午前七時、東北の工場はまだ動いていなかった。それでも機械油の匂いだけは残っていた。滝川武志、五十二歳。日に焼けた顔に白い短髪。グレーの半袖シャツから出た腕は、時計の跡だけが白かった。
その武志がボストンバッグを一つ下げて工場の門の前に立っていた。今日、五年ぶりに東京の本社へ戻る。始業までにはまだ一時間以上ある。それなのに若い社員たちが見送りに集まっていた。
「滝川さん、体に気をつけてください」
「ああ、この工場はもう大丈夫だ。お前たちがよく働いたからな」
社員の一人が武志のバッグを指さした。持ち手に古い麦わら帽子がくくりつけてある。つばの縁が少しほつれた帽子だった。
「その帽子も持っていくんですか? 東京に畑はないですよ」
「五年世話になった帽子だ。置いていく理由がない」
社員たちが笑い、武志も少しだけ笑った。先週の妻には昨夜のうちに電話を済ませてある。「今度は東京なの」と妻は呆れたように笑っていた。単身赴任は六年目に入る。
昼前に武志は東京へ着いた。本社ビルの前のアスファルトが白く光っていた。セミの声がビルの壁に跳ね返る。予報は今日も三十五度超えだと言っていた。
武志はすぐには正面玄関へ向かわなかった。社員通用口や搬入口の周りを時間をかけて歩いていく。裏口の脇の灰皿には吸い殻が溢れていた。掲示板の張り紙は日に焼けて色が抜けている。会社の表看板は正面玄関ではなく裏口に出る。工場を五年預かって体で覚えたことだった。
正門の脇に植え込みが続いている。その植え込みの前に人がしゃがみ込んでいた。白いブラウスの若い女だった。ベージュの軍手をはめて一人で草をむしっている。首筋が日に焼けて赤くなっていた。胸元では正木電気の社員証が揺れている。
武志は足を止めた。
「こんな日に外で作業を続けたら熱中症になる。少し日陰に入りなさい」
女が顔を上げた。汗が顎の先から落ちた。
「ありがとうございます。でも、これが私の仕事なので」
そう言って若い女は笑った。正木電気の新入社員、志水ちな、二十三歳。まだ武志はその名前を知らない。
武志は正門脇の自動販売機で冷えた水を二本買った。一本を彼女のそばに置く。それからバッグの帽子を外して差し出した。
「かぶってなさい。日差しと素手で勝負して勝てる人間はいない」
「え、でも」
「今日からここで働く滝川という者だ。経営企画室にいる。返すのはそこでいい」
「経営企画室の滝川さん」
彼女は帽子を両手で受け取った。そして深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
その顔を見て武志の目が一瞬だけ止まった。誰かに似ている。誰に似ているのかは思い出せなかった。武志は小さく頷いて歩き出した。
ビルの前まで来て武志は立ち止まった。十二階建ての本社ビルを見上げる。
「五年か。さて、どこから見て回るか」
ガラスの扉が開いた。冷房の風と一緒に武志は五年ぶりの本社へ足を踏み入れた。その背中にセミの声が降り注いでいた。
本社二階の総務フロアには朝から電話の音が鳴り続けていた。その一角にちなの姿があった。両手に頼まれたコピーの束を抱えている。
「コピー行ってきました。ホチキスの位置、左上で揃えてあります」
社員たちは顔も上げずに受け取った。礼を言う者はいない。配属されて三ヶ月になる。任された仕事はお茶とコピーと弁当の買い出し。それに朝一番の社員周りの草取りだった。
元々会社の周りの植え込みや草の手入れは外注会社の仕事だった。それを半年前に打ち切ったのが部長の黒岩だ。「経費削減のため」と本社では胸を張ったという。以来、草取りは「新人研修の一環」という名目に変わった。そしてこの春に入ったちなの毎朝の日課になった。
それでもちなは手を抜かなかった。コピーの角を揃え、お茶の温度を相手ごとに変えた。誰が見ていなくてもやり方は同じだった。
奥の部長席から声が飛んだ。総務部長の黒岩雄二、四十五歳。淡いブルーのシャツの襟元を開け、腕には大ぶりの銀色の時計が光っている。人好きのする顔はよく笑うが、目が笑うのは役員の前だけだった。
「新人さん、お茶。あと、コーヒーに二つね」
「はい。すぐに」
黒岩はちなを名前で呼ばない。配属から三ヶ月。ただの一度もだ。
「あとさあ、新人さん。昨日の弁当、唐揚げだったでしょ? 俺、幕の内って言ったよね。ま、どうせメモが間違ってたんだろうけどさ」
黒岩は椅子の背にもたれて笑った。
「大卒のお嬢ちゃんには弁当の買い出しなんて不満かもしれないけどね。これも社会勉強でしょ。うちは忙しいの。新人に仕事を教える手間なんてないの。分かるよね」
「はい」
周りの社員たちは画面から目を上げなかった。隣の島の女性社員がちなをちらりと見て目を戻した。それがこの部署の日常だった。
フロアの一番窓際に武志の机があった。武志の辞令は「経営企画室付き」。肩書きも決まった仕事もない。経営企画室は役員と同じ最上階にある。だが室長は武志に席を用意していなかった。目も合わせずに言った。
「仕事はおいおいお願いします。当面は下の総務のフロアで待機していてください」
「敵の左は総務の黒岩に回された地方からの預かりさんでしょ。ま、その辺の空気読んでいいでしょう」
当てがわれたのはフロアの一番隅の古い机だった。机の上には「経営企画室付き」と書かれた白い札が一つ置いてあるだけだった。歓迎はされていないか。だがいい席だ。フロアの音がよく聞こえる。
その机の前にちながやってきた。両手にあの麦わら帽子を持っている。
「滀川さん、昨日はありがとうございました。経営企画室って伺ったので上の階を探してしまいました」
「席の都合だ。気にしなくていい」
「お返ししないとと思って、お借りしたままだったので」
「持っておきなさい。外の仕事がある間はあんたが使うといい」
ちなは小さく笑った。職場で笑ったのは三ヶ月ぶりだった。
昼休みの更衣室でちなはロッカーを開けた。タオルを取り出す。ロッカーの奥には古い携帯電話が一つ置いてあった。扉はすぐに閉じられた。
午後、ちなは書類の棚の前にいた。頼まれたのは溜まった支払い伝票のファイル閉じだった。同じ調子で閉じていた手がふと止まった。綴りの前の方に、あの外注会社との契約終了の書類が挟まっていた。日付は半年前だった。それなのに先月の支払い一覧には同じ外注会社の名前が載っている。金額は毎月ほとんど変わらなかった。
契約は終わってる。だから私が毎朝草を取ってるのに、お金は払い続けてる。
夕方、ちなは経理の先輩の席へ行った。声を落として綴りを見せる。
「あの契約が終わった会社に、支払いが続いているみたいなんです。私の見間違いでしょうか?」
先輩は綴りを一目見て顔をこわばらせた。そしてちなの耳元に口を寄せた。
「見なかったことにしなさい。それがこの部署で長く働くコツだから」
「でも」
「いいから、誰にも言っちゃだめ」
先輩は逃げるように席を立った。そのやり取りに目を止めた者が二人いた。一人は給湯室の前を通った総務の主任。黒岩の一番のお気に入りだった。主任は湯呑みを持ったまま部長席へ歩き、黒岩の耳元に口を寄せた。黒岩の顔から笑いが消えた。
そしてもう一人。窓際の席から、綴りを抱えて立ち尽くすちなの背中を武志が見ていた。
翌朝、ちなの机から仕事が消えた。お茶もコピーも弁当の買い出しも別の社員に割り振られていた。代わりに命じられたのは地下倉庫の備品の数え直しだった。
「新人はさ、現場を知らないとね。備品の一つ一つに会社の歴史があるんだから、全部数えてリストにしてよ」
「はい」
黒岩はすれ違い様に声を落とした。
「余計なところに目をつけてくれちゃってさ。ええ、何にも期待してるよ、新人さん」
倉庫に窓はなかった。古い机と埃をかぶったダンボールが積み上がっている。ちなは一人でボールペンの本数を数え始めた。
昼、フロアに戻ったちなを笑い声が迎えた。
「うわあ、埃だらけじゃないですか、新人さん」
「はあ、似合ってるよ」
「うん」
ちなは何も言わずに頭を下げた。白いブラウスの袖に灰色の汚れがついていた。その様子を窓際の武志が見ていた。視線に気づいたのか、黒岩がわざとらしく近づいてきた。
「どうしました? 子会社さん。ずっとこっち見てるけど、気楽でいいね。眺めてるだけで給料が出るんだから。本社はね、遊び場じゃないんですよ」
「そのようですね。よくわかりました」
「うん。何が?」
武志は答えず綴りに目を戻した。黒岩は鼻を鳴らして部長席へ戻っていった。
夕方、始業のチャイムが鳴っても武志はフロアに残っていた。その姿を廊下の影から見ている男がいた。総務課長の堀田、四十八歳。小柄な撫で肩で汗っかきの男。首にタオルを巻いている。堀田は二日前から気づいていた。窓際の預かりさんが誰なのか。声をかける勇気が二日間出なかったのだ。
ビルを出た武志を堀田は駅前まで追いかけた。
「滝川さん。滝川さんですよね。資材部の」
武志が振り返った。そして目元を緩めた。
「堀田か。久しぶりだな」
「やっぱりお戻りになってたんですね」
二人は駅前の小さな居酒屋に入った。ビールが一口で半分になったのは堀田の方だった。
「五年前、自分は何もできませんでした。滝川さんが不正のある委託費の話を上げて握りつぶされて飛ばされたのに、自分は黙って見てました。ずっとそれが」
「もういいんだよ」
「でも、黙るのが正しい会社になってしまった。それだけの話だ」
堀田は俯いて鼻をすすった。そして順番に話し始めた。
「黒岩部長に逆らった人はみんな左遷か倉庫です。で、その黒岩部長の後ろにいるのが、八谷常務」
「はい。社長は海外の新工場にかかりきりで、本社は八谷さんの空気で回ってます」
武志はビールを置いた。
「あの新人の子は何という名前だ?」
「え? ああ、志水さん。志水ちなさんです。真面目ないい子ですよ。なのに黒岩部長と来たら名前も呼ばずに」
武志の手が止まった。
志水。三十年前、新人だった武志に仕事のイロハを叩き込んだ先輩がいた。伝票の書き方から現場の歩き方まで。後に直属の上司になった志水という女の人だった。厳しくてよく笑う人だった。結婚して会社を離れる日、まだ二十代だった武志は送別会の隅でこっそり泣いた。仕事を初めて褒めてくれた人だった。
結婚の相手は同期入社の正木。今の社長だ。そして三年前、志水さんは亡くなった。武志は東北から葬式に駆けつけた。喪主の家の隣に、喪服の親子が並んでいた。
あの時の娘。正門で見た横顔が若い日の恩師の顔とそっくり重なった。そうか。あの子が志水さんの娘で、似ているわけだ。
武志は何も言わなかった。なぜ母親の方の姓を名乗らずに一番下で働いているのか分からない。だが、あの子は親の名を出さずに一番下で働いている。それには理由があるのだろう。確かめるのは筋が違う。
「堀田、頼みがある」
「はい」
「昨日の夕方、あの子は経理の席で綴りを開いて何かを尋ねていた。相手は顔色を変えて逃げるように席を立った。そして今朝、あの子の仕事が全部消えた」
「ああ、委託費の帳簿が見たい。あの子が開いていたその辺りからだ」
堀田の顔が引き締まった。
「わかりました。明日、映します」
夜の駅前に二人の影が並んで伸びていった。
その日は朝から空気が焼けていた。天気予報は最高気温三十五度と危険な暑さへの注意を告げていた。総務フロアの窓際の席は空だった。武志は朝から堀田と連れ立って出かけていた。その空席を確かめるように主任が部長席へ寄っていった。
「例の新人、まだ気にしてるみたいですよ。昨日も経理の綴りの棚をチラチラ見てました」
「ふーん」
黒岩は椅子を回してフロアの隅のちなを見た。それから聞こえよがしに声を張った。
「新人さん、ちょっと」
ちなが席の前に立つと黒岩はにやりと笑った。
「新人は草むりな」
「え?」
「正門のとこだけじゃなくてさ、本社の周り全部。愛社精神見せてよね」
「あの、今日は危険な暑さだと予報が」
「え、嫌なの? 会社を綺麗にするの、嫌?」
「いえ」
「じゃあ決まり。全部終わるまで戻ってくるな」
総務の主任が声を立てて笑った。フロアの社員たちは画面から目を上げなかった。ただ何人かの肩が小さく縮んだ。ちなは頭を下げて軍手と借り物の麦わら帽子に向かった。
午前十時、ビルの周りのアスファルトはもう熱を持ち始めていた。ちなは植え込みに膝をついて草を抜いていく。照り返しが下から上がってくる。麦わら帽子のつばの下で汗が顎を伝った。軍手の中はふやけていた。財布は机の引き出しの中だった。水を買いに戻れば、また何を言われるか分からない。
正午、日差しが真上から落ちてきた。抜いても抜いても植え込みは続いていた。ブラウスの背中に塩が白く浮き始めている。
もう少し。もう少しだけ頑張ろう。
耳の奥でセミの声が遠くなったり近くなったりした。立ち上がろうとして視界が白く揺れた。麦わら帽子が足元の土に落ちた。
その時だった。
「おい!」
外回りから戻った武志が鞄を放り出して駆け寄った。堀田も走ってくる。武志はちなの肩を支え、日陰に座らせた。額に手を当て顔を覗き込む。
「名前は言えるか。今日の日付は」
「志水です。八月の…」
「大丈夫です。まだ終わってなくて」
「もういい。喋るな」
堀田が自動販売機に走った。武志は冷えたペットボトルを受け取るとちなの首筋と脇に当てた。それから少しずつ水を飲ませた。
「会社には働く人の命と健康を守る義務がある。安全配慮義務。法律が雇い主に課した約束だ。炎天下に一人を何時間も立たせて、水も休みも与えないことは、その約束を破る行為だ。これは研修ではない。命に関わる行為だ」
黒岩部長はなんてことを。
ちなの目から涙が一粒だけ落ちた。
「すみません。私、ちゃんと働きたいだけなんです」
武志は何も言わなかった。土に落ちた帽子を拾い、埃を払う。そしてその帽子でちなの顔に何度も風を送った。汗と土で汚れたちなの軍手が膝の上で握られている。帽子を持つ武志の手に一度だけ力がこもった。
「堀田。今朝の書類を今夜中にまとめてくれ」
「はい」
武志はビルの最上階を見上げた。ガラスの窓が白い日差しを跳ね返すだけだった。
夕方のフロアに西日が差し込んでいた。ちなは早退していた。課長の権限で構わない。そう言って送り出したのは堀田だった。その堀田が席へ戻るのを待ってから武志は立ち上がった。部長席へ歩いていく。黒岩はパソコンに向かって鼻歌を歌っていた。武志に気づくとめんどくさそうに顔だけ回した。
「何、子会社さん?」
「二つだけ言っておきます」
武志の声は低くもなく大きくもなかった。
「彼女を業務に戻しなさい。今日のような仕事のさせ方は二度としないこと」
「はあ?」
「それから、委託費の帳簿を今のうちに綺麗にしておくことです」
一瞬だけ黒岩の指が止まった。だがすぐに軽い声になった。
「あんた誰に向かって言ってんの? 部外者が口出すなよ。じいさんはさ、草むりの監督でもしてな。言いましたからね」
武志は一礼して席へ戻った。黒岩は肩をすくめて鼻歌に戻った。
ただ、その夜。黒岩は役員フロアへ上がり、常務室の扉を叩いた。
「例の預かりさんが妙なことを言い出しまして。委託費がどうとか」
常務の八谷正、五十八歳。撫でつけた髪の痩せた男は書類から目を上げなかった。
「ふん。あいつは全く懲りない奴だ。五年前のことを忘れたのか。まあ放っておけ。預かりの人間に何ができる」
「はい。安心しました。それより例の新人の件、騒ぎにするな」
「もちろんです。大人しくさせてますんで」
常務室を出た黒岩は廊下で主任に電話をかけた。
「おい、俺の預かりさんの辞令、人事に確認しとけ。どこの誰なのか、一応な」
同じ夜、駅前の居酒屋の奥の席に武志と堀田がいた。テーブルに並ぶのはビールではなく書類の写しだった。
「今朝、外注屋のご主人がはっきり言ってました。半年前から入っていない。請求書も出していない。後で証言を書面にしてくれるそうです。それとこれが毎月の振り込み先です。帳簿の名前は外注会社のまま、口座だけ別の資材会社に変わってました。その代表の苗字、見覚えがあるんです。役員の名簿で見た、黒岩部長の奥さんの旧姓です」
「義理の弟か」
「多分。あと去年、清掃の委託先を変えた時の見積もりです。三社分あるんですが、書式も字体も全部同じで、電話番号の市外局番まで同じなんです」
武志は写しを一枚ずつ順番に見ていった。
「よく集めた」
「自分、こういうのだけは得意なんで」
「これを時系列で一枚にまとめてくれ。数字は正確に、感情は書くな」
「はい」
武志は最後の一枚をテーブルに置いた。
「五年前と同じ手口だ。いや、五年かけて太くなった」
翌朝、武志は窓辺で電話をかけた。
「お世話になります。ええ、明日の取締役会は予定通りに。議案もそのままで」
電話の向こうの声に武志は短く答えた。
「一つだけお願いが。私の件は議案書には載せず、朝一番に」
電話を切った武志は窓の外を見た。本社ビルの明かりが夜の中に浮かんでいた。
朝九時、最上階の会議室で月に一度の取締役会が開かれていた。議題の一番目はごく短い時間で可決された。発表は午後の予定だった。
同じ頃、総務フロアにちなの姿があった。顔色はまだ戻りきっていない。それでも定時の十分前に席に着いていた。その姿を見つけて黒岩がにやりと笑った。
「おや、新人さん元気そうじゃん。じゃ、昨日の続きな」
ちなの肩が小さく揺れた。
「部長。彼女は昨日倒れかけたんですよ。今日は中の仕事を」
「課長さあ」
黒岩は椅子を回して堀田を見た。
「誰の許可で勝手に早退させたの? 後で始末するから。で、何? 中の仕事? 課長が新人の仕事まで決めるんだ」
堀田は言葉に詰まった。握った拳が震えている。そこへ主任が小走りに寄ってきた。
「部長。例のじいさんの辞令、人事に聞いたんですけど、詳細は保留としか教えてくれなくて」
「はあ? なんだそれ?」
黒岩は眉を潜めた。だがすぐに離した。常務の言葉を思い出したからだ。預かりの人間に何ができる。ま、いいや。
「新人さん。軍手持って。日が高くなる前にね」
ちなが俯いたまま立ち上がった。その時、フロアの入り口でエレベーターの扉が開いた。武志だった。武志はまっすぐに歩いてきた。そしてちなと黒岩の間に立った。
「彼女は行かせない」
「はあ? あんたまだやるの?」
黒岩も立ち上がった。フロア中の目が二人に集まっている。
「昨日から何なんだよ、じいさん。ここは俺の部署なんだよ。あんたもいい加減つまみ出すぞ。文句があるなら部長の俺が聞いてやるって言ってんの」
武志は黒岩を見た。
「部長」
武志は首を振った。
「じゃない。役員全員と、今すぐ集まれ」
武志は部長席の内線電話を取った。
「滝川です。予定通りに。役員会議室へ全員」
受話器を置く音がフロアに響いた。誰も動けなかった。若い女性社員が口元を手で覆った。
「滝川って、まさか資材部にいたあの…」
掠れた声で続けた。
「五年前の滝川さん。じゃあ今朝の取締役会って」
ざわめきが波のように広がっていった。フロア中の顔から色が失せていく。黒岩だけがまだ立ち尽くしていた。
三十分後、役員会議室に役員たちが揃った。上座に近い席に武志。その隣で黒岩が汗を拭いていた。議長役の役員が告げた。
「今朝の取締役会で、滝川武志君の専務執行役員への就任が決議された。発表は午後の予定だったが、本人の求めでこの場を借りる」
黒岩の手からハンカチが落ちた。武志は立ち上がらなかった。座ったまま手元の紙を一枚だけ見て話し始めた。
「事実だけを申し上げます。昨日、この本社で入社一年目の社員が炎天下の草むりを命じられ、熱中症の一歩手前になりました。会社の安全配慮義務に関わる事案です。もう一つ、総務の委託費に不明な支払いがあります。契約が終わった業者への支払いが半年間続いている。調査を求めます」
役員たちがざわついた。
「ちょ、ちょっと待ってください」
黒岩が羽を抜くように立ち上がった。
「あれは本人の希望なんですよ。新人研修の一環で、本人がやりたいと。そうでしょ? それに支払いの件は、あ、あれです。その新人が支払いデータを勝手に触って数字を壊しかけたんです。処分も検討していたところで」
武志は何も言わなかった。ただ黒岩の顔を見ていた。沈黙を破ったのは低い声だった。
「せ、」
八谷が湯呑みを置いた。
「ご就任おめでとうございます。ですが、着任の初日から現場を引っかき回すのは感心しませんな。委託費の件は総務の内部で確認させましょう。管理職を疑うなら、それなりの根拠をお示しいただかないと」
八谷は武志を見た。五年前と同じ目だった。
「わかりました。では総務の確認とやらを待ちます」
武志はそれ以上を争わなかった。一礼して書類を閉じた。逃げ道はもう残していない。
廊下で黒岩が八谷に駆け寄った。
「常務、助かりました」
八谷は足を止めなかった。ただ一言だけ落とした。
「帳簿は本当に綺麗なんだろうな」
「もちろんです」
その夜、黒岩は自分の車の中から電話をかけた。
「おい、俺だ。例の口座、しばらく動かすな。それと去年の見積もりの控え、お前んとこにあるやつ、処分しとけ」
電話を切った黒岩の額に汗が浮いていた。
三日後の朝、最上階の会議室に臨時の役員会が招集された。役員たちが席に着き、奥に黒岩が座る。武志の後ろの壁際には資料を抱えた堀田とちながいた。なぜ呼ばれたのか、ちなは知らされていない。役員たちの背の影で、膝の上の手を握っている。
「本人のいない場で本人の話をするのは良くない。そう思って参考人として来てもらいました」
最後に扉が開いた。鍛え上げた体格に白髪の交じった頭。日焼けした顔は彫りが深く、目の下に濃い疲れが沈んでいる。濃紺のネクタイ、白いシャツの襟に古びた社章が一つ光っていた。社長の正木、六十歳。欧州の新工場から戻ったばかりだった。
ちなが顔を上げた。その目が見開かれた。
お父さん。
ちなは息を飲み、とっさに深く俯いた。前髪の影に顔が隠れる。膝の上の手が白くなっていった。正木は、顔も見ずに席へ歩き、腰を下ろした。壁際には目もやらなかった。
「時間がない。始めてくれ」
低い声だった。書類を出しながら正木は続けた。
「機内で報告は読んだ。わしの留守中にうちの新入りが日差しで倒れかけたそうだな。誰の差し図でそうなったのか。委託費の金がどこへ流れているのか。今日、はっきりさせる。滝川はお前の見立てを聞くために戻りを一日早めた。手短に頼む」
黒岩が立ち上がった。
「そ、その前に社長。総務部の内部確認の結果をご報告します。支払いは全て適正。問題は一切ございませんでした」
「終わりですか?」
武志は茶封筒から書類の束を出し、一枚ずつテーブルへ置いていった。
「外注会社のご主人の証言書です。署名と捺印あり。半年前に契約を打ち切られてから一度も作業に入っていない。請求書も出していない。こちらはうちの支払い記録。打ち切りの後も支払いが半年続き、合計六百万円。次に、去年の清掃委託の見積もり三社分。書式も字体も市外局番まで同じです。新しい委託先への支払いは前の一・八倍。最後に、毎月の支払い先である資材会社の登記の写し。代表者の姓は吉田。黒岩部長。あなたの奥さんの旧姓と同じですね」
役員たちがざわついた。
「水増しと横領を合わせると、五年で約二億円です」
「待ってください」
黒岩の顔から笑いが剥がれた。
「あ、発注の実務は主任に任せてたんです。私は上がってきた書類に判を押しただけで」
「内容をしっかり確認して判を押すのが決済者の仕事ですが」
「いや、その、資材会社の社長が妻の弟で、勝手にやってることです。私は何も知らない」
「知らない会社への支払いに、あなたの決済印が六十回押されています」
「ちょ、常務」
黒岩は八谷に向き直った。
「八谷常務はご存知のはずです。経費削減の実績は常務が評価してくださって、常務のお引き立てで私は」
八谷は目を伏せた。湯呑みを置き、口を開かなかった。すがる声を無視した。
「ちょ、常務」
頼みの綱が音もなく消えた。黒岩は立ったまま何も言えなくなった。武志が口を開いた。低くもなく大きくもない声だった。
「一つだけ聞きます。伝票の疑問を口にした新人を、あなたは翌日全ての仕事から外した。その翌日には猛暑であることを知っていて、彼女一人を外に出した。偶然ですか? それとも意図してですか?」
黒岩の口が開いた。だが言葉は出てこなかった。責任転嫁は潰された。主任のせいにもできなかった。常務は見てもくれなかった。言い訳の在庫が尽きたのだ。黒岩はもう一度口を開いた。そして閉じた。崩れるように椅子にへたり込む。答えられないことが答えだった。会議室の全員がそれを理解した。
草むりは研修ではなかった。伝票の疑問、つまり不正に気づいた新人を、日の当たらない場所へ追い払うための口封じだった。
上座の正木が手にしていた書類を机に置いた。書類の端を指が強く抑えている。怒りを抑えている手だった。
武志が息を吐いて立ち上がった。
「五年前、俺は委託費の不正の話をして、この本社から消された」
俺という言葉が初めて武志の口から出た。
「あの時、誰も声を上げなかった。それを恨んでいるんじゃない。声を上げた人間が消される会社は、次に声を上げられない人間までも消そうとする。今回、その通りになった。それが恐ろしいんです」
沈黙の中で正木が口を開いた。
「滝川。その異動の書類に判を押したのはわしだ。現場と衝突が多い子会社の再建に、適任だと思って上がってきた書類を疑いもしなかった。騙されていたでは済まん話だ。滝川、すまなかった」
正木は頭を下げた。役員会の場で社長が頭を下げたのだ。役員たちが息を飲んだ。
「五年前のことも、わしの落ち度として調べさせる」
「その言葉で十分です。五年分はもう十分です」
武志は深く頭を下げ返した。そして会議室を見渡した。
「五年前、この部屋で誰も声を上げませんでした。皆さん、ご自分の船は静かだと思っておられたはずだ。ですが、見て見ぬふりをしても船は沈みます。順番が最後になるだけです」
役員たちの何人かが目を伏せた。へたり込んだ黒岩はもう顔を上げなかった。
「最後に一つ。あなたが炎天下に捨てた社員の名前を、フルネームで言ってみなさい。三ヶ月間、あなたの部下だった新人だ」
「志水…志水なとか」
「さあ…」
名前が出てこなかった。三ヶ月間「新人さん」としか呼ばなかった男は、捨てた相手の名前を知らなかった。
武志は壁際を振り返った。
「あの日何があったのか、ご本人に証言してもらいます。言いたくないことは言わなくていい」
ちなが顔を上げた。一瞬の間の後、ちなは椅子を引いて立ち上がった。
「総務部の志水ちなです」
正木の眉がぴくりと動いた。
「この春に入社しました。配属からずっと朝の草取りを命じられていました。あの日は朝、部長に呼ばれて本社の周り全部の草むりを命じられました。全部終わるまで戻ってくるなと言われたので、水も買いに戻れませんでした」
声は震えなかった。事実だけを順番に並べていく。正木が証言する横顔を見つめていた。日に焼けた首筋、ゴム一つで結んだ髪。その目元の丸みが記憶の中の顔に重なっていく。
正木の椅子が音を立てた。立ち上がっていた。
「ちな」
会議室が止まった。ちなは一度だけ言葉を切った。まっすぐ前を向いたまま静かに言った。
「続けてよろしいでしょうか?」
正木は、立ったまま動けなかった。役員たちが顔を見合わせた。
「社長、今なんと」
「まさか社長のお嬢さん」
黒岩が床に手をついた。
「し、社長の娘。俺が炎天下に出してたのは社長の」
八谷の顔から色が失せていった。追い出した男が捨てていたのは社長の娘。湯呑みが指の間から転がり落ちた。ざわめきの中でちなだけがまっすぐ立っていた。
「続けます。倒れかけたところを滝川さんに助けていただきました。事実は以上です」
ちなは頭を下げて椅子に座った。最後まで父の名を口にしなかった。
正木はしばらく娘を見ていた。三年ぶりに見るその顔は、亡くなった妻の若い頃と同じ顔をしていた。聞きたいことは山ほどあるはずだった。だが正木は全てを飲み込んだ。深く息を吸い、経営者の顔に戻って腰を下ろす。
床に手をついたままの黒岩を正木は見下ろした。
「今日この場で分かった事実は二つだ。お前が三日前、この場で嘘の報告をしたこと。そしてうちの社員を炎天下に放り出したこと。金の話は監査部と顧問弁護士に調べさせる。刑事の手続きもその上で法に照らして決める。逃げられると思うな。本日付けで自宅待機を命じる」
正木の声が低くなった。
「八谷。総務の内部で確認させる。そう言って調査を止めたのは誰だ? 監督責任と合わせて懲罰委員会で聞かせてもらう。五年前のこともな」
八谷の喉が小さく動いた。言葉は出てこなかった。
役員たちの視線の中を、黒岩が両脇を支えられて退出していく。その背中に誰も声をかけなかった。窓の外でセミが泣いていた。あの日、炎天下でちなが聞いた声と同じだった。
その日の夜、役員フロアの応接室に正木と武志がいた。テーブルの茶は二つとも冷めていた。
「わしは何も見ていなかったんだな。会社も、娘も」
「見るのはこれからでも間に合います」
正木は答えなかった。武志は一礼して先に応接室を出た。残された正木は窓の外の街の明かりを長いこと見ていた。
やがて正木も帰りのエレベーターに乗った。箱が途中の階で止まった。扉が開くと、廊下に監査部の聞き取りを終えたちなが立っていた。目が合って、ちなは一瞬迷ってから乗り込んだ。二人きりの狭い箱だった。階数の明かりが一つずつ落ちていく。
「今度、飯でも」
「はい」
三年ぶりの親子の会話だった。一階に着くとちなは小さく頭を下げて先に降りた。
玄関の外で夜風に当たっていた武志のところへ、ちなが駆けてきた。
「滝川さん。あの帽子、もう少しだけお借りしていてもいいですか?」
「外の仕事はもうないだろうがな」
「はい。でも、もう少しだけ」
武志はふっと笑った。
「気の済むまで持っていなさい」
夜のビルの上に細い月が出ていた。
懲罰委員会は一ヶ月後に結論を出した。黒岩は懲戒解雇。監査の調べで横領の総額は二億三千万円と確定した。会社は刑事告訴に踏み切り、義弟の資材会社は年を越さずに倒産した。
八谷は調査の結果を待たずに辞表を出した。書類の上では監督責任だが、業界は狭い。何も見ていなかった役員という評価は、本人より先に次の行き先へ届いていった。顧問の話も空き椅子も一つずつ消えた。面倒を見てやった相手から順番に電話が来なくなった。
総務の主任は減給になり地方の倉庫へ移った。「見なかったことにしなさい」と言った経理の先輩は、自分から監査部へ出向き、知っていることを全て話した。
そして一年後の夏。環状道路沿いの空き地に黒岩の姿があった。オレンジ色の作業ベストに、首からタオルを垂らした草刈りの日雇いアルバイトだった。アスファルトの照り返しが下から炙り、水筒の水はぬるい。あの日、ちなが立っていたのと同じ暑さだった。
「ちょっと休憩」
年下の現場リーダーが振り返りもせずに言った。
「そこのおじさん、全部終わるまで帰れませんよ」
黒岩の手から草刈りが落ちた。
「俺は部長だった男だぞ」
つぶやきを拾う者はいなかった。妻は裁判が始まる前に家を出ていた。詫びの手紙は一通も書かれていない。三ヶ月間、部下を名前で呼ばなかった男は、今、誰にも名前を呼ばれない。炎天下の空き地に草を刈る音だけが続いていた。
季節が変わって秋になった。新人研修はちなの出した案を元に作り直された。雑用の押し付けは廃止され、草取りは業者委託に戻った。新しい発注先は地元のシルバー人材センター。腕のいいお年寄りたちが月に二度、植え込みを綺麗にしていく。
ちなの胸の名札は作り直されていた。戸籍の姓はまだ志水のままだ。母を亡くした直後、父を恨んだまま母方の祖母と養子縁組をして選んだ姓だった。それでも本人の希望で名札にはこうある。
総務部 志水ちな。もう誰にも遠慮はいらなかった。
ある朝、ちなは窓際の席へやってきた。両手に麦わら帽子を二つ抱えている。日焼けした古いものと、新しいものだった。
「一つはお返しします。一つは来年の夏、現場を見に行かれる時に」
「二つもいらんだろうに」
そう言いながら武志は両方を受け取った。それからぽつりと言った。
「あんたのお袋さんは、俺の最初の上司だった。伝票の書き方も現場の歩き方も仕事の面白さも、全部あの人に教わった」
ちなの目が見開かれた。
「お母さんから。あ、だからあの日私に」
武志は首を振った。
「あんたが腐らずに働く子だったからだ。それだけは血筋かもしれんがな」
ちなは泣きそうな顔で笑った。
次の休日、ちなは三年ぶりに実家の玄関をくぐった。食卓のテーブルにちなは古い携帯電話を置いた。充電はしてきてある。
「お母さんの携帯、ずっと私が持ってました」
正木はゆっくりと手に取った。画面の中に自分が送った数えきれない言葉と妻の返信がそのまま残っていた。
「来なくていい。あなたが仕事をしている姿ごと、私はこの会社が好きなの」
「お前、これを三年前に読んだのか?」
「はい。それでこの会社に入ろうって決めたんです。お父さんとお母さんのいた会社だから。見舞いにも来ないお父さんをずっと恨んでました。何も知らないでごめんなさい」
「わしの方こそ。慰めてやれることが思いつかんかった」
正木は画面を見ていた。それから立ち上がって台所へ向かった。
「飯食っていくか。作ってやる」
「うん」
返事はなかった。三年ぶりの娘の返事だった。
後日、ちなは祖母にもあの携帯を見せた。読み終えた祖母は老眼鏡を外して長いこと黙っていた。
「誤解してたんだね。あの人のこと。ごめんなさいね」
深く頭を下げる祖母を、ちなは両手で抱きしめた。
墓苑には父と娘と祖母が母の墓の前に並んで立った。線香の煙がまっすぐに立ちのぼっていった。
そして武志といえば、専務室ではなく今日も総務フロアの窓際の席にいる。
「専務、いい加減上の部屋を使ってくださいよ」
「ここでいい。ここが一番現場がよく見える」
机の脇には麦わら帽子が二つかかっている。金曜の夜だけは定時で席を立つ。仙台の妻が駅で待っているからだ。窓の外の植え込みは今日も綺麗に整えられていた。



