」
「でも、あなたの名前が書いてあるわ」
「広告だろ。捨てておいてくれ」
夫は封筒をテーブルに置き、そのまま風呂へ入った。
「捨てろ」と言われたのに、なぜか気になった。あの電話が頭に浮かんだからだ。
私は封筒を開けた。
そこには、300万円の借入残高と返済期限の案内が書かれていた。
私はすぐに書類を元に戻した。その時も夫を問い詰めなかった。夫にも貯金がある。定年まではまだ時間もある。返済計画くらい立てているはず。この人はそこまで愚かではない。私はそう信じようとした。
ただ、何に300万円も使ったのか。その疑問だけは消えなかった。
私は念のため、預金や保険、家の登記を確認した。家は共有名義だったが、頭金は私の独身時代の貯金からだし、ローンも私が多く負担していた。私の老後まで夫に巻き込ませるつもりはなかった。
そして、私と夫の定年が一年後に迫った頃、珍しく夫が夕食の席で老後の話を始めた。
「退職金が入ったら、お金は一つの通帳にまとめよう」
私は箸を止めた。
「どうして?お金を別々にしようと言ったのは、あなたでしょ?」
「老後は別だろ。夫婦で協力しないと暮らせない」
夫は続けた。
「この家も売ろう。二人で住むには広すぎる。郊外の小さなマンションに移れば、売却代金も残るだろう」
「私はこの家で暮らしたいわ」
「古い家にこだわる必要はない。退職金と売却代金を一緒にすれば、安心して暮らせる」
「安心して暮らせる」——そういう夫の声は、なぜか焦っていた。
これまで老後の計画など一度も話さなかった人だ。旅行の相談さえしなかった夫が、なぜ急に私の退職金と家の売却代金を一つにまとめたがるのか。あの不倫は終わったのか。300万円の借金は返したのか。それとも借金はさらに増えているのか。
考えたくなかった答えが、一つにつながった。
私は探偵事務所へ調査を依頼した。疑いが間違いなら、長年のモヤモヤも消える。そして結果が出るまでに、時間はかからなかった。
夫は今も、あの電話の相手と思われる女性と会っていた。つまり、ずっと不倫していた。さらに、その関係は10年以上続いており、毎月のように金を渡していた。借入先も一社ではなく、残っている借金は確認できただけでも500万円近くあった。
さらに、二人は郊外のマンションを内覧していた。
夫が売ろうとしていたのは、夫婦の家。まとめようとしていたのは、私の退職金。その金で始めるのは私との老後ではなく、不倫相手との新しい生活だった。
数日後、私は夫と向き合った。
「退職金は一緒にしないわ。家も売りません」
夫の顔が険しくなった。
「何を勝手なことを言っているんだ。夫婦の財産だぞ」
「そもそも別々にしようと言ったのは、あなたでしょ」
「だったら離婚だ」
夫はテーブルを叩いた。
「息子を大学まで出せたのも、俺が働いたからだ。この家だって俺の家だ。売って半分ずつにしてもう二度と会わなければいい」
私は静かに聞いた。
「本当に離婚でいいのね」
「ああ、お前みたいな金に細かい女とはもう暮らせない」
私は用意していた封筒を夫の前へ置いた。中には、夫と女性がマンションを見ている写真と調査報告書が入っていた。
「あなた、まだ不倫しているわよね」
夫の顔から血の気が引いた。
「これは昔の知り合いだ」
「先週も会っているわよね」
「昔のことを今更持ち出すなよ」
「借金も知っているわ。最初に見つけた300万円だけではないでしょ」
夫は黙り込んだ。
私は夫の目を見て尋ねた。
「私の退職金と家の売却代金、どちらを借金返済に使って、どちらをあの人との新生活に使うつもりだったの?」
夫は何も答えられなかった。
「離婚と言い出したのは、あなたですからね」
「待ってくれ。少し考え直そう」
先ほどまで怒鳴っていた夫が、急に声を弱めた。
「悪かった。もう会わない。借金も自分で返すから」
「信用できないわ」
私は席を立った。
「慰謝料を請求します。家についても、あなたの持ち分を手放してもらう方向で弁護士と話を進めます」
「さち子、俺たちは夫婦だろ」
「お金を分けた時から、あなたは私を妻として扱っていなかった。それなのに借金を返す時だけ、夫婦に戻ろうとしたのね」
夫は何度も謝ったが、私は許さなかった。
その後、弁護士を通して離婚が成立した。ローンを私が多く負担していた記録や、夫の不倫と借金の事情もあり、夫は家の持ち分を手放し、慰謝料を支払うことになった。
不倫相手は夫に多額の借金があると知ると、すぐに別れたそうだ。夫は小さな部屋を借り、借金を返すため定年後も働き続けている。
離婚から二年後、息子の直樹が結婚した。お嫁さんと生まれたばかりの孫を連れて、この家で一緒に暮らしたいと言ってくれた。
「母さんが嫌じゃなければだけど」
「嫌なわけないでしょう」
かつて売ろうとした家に、今は家族の笑い声が響いている。
ある日、食卓で私は言った。
「今度、みんなで旅行に行かない?」
孫を抱いたお嫁さんが嬉しそうに言った。
「お母さんの行きたい場所にしましょう」
息子も頷いてくれた。
「母さん、慰謝料が入ったからって全部使うなよ」
「分かってるわよ。でも少し楽しいことに使ってもいいでしょ」
私は笑いながら旅行のパンフレットを広げた。
夫が奪おうとしたのは、退職金でも家でもない。私がこれから過ごすはずだった穏やかな老後そのものだった。けれど、私は自分の人生を手放さなかった。
今の私が手に入れたものは、慰謝料でもこの家でもない。誰と、どこで、どう生きるのか。それを自分で選べる自由だ。



