「高卒の嫁なんて恥ずかしい!」と私を見下し追い出した姑。→ 私の父が、息子の会社の【資産100億円】の会長だと知った姑の反応が傑作だったw

第2部:処刑台は本社の会議室

     

銀座の冷たい雨に打たれながら、蒼井はフラフラと夜の町を歩いていた。髪にこびりついた塩の粒が雨水に溶けて目に入り、鋭い痛みをもたらす。だが心の痛みはその数万倍も深かった。

「高卒」「生臭い魚屋の娘」——義母のまさ子と夫の剣一が吐き捨てた言葉が、耳の奥で呪いのようにリフレインする。蒼井は震える手で顔を覆った。指先から微かに漂うのは、長年親しんできた磯の香りだった。それは彼女にとって誇りであり、愛する父の匂いだったはずだ。

蒼井の記憶は静岡県八津の港町へと遡る。

幼い頃の蒼井にとって、世界は父・市川肖像の広い背中そのものだった。肖像は港の片隅で小さな練り物屋「市川商店」を営んでいた。早朝の競りで仕入れた新鮮な魚を、職人気質の父が一本ずつ丁寧にさばき、すり身にする。

「蒼井、いいか。学歴なんてものはただの飾りだ。商売人に必要なのは、客を喜ばせる本物を作る腕と、時代の風を読む目だ。魚の脂の乗りを見極めるのと一緒だよ」

肖像の大きな手はいつも魚の鱗と塩にまみれていたが、その手が生み出す黒はんぺんやかまぼこは、町中の人々に愛されていた。蒼井はそんな父を心から尊敬していた。

そして彼女自身、天生の才を持っていた。学生時代の蒼井の成績は常に学年トップ、時には県内でも指折りの順位に名を連ねた。担任の鈴木先生は色めきたって蒼井を説得した。

「市川、お前の成績なら都内の進学校から東大だって夢じゃない。日本を変えるエリートになれるんだぞ」

だが蒼井の答えは決まっていた。

「先生、私は大学には行きません。商業高校へ行きます」

鈴木先生はまるで自分の人生を否定されたかのように絶句した。

「正気か。魚屋を継ぐのに学歴はいらないというのか。お前のその頭脳を市場の片隅で腐らせるつもりか」

蒼井はまっすぐに先生を見つめ返した。その瞳には15歳とは思えない理知的な光が宿っていた。

「腐らせるつもりはありません。私は父の作った美味しい練り物を世界中に届けたいんです。そのためには大学で4年間古い教科書を眺めている時間なんてありません。1日でも早く実務を学び、経理を覚え、貿易のノウハウを叩き込みたいんです。エリートが机の上で論理をこねくり回している間に、私は現場で戦う準備をします」

結局蒼井は周囲の猛反対を押し切り、地元の商業高校へと進学した。クラスメイトたちが放課後にカラオケや買い物を楽しんでいる間、蒼井は父の工場で汗を流し、夜は独学で語学と経営学を学んだ。

「最近の大学生は親の金で何百万も学費を払って遊んでばかりいる。私はその時間を、1円を稼ぐ苦労と喜びに使いたい」

それは重大な少女が下すにはあまりに重く、そして確かな決意だった。

20歳で高校を卒業すると同時に、蒼井は父の会社——いつの間にか市川商店から地元でも名の知れた食品メーカーへと成長していた——の海外営業部門に飛び込んだ。そこからの10年間はまさに怒涛だった。フランス、ベトナム、タイ……大きなスーツケース一つで世界を飛び回った。現地の市場を歩き、食文化を研究し、現地の勝者を相手にタフな交渉を繰り広げた。

学歴がないからと鼻で笑われることもあった。だが蒼井は挫けなかった。彼女には父から教わった本物を見抜く力と、現場で磨き上げた勝負勘があったからだ。

蒼井の優れた経営センスと、職人のこだわりを捨てない肖像の二人三脚により、小さな練り物屋は気づけば年商200億、グループ全体で1000億もの資産を動かす巨大食品グループ・市川へと変貌を遂げていた。

しかし3年前、30歳を過ぎた蒼井は父に一つの願いを申し出た。

「お父さん、私、一度でいいから会長の娘としてではなく、普通の人間として生きてみたい。そして本当の私を愛してくれる人と出会いたいんです」

肖像は目を細めて頷いた。

「そうだな。お前は走りすぎた。だが、蒼井。これだけは約束しろ。正体を隠して働くなら、一番下から現場を見るんだ。それが真の経営者になるための最後の修行だ」

その修行がまさか地獄の入り口になるとは、当時の蒼井は知るよしもなかった。

派遣社員を装って配属された地方の物流倉庫。そこで出会ったのが、後に夫となる剣一だったのだ。

冬の物流倉庫は巨大な冷蔵庫のようだった。白い息は白く、ダンボールを掴む指先は感覚を失い、赤紫に変色している。蒼井は黙々と荷物をさばいていた。かつてフランスの高級レストランで一本数十万円のワインを片手に商談をしていた手は、今やガムテープと埃にまみれている。

重い荷物を持ち上げた瞬間、足元がふらついた。現実の過酷な労働に、さすがの蒼井も限界が近づいていた。その時、強い力が背後から彼女を支えた。

「無理しちゃだめだ。ここは俺がやるから、少し休んでな」

振り返ると、そこには剣一がいた。市川グループの正社員。倉庫の管理担当として働く彼は、いつも薄汚れた作業着を着ていたが、その瞳だけは澄んでいるように見えた。

剣一は蒼井の代わりに手際よく重い箱を積み上げると、自販機で買った温かい缶コーヒーを彼女の手に握らせた。

「市川さんは根性あるよね。でもたまには誰かに頼ることも覚えた方がいい」

剣一の不器用な優しさは、孤独な潜入調査を続けていた蒼井の心に深く、静かに染み渡った。

肖像の教えである「現場の痛みを知れ」。その過酷な泥沼の中で見つけた一輪の花——それが剣一だった。

「この人は、私が令嬢だから優しくしているんじゃない。ただの派遣社員の私を助けてくれている」

蒼井は生まれて初めて、地位や財産を抜きにした無償の愛を見つけたのだと確信した。

父との約束である3年の期限が迫る中、蒼井は剣一との交際を深めていった。剣一は質素なアパートに住み、将来の夢を熱く語る、真面目で誠実な男に見えた。

「蒼井、俺はまだ安月給だけど、君を大切にする。結婚してくれないか」

夕暮れの倉庫の屋上。錆びた手すりに囲まれたその場所で、剣一は膝まずき、給料3ヶ月分にはほど遠い小さなリングを差し出した。蒼井の目からは涙が溢れた。100億円の資産よりも、この安物のリングが今の彼女には輝いて見えた。

だが地獄の蓋が開いたのは、結婚式の直前、剣一の実家を訪れた時だった。

剣一の母・まさ子は、銀座で「ここタウン」という日本料理店を営むプライドの塊のような女だった。都内の高級マンションの応接室。蒼井を、まさ子は睨みつけるような鋭い視線で上から下まで値踏みするように眺めた。

「それで、蒼井さんと言ったかしら? 大学はどちらを?」

まさ子は自分が入れた高級な玉露の湯を眺めながら、冷たく問いかけた。蒼井は背筋を伸ばし、あらかじめ決めていた偽のプロフィールを口にした。

「私は地元の静岡の商業高校を卒業して働いてまいりました。大学へは進学しておりません」

その瞬間、部屋を流れていた空気がカチリと音を立てて凍りついた。まさ子の顔が、あさましい軽蔑の形に歪む。

「高卒? 商業高校? 驚いたわ。今の時代、大学も出ていない女性がいるなんて。剣一、冗談でしょう。あなたは天下の市川の正社員なのよ。いずれは出世して上流階級の仲間入りをする男なの。そんな男の隣に、魚臭い港の高卒女を並べるつもり?」

剣一は顔を青くし、気まずそうに視線をそらした。先ほどまでの誠実な顔はどこへやら。まさ子の前では蛇に睨まれたカエルのように縮こまっている。

「母さん、でも彼女はすごく仕事も頑張っているし……」

「黙りなさい。仕事なんて誰でもできるわ。いるのは血筋と教養よ。まあいいわ。剣一がどうしてもと言うなら結婚だけは許してあげる。その代わり、あなたに拒否権はないと思ってちょうだい。うちの家に泥を塗るような真似は一切許さないから」

まさ子は蒼井に向かって、まるで汚れ物を見るような視線を投げ、鼻を鳴らした。

「高卒の派遣社員……ふん。せいぜい私の店で無償の下働きとして恩返ししてもらうわよ」

蒼井は震える膝を隠すように強く拳を握りしめた。これが彼女が選んだ「本当の愛」の正体だった。剣一は母親の暴言を止めるどころか、蒼井の耳元で小さく囁いた。

「ごめん、蒼井。母さんは少し厳しいけど、君が我慢してくれればうまくいくから」

その瞬間、蒼井の心の中に冷たい風が吹き抜けた。だが、まだ信じたかった。この愛の選択が間違いではなかったと。3年の修行を終え、正体を明かすその日まで耐え抜けば、剣一は変わってくれるのではないかと。

しかしそれが希望ではなく、破滅へのカウントダウンであることを、蒼井はまだ知るよしもなかった。

結婚してからの日々は、まさに地獄だった。蒼井に与えられた仕事は、義母まさ子が経営する店での過酷な下働き。熱湯が指先のひび割れに染み、鋭い痛みが走る。

「ちょっと手が止まっているわよ。高卒で取り柄がないんだから、せめて体くらい動かしなさい」

まさ子の鋭い声が厨房に響く。彼女はきらびやかな着物に身を包み、自分は一切指を動かすことなく蒼井の働きを監視している。

そして昇進祝いの夜——塩を浴びせられ、離婚届けを突きつけられたあの日。

蒼井は全てを知った。

夫の剣一が隠していた本当の給与明細。リナへの貢ぎ物。会社資金の横領。全てを。

翌朝、義母から「剣一が忘れた重要書類を会社まで届けなさい」という命令が下った。蒼井はボロボロの自転車を走らせ、皮肉にも彼女自身の会社である市川グループの東京ビルへ向かった。

廊下で待っていると、ヒールの高い音が近づいてきた。顔をあげると、そこにはリナが立っていた。彼女の腕には、剣一が蒼井の貯金と会社の金を着服して買い与えたエルメスのバーキンが誇らしげに揺れていた。

「あら、剣一さんの奥様じゃない。こんなところまでご苦労様」

リナは蒼井の目の前に立ち止まり、見下すような視線を投げかけた。

「いい匂いでしょう。本物の革の匂い。あなたには縁がないでしょうけど。剣一さんがね、『東大卒の君にはこれくらいの品格が必要だ』ってプレゼントしてくれたの。あなたみたいな市場の魚の匂いが染みついた高卒の女には、一生かかっても買えないわよね」

リナはクスクスと笑い、蒼井の耳元に顔を寄せた。

「正直に言うわね。あなた、剣一さんの重荷なのよ。彼はこれから専務取締役へと登り詰める逸材。そんな人の隣に、履歴書もまともに書けないような負け犬が座っているなんて、もはや奇をてらっているわ。剣一さん、私といる時だけが本当の自分に戻れるんですって。わかる? あなたはただの家政婦代わりの置き物なの」

蒼井の指先が怒りで白く震えた。目の前の女は、自分が嘲っている高卒の女の会社で、その女が築き上げた富を盗んで着飾っている。その傲慢さとあまりの愚かさに、蒼井の胸の奥でどす黒い殺意が生まれた。

だが蒼井は無表情を貫いた。ここで怒りを爆発させるのはまだ早い。

「リナさん、学歴が全てだと本気で思っていらっしゃるの?」

蒼井が静かに問い返すと、リナは顔を歪めて吹き出した。

「当たり前じゃない。私たちが血の滲むような思いで受験戦争を勝ち抜いて手に入れた地位よ。あなたみたいな野蛮な女が理解できるはずないわ。努力もせず、ただ魚を売って生きてきた人間に、私たちのパートナーを務める資格なんてないのよ」

リナは書類を蒼井の手から引ったくると、ゴミでも扱うように脇に抱えた。

「そうそう。来週の静岡出張、私も剣一さんに同行するわ。本社の会長に直接プレゼンする大事な会議なの。ああ、静岡はあなたの生臭い故郷だったかしら。ねえ、私があなたの代わりに、本物の市川グループのエリートがどういうものか、会長にお見せしてあげるわ」

リナは勝ち誇ったように背を向け、消えていった。

蒼井はその場に立ち尽くし、リナが去った後の廊下をじっと見つめていた。

「本社の会長にプレゼンですって……」

蒼井の口から冷酷な笑みがこぼれた。リナが言う「本社の会長」とは、他ならぬ蒼井の父・肖像のことだ。そしてそのプレゼンを受ける立場にいるのは、修行を終えて代表取締役として復帰する蒼井自身である。

「面白いじゃない。泥棒猫が飼い主の目の前でどんな踊りを見せてくれるのか、じっくり拝見させてもらうわ」

蒼井は震える手でスマートフォンを取り出すと、ある番号をリダイヤルした。それは3年間一度も使わなかった、本社の法務部長直通の番号だった。

「私を市川蒼井に戻すわ。来週の静岡本社定例会議、最上級の処刑台を用意しておいて」

翌日の夕方、義母まさ子が経営する銀座の割烹「ここタウン」の勝手口に一台の車が止まった。

「市川蒼井さん宛てに、静岡からお届け物です」

蒼井が駆け寄ると、そこには見覚えのある懐かしい塩の香りが漂う木箱があった。贈り主は市川肖像——蒼井の父だ。箱の横には父の不器用な筆致で「剣一君の昇進祝いに日本一の味を送る」と添え書きがあった。

中身は、肖像が自ら市場に立ち、最高の魚を厳選して練り上げた、市川グループの原点にして最高傑作の特選かまぼこだった。一般には流通せず、皇室や国賓にしか出されない、一折り数万円はくだらない至宝。父は娘を虐げる夫のことなど知らず、ただ「娘をよろしくお願いします」という切なる願いを込めてこの品を送ったのだ。

蒼井が木箱を抱えて厨房に入ると、それを見つけたまさ子が扇子を激しく動かしながら近寄ってきた。

「ちょっと、何よその不潔な箱は。生臭い匂いが店中に充満するじゃない」

「小母様、これは私の父から剣一さんの昇進のお祝いに届いたもので……」

「お祝い? 笑わせないで。市場の片隅で売っているような安物の魚の塊でしょう。うちのような高級店にそんなゴミを持ち込まないでちょうだい」

まさ子は蒼井の手から乱暴に木箱を奪い取ると、蓋を無理やりこじ開けた。中には芸術品のように美しい紅白のかまぼこが並んでいたが、まさ子は一瞥しただけで鼻を鳴らした。

「やっぱりね、ただのかまぼこじゃない。こんなものをうちの常連客に出せるわけないでしょう。格が落ちるのよ。さっさと処分しなさい」

まさ子は厨房の片隅にある生ゴミが詰まった大きなゴミ箱を蹴った。

「小母様、やめてください。父が一生懸命作ったんです」

「うるさいわね。高卒の魚屋が作ったものなんて、うちの犬だって食べやしないわ」

ガシャリという鈍い音が響いた。まさ子は木箱を逆さにし、中身をゴミ箱へとぶちまけた。真っ白で瑞々しかったかまぼこが、脂っこい生ゴミの残渣の上に転がり、汚れにまみれていく。さらにまさ子は近くにあった清掃用の塩を掴むと、ゴミ箱の中のかまぼこに向かって呪いをかけるように振りかけた。

「ほら、これでお似合いよ。ゴミにはゴミがお似合い。あんたの父親と同じね。一生泥の中で生臭く笑ってなさい」

まさ子の高笑いが厨房に響き渡る。蒼井はその場に立ち尽くし、ゴミ箱の中で汚れていく父の愛を見つめていた。視界が真っ赤に染まっていくのを感じた。

今まで自分がどんなに侮辱されても、塩を巻かれても耐えてきた。だが父を、父が人生をかけて守り抜いてきた誇りをゴミとして捨てられた瞬間、蒼井の中で何かが音を立ててちぎれた。

「ああ、もういいんだ」

蒼井はゆっくりと顔をあげた。その瞳からは一切の感情が消え、凍りつくような冷酷な光だけが宿っていた。

「小義母様、今の行為、後悔することになりますよ」

「はあ? 何よその目は。生意気な……」

「剣一、来なさい」

奥から不機嫌な顔をした剣一がやってきた。まさ子から話を聞くと、彼はゴミ箱の中のかまぼこを一瞥し、冷たく言い放った。

「蒼井、母さんの言う通りだ。こんな生臭いものを送ってくるお前の父親も非常識だよ。僕の昇進を祝うなら、もっとブランド物のワインとか現金でも送ってこいってんだ。いいか。来週の静岡出張、お前も連れて行くつもりだったけどやめた。お前みたいな恥さらしが親父さんの前にいたら僕の評価が下がる」

剣一はまさ子と顔を見合わせてせせら笑った。

「リナを連れて行くよ。彼女なら市川グループの会長とも対等に話せる教養がある。お前はここで一生皿洗いでもしてろ」

蒼井は二人の嘲笑を全身で浴びながら、静かに拳を握りしめた。震える手でポケットの中のスマートフォンを操作する。画面には父・肖像への返信メールが打ち込まれていた。

『お父さん、準備ができたわ。もう我慢する必要はなくなった。来週の定例会議、楽しみにしていて。私が全てを終わらせるから』

ゴミ箱の中に捨てられた父のかまぼこ。それが彼らにとっての最後のタブーだったとも知らずに、まさ子と剣一は勝ち誇った顔で個室へと消えていった。

蒼井は静かにゴミ箱の前に膝をつき、汚れにまみれたかまぼこを一切れ一切れ拾い上げた。一口噛みしめる。泥が混じっていても、それは世界で一番誇り高く、尊い父の味がした。

「さようなら、剣一さん。小義母様」

暗い厨房で、蒼井の頬を一条の涙が伝った。だがそれは悲しみの涙ではない。自らの力で全てを灰にする決意の涙だった。

外は激しい雷雨だった。窓を叩く雨は、まるでこれまでの3年間の屈辱を洗い流そうとする鎮魂のレクイエムのようだった。

蒼井は誰もいない暗いリビングで、一通の書類を見つめていた。数日前、剣一が「高卒のゴミ」と言い放ちながら投げつけてきた離婚届。

蒼井は父から譲り受けた万年筆を握りしめた。かつての契約書にサインをしてきたそのペン先が、今、忌まわしい結婚生活に終止符を打つために動く。さらさらと自分の名前を書き込む。迷いは微塵もなかった。

「これで終わりね」

その時、玄関のドアが乱暴に開き、剣一が上機嫌で戻ってきた。傍らには香水をきつく漂わせたリナが腕を絡ませている。

「おや、まだ起きていたのかい? 蒼井、そんな暗い顔をして縁起でもないな。見てくれよ。リナが選んでくれたこのネクタイ、明日の静岡本社でのプレゼンにぴったりだろう」

剣一は蒼井が署名した離婚届を一瞥し、鼻で笑った。

「お、やっと書いたか。賢明な判断だよ。お前みたいな無学な女と一緒にいても僕の未来が曇るだけだからね。慰謝料? そんなものを1円も出さないからな。お前のような寄生虫を3年も養ってやったんだ。むしろこちらが請求したいくらいだよ」

リナが剣一の肩に顔を寄せ、勝ち誇ったように蒼井を見つめる。

「奥様……あ、もう奥様じゃないわね。市川蒼井さん、明日の定例会議、楽しみにしていて。私たちが市川グループの会長に気に入られて、そのまま役員への階段を駆け上がる瞬間を、静岡のテレビニュースでも指を加えて見ていなさいな。ああ、高卒のあなたにはビジネスニュースの内容なんて理解できないかしら」

二人の醜悪な笑い声が狭いリビングに響き渡る。蒼井は立ち上がり、じっと二人を見据えた。その瞳に宿る氷のように研ぎ澄まされた光に、剣一が一瞬だけ怯んだような顔を見せる。

「剣一さん、リナさん。一つだけ教えてあげる。明日の会議、あなたたちが会おうとしている会長は、嘘や偽り、そして裏切りを何よりも嫌う人よ。準備はできているのかしら」

「は? 何を言い出すかと思えば。僕のプレゼンは完璧だ。リナが東大の知識をフル活用して作ってくれたデータがあるからね。静岡の田舎の会長なんて一ひねりだよ。さあ、さっさと荷物をまとめて出ていけ。この家はもうリナのものになるんだ」

剣一は蒼井の腕を掴み、乱暴に玄関へと押し出した。蒼井の手から古びたボストンバッグが滑り落ちる。中には修行中に着ていた色褪せた作業着と、父からもらった小さな道印しか入っていない。

「分かりました。お望み通り消えてあげます。でも覚えておいて。一度手放したものは、二度と戻ってこないということ」

「うるさい。二度とその生臭い顔を見せるな」

バタンと激しい音を立ててドアが閉められた。嵐の中、蒼井は一人、降りしきる雨の中に立たされた。ずぶ濡れになりながらも、彼女の背筋は凛と伸びていた。

「お待たせ、お父さん」

市川グループ会長・市川肖像殿の蒼井は、スマートフォンの画面をタップした。数秒後、町の喧騒を切り裂くように数台の黒塗りの高級セダンが蒼井の前で静かに停車した。

中央の車から降りてきたのは、市川グループ本社法務部長の田中だった。彼は傘を差し出し、ずぶ濡れの蒼井の前で最敬礼した。

「市川代表、お迎えに上がりました。3年間の極秘任務、本当にお疲れ様でした」

田中が差し出したのは、昨日までの安物とは違う、最高級シルクのトレンチコートだった。蒼井はコートを羽織り、車内へと滑り込んだ。柔らかな本革のシートの匂いが、彼女の感覚を呼び覚ましていく。

「田中、例の資料は?」

「はい。市川剣一による総額1億2000万円の横領及び背任行為、そしてリナなる社員の学歴詐称の証拠、全て揃っております。明日の定例会議にて即座に執行可能です」

「そう。それから銀座のここタウン……あそこの脱税資料と原産地偽装の証拠は、すでに税務署と保健所に提出したわ」

「はい。明朝、同時多発的に立ち入り調査が入る手はずとなっております」

蒼井は窓の外を流れる東京のネオンを冷やかに見つめた。雨脚はさらに強まっていく。明日、静岡——市川グループの城下町で、愚者の栄光が絶望と変わる瞬間がやってくる。

「行きなさい。静岡へ。私の故郷へ」

静かに走り出した高級セダンの車内で、蒼井はボストンバッグの底から一本の古い道印を取り出した。それは彼女が代表取締役へと戻るための最後の鍵。

復讐の幕は、今、切って落とされた。