午前六時、短い痛みで目が覚めた。最初は気のせいだと思ったが、痛みは十数分おきに規則的に戻ってくる。陣痛だと分かった瞬間、全身に緊張が走った。予定日まではまだ十日ほどある。窓の外は薄明かりが差し始めたばかりで、家の中は静かだった。
病院へ電話をすると、すぐに入院の準備をして来るように言われた。私は寝室を出て、玄関に向かった。夫の俊助が旅行用のキャリーバッグのファスナーを閉めているところだった。
「俊助、痛みが始まったみたい。病院まで一緒に来て」
俊助は腕時計を見た。
「今日から母さんの還暦旅行だって、前から言ってただろ」
「分かってる。でも病院からすぐ来るように言われたの」
「タクシーを呼べばいいじゃないか」
次の痛みが来て、私は壁に手をついた。呼吸を整えながら、もう一度頼んだ。
「お願い。せめて病院へ着くまではそばにいて」
俊助はキャリーバッグを持ち上げた。
「出産は女の仕事だろ。俺がいたって何もできないよ」
「あなたの子供でしょ」
「かずやに頼めば済むだろ。弟なんだから、こういう時くらい使えよ」
俊助は靴を履き、玄関を出ていった。閉まったドアの前で私は痛みが収まるのを待ち、弟のかずやに電話をかけた。
「姉ちゃん、どうした?」
「陣痛が始まったみたい。病院へ行きたいの。俊介さんは……」
私はすぐに答えられなかった。
「旅行へ行った」
電話の向こうが一瞬だけ静かになった。
「分かった。今から迎えに行く。荷物だけ持って、座って待ってて」
二十分ほどでかずやが来た。私の入院バッグを持ち、玄関の鍵を確かめ、車の座席を倒してくれた。俊助への文句は一言も言わなかった。
病院へ向かう途中、私は何度もスマートフォンを見た。空港へ着く前に戻ってくるかもしれない。かずやは前を見たまま答えた。
「今は赤ちゃんのことだけ考えよう」
診察を受けると、そのまま入院することになった。看護師から付き添いについて聞かれ、私は「夫も後から来ると思います」と答えたが、旅行を取りやめたという連絡はなかった。
待合室でかずやが訪ねた。
「退院したら今の部屋に戻るのか。実家の工事はもうすぐ終わるんだろ」
「予定では来週よ。俊介と三人で少しずつ引っ越すつもりだった」
二年前、最後に残った父が亡くなった。遺産を整理した時、私は両親が暮らしていた実家を、かずやは預金を相続した。二人で話し合って決めたことで、不満は残っていない。実家は古かったが、立地は良かった。妊娠が分かってから私たちはそこを改修し、夫婦と生まれてくる子供の三人で暮らす準備を進めていた。
私は事務職で、日中は現場に頻繁に行けなかった。そのため業者との日程調整は俊介に任せていた。ただし工事の契約者も家の所有者も私だった。
一ヶ月ほど前、俊介と一緒に工事中の家を見に行ったことがある。南向きの洋室には小さなクローゼットと淡い色の壁紙を選んだ。
「ここが子供部屋ね」
私が言うと、俊介は部屋を見回した。
「赤ん坊のうちは使わないだろう。母さんを済ませてもいいんじゃないか」
「一緒に住むってこと?」
「母さんがいれば育児も手伝ってもらえる。お前も助かるだろ」
義母の京子は六十歳。三年前に義父を亡くしてから、賃貸アパートで一人暮らしをしていた。パートを続けていたが、最近は家賃や部屋の更新について俊介へよく不満をもらしていた。
「十年後の生活も分からないのに、今は決められないわ。落ち着いてから三人で話しましょう」
私はそう答えた。俊介もその時は「分かった」と言っていた。その一方で、義母の還暦旅行だけは早くから準備していた。五泊の旅行で、交通費も宿泊費も俊介が全額払っていた。予定日に近いため、私は日程を変えられないかと頼んだ。
「予定日に生まれるとは限らないだろう。今更取り消したらキャンセル料がかかる」
俊介は取り合わなかった。そして本当に出発日の朝に陣痛が始まった。
病室でスマートフォンが震えた。俊介から、空港の出発案内を写した写真が届いていた。私は「病院に着きました」と返した。既読はついたが、返信はなかった。
午後になると痛みが強くなり、スマートフォンを見る余裕もなくなった。かずやは飲み物や洗面用品を買ってきてくれた。
「仕事は大丈夫なの?」
私が尋ねると、かずやは買い物袋を置いた。
「姪が生まれる日に、俺の仕事を心配する?」
夜、娘が生まれた。産声を聞いた時、張り詰めていた力が抜けて、涙が止まらなかった。
処置を終えて病室へ戻ると、かずやが廊下の椅子から立ち上がった。
「姉ちゃん、お疲れ様」
目を赤くしていた。私は娘の写真を俊介へ送った。二時間ほどして返事が届いた。
「生まれたのか。写真、もう少し明るいのない?」
私の体調を尋ねる言葉はなかった。電話をかけたが、俊介は出なかった。代わりに義母の京子からメッセージが届いた。
「無事に生まれたなら安心ね。旅行中だから、何度も電話しないでちょうだい」
私はスマートフォンを伏せ、娘の寝顔を見た。
翌日の午後、改修業者から電話がかかってきた。
「西野様、南側の洋室について確認がございます」
「何でしょうか?」
「ご主人から、子供部屋の仕様を取りやめて、お母様の寝室へ変更したいとご連絡をいただきました」
私は聞き返した。
「いつの話ですか?」
「昨日です。収納とコンセントの位置も変えたいとのことでした。ただ、追加費用が発生しますので、契約者である西野様の承認が必要になります」
俊介は、私が娘を産んだ日に、旅行先から業者へ連絡していた。変更はしないでください。当初の予定通り、子供部屋として完成させてください。
電話を切り、俊介へかけた。何度目かでようやく繋がった。背景から食器の音と義母の笑い声が聞こえた。
「工事の人から電話が来た。子供部屋をお母さんの寝室へ変えるように言ったの?」
「ああ、その方が無駄がないだろう。あそこは娘の部屋よ」
「赤ん坊が一人で部屋を使うわけじゃない。しばらく母さんに使わせればいい」
「私は同居を承諾してない」
「母さんが手伝ってくれるんだから、むしろ感謝しろよ。もう母さんにも話してある」
「変更は断ったわ」
俊介の声が大きくなった。
「俺のメンツを潰す気か」
「私の家の使い方を、どうして私に黙って決めるの?」
「細かい話は帰ってからでいいだろう。こっちは旅行中なんだ」
電話は切れた。その直後、京子から家具店の写真が何枚も送られてきた。
「南の部屋なら、このベッドも置けそうね。俊助から、これからずっと住んでいいと聞いたわ」
俊介が私に伝えたのは「しばらく」で、京子に伝えたのは「ずっと」だった。話が違う。
私はかずやへ連絡した。病室へ来たかずやに、業者からの電話と俊介の返事をそのまま話した。
「姉ちゃんはどうしたい?」
「私とこの子だけで実家へ行きたい」
「俊介さんの荷物はどうする?」
「触らない。私と娘のものだけ運びたい」
かずやは私の顔を見てから頷いた。
「分かった。手配する」
私は自分の鍵をかずやに渡し、運び出すものを一つずつ伝えた。衣類、仕事の書類、娘の布団、ベビーベッド、退院後に必要な日用品。共有の家具や俊介の私物は残した。業者にも改めて連絡し、南の部屋を当初の設計通り完成させてもらった。
退院の日、私は賃貸住宅へ戻らず、そのまま実家へ向かった。南向きの洋室には、私が選んだ壁紙と小さなクローゼットがあった。かずやが組み立てたベビーベッドも置かれていた。私は俊介に、無事に退院したことだけを伝えた。居場所は書かなかった。
俊介が旅行から戻ったのは、その日の夕方だった。スマートフォンが鳴った。
「おい、子供はどこだ?」
「私と一緒にいる」
「どこにいるんだよ。お前の服も赤ん坊のものもないぞ」
「実家よ」
「勝手に引っ越したのか」
「帰ってから話すと言ったでしょう」
「そこで待ってろ。母さんと今から行く」
三十分後、玄関のチャイムが鳴った。かずやに娘を見てもらい、私は玄関へ出た。扉の外には、旅行カバンを持った俊介と京子が立っていた。京子は私の顔を見ると、笑顔を作った。
「赤ちゃんの顔を見せて。それから、私の部屋を確認したいわ」
「お母さんの部屋はありません」
京子の笑顔が止まった。
「何を言ってるの? 南向きの部屋を使っていいと聞いているわよ」
「私は一度も了承していません」
俊介が前へ出た。
「母さんは今の部屋を引き払うんだぞ。今更ダメなんて言えるか」
「私は出産後に話し合うと言った。住んでいいとは言ってない」
「夫婦で住む家だろ。母親を一人済ませるくらい、俺にも決める権利がある」
「この家は、私が両親から相続した家よ。それに、私とあなたと子供で暮らすために直した。娘の部屋を、お義母さんへ渡すためではないわ」
京子が俊介を見た。
「俊助、この家は、いずれあなたのものになるって言ったじゃない」
「今はそんな話じゃないだろう」
「私は更新を断ったのよ。来月には今の家を出なきゃいけないの」
俊介が苛立った声をあげた。
「俺だって今の部屋は月末で解約したんだぞ。ここに入れなかったら、済む場所がないだろ」
私は初めてその話を聞いた。
「賃貸まで解約したの?」
「どうせここへ移るんだから、家賃がもったいないだろう」
「私に何も言わずに」
「だから予定通り、俺たちを入れれば済む話だ」
京子が俊介の腕を掴んだ。
「話が違うじゃない。家賃はいらない。仕事も減らせるって言ったでしょ。あなたが、彩子さんは三食家にいるから、子育ても私のこともできるって言ったんだもの」
俊介は京子の手を振り払った。
「じゃあ母さんは別の部屋を探せばいいだろう。俺は彩子と話す」
「何よそれ。私の還暦祝いを約束したのは、あなたでしょ」
二人の声が玄関先に響いた。俊介は私へ向き直った。
「彩子。母さんのことは後で考える。俺だけでも入れてくれ」
「困った途端に、次は母親を後回しにするの?」
「子供のためだ。父親が必要だろう」
「その子が生まれる日に、旅行を選んだのはあなたよ」
俊介は口を閉じた。家の中から娘の鳴き声が聞こえた。俊介が扉へ手を伸ばした。
「合わせろ。俺の子だぞ」
私は抑えた声で言った。
「今日は帰って。娘のこと、養育費、離婚については、第三者を入れて話します」
「離婚って、本気で言ってるのか?」
「本気よ」
扉を閉める直前、京子が俊介へ怒鳴る声が聞こえた。
その後、俊介は離婚を拒んだが、話し合いではまとまらず、調停を経て離婚が成立した。娘は私と暮らし、俊介は毎月の養育費を支払うことになった。娘と会えるのは、事前に決めた月一回の面会日だけになった。
月末には、俊介が解約した賃貸住宅の退去日が来た。俊介は旅行代の支払いを抱えたまま別の賃貸を借り、京子もパートを続けながら別の賃貸住宅へ移った。二人が当てにしていた南向きの部屋は、どちらのものにもならなかった。
一年半後、私は育休を終え、元の職場へ戻っている。朝は娘を保育園へ送り、そのまま会社へ向かう。迎えに間に合わない日だけ、かずやに力を借り、それ以外の予定は自分で決めている。
ある夕方、仕事を終えて娘を迎えに行くと、私を見つけた娘が両手を広げて走ってきた。実家へ帰ると、娘は南向きの部屋から絵本を持ってきて、私の膝へ置いた。
「ママ、読んで」
私は仕事鞄を下ろし、娘を膝に乗せた。今の暮らしを選んだことに後悔はない。ただ、あの日、家まで来た俊介に娘を一目も合わせず扉を閉めたことだけは、今も胸に残っている。
私たちを置いて旅行へ行った人でも、娘の父親ではあった。あの日、娘を合わせず扉を閉めた私の選択は、本当に正しかったのだろうか。



