「中卒の企画書はシュレッダー行きだな。」
その一言とともに、男は手にした書類をシュレッダーへ押し込んだ。ガリガリと紙を刻む音が響き、床に細い紙の帯が落ちていく。すかさず後ろに控えていた腰巾着の男が、へらへらと追従した。
「いや、さすがっす部長。こんなのどうせ学歴ゼロコンビの落書きっすよ。処分して正解っす。」
シュレッダーの脇には、今の作業着を着た一人の老人が黙って立っていた。刻まれていく紙を、ただ静かに見つめている。
その瞬間、若い社員の青年が声を荒げた。
「部長!それ、社長が作られた資料です!」
「はあ?」
勝ち誇っていた男の顔が、見る見る青ざめていく。たった今シュレッダーにかけたその紙切れこそ、社長が会社の命運をかけて用意した、たった一つの原本だったのだ。
紙片を拾い集めるその老人は、ただ静かに告げた。
「壊すのは一瞬だ。あんたが捨てたものの本当の値打ちを、時期に嫌でも知ることになる。」
声を荒げぬこの老人が、一体何者なのか。中卒と笑った男は、まだ知るよしもない。
翌朝から、肩書きだけで人を裁いてきた男の世界が、音を立てて崩れ始める。
これは、地味な老人のたった一つの手が、傲慢な男に静かな鉄槌を下す物語。
朝の六時。あけぼの精密工業の工場には、まだ誰も来ていない。立花久は一番乗りで通用口の鍵を開け、作業台を一つずつ布で拭いていく。六十八歳になった今も、その手順を五十年以上変えたことがない。
すり切れた紺の作業着に、つま先の色が抜けた安全靴。胸ポケットには、古い手回しのマイクロメーターを一つ忍ばせている。久はそれを取り出し、柔らかい布で丁寧に磨いた。目盛りは擦り減って読みにくい。それでも久の指は、寸分の狂いもなくその数字を覚えている。
定年を過ぎても、久は嘱託として現場に残っていた。だがここ数年で入った若い社員たちの目に映る久は、一日中ただ掃除をしているだけの老人だった。決まった担当も持たず、機械の前にいる時間より箒を持っている時間の方が長い。
「ねえ、あのじいさんって、結局何の人?いっつも掃除してるけど。」
「さあ、嘱託らしいけど、何の嘱託なんだか。社長の情けで置いてもらってんじゃない?」
そんな陰口は、久の耳にも届いている。だが言い返すこともなく、今日も黙って雑巾を絞っていた。
久がこの会社に来たのは、十五歳の時だった。家の事情で高校へは進めず、中学を出たその足で働き口を探した。だが中卒の少年を雇ってくれるところはどこにもない。久は町場を一件ずつ尋ね、頭を下げては断られて回った。
何件目かに辿り着いたのが、あけぼの精密の工場だった。
出てきた先代の社長は、痩せた少年を上から下まで眺めていった。
「お前に、何ができるんだ?」
答えに詰まる久に、先代は古い金具を一つ放って、「磨いてみろ」と顎で示した。
久は半日、無心でそれを磨き続けた。光に輝いた金具を見て、先代の目の色が変わる。
「おお、お前のその手はいい手だ。会社の宝になるぞ。」
そう言うと、先代は自分の胸ポケットから古い手回しのマイクロメーターを抜き、久の手に握らせた。
「これで、その手をもっと確かにしろ。」
気休めの言葉ではなかった。久にとっては、生まれて初めて自分を認められた瞬間だった。あの日もらったマイクロメーターは、五十年経った今も久の胸ポケットで光っている。
それからの久は、金属の表面に取り憑かれた。どれだけ磨いても目に見えない傷が曇りを生む。曇りゼロの鏡のような面を作れないか。来る日も来る日も試作を重ねた。同僚には笑われた。中卒が学者の真似か、と。研究と呼べる設備もない。独学の十五年は、報われる保証のない長い夜の連続だった。
何度も諦めかけた。試作が割れる度、自分の手を恨んだ夜もある。それでもやめなかったのは、先代のあの一言があったからだ。
あの人が宝だと言ってくれたなら、宝にして見せる。
十五年目の冬。久の手は、ついに思い描いた面を産んだ。だが久はそれを誇ることもなく、また黙って現場に立ち続けた。
今、その久の背中を追いかける若者が一人いる。三宅洋太、二十三歳。高校を中退して入った、不器用な弟子だ。この朝も洋太は、前日の仕上げに一人で頭を抱えていた。
「師匠、どうしてもここで曇りが出るんです。何度やっても。」
久は黙って洋太の手元を覗き込み、指先で工具の角度をほんの少し変えてやった。
「力で押すんじゃねえ。金属に聞くんだ。どうされたいかってな。」
「聞く、ですか?」
「ああ。手が覚えるまで、何べでもな。」
半信半疑のまま、洋太はもう一度工具を握り直した。教わった通り力を抜いて、金属の声を聞くように刃を当てていく。すると、あれほど何度やっても消えなかった表面の曇りが、嘘のようにすっと引いていった。
磨き上がった面が、朝の光を鏡みたいに弾き返す。
「え、嘘でしょ?すげ、すっげえ。師匠、曇り、完全に消えました。」
久は何も言わず、口元に深い皺を寄せて小さく笑った。そして作業に戻っていく。穏やかな朝だった。
その朝、あけぼの精密の朝礼に見慣れない男が立っていた。仕立てのいい紺のスーツに、手首で光る高級腕時計。本社から開発統括部長として送り込まれてきた高島である。年は四十三。現場に漂う油の匂いに、早くも鼻をつまんでいる仕草をしていた。
「本社から来た高島です。一つだけ言っておく。僕が口を聞くのはステークホルダー、つまり決定権を持つ人間だけだ。現場でネジを締めてるだけの人と無駄話をする気はない。」
それだけ言うと、高島は腕時計に目を落とした。もう朝礼には興味がないという顔だった。本来ステークホルダーとは、利害に関わるもの全てを指す言葉だ。だが高島はそれを「偉い人間」とだけ思い込んでいる。
そして高島の斜め後ろに立っていた若い男が喋り始めた。
「あー、僕、部長付きの沼田っす。本社から一緒に来ました。いや、さすが部長。え、皆さん聞きました?要するにですね、部長に話しかけていいのは偉い人だけってことっす。現場のおじさんたちは黙って二時閉めときゃオッケーって話。以上、よろしくっす。」
朝礼が終わると、高島は沼田だけを従えて現場を見て回った。機械には指一本触れず、油の染みを避けて歩く。その足が、作業台の久と洋太の前で止まった。だが高島は二人に声をかけようとはしない。
「沼田。あれ、誰?」
「ああ、あれっすよ。部長、例の学歴ゼロコンビ。中卒のじいさんと、高校中退のガキ。じいさんの方、何の担当かもよくわかんなくて、まあ掃除のおじさんみたいな感じで置かれてるだけっす。」
「ふうん。いる意味ある?」
「さあ、どうなんすかね。少なくとも僕にはわかんないっす。」
目の前で品評されても、久は手を止めない。ただ隣で顔を赤くした洋太の袖口を、ぐいっと引いた。落ち着けという合図だった。
「おはようございます。立花と申します。」
久の挨拶には答えず、高島は作業台の端へ目をやった。手のひらほどの古びた手帳が一冊置かれている。久が長年書きためてきたノウハウが、小さな字でびっしり綴られた一冊だ。紙は手垢で黒ずんでいる。
「何これ?手書き?」
「それは表面処理の…」
「ああ、説明はいい。見れば分かる。エビデンスもデータもなし。完全に時代遅れだな。こういうのが生産性を下げてんだよ。」
高島はパラパラとページをめくっただけで、一行も読まずに手帳を放った。それが床に滑り落ちる。振り返り様、高島の革靴がその上をぐっと踏みつけた。
「あ、それ、師匠の…」
「ああ、踏んじゃいましたね。ま、ただの手帳でしょ。」
「ちょっとそれは…」
洋太が言いかけると、久は静かに首を横に振った。洋太は言いかけた言葉を無理やり喉の奥へ押し戻す。久は屈んで手帳を拾い上げると、表紙についた靴の跡を指の腹で払い、折れたページを直して胸ポケットに収めた。
「掃除、ちゃんとやっといてよ。それくらいはできるでしょう。この歳でも。」
沼田と顔を見合わせ、高島が喉の奥で笑う。二人の革靴の音が、現場の奥へと遠ざかっていった。
その背中を、久は黙って見送る。怒りはなかった。ただ、自分が長年書きためてきたあの手帳を一行も読まれず、靴で踏みつけられたことだけが、胸の奥に小さな熱を残した。
数日後、会社に大きな商談が動き始めた。海外の医療機器メーカーからの大口の受注。極限部品の表面処理にかけては世界でも指折りと言われるあけぼの精密の、社運をかけたプロジェクトだった。受注額は、これまでの会社の規模からすれば桁が違う。
その朝、会議室に進捗会議のために社員が集められた。久と洋太も末席に並んで座っている。プロジェクトマネージャーを任された高島が、ホワイトボードの前で得意げに横文字を並べていく。
説明が一区切りしたところで、洋太がおずおずと手を挙げた。
「あの、部長。その納期だと、表面処理の仕上げが間に合いません。あの工程は機械じゃなく手作業で一つずつ詰めていくので、どうしても時間が…」
「はい、ストップ。」
高島は洋太の言葉を途中でぴしりと遮った。
「手作業?今時、それ自体がもう非効率なんだよ。」
「で、でも、その仕上げをやってるのは…」
「誰がやってようと関係ない。データで詰めて。以上。」
取り付く島もなかった。代わりに沼田がニヤニヤと口を挟む。
「いや、部長、この子に言っても無理っすよ。洋太君、高校も出てない上に、あそこの中卒のじいさんにべったりで。社内じゃ学歴ゼロコンビって有名な二人なんすよ。」
高島の視線がちらりと久を滑った。値踏みするような嫌な目だ。名前を覚える気すら、この男にはなかった。
「じゃあ、皆さんにも聞きたいんだけどさ。中学しか出てない人の勘とデータ、どっち信じます?普通に考えて。」
誰も答えない。社員たちは手元の資料に目を落としてやり過ごすしかなかった。
「いや、本当それなんすよ。学歴ゼロで手が覚えてるとか言われてもね。今は令和っすよ。令和はデータが全てしょ。」
洋太は油の染みた軍手の中で指を強く握り込んだ。だが久は眉一つ動かさない。ただ隣の弟子の腕に、黙って手を置いた。
その時、低く通る声が会議室に響いた。
「高島部長。」
いつの間にか後ろの扉が開いていた。社長の今野正一が入口に立っている。どうやらやり取りの最後を聞かれていたらしい。穏やかな人だが、その目は笑っていなかった。
「その仕上げの工程は、うちの心臓です。効率だなんだと、そう簡単に切り捨ててもらっては困る。」
その一言で、高島の態度が手のひらを返したように変わった。
「あ、社長。いえいえ、とんでもないです。軽く見てるだなんて滅相もない。むしろ僕はね、この現場の技術を心からリスペクトしてまして。ええ、本当に。ただね、せっかくの素晴らしい工程をもっと効率的に、もっとスケーラブルにできないかと、会社の未来のためにあえて厳しいことを申し上げてるだけでして。」
さっきまで現場を見下していた男が、社長の前では別人のように腰を折る。べらべらと並べ立てる横文字に、社員たちは白けた目を向けていた。
「こういうのはいい。」
今野社長は短く言うと、一同を見回して告げた。
「来週、社運をかけた重要な契約の締結があります。その肝となる書類は、今私が自分の手で書き上げているところです。これが整って初めて、契約は前に進む。書類の管理だけは、最新の注意を払ってもらいたい。」
「ええ、もちろんです。社長。」
「おい、聞いたな。社長の大事な書類だ。お前ら、心して扱えよ。粗末にしたら承知しないからな。」
異様に受け合う高島を一瞥して、今野社長は会議室を出ていった。その背中が見えなくなった途端、高島は鼻を鳴らした。
「ったく、紙切れに大げさなんだよ。どうせまた手書きのあれだろ。人的なんだよな、この会社は。」
「すよね。社長も現場上がりだから、そういうとこ古いっすよ。」
会議が終わり、社員が散っていく。洋太は顔を上げられずにいた。
「師匠、すいません。俺が余計なこと言ったから。」
「いいや。お前は正しいことを言った。仕上げはごまかしが効かねえ。それでいいんだ。でも、あんな言われ方、気にするな。手は嘘つかねえからな。」
久は胸ポケットから例の手帳を取り出すと、今日気づいたことを小さな字で書き出した。何を言われても、この老人の朝は変わらない。
それから数日後の夜、現場には久と洋太だけが残っていた。居残りで仕上げの手直しをしていた二人の元へ、今野社長が一人でやってくる。手には分厚い茶封筒を抱えていた。
「立花さん、例の契約の書類、ようやく書き上がったよ。この中の仕上げの取り決めのところ、数字に無理がないか、あんたに見てもらえないか?」
「私でよければ。」
「あんたが毎日見てる工程だ。あんたの目が一番確かだからね。」
封筒を渡すと、社長は少し声を柔らげた。
「それとね、この契約のまとめ役は高島部長に任せてあるんだ。本社から来たばかりで不慣れだろうが、ここらで一つ大きな手柄を立てさせてやりたくてね。あの人にもいい顔をさせてやりたい。明日の朝で構わない。頼むよ。」
社長が帰って行くと、洋太が頬を膨らませた。
「師匠。なんで、あんな部長のために師匠が手を貸すんすか?あの人、師匠のことあんなバカにして。手柄なんて絶対やりたくないっすよ。」
久は封筒の書類を作業灯にかざしながら、低い声で言った。
「そんな小さいことにこだわるな。俺たちが向き合ってんのは、部長でも手柄でもねえ。この手が仕上げたもんが、海の向こうで誰かの機械を動かす。誰かの役に立つ。目指してんのはそっちだろうが。」
「はい。すいません。」
封筒の中には、夜鍋して書いたのだろう、貴重な手書きの契約書類が収まっている。社長が三週間、関係先を一つずつ頭を下げて回り、社運をかけてまとめた、たった一つの原本だった。
翌朝、久は書類を作業台に広げ、洋太に仕上げの数字を一つずつ確かめさせていた。
「ここの数字は、現場の手が分かってねえと書けねえ。社長がそれを俺たちに託してくれたんだ。」
「はい。ちゃんと覚えます。」
二人が顔を寄せていた、その時だった。
足音もなく、高島が現場に入ってきた。このところ「効率化」と称して、紙の資料を片端からデータ化しろと現場を回っている最中だ。その視線が、作業台に広げられた手書きの書類で止まる。
「ここでも手書き?はあ、勘弁してよ。」
横からひょいっとそれをつまみ上げ、ひらひらと振ってみせる。
「ねえ、これだよ、これ。非効率がこの会社をダメにしてんの。いい機会だ。みんな、よく見てなよ。」
「あ、部長。それは…」
「中卒のおじさんが、ご立派な企画書こさえちゃってさ。こういうのは、こうすんだよ。」
高島の口元がにやりと釣り上がった。
「中卒の企画書は、シュレッダー行きな。」
止める間もなく、高島は書類をシュレッダーの口へ差し込んだ。
「やめろ!それは…」
駆け寄ろうとした久の前に、沼田がさっと立ちはだかる。
「おいおい、勝手に騒ぐなって。部長が処分してんだから。」
ガリガリと無情な音が鳴った。社長が一字一字書き上げた文字が、細い帯になって下のくずかごへ落ちていく。几帳面な手書きがバラバラの切れ端に変わっていき、最後の一枚が吸い込まれて機械が止まった。
我に返った洋太が、悲鳴のような声をあげる。
「ああ、何してんだよ!この前の、あの会議の大事な…」
動転のあまり、洋太の言葉はバラバラだった。高島は本気で意味が分からないという顔をした。作業台の上に会社を左右する書類があるなど、想像もしていない。
「おいおい、落ち着けって。なんすか?学歴のないおじさんたちが書いたメモかなんかでしょ。そんなの、シュレッダーしたってどうってことないでしょ。」
「違う!あれ、来週の契約の取り決めが全部…あそこに、百億の話なんですよ!」
「百億?ああ、あれね。そのプロジェクトを回してんのは、この俺だぞ。だが、書類だろう。契約は契約、書類は書類だ。また書けばいい話を、いちいち騒ぐなって。」
「書き直すって…あれは、部長の大仕事を支えるための、たった一つの書類なんですよ!」
「うるさいな。なんだよ、支えるって。俺は聞いてねえし、頼んでもいない。余計なお世話を勝手にされても困るんだよ。」
「それ、社長が作られた資料です。」
「は?」
その時だった。それまで黙っていた久が、低い声で口を開いた。
「社長が三週間、関係先を一つずつ頭を下げて回り、社運をかけて自らの手でまとめた原本です。高部長、あなたに大きな手柄を立てさせてやりたいと、社長はそう言っておられた。」
低く、淡々とした声だった。だがその一言は、現場の誰の耳にもはっきりと届いた。高島の顔が完全に青ざめた。膝がわずかに揺れる。
「う、嘘だ。嘘だろ。そんな大事なもんを…なんで、こんな…」
目を泳がせた高島が、すがるように沼田を見た。
「そっすよ。こんな紛らわしい場所に大事なものを置いてた現場が悪いんす。普通、こんな汚い作業台に大事な書類は置かないっす。完全に現場の管理ミスっす。」
「そ、そうだ。その通りだ。俺は悪くない。中卒のじいさんの机に置いてある紙なんか、誰がゴミと思わないんだ。むしろ俺は被害者だろ。」
「ひ、被害者?って、大体俺はプロジェクトマネージャーだぞ。こんな紙切れの管理なんざ、現場の雑務だ。俺がいちいち見るわけないだろう。」
「ですよね。部長は大局を見るのがお仕事すから、こんな細かいこといちいち部長の責任にされたらたまんないっすよね。」
吐き捨てるように言い残すと、高島は逃げるように現場を出ていった。沼田がへらへら笑いながらその後を追う。
後に残ったのは、くずかごに積もったバラバラの切れ端だけだった。久は何も言わない。ただ黙って、社長の几帳面な文字の断片を一枚ずつ拾い上げていく。その背中を、洋太はただ見ていることしかできなかった。
現場はしんと静まり返っていた。久の胸の奥に、もう消えそうにない熱が宿っていた。
書類が破棄されたという知らせは、その日のうちに社長室へ届いた。今野社長が現場に降りてきた時、その顔からいつもの穏やかさは消えていた。
くずかごに残った細い紙の帯を見て、社長はしばらく動けない。
「これが、全部か。」
「申し訳ありません。私の机に置いておいたばかりに。」
「あんたが謝ることじゃない。」
社長はバラバラの切れ端を一つ、指でつまみ上げた。三週間頭を下げて回った日々が、その指の中で乾いた音を立てた。
ほどなく現場に呼び出された高島が、社長の前で深々と腰を折る。
「社長、本当に申し訳ありません。紛らわしい場所に置いていた、現場の管理に問題がございまして…」
「高部長。」
低い声が、高島の言い訳を遮った。
「来週の契約締結は、あの取り決めがなければ成立しない。相手方の合意も、署名の段取りも、全てあの一枚に集めてあった。分かるか?あの一枚で、会社が傾くんだ。」
「来週まで、たった一枚…」
「ああ。でしたら、次はパソコンで作れば、なんとか間に合うかと…」
「何週間かけて集めたものを、どうやって来週までに作り直すんだ。」
社長はそれ以上は責めなかった。ただ深い疲れの滲んだ目で、高島をしばらく見ている。
「君に任せたのは、私の判断だ。その責任は、私が取る。」
そう言い残して、社長は重い足取りで現場を出ていった。
その丸まった背中を、久は黙って見送る。
あの人は、先代の一人息子だ。自分を「宝」だと言ってくれた人の、たった一人の遺児。あの背中を、こんな目に合わせるわけにはいかない。
胸の奥の熱が、はっきりとした形を結んだ。久は社長の跡を追って廊下へ出た。
「社長。あの、取り決め、もう一度、私らに集め直させてください。」
「立花さん。気持ちはありがたい。だが、三週間かけたものを、来週までになんて…」
「中身は、洋太が組み直します。あいつはもう、仕上げの数字が分かってる。頭を下げて回るのは、私がやります。間に合わせます。」
社長はしばらく久の顔を見ていた。そして深く頷いた。
「そうか。頼む。あんたが言うなら、信じるよ。」
その日から、洋太が走り回った。久に言われた通り、洋太は現場と取引先を往復し、消えた取り決めの中身を一から組み立て直す。仕上げの数字を測り直し、図面に起こし、相手先へ足を運んでは確認を取る。朝から晩まで、靴底が擦り切れるほど歩いた。
一方の久は、現場の片隅で古びた手帳を片手に電話をかけ続けた。何十年もこの手を通して付き合ってきた相手だ。
「ご無沙汰しております。立花です。あけぼのの立花です。」
電話の向こうで、相手の声がふっと変わった。
「立花さん?ああ、あけぼの。お久しぶりです。いや、あなたから直接なんて、珍しいこともあるもんだ。」
その声は、さっきまでの木で鼻をくくったような調子とは、まるで違っていた。長く付き合ってきた相手だけが見せる、気の置けない柔らかさだ。あんなに塩対応だった相手が、師匠の名前一つでこうも変わる。洋太にはそれが不思議でならなかった。
「無理を承知でお願いがあります。あの取り決め、もう一度だけ力を貸してもらえませんか。中身はうちの若いのがもう全部組み直しました。あとは、あなたの一筆だけなんです。」
それでも相手の返事は、すぐには出ない。一度破談になった話だ。簡単に戻るものではなかった。
久は何度も頭を下げ、ぽつぽつと言葉を重ねていく。洋太はその背中を、祈るように見つめた。会社の命運を握る来週の締結まで、もういくらも残されていない。
数日後、現場を通りかかった高島が、まだ電話をかけ続ける久を顎で指した。
「沼田、見ろよ。あれ、まだやってんの?あのじいさん。」
「あの、でもいいっすか?一応、部長のプロジェクトっすけど。」
「いいんだよ。責任は私が取る。社長が自分でそう言ったんだ。俺は痛くも痒くもない。大体な、三週間かかった話を、中卒が電話一本でひっくり返せるわけないだろう。どうせ失敗する。そしたら、現場が勝手に無理しただけって話で終わりさ。」
「ああ、なるほど。さすが部長。抜かりないっすね。」
高島は久のそばまで歩み寄ると、わざと聞こえるように言い放った。
「無駄無駄。中卒のじいさんが頭下げたところで、何が変わるんだかねえ。」
久は受話器を置くと、ゆっくりと高島を見た。怒りではない。そこには見えない静けさがあった。
「部長さん。一つだけ言わせてください。壊すのは一瞬だけどな。人の信用ってのは、そんなに安かねえ。あんたが今日捨てたものの本当の値打ちを、時期に嫌でも知ることになる。」
「はあ?何それ?脅し?」
笑い飛ばそうとした高島だが、なぜか最後まで笑いきれなかった。久の目の奥で、見たことのない何かが消えずに燃えていたからだ。
久はまた受話器を取った。窓の外はもう暮れ始めている。
久が動き出してから、数日が過ぎた。洋太が足で組み直した中身と、久が頭を下げて繋ぎ直した信頼。その二つで、破談になりかけた話が一件また一件と息を吹き返していた。
だが、それを面白く思わない男がいた。高島である。久が立て直せば立て直すほど、中卒のじいさんと見下してきた自分の立場がなくなる。追い詰められた末に高島が選んだのは、詫びることではなかった。現場の手柄をそっくり横取りすることだった。
その夜、人のいなくなった部長室に、高島は沼田だけを呼びつけていた。
「沼田。あの契約、今まさに立花と洋太が立て直してる最中だろう。その成果を、俺の主導で再建したことにすればいい。」
「え、でも、実際に動いてるのは立花さんたちで…」
「だから、誰が動いたかなんて、本社は知らねえんだよ。報告書を書くのはこの俺だ。『現場の不手際で飛びかけた契約を、私が主導で立て直した』。そう書けば、俺は無能から一転、救世主だ。」
「うわあ、さすが部長。悪知恵だけはよく回りますね。」
「いいか。立花たちには絶対に気づかれるな。あいつらが流した汗は、全部俺の手柄になるんだ。」
その夜のうちに、高島は本社へ中間報告書を送り付けた。そこにはありもしない自分の活躍と、現場の無能ぶりがもっともらしく並べてある。久も洋太もまだ知らない。歯を食い縛って取り戻しつつある契約が、横からそっくり奪い取られようとしていることを。
だが、その実りにもう一本の薄汚い手が伸びていた。
三週間後、一度は失われた契約が、ついに締結の日を迎えた。洋太が血眼になって取り戻した全ての関係先の合意は、以前よりも固く結び直されていた。洋太の目の下には濃い隈が残っていたが、その顔はどこか誇らしげだった。
締結を前に、本社の重役も同席する報告会が開かれた。会議室には社長の今野、顧問弁護士の桐生、役員たち、そして取引先の担当者までが顔を揃えている。久と洋太も末席に控えていた。
そこへ、高島が胸を張って入ってきた。送り付けた中間報告書が本社で高く評価されたと聞いて、すっかり救世主気取りである。沼田がもみ手で後に続いた。
「いやあ、皆さんお疲れ様でした。現場が一度は飛ばしかけた案件を、プロジェクトマネージャーであるこの私が主導を取って立て直しまして…」
「高島君。その主導だがね。具体的に君は、どの取引先と何を話したのかな。」
「え、えっと。私は全体を統括する立場として、各方面に方針を徹底させまして…」
その時、取引先の担当者が不思議そうに口を開いた。
「失礼ですが、私、あなたとは一度もお会いしてませんよ。何度も頭を下げに来てくださったのは、立花さんとそちらのお若い方です。」
「え、あ、ああ、もちろん。足を運んだのは彼らですよ。私は彼らを動かした司令塔でしてね。現場の尻を叩くのも、立派な指揮でしょう。」
口を挟んだのは、顧問弁護士の桐生だった。一冊の謄本を静かにテーブルへ置く。
「司令塔ですか?では、その司令塔殿に一つ教えて差し上げましょう。この会社の屋台骨、無魔共面処理。その特許の権利者は、たった一人の名義です。立花久さん。あなたが『学歴ゼロコンビ』と笑って顎で使ってきた、あのお方ですよ。」
高島の動きが、ぴたりと止まった。
「は?と、特許?あ、あの掃除のじいさんが?」
「うちは長年、立花さんから特許をお借りして製品を作らせてもらっている。あの人が首を横に振れば、この会社の主力は一つも世に出ません。あなたが見下してきたその人こそ、この会社を生かしている宝の本人なんです。」
高島の顔から、音を立てて血の気が引いた。膝ががくがくと震え、額に脂汗が滲む。
「う、嘘だ。そ、そんな。ただの中卒の掃除のおじさんが、特許なんて…僕は聞いていない。何も聞いていないぞ。」
「では、これは。」
桐生はもう一枚、書類をテーブルへ滑らせた。
「あなたが本社へ送られた中間報告書。『現場の不手際で飛びかけた契約を、私が主導で立て直した』とはっきり書いてあります。」
「これは…その報告書は、部下が私の名前で勝手に出したもので…なあ、沼田。」
高島はとっさに沼田へ話を振った。だが、
「え、ぼ、僕は書いてませんよ。あれは部長が。『これで俺は救世主だ』って自分で送るんだって。ぼ、僕はただ見てただけで…」
「お前!」
腰巾着は、ここぞとばかりに主人を踏み台にした。高島が自分の手で報告書を送った事実だけが、その場に残った。
「高部長。一つだけ教えてくれ。ただの現場のミスだと言うなら、なぜ君は本社に『私が立て直した』などと報告できたんだ。」
「え…」
「立て直さなきゃならんと、最初から分かっていたからだろう。あの書類がもうこの世にないと、自分の手で刻んだんだからな。」
「あ、ち、違う…」
言い逃れを重ねるほど、高島は深みにはまっていく。会議室の誰もが、冷たい目でその姿を見ていた。
「高島部長。法的に整理しておきましょう。一つ、社長が会社の命運をかけて用意した契約書類を、一行も読まずに破棄した。会社資産の重大な毀損。二つ、その損害を隠すため、部下の成果を自分の手柄と偽り、本社へ虚偽の報告を上げた。管理職としての明白な背信。三つ、この会社を生かす基幹特許の持ち主、立花さんの仕事を、足で踏みにじった。懲戒解雇の自由として、これ以上のものはありません。」
社長がゆっくりと立ち上がった。
「高島君。私はね、君に手柄を立てさせてやりたかったんだ。本社から来たばかりの君が、ここで一ついい仕事ができるように。だから私は、あの書類を自分の手で一文字ずつ書いた。その手を、君は一行も読まずに刻んだ。挙げ句の果てに、人のせいにして嘘で塗り固めた。うちの一番大事な人を、土足で踏みつけてな。」
それでも高島は引き下がらなかった。
「で、ですが社長。結果的に契約は取れたわけですし。それに、元を辿れば紛らわしい場所に置いていた現場の不手際でして…」
そこで、社長の声が初めて跳ねた。
「いい加減にしろ。」
机を打つ音が響いた。穏やかなこの男が声を荒げるのを、社員たちは初めて見た。
一呼吸置いて、社長は再び静かな声に戻る。
「高島君。会社は君を懲戒解雇する。本社にも異論はないね。」
「はい。我々も、虚偽の報告書で欺かれた側です。処分に口を挟む気はない。」
万事休したはずだった。だが高島は、最後の悪あがきに出る。
「ふ、不当解雇だ。認められませんよ。訴えますからね。私は。退職金と慰謝料は、きっちり払ってもらえますからね。」
桐生は表情一つ変えなかった。
「どうぞ、ご自由に。ただ、二つ。懲戒解雇に退職金は出ません。それが規定です。そして、あなたが訴えるより先に、会社があなたを訴えます。君が刻んだあの書類が間に合わなければ、この会社が失っていた契約の額は百億だ。その金額を損害として、君に請求する。退職金の話は、それを払い終えてから聞こうじゃないか。」
「ひ、百億?そ、そんな無理だ。払えるわけ…」
がっくりと、高島の膝が落ちた。退職金を取るどころか、一生かかっても返せない数字を背負わされたのだ。
崩れ落ちた高島が、ふと顔を上げる。久と目があった。
「た、立花さん。あんたが一言、許すと言ってくれれば…なあ。頼む。この通りだ。」
久はゆっくりと、高島の前に立った。怒りもしない。勝ち誇りもしない。作業着の胸ポケットから、あの古びた手帳を取り出し、高島の目の前にかざした。靴の跡の残る、染みだらけの表紙。
「これに覚えはあるか。あんたが踏ん付けたやつだ。壊すのは一瞬だったな。けどな、ここに書いてあるのは、俺が五十年、この手で覚えてきたもんだ。あんたには、最後まで一行も読めなかったろう。」
久は手帳を、また大事そうに胸ポケットへ戻した。
「学校や肩書きで測るのは、もうやめなさい。あんたに見えていなかったものは、まだ世の中に山ほどある。」
それだけ言うと、久は背を向けた。高島はもう、何一つ言い返せなかった。
その日、契約は無事に締結された。久が守り抜いた会社の命綱は、これまで以上に太く、海の向こうへと繋がっていく。うなだれた高島が、警備員に促されて会議室を出ていく。その丸めた背中を見送るものは、もう誰一人としていなかった。
報告会が終わった夕方、久はいつものように現場へ戻り、作業台を布で拭いていた。何事もなかったかのような、いつもの背中だった。
「師匠。」
洋太が隣に並ぶ。
「どうして黙ってたんですか?師匠が特許の持ち主だって。会社の命綱だって。一言言ってやれば、あんな部長、最初から黙らせられたのに。」
久は手を止めずに、小さく笑った。
「肩書きをぶら下げて『俺は偉いんだぞ』ってやるのはな、一番つまらねえ生き方だ。俺はただ、いい仕事がしたかった。誰が見てなくても、手はちゃんと覚えてる。それで十分だったんだ。」
「人の値打ちは、学校でも肩書きでも金でもねえ。その人が何を、どれだけ全力で積み上げてきたか。それだけだ。」
久は胸ポケットのマイクロメーターに指を当てた。
「先代に教わったことだ。俺はそれを守ってきただけさ。」
洋太はその横顔を、眩しそうに見ていた。
「さ、続きをやるぞ。仕上げは、ごまかしが効かねえからな。」
「はい。よろしくお願いします。師匠。」
夕日が、二人の作業台を赤く照らしていた。
五年が過ぎた。懲戒解雇と虚偽報告。その二つの言葉は、狭い業界をあっという間に駆け巡った。高島を雇おうという同業は、どこにもない。自慢の海外MBAも、面接ではもう誰も見向きもしなかった。あの百億の賠償は、今も毎月給料の大半を持っていく。手元に残るのは、いつもわずかな小銭だけだ。
あの報告会で高島を切り捨てた沼田も、無傷では済まなかった。自分は「見ていただけ」と主人を売った腰巾着の話は、業界の狭い人脈の中であっという間に広まる。今度は誰も、沼田の言葉を信じなかった。手柄を盗もうとした主人と、尻尾を振って主人を売った腰巾着。どちらも自分の器でしか裏切れない。二人とも、同じ業界を追われていった。
ようやく拾ってくれたのは、何も知られていない小さな部品の下請け会社だった。事務所の隅には、導入したきり誰も使いこなせないパソコンが、ほこりをかぶって眠っている。注文も見積もりも、未だに手書きの書類とファックス。かつて高島が「昭和だ」「非効率だ」と鼻で笑った、その世界のど真ん中だった。
ある日、高島は得意先へ頭を下げに行かされた。納める部品に、どうしても欠かせない表面処理がある。それを一手に担う、業界標準の技術。その名を聞いた瞬間、高島の足が止まった。
「無魔共面処理、ライセンス取得済み。」
得意先の受付に、誇らしげに掲げられたプレート。今や世界中の医療機器を支える、あけぼの精密の立花久の技術だった。
その隣の壁には、額に入った記事まで飾ってある。
「現代の名工」
穏やかに笑う、見覚えのある老人の写真だった。
「お、お願いします。この処理を施した部品を、なんとか分けていただけないでしょうか?」
高島は震える手で、手書きの依頼書を差し出した。窓口に出た若い担当者は、それをちらりと見て、にこやかに押し返す。
「ああ、すいません。こういう手書き、うちも受け付けてないんですよ。効率化で、データで出し直してもらえます?」
「そ、そこをなんとか。急を要してどうしてもいるんです。中身は同じですから、書類でも何とぞ…」
「ああ、はいはい。ルールなんで、データでお願いしますね。」
話は二言もなかった。説明の途中で、やんわりと、けれどきっぱり遮られる。高島の喉が、ヒュッとなった。その言葉も、その仕草も、かつて自分が寸分違わずあの老人にしたものだった。
それでも頭を下げるしかなかった。下げなければ、明日の仕事も回らない。担当者は高島の顔も名前も覚えようとはしなかった。用が済めば、すぐに次の書類へ目を落とす。
すぐに追い返された高島の視界に、もう一度、壁のあの額が入った。
「現代の名工」。穏やかに笑う老人の写真の下に、小さくその名前が添えてある。
「立花」
かつて「中卒の企画書」と笑って刃にかけたその名前を、高島はただ見つめることしかできなかった。
あれから五年。無魔共面処理は、世界中の医療機器を支える、なくてはならない技術になった。その極限の部品が、世界中で人の心臓や命を支えている。あけぼの精密の名は、世界の現場で確かな信頼を得ていた。
久はといえば、相変わらずだった。「現代の名工」と新聞に載っても、表彰をもらっても、久は変わらない。次の朝には、いつもの作業着で誰よりも早く工場の鍵を開けている。
変わったのは、その隣だ。あの朝、曇り一つ消せずに頭を抱えていた洋太は、今では立派な技術者になっていた。無魔共面処理の仕上げを久から託され、一手に担っている。そして今度は、その洋太の後ろを新しい若者が追いかけていた。去年入ったばかりの、不器用な新人だ。
「三宅さん、どうしてもここで曇りが出ちゃうんです。何度やってもダメで。」
洋太は新人の手元を覗き込むと、ふっと笑った。かつて久が自分にしてくれたのと同じように。
「力で押すな。金属に聞くんだ。どうされたいかってな。」
「聞く、ですか?」
「ああ。手が覚えるまで、何べでもな。」
少し離れたところで、久がその様子を目を細めて見ていた。守られていた若者が、いつの間にか誰かを守る側に回っている。それが何よりだった。
その日の仕事終わり、久は洋太を呼び止めた。
「洋太。これをお前に。」
差し出されたのは、あの古い手回しのマイクロメーターだった。五十年前、先代が久の手に握らせ、以来ずっと磨き続けてきた相棒だ。
「師匠?それ、師匠がいつも肌身離さず磨いてる。そんな大事なもの、俺なんかがもらえませんよ。」
「先代から、俺が預かってもらったもんだ。次は、お前の番だよ。お前のその手も、もう立派な宝だ。」
洋太の目から、ぽろりと大粒の涙がこぼれた。五十年前、久自身が先代に言われたのと同じ言葉だった。
よく晴れたある日の昼下がり。久は一人で、墓地の坂を登っていた。辿り着いた墓石の前にしゃがみ込む。そこに眠るのは、五十余年昔、行場のなかった十五の自分を拾ってくれた、先代の社長だ。
「親方。ご無沙汰してます。」
久は胸ポケットから、いつもの手帳を取り出した。靴の跡の残る、染みだらけの表紙を指で撫でる。
「色々ありましたよ。腹の立つこともね。でも、守れました。会社も、あんたの息子も。あんたがくれた、この手で。」
風が墓石の周りの草を、そっと揺らした。
「お前の手は、会社の宝になる。」
あの日の約束。なんとか果たせましたかね。
久はゆっくりと立ち上がる。その背中は、相変わらず地味で小さい。だが、その手だけは、五十年分の確かな重みを持っていた。
工場へ戻れば、若い連中が今日も金属に向き合っている。久は明日も一番で、あの鍵を開けるのだろう。明後日も、その先も。
それが、この目立たない名工の、何より幸せな日々だった。



