「10年間、たった一人で子供を育ててきた。隣の席に座った元カレの笑顔が、なぜか昔よりずっと怖い…」

第2部

    

機内の照明が落とされ、乗客たちが眠りに着く中、私だけは目を覚ましたままでした。

隣で穏やかな寝息を立てるゆいの小さな手を握りしめながら、私の心は10年前のあの冬へと飛んでいきました。

10年前、私は28歳。都内の設計事務所で働く若手建築士でした。

涼介はその事務所の親会社である大手ゼネコンの御曹司。二人は仕事を通じて出会い、やがて愛し合いました。

「どんなことがあっても、俺が君を守るから。結婚しよう」

しかしその約束は、あまりにも脆く壊れました。

涼介の母・かよ子の猛反対。毎日の嫌がらせ。職場への圧力。

私は疲れ果て、雪の降る夜、涼介に別れを告げました。

「もう終わりにしましょう。私、疲れちゃった」

その瞬間、対向車線のトラックがスリップし、こちらの車線に大きくはみ出してきました。

「危ない!」

涼介が叫び、私を庇うようにハンドルを左に切りました。

ドン——。

鼓膜を切り裂く衝撃音。車体はスピンし、雪の斜面へと転落していきました。

薄れゆく意識の中で、涼介の声が聞こえました。

「生きてくれ……愛してる」

事故から数日後。担当医は告げました。

「直近2年間の記憶が欠落しています」

それは私と出会った期間の全てでした。

かよ子は勝ち誇ったように私を見下ろしました。

「涼介はあんたのことなんか覚えていないのよ。綺麗さっぱりね」

「合わせください。私を見れば、きっと思い出します」

かよ子は私の手首を強く掴みました。

「いい加減にしなさい。二度と息子の前に現れないで。もし約束を破ったら、あんたの実家の母親もただじゃ置かないからね」

実家の母は心臓が弱く、入退院を繰り返していました。そして私のお腹の中には、すでに小さな命が宿っていました。

私は唇を噛みしめ、涙を流しながら頷きました。

「わかりました。二度と涼介さんの前には現れません」

その言葉を吐き出した瞬間、私の中で何かが壊れる音がしました。

私は誰にも告げずに東京を去り、雪深い小樽の町へたどり着きました。

陣痛が始まったのは、記録的な大雪の夜。

「おめでとうございます。元気な女の子ですよ」

産声を聞いた瞬間、私は声を上げて泣きました。

嬉しさよりも、圧倒的な孤独感が勝っていたのです。

それから10年。

ゆいを背負って皿洗いのパートをかけ持ちし、指先は洗剤で荒れ放題になりました。それでもゆいが「ママ大好き」と笑ってくれるだけで、私は生きていけました。

3年前、古い倉庫を改装し、カフェ「雪明かり」を開きました。

涼介が好きだった柚子茶を看板メニューにして——いつかもし、彼がこの味を思い出してくれたら、そんな淡い期待を捨てきれずに。

機体が大きく傾き、新千歳空港に着陸しました。

涼介は迎えのハイヤーに乗り込み、私とゆいを残して去っていきました。

数日後。

カランコロン——。

ドアベルの音と共に、店内に足を踏み入れた人物を見て、私は息を飲みました。

涼介でした。

「柚子茶を。それとチーズケーキを一つ」

私は震える手で特製の柚子茶を作りました。10年前、彼のために何度も試作を重ねたレシピです。

涼介は一口すすり、動きを止めました。

「これだ……。初めて飲むはずなのに、体がこの味を覚えている」

「以前、交通事故にあって味覚が鈍くなっていたんです。何を食べても砂を噛んでいるようで。でもこれは違う。これだけは味がするんだ」

「ママの柚子茶は魔法なんだよ」

突然、ゆいが会話に割って入りました。

「パパもきっとこれが好きだったと思うな。会ったことないけど、ママが言ってたもん。パパは柚子茶が大好きで、とっても優しい人だったって」

「会ったことがない?」

「うん。私が生まれる前に死んじゃったから」

涼介の表情が曇りました。そして私を見た目は、探るようなものから、すがるようなものへと変わっていました。

「高橋さん……お名前を伺っても?」

私は冷たく答えました。

「高橋です。高橋みさきと申します」

神宮寺の姓ではなく、旧姓を名乗りました。

「また来てもいいかな」

「うん。待ってるね、おじちゃん」

数日後。

ゆいが学校から帰ってくると、顔を真っ青にして私の元へ駆け寄ってきました。

手には一枚の写真が握りしめられていました。

それは私が店の奥に隠していた、10年前の涼介とのツーショット写真でした。

「あのおじちゃん、この写真の人にそっくりだよ」

その騒ぎを聞きつけた涼介が足を止め、写真を奪い取りました。

「これは俺だ……。俺と、君だ。みさきさん。説明してくれ。俺たちは他人じゃなかったんだな」

ゆいが私の前に立ちはだかりました。

「ママをいじめないで! おじちゃんなんか嫌いだ!」

涼介は唇を噛みしめ、逃げるように店を出ていきました。

その夜、猛吹雪の中、涼介が再びドアを叩きました。

「俺は記憶を失っている。君と過ごしたはずの2年間だけが、俺の頭から消えているんだ。でもこれだけは分かる。俺の心は君を求めている。君とゆいちゃんを見ると、胸が締めつけられるんだ」

「お引き取りください。あなたは勘違いをしています」

「嘘だ。ゆいちゃんを見てみろ。俺の子供の頃に瓜二つだ」

「違います。あなたはエリートで、私はただのカフェ店員。住む世界が違うんです」

「住む世界なんてどうでもいい。俺が欲しいのは真実だ」

二階から小さな足音が聞こえました。

「おじちゃん、また来たの? パパのこと、聞きに来たの?」

涼介は頷きました。

「そうだよ。おじちゃんは、君のパパになりたいと思っているんだ」

「やめて! これ以上娘を巻き込まないで。あなたはまた東京に帰る人。私たちはここに残る人。一度捨てられた傷は、二度と言えないのよ」

「わかった。今日は帰るよ。でも諦めない。俺は必ず思い出す。そして君たちを迎えに来る」

涼介は雪の中へと消えていきました。

東京に戻った涼介は、実家の蔵で一つのダンボール箱を見つけました。

中から出てきたのは、10年前のアルバムと、大量の未開封の手紙の束。

最後の一通には、こう書かれていました。

『涼介さん。ごめんなさい。もう会いに行けません。お母様と約束しました。あなたの将来のために、私は消えます。でもこれだけは伝えたかった。私のお腹の中に、あなたの赤ちゃんがいます。この子は私が一人で育てます。あなたに迷惑はかけません。だからどうか幸せになって。あなたの記憶から私が消えても、私は一生あなたを愛しています。さようなら、パパ』

涼介の喉から、言葉にならない音が漏れました。

「赤ちゃん……お腹の中に……」

全てが繋がりました。

ゆいちゃんは俺の娘だ。

みさきは俺の子を宿したまま母に追い出され、たった一人で見知らぬ土地へ逃げたんだ。

その時、蔵の扉が開きました。母・かよ子でした。

「母さん。あなたは俺から何を奪ったのか、分かっているんですか?」

かよ子は膝から崩れ落ちました。

「知っていたわ。興信所の報告書にあったの。妊娠三ヶ月の可能性ありって。だから焦ったのよ」

「縛りつける? それが俺の幸せだったかもしれないのに」

「あなたの将来のためだったのよ。あなたは神宮寺の跡取りなの」

「キャリア。家柄。そんなもののために、俺は10年も死んだように生きてきたんですか?」

涼介はアルバムを突きつけました。

「見てください。この写真を。俺はこんなに笑っていたんだ。この10年、俺が一度でもこんな顔をしたことがありますか?」

かよ子の目から大粒の涙が溢れ出しました。

「そうね……あなたは笑わなくなったわ。あの子を追い出してから、あなたは抜け殻みたいになってしまった」

「みさきさんは最後まであなたのことを思っていたわ。手切れ金を渡そうとした時、あの子は受け取らなかった。『お金なんていりません。涼介さんが幸せになるなら、私は消えます』って。あんなに小さな体で、お腹の子を守るように抱えて、雪の中へ消えていったのよ」

「行きなさい、涼介。今すぐ行って、あの子たちを迎えに行きなさい。これは私への復讐よ。あなたが幸せになることが、私が犯した罪への一番の罰なの」

涼介は立ち上がりました。

「行ってきます」

新千歳空港に降り立った涼介を待っていたのは、文字通りのホワイトアウトでした。

視界ゼロ。JRは全線運休。高速道路も通行止め。

一人の年配の運転手が手を上げました。

「お客さん、どうしても小樽に行きたいのかい」

「はい。妻と娘が待っているんです」

「分かった。行けるところまで行ってみよう」

峠道に差しかかった時、対向車線からスリップしたトラックがはみ出してきました。

「危ない!」

運転手が急ハンドルを切りました。

その瞬間——涼介の脳内で何かが弾けました。

10年前のあの瞬間。俺はハンドルを左に切った。みさきを庇うために。そして叫んだんだ。

「みさき……愛してる」

「思い出した……全部、全部思い出したんだ」

涼介の目から、堰を切ったように涙が溢れ出しました。

「運転手さん、お願いします。急いでください。彼女に会わなきゃいけないんです」

午前——小樽の町は記録的な暴風雪によって白い闇に閉ざされていました。

カフェ「雪明かり」の店内は、ひんやりとした静寂に包まれています。

私は薄暗いテーブルに突っ伏していました。

ドーン。

誰かが店のドアを拳で叩いています。

「みさき! 開けてくれ!」

その声。10年間片時も忘れたことのない声。

「帰ってください。もう話すことなんてありません」

「違うんだ。全部思い出したんだ。10年前のあの夜。雪の峠道。トラックが突っ込んできて、俺はお前を守ろうとしてハンドルを切った。最後に言った言葉も覚えてる。『愛してる』って叫んだんだ」

私の全身から力が抜けました。

「ゆいは……ゆいは俺の娘だ。お前が一人で守り抜いてくれた、俺たちの宝だ」

もう嘘はつけませんでした。

私は震える手で鍵を回しました。

カチリ。

ドアを開けると、猛吹雪が怒涛のように店内に吹き込みました。

そこに立っていたのは、雪だるまのように真っ白になった涼介でした。

しかしその瞳だけは、10年前と同じ情熱で燃えていました。

「みさき」

涼介は倒れ込むようにして私を抱きしめました。

「バカ……こんな吹雪の中、死んだらどうするのよ」

「死んでもいい。思い出したら、いても立ってもいられなかった。10年も待たせてごめん。一人で辛かったろう。怖かったろう。ごめん。本当にごめん」

私は子供のように声を上げて泣き出しました。

「うわーん……涼介……寂しかったよ……」

「もう離さない。一生俺のそばにいてくれ。ゆいと三人で、失った時間を取り戻そう」

互いの体温が、凍りついた10年の歳月を急速に溶かしていくようでした。

「涼介……おかえりなさい」

「ただいま」

涙で濡れた唇が重なりました。

それは10年越しの、祈りのキスでした。

翌朝。

ゆいは窓から差し込む朝日で目を覚ましました。

階下から、いつものものとは違う温かい香りが漂ってきます。

階段を降りると、カウンターの中に二人の姿がありました。

私がコーヒーを入れ、その隣で涼介が皿を拭いています。

涼介はゆいの前まで歩み寄り、静かに片膝をつきました。

「ゆいちゃん。昨日はごめんね。変なことを言って、傷つけてしまって」

ゆいは唇をぎゅっと結びました。

「おじちゃん、誰なの? ママの昔の恋人なんでしょう? 写真の人なんでしょう」

「そうだよ。そして、ゆいちゃんの本当のパパなんだ」

時が止まりました。

「パパ……」

「うん。ずっと迎えに来られなくてごめん。10年もママとゆいちゃんを放っておいてごめん。パパは事故で記憶をなくしていたんだ。でもやっと全部思い出した。君たちのことを、誰よりも愛しているってこと」

ゆいの目から大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちました。

「嘘つき! ずっと待ってたのに。ずっとずっと会いたかったのに。どうして来なかったの?」

ゆいは涼介の胸に飛び込み、小さな拳でポカポカと叩き始めました。

「バカ、パパのバカ。遅いよ。うわあん」

「ごめん。本当にごめん。痛かったね。寂しかったね。もう大丈夫だ。パパはここにいる。もう二度と君を一人にはしない」

涼介の目からも涙が溢れました。

ひとしきり泣いた後、ゆいは顔を上げました。

「ねえ、パパ。もうどこにも行かない? また記憶なくして、いなくなったりしない?」

涼介はゆいの小さな手を、自分の大きく温かい手で包み込みました。

「ああ、約束する。死んでも忘れない。一生パパはゆいとママのそばにいるよ」

「パパ……大好き」

窓の外では、雪解けの雫がポタリポタリとリズミカルな音を立てていました。

長く厳しかった冬が終わり、カフェ「雪明かり」に本当の春が訪れようとしていました。

あれから1年。

東京の閑静な住宅街に、カフェ「雪明かり」東京店がオープンしました。

涼介は専務の肩書きを捨て、個人建築事務所を立ち上げました。この店の設計も、全て彼の手によるものです。

ある日、上品な着物に身を包んだかよ子が店を訪れました。

「開店おめでとう、みさきさん。遅くなってごめんなさいね」

この1年、かよ子は何度も小樽へ足を運び、頭を下げ続けました。失われた10年を埋めることは容易ではありませんでしたが、彼女の誠意は少しずつ私の心の氷を溶かしていったのです。

「おばあちゃん!」

ゆいが駆け寄りました。

かよ子は孫娘を愛おしそうに抱きしめました。

かつて家柄という鎧を着ていた彼女も、ただの一人の祖母に戻ったのです。

閉店後、家族四人でテーブルを囲みました。

ゆいが学校での出来事を楽しそうに話し、涼介と私が相槌を打ち、時折りかよ子が穏やかに笑う。

どこにでもあるありふれた家族の団欒。

しかしその「普通」こそが、彼らにとっては奇跡のような幸せでした。

夜桜の下で、涼介が私の肩を抱き寄せました。

「幸せか」

私は満面の笑みで答えました。

「ううん。それ以上よ」

ゆいが二人の間に割り込み、両手をつなぎました。

「パパ、ママ、見て。花びらがハートの形してる」

舞い落ちてきた桜の花びらを、ゆいが手のひらに乗せて見せました。

「本当だ。きっといいことがあるぞ」

涼介が笑い、ゆいを高く抱き上げました。

「もう十分いいことだらけだよ」

私は二人を見つめながら、心の中で10年前の自分に語りかけました。

泣かないで、あの日の私。雪の降る夜、一人で震えていた私。

あなたの選んだ道は間違いじゃなかった。

10年の冬を超えて、私たちはこんなにも温かい春にたどり着けたのだから。

涼介がゆいを下ろし、私の手を強く握り返しました。

その手のぬくもりは、もう二度と離れることはないでしょう。

「帰ろうか。俺たちの家に」

「ええ。帰りましょう」

三人の影が街灯に照らされて長く伸びていきました。

冬の時代は終わりを告げ、彼らの人生にはこれからずっと、柔らかな春の陽射しが降り注ぐことでしょう。