おばあちゃん、明日から毎日僕のお迎えに来てくれるんだよね。定年退職祝いの席で、孫の悠太が無邪気にそう尋ねた。ご飯も作って、お掃除も全部してくれるんでしょ?
私は箸を止めた。
「どうしてそう思ったの?」
悠太は母親である長男の妻、香織さんを見ながら笑顔で答えた。
「ママが言ってたよ。」
長男の光一が驚いた顔で妻を見た。
「香織、どういうことだ?」
香織さんは慌てるどころか、開き直ったように笑った。
「だってお義母さん、これから毎日家にいるんでしょ?年金だけでは足りなくなって、息子のお金を頼るかもしれないんだから、その分家事と悠太の世話くらいしてもらわないと。」
今日は私の35年間の勤務をねぎらう席のはずだった。香織さんにとって、私の定年退職は、シンデレラを無料で使えるようになった日だったのだ。
私は財布を取り出し、テーブルの上へ置いた。
「わかりました。それなら今日からお金も家事も、全てきちんと分けましょう。」
私の名前は山下彩子。65歳。今年の6月、長年勤めた会社を定年退職した。60歳で一度定年を迎えた後も、再雇用で5年間働き続け、ようやく仕事を終えたのだ。夫は2年前に病気で亡くなった。現在は私名義の実家で、長男の光一と妻の香織さん、5歳になる孫の悠太と暮らしている。
夫が亡くなった直後、光一から同居を提案された。
「母さんを一人にするのは心配だ。俺たちが一緒なら、悠太もおばあちゃんと過ごせるし。」
私は香織さんが嫌がらないか心配だった。しかし光一は「香織もお母さんと暮らしたいって言ってるから大丈夫だよ」と笑った。香織さんも「お母さんと一緒なら家事や子育てのことも教えてもらえて、私も心強いです」と言ってくれた。
そうして光一家族が私の家へ引っ越してきた。同居を始めた頃は本当に穏やかな毎日だった。香織さんと並んで料理をし、掃除や洗濯も手が空いている方が行う。長男夫婦の帰りが遅い日は、私が悠太を幼稚園へ迎えに行った。
「おばあちゃん、お帰り。」
玄関で抱きついてくる悠太が可愛くて仕方なかった。私は働きながら食費と光熱費の一部を負担していた。家の固定資産税や修繕費はもちろん私が払っている。光一夫婦から家賃をもらったことはない。それでも一緒に暮らす家族なのだから、細かく分ける必要はないと思っていた。
ところが、私が退職すると、香織さんの態度が少しずつ変わった。退職した翌朝、香織さんは笑顔で言った。
「お母さん、これから毎日家にいるんですよね。」
「ええ、急に時間ができて、何をしようか迷っているところよ。」
「だったら朝食はお願いしてもいいですか?」
それくらいならと、私は快く引き受けた。しかしその翌週には「洗濯もお願いできますよね」、さらに数日後には「掃除機は毎日かけてください」「悠太のお迎えと買い物もついでにお願いします」「夕食は6時半までに用意してくださいね」と頼まれるようになった。
私は退職して時間がありましたし、家族の役に立てるならと引き受けた。ところが要求は次第に細かくなっていった。
「おかずは最低でも三品にしてください。光一さんは芋ばかりだと飽きますから。」
「悠太の服は他のものと分けて洗ってくださいね。」
「今日は帰りが遅くなるので、お風呂も沸かしておいてください。」
朝から家族4人分の朝食を作り、洗濯物を干し、家中を掃除する。昼間は買い物へ行き、悠太を幼稚園へ迎えに行く。夕食を作って食器を洗い、翌日の準備をする。仕事をしていた時よりも自由な時間が減っていた。
ある日、友人からお茶に誘われた。久しぶりに外出できると思い、嬉しくなっていると、香織さんが言った。
「何時に帰ってくるんですか?」
「夕方までには帰るわ。」
「夕食の支度には間に合うようにしてくださいね。毎日休みだからって遊び歩かれると困ります。」
胸に小さな棘が刺さったようだった。それでも私は「分かったわ」と答えた。家族と揉めたくなかったのだ。
友人とのお茶を終えて帰宅すると、玄関に大きなダンボール箱が届いていた。有名なブランドの名前が書かれている。
「香織さん、また何か買ったの?」
私が訪ねると、香織さんは慌てて箱を隠した。
「仕事で必要なものですけれど。」
香織さんはジムのパートを週に3日しているだけだ。仕事に必要とは思えないバッグやアクセサリーが少しずつ増えていた。その頃から香織さんは私のお金についても口を出すようになった。私がガーデニング用の花を買うと「また無駄遣いですか?」、友人と昼食へ行けば「年金暮らしになるのに、今までと同じ感覚では困りますよ」と言う。
ある日には「光一さんもお母さんの生活まで支えるのは大変なんです」と疲れたように言った。私は耳を疑った。
「光一に生活を支えてもらったことは一度もないわよ。」
「でも同居しているんだから、食費や光熱費はかかるでしょ。」
「私は毎月決まった金額を出しているわ。」
香織さんは鼻で笑った。
「年金と貯金なんて、いつまでもあるわけじゃないですよね。これからは家事で少しでも返してもらわないと。」
その言葉を聞いて、私はようやく気づいた。香織さんは私が光一に養われていると思っている。それどころか、家事をすることがこの家に住ませてもらう代金だと考えているのだ。けれどここは私の家だ。私は自分の貯金と収入でずっと暮らしてきた。なぜ私が住ませてもらっているように扱われなければならないのだろう。
その日の夜、私は光一へ話そうとした。
「光一、話があるんだけど。」
しかし光一は疲れた顔で答えた。
「ごめん母さん、今日は仕事で疲れてるんだ。家のことなら香織に任せてるから、香織と相談してくれる?」
光一は家計のことも家事のことも全て香織さんに任せていた。私がどれほど家事をしているか、香織さんから何を言われているか、何ひとつ知らなかったのだ。
数日後、悠太と二人で遊んでいた時だった。悠太が無邪気に言った。
「おばあちゃん、ママ新しいバッグ買ったんだよ。」
「そうなの?」
「うん。パパには内緒なんだって。」
私は何も言えなくなった。その日の夕方、郵便受けに金融会社からの封書が届いた。宛名は香織さんだ。もちろん中身を開けることはしなかった。しかしその会社からの郵便は一度ではなかった。翌週も、その次の週も届く。一方で香織さんは新しい服やアクセサリーを身につけていた。
私はもう一度光一へ話すことにした。ところがその前に、光一が嬉しそうに言った。
「母さんの退職祝い、まだできてなかっただろ。退職直後は俺の仕事が忙しくて、悠太も体調を崩していたから、お祝いは延期になっていたんだ。お盆ならみんな揃うから、少し良い店を予約したんだ。長い間本当にお疲れ様。」
私は胸が熱くなった。香織さんも笑顔で「そうですよ。お祝いなんですから、遠慮しないでください」と言った。最近の態度を考えると少し意外だった。それでも家族で私の退職を祝ってもらえることが、素直に嬉しかった。
迎えたお盆、私たちは4人で落ち着いた日本料理店へ行った。色鮮やかな前菜や美しく盛り付けられた料理が並ぶ。光一がグラスを挙げた。
「母さん、長い間お疲れ様でした。仕事と家のことを両立して、俺を育ててくれてありがとう。」
悠太も「おばあちゃん、おめでとう」と笑ってくれた。私は目頭が熱くなった。
「ありがとう。こんな風に祝ってもらえて、本当に幸せよ。」
その時だ。香織さんが笑顔のまま言った。
「今日は好きなだけ食べてくださいね。これを最後の贅沢にしてもらいたいので。」
私は箸を止めた。光一も「どういう意味だ?」と尋ねる。香織さんは待っていたように話し始めた。
「これからお義母さん、年金生活になるんでしょ?これから光一さんのお金で趣味や外食を楽しむつもりじゃないですよね。友達とお茶へ行ったり、ガーデニングにお金を使ったり、年金だけでは足りなくなったら、結局光一さんが払うことになるでしょう。同居して生活を見てもらうんですから、その分家事や悠太の世話くらいはきちんとしてもらわないと困ります。」
光一が声を上げた。私は息子を制し、財布を取り出した。
「わかりました。では今日の食事代は一人ずつ割勘にしましょう。」
香織さんは目を見開いた。
「退職祝いなのに割勘にするんですか?」
「光一のお金を使うなと言ったのはあなたでしょう。それなら自分の分は自分で払うのが公平よね。」
私は伝票を見た。一人分でも決して安い金額ではない。私は払える。
「香織さんは自分の分を払えるのかしら?」
香織さんは言葉に詰まった。私は光一へ向き直った。
「光一、自分の通帳を最後に確認したのはいつ?」
「通帳?家計は香織に任せているから、しばらく見てないけど。帰ったら確認しなさい。カードの明細も全部よ。」
香織さんの顔から血の気が引いていった。
「お母さん、何を言ってるんですか?」
「私は光一から一円も生活費をもらっていません。年金もあります。退職金も、これまで働いて貯めたお金もあります。この家は私の名義で、固定資産税も修繕費も私が払っています。食費と光熱費も毎月私が出してきました。」
光一が驚いた顔で私を見る。
「母さん、俺たちから家賃も取らずに、家族だから必要ないと思っていたのだけれど。」
「香織さんは私があなたに養われていると思わせたかったみたいね。」
香織さんが声を荒げた。
「お母さんが家にいるからお金がかかっているのは事実でしょ。」
「では、なぜ金融会社からあなた宛ての封書が何度も届くの?」
香織さんは完全に固まった。光一が低い声で尋ねた。
「香織、どういうことだ?」
「違うの?あれは少し足りない時に借りただけで。」
「何が足りなかったんだ?」
「生活費を。」
私は首を横に振った。
「生活費が足りない人が、毎月新しいバッグやアクセサリーを買うの?」
悠太の前で話す内容ではないと思い、光一は店員へ頼み、悠太を隣の個室で待たせてもらった。香織さんはしばらく黙っていた。やがて追い詰められたように叫んだ。
「仕方ないじゃない。お母さんが退職して一日中家にいるようになったから、ストレスが溜まったのよ。家も自分のものみたいな顔をして、何を買っても見られている気がして。」
「だから私を家事で忙しくさせて、外へ出られないようにしたの?」
私が尋ねると、香織さんは目をそらした。
「お母さんが自分は役に立ってるって思えば、大人しくしてると思ったのよ。それにお母さんが光一のお金を使っていることにすれば、貯金が減っても不自然じゃないでしょう。」
光一は信じられないという顔で妻を見ていた。
「母さんのせいにして、使い込みを隠していたのか。」
香織さんは泣きながら「だって欲しいものがあったの。みんな持ってるのに、私だけ我慢するなんて嫌だった」と言った。
その日の退職祝いは途中で終わった。帰宅後、光一は預金通帳やカードの明細を確認した。家族のために貯めていた預金から、180万円以上がなくなっていた。さらに香織さん名義のカードローンと分割払いの残高が、合わせて250万円近くあった。
光一は香織さんへ一度実家へ戻るよう伝えた。それから数ヶ月間、二人は何度も話し合った。しかし香織さんは「家族なら借金くらい一緒に返すべき。お義母さんにも貯金があるんだから、少しくらい出してくれてもいい」と主張を続けた。謝罪よりも、誰かに支払わせることばかり考えていたのだ。
結局、光一と香織さんは離婚した。香織さんは自分で働いて借金を返しているそうだ。私は詳しいことをもう聞いていない。
離婚が成立した後、光一は私に頭を下げた。
「母さん、ごめん。香織が家のことを全部やっていると思い込んでいた。母さんの様子がおかしいことにも、本当は気づいていたのに、俺は見て見ぬふりをした。」
私はすぐには許すと言えなかった。光一が悪意を持っていなかったとしても、私が苦しんでいた間、見て見ぬふりをしていたのは事実だ。
「光一、これからも一緒に暮らすなら条件があります。」
光一は真剣な顔で頷いた。
「家事は全員で分担すること。悠太の世話もあなたが父親として責任を持つこと。私が手伝うのはできる時だけです。私は家族のための家政婦として会社を退職したわけではありません。」
光一は「分かった」と。それから我が家には新しい生活の決まりができた。朝食は各自で用意する。洗濯と掃除は交代制。悠太の送り迎えは基本的に光一が行う。夕食も光一と私が交代で作る。
私は友人とのお茶やガーデニングの時間を、遠慮なく楽しめるようになった。そしてある日、光一と悠太が退職祝いをやり直してくれた。豪華な料理店ではない。家の庭に小さなテーブルを出し、三人で食事をした。
「おばあちゃん、長い間お仕事お疲れ様でした。」
悠太が手紙を読んでくれた。私は笑って答えた。
「ありがとう。これからは自分のためにも時間を使うわね。」
家族とは、誰か一人に家事や我慢を押し付ける関係ではない。一緒に暮らしているからこそ、互いの時間と尊厳を大切にする。定年退職は、誰かのためだけに働き続ける生活の始まりではない。私にとっては、ようやく自分の人生を楽しむための新しい出発だった。



