第2部

月曜日の朝、東京都の工業団地にある株式会社未来成功の社長室。
週末の祝宴の余韻に浸り、これ以上ないほど晴れやかな表情を浮かべる義父・鈴木健造は、特注の本革の社長椅子に深く腰を沈め、香り高いブルーマウンテンを一口すすっていた。
「やはり月曜日の朝のコーヒーは格別だな」
専務である息子の拓也も、新しいイタリア製のスーツに身を包み、自信に満ち溢れていた。
「昨日の母さんの祝宴、大成功でしたね。エリカがあんなに気が利く子だとは思いませんでしたよ」
「全くだ。あの陰気臭いあずさとは大違いだ。やはり女は愛嬌と家柄だよ」
親子は顔を見合わせ、下品な高笑いをあげた。彼らの頭の中には、昨日追い出したあずさのことなど微塵も残っていなかった。
壁かけ時計の針が午前9時を指した瞬間、無気味なファックスの受信音が響いた。
秘書が青ざめた顔で飛び込んできた。

「社長、大変です。テートホールディングス様から緊急の……」
震える手で差し出された一枚の用紙。その上部に印刷された日本経済の頂点に君臨する「テート」のロゴを見た瞬間、健造の背筋に冷たいものが走った。
『取引基本契約の解除に関する通知書』
「本日午前9時をもって貴社との全ての取引契約を即時解除し、一切の取引を停止することを通知いたします。対象はテートホールディングス及び全グループ企業を含みます」
健造の額から油汗が一気に吹き出した。
テートグループからの受注は売上の七割を占めていた。それが今日からゼロになる。
「冗談ではない! すぐに資材部に電話しろ!」
拓也が慌てて電話をかけたが、返ってきたのは機械のように冷たい声だった。
「弊社は貴社をビジネスパートナーとして不適切であると判断いたしました。この決定は本社役員会を経て会長決裁が下りたものです。覆ることはありません」
電話が切られた直後、事務所の電話が一斉に鳴り始めた。
協力会社からの納品拒否、運送契約の破棄、銀行からの一括返済要求。
わずか数時間のうちに、未来成功は完全に息の根を止められた。
メインバンクの支店長が冷たい顔で現れた。
「本日付けで、貴社に対する格付けを破綻懸念先へと引き下げました。現在融資している運転資金及び設備投資資金、合計五億円。その全額について即時一括返済を求めます」
健造は膝から崩れ落ちた。
そして彼は、ついに真実にたどり着く。
5年前の結婚式で一瞬だけ顔を出した謎の初老の紳士。
それがテートホールディングス会長・一之瀬相一郎だったこと。
そして、自分が「天涯孤独の貧乏な嫁」だと思い込み、5年間奴隷のように扱ってきたあずさが、その会長の一人娘だったこと。

「終わった……本当に終わった。我々は日本で最も敵に回してはいけない相手を、5年間もゴミのように扱ったのだ」
家では、義母のかよ子が hysterically に叫んでいた。
「私、あの子にテートグループ会長の娘に洗い物をさせたのよ……!」
翌日、会社も自宅も差し押さえの赤い紙で埋め尽くされた。
イタリア製のソファに、海外の絵画に、大型テレビに、次々と赤い札が貼られていく。
かよ子の自慢のブランドバッグや宝石箱も容赦なく封印された。
5億円の負債。豪邸は競売にかけられ、親子は路頭に迷った。
金曜日の午前、東京家庭裁判所。
私はもう、地味な嫁の服は着ていなかった。父が選んだ濃紺のオーダーメイドスーツに身を包み、一之瀬あずさとして現れた。
よれよれのスーツにげっそりとやつれた拓也と、ノーメイクで髪を振り乱した義母が、私にすがりつこうとした。
「あずさ、頼む! 話を聞いてくれ! 俺が悪かった! エリカとは別れたよ。愛しているのは君だけだ!」
「お願い、あずさ様! 許してください! 家が取られちゃうの! このままじゃ路頭に迷ってしまうわ!」
私は冷やかに彼らを見下ろした。
「あなた方の謝罪には一つの共通点があります。私に対して申し訳ないと思っているわけではない。自分が損をしたくないから謝っているだけです」
「私が高貴な身分だと知っていればあんな真似はしなかった、と。それはつまり、相手が弱者であれば同じことを繰り返すということですよね」
拓也は口をパクパクとさせたが、何も言い返せなかった。
「離婚条件は弁護士を通じて提示した通りです。慰謝料、財産分与は請求しません。その代わり、あなた方の借金を肩代わりすることもしません。五億円の負債と共に路頭に迷うなり、自己破産するなり、お好きになさってください」
重厚な調停室の扉が、私の過去を完全に遮断した。
それから1ヶ月後。
私はテートホールディングス本社の最上階で、父から一通の辞令を受け取った。
『テートホールディングス取締役副社長 一之瀬あずさ』
「これからのテートに必要なのは、数字だけで人を判断する経営者ではない。人の痛みを知り、社員一人一人の尊厳を守れるリーダーだ。お前にならそれができる」
私は背筋を伸ばして答えた。
「謹んでお受けいたします」

本社の大会議ホールで、2000人を超える社員と報道陣の前に立った私は、用意された原稿を脇に置いた。
「私はこの5年間、テートと離れ、一人の人間として社会の片隅で生きてきました。そこで私は学びました。人の価値は肩書きや財産で決まるものではないということを。そして組織や権力が使い方を誤れば、いとも簡単に人の心を殺してしまうということを」
「私は約束します。このテートグループを、誰もが見捨てられず、誰一人として尊厳を傷つけられない組織にすることを」
会場は嵐のようなスタンディングオベーションに包まれた。
あれから3年。
私は副社長として、誰もが尊厳を傷つけられない組織を築き上げてきた。
ある日の夕方、公園で待っていたのは、大学時代の先輩であり、今は建築デザイナーとして独立している陽介だった。
彼は私の肩書きにも財力にも興味がない。ただ「一之瀬あずさ」という一人の女性を愛してくれる人だった。
「あずさ。君の過去を消すことはできない。でも、これからの未来を君と一緒に作ることはできる。結婚してください」
私は涙を流しながら頷いた。
「はい。喜んで私をお嫁さんにしてください」
帰り道、ふとコンビニの前で怒鳴られている店員の姿が目に入った。
げっそりとやつれ、怯えた目をしたその男は、かつての夫・拓也だった。
「申し訳ありません……申し訳ありません……」
かつてのイタリア製スーツの男は、今やアルバイトの制服に身を包み、客に頭を下げ続けていた。
私は足を止めず、陽介の手を強く握り返した。

「知り合い? ……いえ、ただの他人よ」
背後で聞こえる彼の声は、もう私の心には何も響かなかった。
本当の復讐とは、相手を破滅させることではない。
相手が手の届かない場所で、誰よりも幸せになること。
そして、相手のことなど記憶の彼方に忘れ去ってしまうこと。
夕日が私たちの影を長く伸ばし、二つの影はやがて一つに重なった。
私の人生の第2章は、ここから始まる。
誰も邪魔することのできない、本物の輝きに満ちた物語が。


