第2部:地獄の転落と、本当の春

翌朝、美雪は背筋を伸ばして高島家のインターホンを押した。
高一がモニターを覗き込み、吐き捨てるように言った。
「誰だよ朝から……ああ、昨日のゴミか」
ドアが開くと、美雪はシンプルだが品の良いコートを羽織り、無言でリビングへ入った。リカがソファに寝そべり、越子にマッサージをさせている。
「あら、おばさん生きてたの? 昨日は寒かったでしょう」
越子が緑色の離婚届をテーブルに叩きつけた。
「ここに署名と捺印しな。慰謝料はゼロ。財産分与もなし。あんたみたいな欠陥品を3年も置いてやったんだから、むしろこっちが金を取りたいくらいだよ」
美雪は迷うことなくサラサラと署名し、印鑑を押した。
「はい、これで終わりです」
高一がニヤニヤしながら大きなお腹を指でつついた。
「かわいそうにな。父親の顔も知らないまま生まれてくるなんて。いいか、二度とその腹の娘を俺に見せるなよ」
リカも口を挟む。

「私たち双子の王子様の教育費で忙しいの。貧乏なシングルマザーの相手なんかしてられないわ」
美雪はゆっくりと顔を上げ、氷のように冷たく微笑んだ。
「ええ、お約束します。あなたたちは一生この子に触れることはありません。たとえ土下座をして頼まれたとしても」
そして玄関へ向かい、肩越しに最後の言葉を残した。
「さようなら、高島さん。今のその笑顔、忘れないでくださいね。それがあなたたちが人生で見せる最後の笑顔になるでしょうから」
バタン。
車に乗り込んだ美雪に、かよが短く尋ねた。
「終わったかい?」
「うん。終わったよ、お母さん」
かよはスマホを取り出し、冷徹に告げた。
「よし、始めな」
その一言が、高島崩壊の合図だった。

翌朝、高一が会社に出勤すると、オフィスは異様な喧騒に包まれていた。全電話が一斉に鳴り響き、社員たちが蒼白な顔で走り回っている。
営業部長が転げるように駆け寄ってきた。
「社長、大変です! 今朝一番で主要取引先の大都不動産と低ト建設から契約解除の通達が届きました」
資材メーカーからも納品ストップ。そしてメインバンクからは、借入金総額3億円の即時一括返済を求める通知。
高一の目の前が真っ暗になった。
テレビモニターに緊急ニュースが流れた。
「速報です。ゼネコン高島建設の債権が外資系投資ファンド『Kアセットマネジメント』に買い取られたようです。事実上の敵対的買収と見られ……」
黒いスーツの男たちがオフィスに入ってきた。代理人弁護士・石黒が分厚いファイルをデスクに叩きつけた。
「あなたの会社は勘違いも甚だしいですね。この会社の運転資金の8割は、ある個人投資家からの匿名融資で成り立っていたことをご存知ないのですか?」
その投資家の名前は——佐藤かよ。美雪の母だった。
「娘婿のあなたが美雪さんを大切にすることを条件に、融資を続けていたのです。離婚届が受理された時点で契約は破棄されました。あなたは今この瞬間に総額5億円の借金を背負ったんですよ」
高一は膝から崩れ落ちた。

その夜、自宅では執行官たちが赤い差押え表を貼り付けていた。越子が泣き叫び、リカは状況を理解できずにヒステリックを起こしていた。
「会社が倒産した。借金は5億円。この家も車も全て銀行に取られる」
リカの顔が夜叉のように歪んだ。
「ふざけんじゃないわよ! あんたみたいな貧乏人と誰が好き好んで付き合うと思ってんのよ。金があるから我慢して抱かれてやったんじゃない!」
彼女は実家に逃げようとしたが、すでに着信拒否されていた。結局、三人は指金なしで入れるボロアパートへ追い出された。
地区40年は下らない木造アパート。6畳一間に、三人と生まれたばかりの双子。
リカは破水し、救急車も呼べないまま、汚い布団の上で双子を産んだ。祝福する者は誰もいなかった。生まれたばかりの赤ん坊を、リカは抱こうともしなかった。
「あんたたちが育てなさいよ。私は産んだんだから」
数日後、リカはブランドバッグを持って逃げた。置手紙にはこう書かれていた。
『この双子は置いていくね。あんたが欲しがった後取りでしょう。大事に育ててね。パパ』
高一は最後の金でDNA鑑定を申し込んだ。結果は残酷だった。
「生物学的父親である可能性は完全に否定されます」
0パーセント。
双子はリカがパパ活で相手にしていた、どこの誰とも知れない男の子供だった。
高一は狂ったように笑い出した。

「傑作だよ、母さん。俺たち世界一のバカ親子だ」
3年後。
港区の有栖川宮記念公園。満開の桜の下で、3歳になった娘・未来が花びらを追いかけていた。
美雪は洗練されたスーツを着こなし、背筋を伸ばして歩いていた。佐藤財団の理事長として、シングルマザー支援事業を立ち上げ、多くの共感を呼んでいた。
ふと、ベンチの影で空缶を拾い集めている男の姿が目に入った。薄汚れた作業着に伸び放題の白髪混じりの髪。背中は丸まり、実年齢より20歳は老けて見える。
男が顔を上げ、美雪と目があった。
高一だった。
彼の視線が未来に移る。汚れた手を伸ばしかけた瞬間、ボディガードが鋭い視線で制した。
未来が不思議そうに指差した。
「ママ、どうしたの? 知らないおじちゃん」
美雪は静かに微笑み、娘に向き直った。
「うん。何でもないわ。ただの他人よ。行きましょう、未来」
彼女は一度も振り返らなかった。
残された高一は、その場に崩れ落ちるように座り込み、両手で顔を覆った。公園に男の嗚咽だけが小さく漏れ、春風に掻き消されていく。
美雪は娘の手を引き、光の中へと歩き出した。
その足取りは、もう二度と迷うことはない。


