会議室で2兆7000億の契約を仕切っていたあの日、僕のスマホは朝から一度も鳴らなかった。呼び出し音が鳴る。切れる。留守番電話。その次は、もう繋がらなかった。かつて僕に頭を下げさせていた取引先の番号を、震える指で一人ずつ押していく。でも、どの銀行の扉の前でも、僕の名前だけが先回りして立ち塞がった。「中卒に契約書が読めるわけがない」と笑ったあの一言が、2兆7000億も、そして僕自身も、飲み込んだ…

会議室で2兆7000億の契約を仕切っていたあの日、僕のスマホは朝から一度も鳴らなかった。呼び出し音が鳴る。切れる。留守番電話。その次は、もう繋がらなかった。かつて僕に頭を下げさせていた取引先の番号を、震える指で一人ずつ押していく。でも、どの銀行の扉の前でも、僕の名前だけが先回りして立ち塞がった。「中卒に契約書が読めるわけがない」と笑ったあの一言が、2兆7000億も、そして僕自身も、飲み込んだ...

呼び出し音が鳴る。切れる。留守番電話につながる。その次は、もう繋がらなかった。 あの日、会議室で2兆7000億の契約を仕切っていた男・神田正義の耳に届く声は、もうどこにもなかった。 机の上のスマートフォンは、朝から一度も鳴らない。神田は、震える指で、かつて自分に頭を下げさせていた取引先の番号を、一人ずつ押していく。呼び出し音が鳴る。切れる。留守番電話につながる。その次は、もう繋がらなかった。 噂は、狭い業界の水面を、あっという間に渡り切っていた。2兆7000億の正談を、たった一人の欲で台無しにした男。6800億を逃した男。その名は、どの銀行の扉の前でも、彼を門前払いにする一枚の札になっていた。人を名前で呼ばず、顎で使ってきた男の、その名前だけが、これから行く先々に先回りして立ち塞がる。 がらんとした机を拭き、段ボールを抱えて神田はフロアを出ていく。磨かれた靴音だけが、廊下に大きく響いた。かつてその音を聞いて反射的に背筋を伸ばさせた社員たちも、もう誰一人顔を上げない。「中卒に契約書が読めるわけがない」と笑ったその鼻先一つが、2兆7000億も、そして自分自身も、飲み込んだのだということに、神田はまだ気づいていないのかもしれない。 その隣で、崩れ落ちた男がいる。霧山だった。「リンギのチェックはお前の担当だ」と、あの日、神田に責任を押し付けられた瞬間から、霧山の立場も崩れ始めていた。今や、構う者はいない。「桐山さんって、結局部長にくっついていただけの人でしょ」「次は誰に取り入れるんだろうね」。聞こえよがしの声は、かつて霧山自身が誰かの背中に投げつけていた声と、そっくり同じだった。人を笑うために磨いてきた唇は、もうどこにも使い道がない。窓際の席で、霧山はただ小さくなっていた。 学歴で人を測り、弱い者を笑い、保身のために仲間まで売る。そうやって積み上げてきたものが、今、そっくりそのまま二人の足元を崩していたのだ。 あの会議の日の夕暮れ、事情聴取を終えた篠原ゆいは、人の引いた会議室へ戻ってきた。そこで、誠一郎が彼女を待っていた。その手のひらには、預かったままの、あの青い花があった」忘れ草のブローチ。 「篠原さん、これをあなたに」 差し出された花に、ゆいは慌てて首を振った。「そんな、それは奥様の大切な片です。私がいただくわけには」「いいえ」。誠一郎は、目元を柔らげた。「これは、妻が自分で選んで、あなたに渡したものです。妻が選んだ相手だ」。私が取り上げるわけにはいきません。「そして、節くれだった指でゆいの手を取り、青い花を、その指の中へ包ませた。「持っていてください」。あなたが。」」 ゆいの目に涙が滲んだ。今度は、堪えられなかった。「はい。ずっと大切にします。ありがとうございます」。 それから一ヶ月が経った頃、噂が聞こえてきた。」アゼリアさん、契約を結び直してくれるんだと。条件を改めて、今日この本部で調印らしい。」「身内の不正を、自分で断って告発までした」。そのけじめを買ってくれたんだとさ。」引き上げられた6800億も、少しずつ戻ってるらしい。」 法人営業部のフロア、ゆいの胸元には、あの日と同じ青い花がある。ただ一つ違うのは、もう襟の内側に隠していないことだ”。誰の目にも見えるところで、その花は咲いていた。”中卒君”と呼ばれ、雑用を回されていた頃の彼女は、もういない”。ゆいは今、コンプライアンス部門の正社員として、この本部に立っていた”。おかしいものを、おかしいと言える場所”。それを、自分の仕事にしていた”。 フロアの隅で、新しく入ったばかりの派遣の青年が、所在なげに立っている”。誰も彼に目を向けない”。あの日の自分と同じだった”。ゆいは、カップに温かいお茶を入れ、まっすぐにその青年の元へ歩いていった。「お疲れ様です」」 青年が、おどおどと顔を上げる。「あ、はい」。名前を伺ってもいいですか?」「あ、はい。田中と言います」「田中さん、これよかったら」。困ったことがあったら、いつでも言ってくださいね。”驚いたように顔を上げた青年に、ゆいは微笑んだ”。かつて誰も名前を覚えてくれないこの場所で、自分の入れた一杯を両手で受け取り、「あなたはちゃんと見えてる人だ」と言ってくれた人がいた”。あの人と、あの人の奥さんから受け取ったものを、今度は自分が渡す番だった”。守られる側だったゆいは、いつの間にか守る側に立っていた”。 同じ日、あの大会議室に、誠一郎の姿があった」。結び直した契約の調印の日”。今日は正面玄関から迎え入れられ、隣には剣とが並ぶ”。仕立てのいいスーツ姿に、すれ違う行員が慌てて深々と頭を下げていく”。一週間前まで誰も名前を覚えなかった派遣のじいさんは、もうどこにもいない”。調印を終えると、誠一郎は一人で法人営業部のフロアへ立ち寄った”。見たかったのは、肩書きでも契約の額でもない”。ここで一人の女性が、自分の真実を小さくしなかった”。妻が信じていた、その通りに、その後の景色を一目だけ”。 フロアの中ほどで、胸に青い花を止めたゆいと、目があった”。誠一郎は、小さく頷きを一つ”。ゆいも、深く頭を下げた”。言葉はなかったけれど、二人の間には確かに通じ合うものがあった”。遠い国から始まった縁”。青い花が、それを繋いでいた”。正しいことは、小高く叫ばなくても、ちゃんと誰かの胸に残る”。あの日、誰にも名前を呼ばれなかった彼女が上げた、小さな声のように”

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