「動画の面倒は直樹さん夫婦に見てもらってください。」
長男の嫁みさが、まるで仕事の引き継ぎでもするかのような口調でそう言った。私は一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「それってどういうこと?」
「お母さん、この家、賃貸ですよね。それに年金も月9万円で、家もないしお金もない。その上、介護まで必要になったら、結局こっちに頼ってくるでしょう?」
私は驚きのあまり言葉を失った。そして、ようやく口を開いた。
「ちょっと待って。9万円っていうのは年金じゃなくて、毎月の生活費の話よ。」
しかし、みさは私の言葉を遮った。
「言い訳は聞きたくありません。私たちにも生活がありますから。お母さんの老後まで背負う余裕なんてありませんから。」
私は事実を伝えようとした。この家が賃貸であることには、ちゃんと理由があるのだと。
「この家が賃貸なのには、ちゃんと理由が——」
「家もなければ、まともなお金もないんでしょ! 親の面倒も見てこなかった人の責任を押し付けないでください!」
私は隣に座る長男の浩司を見た。
「浩司、あなたも同じ考えなの?」
浩司は少しだけ目をそらした。
「悪いけど、俺もみさと同じだ。俺たち、近いうちに遠くへ引っ越すことも決まってるし。そして、これからは直樹を頼ってくれ。」
みさが続ける。
「面倒なことにならないよう、ここではっきり言います。新しい家にも来ないでください。そして、絶縁でいいです。」
私は2人の顔を見つめ、最後にひとつだけ聞いた。
「本当にいいのね。」
みさは鼻で笑った。
「それ、絶縁される側が言うセリフですか?」
その時の2人はまだ知らなかった。私たち夫婦がなぜ30年近くも自分の家を持たずに賃貸で暮らしていたのかを。
—
私の名前は千鶴、65歳。夫の正は3年前に病気で亡くなった。私たちには2人の息子がいて、今では2人とも家庭を築いている。長男の浩司は今年40歳。妻の名前はみさ。次男の直樹は今年35歳。妻の名前は沙織。
私は長年、地元の会社で経理の仕事をしていた。65歳で無事に定年退職し、年金生活に入った。夫を亡くしてからも、2人の息子一家が時々遊びに来てくれて、孫たちと食事をする。そんな日々を、私は幸せだと思っていた。
特に次男夫婦の直樹と沙織は、夫の正が入院していた頃から、何かと私たちを気にかけてくれていた。次男の嫁である沙織の気遣いは素晴らしく、「作りすぎちゃいました」と言って食事を持ってきたり、直樹は仕事帰りに正を病院へ連れて行ってくれたりした。
だからと言って、長男夫婦の浩司とみさと仲が悪いわけではない。私は2人とも、同じように息子だと思っていた。
そんなある日、家族で夕食を食べていた時のことだ。
「お母さん、1人になって生活費ってどれくらいかかってるんだ?」
浩司が何気なく聞いた。私は何気なく答えた。
「今なら9万円くらいかしら。食品もそんなにかからないし、贅沢もしないからね。」
みさの箸が止まった。
「9万円……。それで全部ですか?」
「大体そんなものね。」
私は月々使っている生活費の話をしたつもりだった。ところが、みさはそれを年金額だと勘違いしたようだ。
さらに浩司が何気なく聞いた。
「でもまあ、この家のローンはもうないんだろう?」
私は笑った。
「ローン? そんなものないわよ。」
みさの顔が明るくなった。
「ですよね。さすがに持ち家なら。だって、ここ賃貸だもの。」
2人の動きがぴたりと止まった。
「は? 浩司、賃貸、この家がそうよ。知らなかったの?」
浩司は本気で驚いていた。彼が高校生の頃に私たちはこの家へ引っ越した。建てたばかりの一軒家だったため、てっきり父親が購入したものだと思っていたのだろう。
じゃあ、とみさが聞いた。
「お母さんは、家を持ってないんですか?」
「持ってないわよ。でもね、それには理由があるんだけどね。」
みさの表情が、その瞬間から変わった。そして数日後、2人が突然家へやってきて、絶縁宣言をされた。
年金9万円、持ち家なし。その2つだけで、私は将来、息子夫婦へ寄生する母親に変換されていた。
「介護なんて絶対無理です。送り迎えとか、そういうの期待しないでください。」
まだ元気に歩いている私へ、よくそんなことを言えるものだ。それでも、私は引き止めなかった。
「分かったわ。あなたたちが決めたことなら。」
浩司は一瞬だけ寂しそうな顔をした。でも、その日、みさと一緒に帰って行った。
—
2人が帰った夜、私は正の写真の前に座った。そして、30年以上前のことを思い出していた。
まだ息子たちが小さかった頃、私たちは本気でマイホームを買おうとしていた。頭金も貯まっていた。だが、正が言ったのだ。
「千鶴、俺たちの家は本当に必要か?」
「え?」
「俺たち2人なら賃貸でも十分暮らせる。そして、その分を浩司と直樹が大人になった時に、家を持つ手伝いをしてやらないか。」
私は驚いた。
「2人分ってこと?」
「もちろん。兄弟で差をつけたくないからな。」
そこから私たちは家を買うのをやめた。広くはない賃貸で暮らし、車も長く乗る。外食もほどほどにして、旅行も年に1度。2人で働いて、少しずつ、少しずつ、息子たちのためにお金を貯めた。
正が亡くなる直前にも言っていた。
「2人が家を持つ時は、俺たちの貯金を役立ててやれたらいいな。」
私はその約束を守るつもりだった。あの日までは。
—
絶縁から1ヶ月後、次男夫婦の直樹と沙織を呼んだ。
「2人とも、一緒に暮らさない?」
2人は驚いた。
「どうしたんだ、母さん?」
「今すぐじゃなくていいの。実はね。」
私は初めて、賃貸を続けてきた理由を話した。2人とも、しばらく言葉が出なかった。やがて沙織が目に涙を浮かべた。
「そんな……お父さんとお母さんは、自分たちの家を我慢してたんですか?」
「我慢ってことじゃないわ。ここも十分暮らしやすかったから。」
直樹は言った。
「でも、そのお金は母さんが持っててよ。俺たち、受け取れないよ。」
私は笑った。
「私も住む家を建てたいのよ。それならいいでしょ。」
何度話しても2人は遠慮した。だから最後は私が押し切った。必要な手続きをして、私も一緒に住める家を建てることにしたのだ。完全な二世帯住宅ではない。でも、私の部屋があり、お互いの生活も守れる。そんな家。
さらに、新しいミニバンも用意した。
「これは受け取れないよ。」
直樹は慌てた。
「条件よ。」
「条件?」
「これから病院とか買い物とか、たまに送り迎えしてちょうだい。」
すると沙織が言った。
「何言ってるんですか? そんなの、車を買ってもらわなくてもしますよ。」
「だからよ。私が気兼ねなく頼みたいの。」
2人は何度も何度も「ありがとう」と言ってくれた。
—
新居で暮らし始めて2ヶ月ほど経った頃、玄関のチャイムが鳴った。出ると、長男夫婦の浩司とみさが立っていた。絶縁以来の対面だ。
みさは家と駐車場のミニバンを交互に見ていた。
「どういうことですか? 何が。この家、それにあの車。直樹さんたちに買ってあげたんですか?」
私は答えた。
「家は私も住んでるでしょ。車は、送り迎えをお願いする代わりよ。」
すると浩司が、信じられない言葉を口にした。
「おい、こういうのって、普通、長男の俺がもらうんじゃないのか?」
私は耳を疑った。
「何が?」
「家だよ。父さんが貯めてた金なんだろう。本来、俺にも同じだけもらう権利があるだろう。」
みさも勢いを取り戻した。
「そうですよ。長男を飛ばして次男に家なんて、おかしいでしょ。」
私は静かに笑った。
「絶縁って言ったのは、そっちでしょう。」
2人が黙る。
「頼られたくない。介護は嫌。遠くへ引っ越す。最後には新居にも来るな。私は1つずつ、2人が言った言葉を返した。そして——」
「『直樹を頼れ』って言ったのは、あなたたちよ。」
「でも、絶縁と財産は別でしょ。」
私は思わず笑った。
「随分都合がいいのね。家族としての面倒は見たくない。でも、家族としてもらえるお金は欲しいって言うの?」
浩司が言った。
「でも俺は息子だ。長男なんだぞ。」
私は浩司を見つめた。
「お父さんと私は、確かにあなたのためにお金も貯めてたわ。」
みさの目が輝いた。
「ほら——」
私は続けた。
「自分たちの家を買わずにね。」
2人の笑顔が消えた。
「あなたが貧乏だと思って見下したあの賃貸はね、あなたたち兄弟のためにお父さんと私が選んだ家だったのよ。」
浩司が呆然とした。
するとみさが叫んだ。
「じゃあ、私たちの分を現金でください。今すぐに。」
私は首を横に振った。
「いやよ。」
「どうして?」
「これは遺産とかじゃないもの。私はまだ生きてるでしょう。そして、私たち夫婦が働いて、節約して貯めたお金を、誰と暮らすために使うか決めただけよ。」
みさの顔が歪んだ。
「そんなの、ずるいじゃないですか。」
「違うわ。直樹たちは、私に何かあった時、いつも手を差し伸べてくれた。でも、それ以上に大事なのは、私と家族でいたいって言ってくれたこと。あなたたちは、自分から家族をやめたのよ。」
浩司は何も言えなかった。みさは最後まで納得しなかった。
「こんなの知らない。もっと早く理由を説明してくれれば——」
私は思わず言った。
「あの日、説明しようとしたわよ。」
みさの顔が固まる。
「この家が賃貸なのには理由があるって私が言った時、『言い訳は聞きたくありません』って遮ったでしょ。完全な沈黙。私は最後に言った。」
「だから聞いたのよ。『本当にいいのね』って。でも、あなたは笑ったわよね。」
みさは何も言えなくなった。
それでも最後まで腑に落ちていない様子の2人が帰った後、沙織が心配そうに聞いた。
「お母さん、大丈夫ですか?」
私は笑った。
「平気よ。」
すると直樹がぽつりと言った。
「母さん、本当にありがとう。でも、俺、家をもらったから母さんを見るんじゃないからね。」
沙織も頷く。私はその言葉と表情だけで、十分だった。
—
私は今でも毎月使う生活費は9万円前後だ。豪華なものはほとんど必要ない。でも、朝起きれば孫の笑い声が聞こえる。買い物へ行けば、沙織が「荷物持ちますよ」と言ってくれる。病院の日には、直樹が「何時に出ますか」と声をかけてくれる。
私は思う。老後の豊かさは、持ち家があるか、年金がいくらか。そんな数字だけでは決まらないのだと。
30年、賃貸に住んだ私たち夫婦が本当に残したかったもの。それは家そのものではなく、困った時に「家族だから」と自然に手を差し伸べられる、そんな家族だったのかもしれない。



