片親育ちのボロ店はキャンセルで——その言葉が、さやの人生を一瞬で凍らせた。乱暴に開かれた引き戸から、強烈な香水の匂いが、せっかくの出汁の香りをかき消した。
派手なスーツを着た若い男、日川かけるが、にやにやしながら店内を見回す。後ろには、白髪交じりの年配の男――劇場ワークス社長の絡師が立っていた。
「まあ、主さんよ。同窓会なんて最初から嘘だよ。お前の店が潰れそうかどうか、確かめたかっただけだ」
さやの目の前には、心を込めて仕込んだ二十人分の料理が並んでいた。誰も食べないまま、湯気だけが静かに消えていく。
これは、一人の若い女性と、彼女を守る祖父の物語。笑った者が最後に笑う——その結末を知る者は、まだ誰もいなかった。
—
三年前、さやの両親は交通事故で突然この世を去った。二十四歳になった今も、さやは下町の小さな食堂「朝切り食堂」を一人で切り盛りしていた。薄暗い路地の奥にある、木の暖かさが残る店。カウンターの隅には、父が彫った小さな桜の花が刻まれている。
「おじいちゃん、今日も早いね」
朝の支度をしながら、さやは祖父の影トラに声をかけた。七十二歳になる影トラは、いつものようにカウンターの隅の席に腰を下ろす。
「今日もいい匂いがしとるな」
「川越の豆腐から取り寄せた赤だしよ。ふんわり甘くて、おじいちゃん好きでしょ」
「お前の味噌汁は毎朝わしの楽しみだ」
さやは、両親が残してくれたこの店を守ると決めていた。誰の助けも借りずに。それは、彼女の誇りだった。
引き戸が軽やかに開き、高校時代からの親友、しおりが顔を出す。
「おはよう、さや。今日もちゃんと食べに来たよ」
「いつもありがとう。今朝はサバの味噌煮もあるよ」
「やった!さやのサバ味噌、世界一だもん」
二人の笑い声が、朝の店に響く。影トラは、孫の笑顔を見ながら、そっと湯飲みを口に運んだ。少なくとも、この日までは――すべてが、穏やかだった。
—
その日、店の電話が鳴った。
「はい、朝切り食堂です」
「ああ、もしもし。覚えてるかな?同じクラスだった日川だけど」
さやの手が止まった。日川かける。高校時代の同級生。しかし、さやにとっては苦い記憶しかない相手だった。彼は、さやのことを「残パ弁当の貧乏娘」と笑いものにしていた男だ。
「いや、さやが食堂やってるって聞いてさ、来月同窓会やろうって話になって。二十人くらいで。お前の店を貸し切りで使えないかな?」
「同窓会……?」
「うん。地元の店だし、安く貸し切れるかと思ってさ」
さやは迷いながらも承諾した。――苦い記憶が蘇る。高校の教室。昼休み。さやが弁当箱を開けると、いつものように笑い声が起きた。
「うわ、何それ?残パ。朝切り毎日それ食ってんの?」
「まあ、片親育ちじゃな。貧乏ったらありゃしない」
さやは俯いたまま、何も言えなかった。そこへ、しおりが立ち上がった。
「さや、私もそっち行っていい?さやの卵焼き、一口もらっていい?」
「……いいよ」
しおりはさやの卵焼きを箸でつまみ、満面の笑みで頬張った。
「やっぱり美味しい。朝切り食堂の卵焼き、世界一なんだもん」
日川はそれでも嘲笑うのをやめなかった。
「はあ、底辺同士、勝手にやってろよ」
――あれから八年。日川からの電話が、過去を呼び覚ました。それでも、さやは「みんな大人になったはずだ」と信じたかった。
「分かった。受けるよ」
「マジで?ありがとう。じゃあ来月の第三金曜日、十九時から。金額とか特別メニューとか、いろいろ任せるわ」
電話が切れる。さやは受話器を置き、その手を見つめた。わずかに震えていた。
その日から、さやは準備に没頭した。普段は出さない高価な食材を思い切って仕入れ、二十人分のコース料理を一品ずつ心を込めて作り上げた。地元の豆腐屋から木綿豆腐を取り寄せ、馴染みの魚屋には油の乗った金目鯛を頼んだ。久しぶりに会えるみんなの顔を思い浮かべながら。
—
同窓会当日。朝切り食堂は、朝から特別な空気に包まれていた。さやは夜明け前から立ち、仕込みを終えた。店は隅々まで磨き上げられ、テーブルには真新しい花が生けられた。二十人分の料理が、カウンターに並ぶ。
午後三時、しおりが慌てた顔で店に飛び込んできた。
「さや、ちょっと話があるんだけど……」
「どうしたの?」
「あのね、念のため他の同級生たちに聞いて回ったの。今日の同窓会、ちゃんと連絡来てるかって。……誰も連絡受けてないって。他のクラスだった子にも聞いたけど、全員『同窓会?何それ』って」
さやの手から、布巾が落ちた。
「でも……日川君は、一週間前に確認したら、大丈夫って……」
「さや、もう一度日川君に電話して確認したほうがいい」
さやは震える手で携帯を握り、日川に電話をかけた。何度コールしても、出ない。何度かけても、出ない。さやは自分に言い聞かせるように、もう一度味噌汁の鍋に向き直った。その背中は、わずかに震えていた。
カウンターの隅で、影トラは黙って茶を飲んでいた。その目だけは、店の入口をじっと見据えている。
十八時。誰も来ない。十八時半。誰も来ない。十九時。
ようやく引き戸の前に人影が見えた。さやは弾かれたように顔を上げる。引き戸が乱暴に開けられた。香水の匂いが出汁の香りをかき消す。入ってきたのは、日川かける、たった一人だった。
「日川君……みんなは?」
「ああ、それなんだけどさ。わざわざ報告に来てやったんだよ。えっとね、急だけどさ――片親育ちのボロ店はキャンセルで」
さやの顔が、青ざめていく。
「え……でも、二十人って……」
「ああ、二十人とか嘘。最初からお前の店なんて、そんなレベルじゃねえし。同窓会なんて、最初からやる気なかったんだよね。ちょっとお前の店が潰れそうかどうか、確かめたかっただけ」
日川は、楽しそうに笑う。
「じゃあな、主さん。せいぜい頑張って」
引き戸が乱暴に閉まる。日川の笑い声が、路地の向こうへ消えていった。
店の中は、しんと静まり返った。カウンターには、誰にも食べられることのない二十人分の料理が並んでいる。湯が、まだほのかに立ちのぼっていた。さやは何も言わず、ただ立ち尽くしていた。やがて、その頬を一筋の涙が伝った。
「……あいつ、最低」
しおりが、そっとさやの背中に手を添えた。
「さやのせいじゃない。あいつがずっとああいう奴なのよ」
「……なんで私、気づかなかったんだろう」
「ごめん、しおり。私……今日のキャンセルのことも、昔のことも、ちゃんと自分で乗り越えるから」
その時、カウンターの隅で影トラが初めて口を開いた。
「……さや。お前、そんな目に遭っとったのか」
「おじいちゃん、心配しないで。お父さんとお母さんが残してくれたこの店、私の手でちゃんと守るって決めたの。だから、誰かに助けてもらおうなんて思ってない」
影トラは、何も返さなかった。ただ黙って、孫の顔を見つめていた。シの奥の目に、深い影が落ちる。――知らぬところで、孫はたった一人で、これだけのものを抱えていたのか。
—
その夜から三日が過ぎた。さやはいつも通り店を開けていたが、目の下には薄い隈ができていた。仕入れた二十人分の食材は、結局半分も使い切れずに傷んでしまった。それでも、さやは朝になれば鍋を火にかけた。両親が残したこの店を、止めるわけにはいかなかったから。
ある日、しおりが心配そうにさやを見つめていた。
「無理してない?」
「うん、大丈夫。ちょっと眠れなかっただけ。それよりしおり、仕事は?」
「……なんか胸騒ぎがするの。あいつ、まだ何か仕掛けてくる気がして」
その時、引き戸が乱暴に開けられた。あの香水の匂いが、また店の中に流れ込む。日川かけるが、後ろに年配の男を連れて立っていた。
「日川君……今度は何の用?」
「ああ、今日は別件で来たの。社長、こちらです」
日川の後ろから、白髪混じりの小柄な年配の男――絡師が、ゆっくりと姿を現した。腕を組み、店内を品定めするように見回す。
「担当直入に話そう、主さん。この一体を再開発する計画でな。新しい商業ビルを立てる。あんたの店も、そのうち立ち退きになる。早めに決断したほうが、お互いのためだ」
「お断りします。この店は、両親が残してくれた大切な場所です」
「ほお、強気だな。だが主さん、悪いことは言わん。ここの日川君から、店の状況があまり良くないと聞いている。客足が減って、仕入れも苦しい。一人で切り盛りするのも限界だろう?今が決断の潮時というやつだ」
さやは、はっとして日川を見た。日川は悪びれもせずににやりと笑う。
「ねえ。もう諦めなって。残パ弁当を持ってた頃から考えたら上がでしょ。金もらって楽になりなよ」
その瞬間、さやの中で何かが吹っ切れた。
「――絡師さんとおっしゃいましたね。土地の話の前に、こちらからもお話があります」
「ほう?」
「先日、こちらの日川さんがうちの店で同窓会の予約をされました。二十人分、貸し切りでです。私はそれを信じて特別な食材を仕入れ、コース料理を仕込みました。ところが当日になってドタキャン。しかも同窓会そのものが最初から嘘だったとおっしゃる。賠償請求をさせていただきます。二十人分の食材費、調理代、貸し切り時間の機会損失。合計で十万円です」
「そうですよ!一方的に迷惑をかけておいて、何を言ってるんですか!」
しおりが、さやに追随して立ち上がった。
「ほお、十万円か」
絡師は視線をゆっくりと日川に向けた。
「日川君、お前本当にそんな予約を入れたのか?」
「社長、違うんです!ちょっと店内を見させてもらうのに、公で同窓会って言っただけで、本気で予約なんてしてないですよ!」
「日川君、嘘を言わないで。証人もいます。……そうだよね、おじいちゃん?」
カウンターの隅で、影トラが静かに頷いた。しおりも「確かに聞いたわ」と言い切る。
「はあ。身内の証言なんて、証拠になるわけないでしょ」
絡師はしばらく日川の顔を見ていた。やがて、ふっと鼻で笑い、さやに向き直る。
「主さん。こちらにも顧問弁護士団がいる。素人の店主が大企業相手に勝てる相手じゃないですよね」
「社長、マジ受ける。ボロ店が大企業相手に裁判する金もないだろうし」
「ちょっと待ってください!こんな筋の通らない話、聞いたことない!」
「ああ、出た出た。お友達ごっこやめなよ。いい大人が。一生底辺でお友達ごっこか?あんた、まだ昔と同じこと言ってるの?」
「お嬢さん、客なら客らしく黙っていてもらおうか」
――カウンターの隅で、影トラの湯飲みを持つ手がぴたりと止まった。その目が、絡師の方をじっと見据えている。シの奥にともる光は、もはやただの隠居老人のものではなかった。
「まあ考えておきなさい。次は、もっと正式な形で来る」
二人は笑いながら店を出ていった。引き戸が乱暴に閉まる。
さやは、震える手をカウンターに付き、それでも崩れなかった。しおりが、その頬にそっと手を置く。
「……よく言ったよ、さや。私、絶対に許さない」
「お父さんとお母さんの店を、絶対に手放さない」
さやの目には、もう涙はなかった。代わりに、強い光が宿っていた。
カウンターの隅で、影トラが静かに湯飲みを置いた。孫は自分の足で立っている。あの目は、もう祖父の助けを必要としていない目だ。――だが、影トラはゆっくりと立ち上がった。
「ごちそうさん」
「あ、おじいちゃん。また明日ね」
「うん、また来る」
影トラは静かに頭を下げ、店を出ていった。――これはもう、孫一人の問題ではなくなった。
—
路地の角で、影トラはゆっくりと立ち止まった。そして、内ポケットの携帯電話にそっと指を当てた。
「ああ、わしだが。……浜木商事の張り詰めた声が答えた」
「劇場ワークスの取引履歴、五年分。それと、あの会社が進めている下町商業地区の再開発計画。土地の権利者リスト、買収提示価格。全部だ。明日の朝までに揃えてくれ」
電話の向こうで、専務が息を飲む音がした。
「もう一つ。劇場ワークスとの来年度契約、条件を全面的に見直す。専務名義で通告書を送法先に発送してくれ。理由は、取引先に対する重大な違義だ。――先方は、わしの孫の店を潰しにかかっている」
電話の向こうで、専務が息を吸い込む音がした。影トラは静かに続けた。
「人を見下すものと、長く付き合えん。それだけのことだ」
携帯をパチンと閉じ、影トラは空を見上げた。夕やけが、雲の縁を金色に染めている。
—
その同じ夕暮れ、さやは一人で店の中に立っていた。エプロンを外し、磨き上げた木のカウンターをもう一度丁寧に拭いていく。その手が、ふとカウンターの隅で止まる。――父が彫った、小さな桜の花。さやの指が、その花の輪郭をそっとなぞった。
「お母さん……」
まぶたの裏に、幼い日の記憶がゆっくりと滲み出てくる。幼いさやが母の隣で、湯気の立つ鍋を見上げている。母は味噌汁を一口含むと、満足そうに頷いた。
「さや、ねえ。知ってる?食堂ってね、ただ料理を出す場所じゃないのよ」
「じゃあ、何?」
「食堂はね、人の心を温める場所。お客様が一日の疲れを忘れて、明日もう一度頑張ろうって思える場所。お母さんは、そういう場所にしたくて、ここに立ってるの」
「じゃあさやも、そういうお店をやる」
母は笑って、さやの頭を撫でた。
「……お母さん。私、忘れてないよ。一度も忘れたことなんてない」
さやの頬を一筋の涙が伝う。けれど、その目はもう揺らがなかった。
「お父さん、お母さん。私、この店を絶対に守る。ここは、お母さんやお客さんたちとの大事な場所だから」
カウンターの桜の花が、夕暮れの光の中で静かにさやを見守っていた。
—
それから五日が過ぎた。ある日、引き戸が乱暴に開けられた。あの香水の匂いが、また店の中に流れ込む。日川かけると絡師、今日は二人だけだった。
「主さん、話を決断してもらおうか」
「お断りします。何度言われても、答えは同じです」
「豪気だな。だがこちらも譲れん。この一体の再開発は、もう動き始めている」
さやは深く息を吸い、そしてゆっくりと絡師の目を見据えた。
「ここは母と父が二人で築いた店です。この店は、どれだけお金を積まれても手放しません」
「そうよ!こんな筋の通らない話、認められるわけがない!」
しおりも、さやに火がつくように言い放った。
「マジ受けるわ。思い出の店だかなんだか知らないけど、こんなボロ屋、潰れて当然なのに」
「まあ、主さんが頑張っても、客足は遠のく一方だ。SNSの悪評も、まだまだ続くだろうしな」
――さやの表情が、固まった。SNSの悪評。確かに、ここ最近「朝切り食堂」の悪いレビューが増えていたのを思い出した。
「まさか……あなたたちの仕業なの?」
「いがかりはやめてくれませんか?」
「それでも……私はこの店を手放しません」
その時、カウンターの隅で影トラが湯飲みを静かに置いた。陶器が木のカウンターに触れる、その音だけが店の中に響いた。さやとしおりが、同時に影トラの方を見る。今まで静止していた影トラが、ゆっくりと立ち上がり、静かに口を開いた。
「――そこまでにしておいたらどうだね」
「おじいちゃん?」
「なんだ、じいさん。関係ないものは黙ってろ」
「マジ受けるわ。じいさんがしゃしゃってんなよ」
影トラはゆっくりと絡師の前まで歩み出た。さやは息を飲んで、その背中を見つめた。いつもの優しい祖父の背中とは、どこか違って見えた。
「うん。まだ悪態をつくか。――では、契約廃棄で」
「は?契約?何の話だ?」
「へ?何言ってんの?このじいさん、マジ意味不明なんだけど。認知症かよ?」
日川はこらえきれずに吹き出し、絡師も鼻で笑う。
「おじいちゃん……」
さやが影トラのそばに歩み寄ろうとした。影トラは何も言わなかった。ただゆっくりと内ポケットに手を入れ、一枚の名刺を取り出した。
「わざわざ、名刺などいりませんよ」
絡師は鼻で笑いながら、鬱陶しそうに名刺を受け取った。そして、目を落とす。――その瞬間、絡師の指がびくりと跳ねた。
「ああ……………………」
名刺には、こう刻まれていた。
**「浜木商事 代表取締役会長 木影トラ」**
絡師の顔が一気に青ざめていく。名刺を持つ指が、激しく震え始めた。
「浜木商事の……御会長を……」
「浜木商事って……あの浜木商事!?」
しおりは、業界で働く者として、その名前の意味をよく知っていた。現在流通を束ねる業界最大手の総合流通企業。日本の建設会社が、その一つ一つを見て動く、そんな頂点の一つ。影トラは、そのトップだった。
「はあ?社長、なんで震えてんの?この貧乏臭いじいさんが何?」
「日川君!黙れ!黙ってろ!!」
絡師は、震える両足でよろよろとカウンターから後ずさり、そして深く深く頭を下げた。
「あ、あの度会長……こ、ご無礼を……」
「おじいちゃん……会長?何の会長なの?」
「え?このじいさんが、何の会長?」
日川は状況が全く理解できず、絡師と影トラの顔を交互に見比べた。影トラは頭を下げる絡師を、シの奥の瞳でじっと見据えていた。その視線は、もはやただの常連客のものではなかった。年数千億を動かしてきた、男の目だった。
絡師は震える両足で立ち、深く頭を下げたまま声を絞り出した。
「あ、あの度会長。ご、ご無礼を、誠に申し訳ございません」
「はあ?社長、何やってんの?なんでそんなに――」
「日川君!黙ってろ!! 」
絡師の怒鳴り声が店内に響いた。日川は初めて絡師の本気の怒りを浴びて、思わず一歩後ずさる。絡師の額には、滝のような汗が浮かんでいた。カウンターの内側では、さやが両手で口元を抑えたまま影トラの背中を凝視している。しおりも隣で、息をするのも忘れたように影トラを見つめていた。
影トラは、頭を下げたままの絡師をじっと見据え、やがて静かに口を開いた。
「担当直入に申し上げる。――来年度以降の、弊社との契約を全面的に見直す。年間百億円の発注。その全てを、別の取引先に振り替える。明日の朝には、専務名義で正式な通告書を送る」
「お、おお……お待ちください!それは私どもの会社が――」
「私の知ったことではない」
影トラの声は低く静かだったけれど、その一言は、店の空気を刃のように切り裂いた。
「……百億?」
さやの声が震えていた。
「それからもう一つ。日川君が進めている下町商業地区の再開発計画。わしは浜木商事として、正式に反対の意思を表明する。あの一体の土地の持ち主たちにも、わしの名前で今朝、反対の文書を送付済みだ」
絡師は、ふらつきながらカウンターの縁を掴んだ。浜木商事。その名前が一度でも反対側に回れば、計画は終わる。全ての取引先、全ての金融機関、全ての行政窓口が、その動向を見て動く。それを、絡師は誰よりも知っていた。
「あ、う……ちょ、ちょっと待って。おじ、さん?何の話をしてるんですか?再開発は、うちの、うちの大事な――」
絡師の声は、もはや泣き声に近かった。影トラはゆっくりと一歩、絡師の方へ進めた。そして、静かに口を開く。
「もう一つ、申し上げておくことがある」
影トラは内ポケットから、二つ折りの封筒を取り出した。
「これは、わしの会社がこの一週間で集めた資料の目録だ。日川君がこの店に対して行った嫌がらせ、SNSの悪評工作、取引業者への圧力。――全ての証拠は、わしの手元にある」
絡師が顔面蒼白になった。さやの手が再度口元を押さえる。SNSの悪評も、取引業者の圧力も、さやにとっては原因不明の不幸としてただ耐えるしかなかった出来事だった。それを、祖父は全て把握していた。影トラは、二つ折りの封筒をカウンターの上に静かに置いた。
「浜木商事の顧問弁護士団に、すでに誹謗中傷に対する損害賠償請求の準備をさせている」
絡師の膝が、ついにがくりと崩れた。床に両手をつき、肩を激しく揺らしながら、ただ「申し訳ございません」を繰り返している。
「会長、お願いします。何でもいたします。契約の見直しも、再開発も、賠償も、全て誠心誠意対応いたします。ですから、どうか、どうか――」
影トラはしばらく、それを床に見下ろしていた。それから静かに口を開く。
「――無理だな」
「え……!」
「わしの孫が、傷つけられた」
その瞬間、絡師の顔がもう一段階、別の色に変わった。
「ま、孫……?この方が、お孫さん……」
ようやく事態の最後のピースが、絡師の頭の中で繋がった。
「日川君……お前、お前はこの方のお孫さんを……」
絡師の喉から、引き絞るような声が漏れた。――「残パ弁当だの」「片親育ちだの」「底辺だの」。日川がさやに投げつけてきた言葉の一つ一つが、絡師の脳裏を早送りで駆け巡っていく。
影トラは、絡師を見下ろしたまま、最後の言葉を静かに、しかしはっきりと告げた。
「――わしの孫の店から、出ていきなさい」
「は、はい……はい……」
絡師は、床を這うようにして立ち上がった。日川だけがまだ状況に完全には追いついていない様子で、絡師の後をよろよろと追いかける。
「社長、待ってくださいよ、ねえ、社長!」
引き戸が、震える手で恐る恐る開けられる。二人の姿が、夕暮れの路地に消えていった。
「――おじいちゃん」
さやの足がふらりとよろめいた。カウンターを回り込み、影トラの元へ駆け寄ろうとする。けれど、途中で膝が崩れて、影トラの胸の中に倒れ込んだ。
「さや……」
影トラは、さやの小さな体を、しだらけの大きな腕でしっかりと受け止めた。
「おじいちゃん!おじいちゃん!」
さやの目から、こらえていた涙が一気に溢れ出した。影トラはさやの背中を、しだらけの大きな手のひらでゆっくりと、何度も撫でた。
「すまんかったな、さや。……わしは、もう堪えられんかった」
「うん……おじいちゃん……」
「お前を、わしの名前で縛りたくなかった。この店は、お前の手で立て直した店だ。わしの影が、その上にかかってはいかんと思った。……だが今日だけは、わしを許してくれ」
さやは、影トラの胸に顔を埋めたまま、何度も何度も頷いた。しおりは二人を見つめながら、自分の頬を伝う涙をそっと指で拭った。夕暮れの光が、店の戸の隙間から柔らかく差し込んでいた。カウンターの隅の桜の花の彫刻が、その光の中で静かに二人を見守っていた。
—
翌朝、業界紙の一面に、大きな見出しが踊った。
*「劇場ワークス、最大顧客を喪失」「下町再開発計画も頓挫」*
日川と絡師は、全てを失った。連帯辞任。自己破産。業界からの追放。――「度会長の孫娘を虐めた男」。その評判はまたたく間に広がり、二人を雇う会社など、どこにも残っていなかった。
そしてある日、二人の前に黒いスーツの男が現れた。浜木商事・特別調査室の者だった。
「会長より、お前たちへの最後の処遇を預かってきた」
男は一枚の書類を二人の前に差し出した。
「――北海で働け」
絡師の顔が、青ざめた。拒否権はない。借金の取り立ても、世間からの追放も、全てこれに署名すればやめてやる。だが署名しなければ、お前たちにはもう生きる場所すら残らない。
二人は、震える手で契約書に署名するしかなかった。
—
数ヶ月後。吹雪くベーリング海が、漁船の甲板を叩いていた。気温はマイナス二十度。波しぶきは空中で凍てつき、甲板に氷の粒となって突き刺さる。日川かけるは、ずぶ濡れの防護服を着て、巨大なカゴを必死に引き上げていた。隣で同じ作業をしているのは、絡師だった。あの傲慢に満ちた社長は、もうどこにもいなかった。痩せ細り、髪は伸び放題。ただの老いた男になっていた。日川の手は、カサブタだらけでパンパンに腫れていた。
「社長、もう無理ですよ、こんなの……」
「黙れ!お前のせいだ!お前さえいなければ、わしはこんなところに――」
「はあ?俺のせい?あの食堂を潰そうって言い出したのは社長でしょ!」
「お前があの娘を虐めたからだろうが!」
絡師の怒鳴り声は、凍てつく風に虚しく掻き消されていった。甲板員の親方が、二人をちらりと見てしがれた声で言った。
「お前ら、仕事中にこんなところで知り合うな」
――二人は、何も言えなかった。
休憩時間。日川は甲板の隅にうずくまり、震えながら空を見上げた。雪がしんしんと降っている。その雪空の雲の切れ間に、星が一つだけ光っていた。日川の脳裏に、あの夕暮れの食堂の光景が蘇る。カウンターの隅で湯飲みを置いた老人。深く頭を下げていた絡師。そして両手で口元を押さえ、震えていたさやの顔。――「片親育ちのボロ店はキャンセルで」。自分が放ったその言葉が、今、自分の凍えた頬を刃のように切り裂いていく。
キャンセルされたのは、あの店ではなかった。――日川かける、自分自身の人生だった。
日川の頬を、温かいものが一つ筋伝った。……涙だった。だが、その涙さえも、すぐに頬の上で凍りついた。
「おい、豊料(きょうりょう)終わりだ!次の網を引け!」
「……はい」
絡師も、震える足でゆっくりと立ち上がった。
「さ、寒い……なぜ私は、こんなところに……」
ガチガチガチと、歯が音を立てた。マイナス二十度のベーリング海の上で、絡師と日川の本当に長い夜が、まだ始まったばかりだった。
—
季節が二度ほど巡った頃。朝切り食堂の紺の暖簾が、新しく掛け替えられていた。その布の端は、さやの祖母が残した古い反物から丁寧に直されたものだった。
「おじいちゃん、今日も早いね」
「年寄りの朝は早いんだ。仕方なかろう」
「ふふ、味噌汁温めるね」
カウンターの隅には、いつもの席が開けられていた。しおりは退職していた。今はさやの店の経営パートナーとして、カウンターの内側に並んで立っている。
「さや、新しい仕入れ先のカタログ、見ておいてね」
「はい、しおりシェフ」
「もうその呼び方、やめてって」
その時、引き戸が軽やかな音を立てて続けに開いた。入ってきたのは、若い男女が数人。さやとしおりと同年代の、見覚えのある顔ぶれだった。
「あ、みんな……!」
「さや、来たよ。ちゃんと営業してるって聞いて」
「日川君がいなくなったって聞いて、ずっと気になってたんだ。朝切り食堂のこと」
「本当はね、私たち、みんな来たかったの。……日川君が幹事だって聞いて、なんか嫌な予感がしてさ。当日も、みんな誰一人連絡もらってなかったんだよ」
「だから今日、私たちの本当の同窓会を、ここでやらせてもらおうと思って」
さやの目から、こらえていた涙が一気に溢れた。
「……いらっしゃい、みんな。今日は、世界一の卵焼きを振る舞うわよ」
カウンターの隅で、影トラは静かに茶を飲んでいた。その口元が、わずかに緩んでいる。
—
その日の夕暮れ。
「おじいちゃん、ありがとう。私、店を――」
「お前が自分の足で守った店だ。わしは何もしておらん」
「……ううん。おじいちゃんがいてくれたから、私、立っていられたの。それと、しおりがいたから」
「さや、ありがとう」
「こちらこそ、しおり。あんたの卵焼きが食べられなくなって困るのは私だもん」
「ふふっ」
さやは、カウンターの隅の桜の花の彫刻を、そっと指でなぞった。影トラは、その様子を見つめ、静かに言った。
「商売は、人を見る目から始まる。お前は、その目をちゃんと持っている」
「おじいちゃんの口癖、また増えたね」
「それで、明日も来るだろう?」
「うん。味噌汁を楽しみにしとる」
――人を見下す者の末路は、いつの時代も雪深い海の底のように冷たい。だが、人を大切にする者には、いつか必ず報われる日が来る。木影トラ、七十二歳。今日もまた、孫娘の食堂の隅で、味噌汁の湯気を静かに待っている。



