第2部

「なんてことするの!」
義母のかよの悲鳴が広い和室に響き渡った。
「新婚初日から食卓を壊すなんて頭がおかしくなったんじゃないの」
義姉の弓も立ち上がり、着物の裾を気にしながら私を指差した。
「信じられない。管理栄養士なんて名乗っておいて食べ物をお粗末にするなんて最低ね」
夫の高志は怒りで肩を震わせ、平手打ちをした右手を固く握りしめている。
「お前、自分が何をしたか分かっているのか? 親父の御膳をひっくり返すなんて。ただのヒステリーじゃ済まされないぞ」
私は黙って足元を見ていた。畳に染み込んだ味噌汁の色が、他の席のものとわずかに違っている。義父の体調に合わせて一人分だけ出汁を変え、塩分を薄く調整していたのだ。
「みさき! 土下座して謝れ。今すぐだ」
高志が私の腕を強く掴んだ。叩かれた頬はまだ熱く腫れているが、私は痛みを顔に出さなかった。
「謝りません」
私が静かに答えると、高志は絶句した。上座では義父の正一郎が呆然と薬を握りしめている。
その時、廊下から慌しい足音が近づいてきた。料亭本店の料理長・佐々木が息を切らし、顔を蒼白にして飛び込んできた。
「今朝の調味料……一体誰が出したんですか?」
義母が不満そうに答えた。
「あれなら私が裏の倉庫にあったものを出してきたのよ。ラベルが剥がれてたけど昔の特別な味がするんじゃないかと思ってね。新しく入った嫁の腕試しにはちょうどいいでしょう」
佐々木の顔からみるみる血の気が引いていく。彼は床に膝をつき、義父の席にこぼれた味噌汁に顔を近づけた。
「出汁の香りが違う。これは会長の分だけ塩分と素材を変えて作り直してある」
そして私を見て目を見開いた。
「あなた、まさか白川先生ですか?」
「昨日、高志さんと結婚いたしました。今は黒崎みさきです」
佐々木は両手で顔を覆った。
「あなたは先生を叩いたのですか?」
「当たり前だろう。嫁のくせに朝食の時間に遅れたんだ」
高志は胸を張った。
佐々木は低く、はっきりと言った。
「奥様が渡したあの調味料は数年前の試作品です。特定の成分が強すぎるため倉庫に封印していました。会長が今飲んでおられる持病の薬と極めて相性が悪い。もし口にしていれば……」
彼は言葉を区切り、義父を見つめた。
「もしみさき様がこの食卓をひっくり返していなければ、会長、あなたは今頃救急車で運ばれていたはずです」
広間は死んだような静寂に包まれた。
高志が乾いた笑いを漏らした。
「救急車だと? 大げさすぎる。たかが調味料一つで親父がどうにかなるわけないだろう」
義母も同調した。
「そうよ。私が夫を危険な目に合わせるわけないじゃない。ささん、あなたこの子からいくらもらったの?」
親族たちが一斉に私を責め立て始めた。遅刻の言い訳のために三文芝居を打っている、と。
私のスマートフォンが鳴った。父・白川敬語からの着信だ。私はスピーカーを最大にして通話を繋いだ。
「みさきか。今すぐその調味料を使った食事を止めなさい。誰にも口をつけさせてはいけない。あの瓶はただの古い調味料じゃない。お父様の薬と合わさると急激な血圧低下を引き起こす。最悪の場合意識を失うぞ」
高志がスマホを奪い取り、通話を切った。
「ふざけるな! 自分が遅刻した言い訳に親父を巻き込んだのか。三文芝居だ!」
義母が泣き真似を始め、弓も私を詐欺師だと罵った。親族たちの冷たい視線が突き刺さる。誰も義父の命を気にしない。体面だけが重要だった。
「おい、みさき。今すぐ土下座して謝れ。そうしなければこの家から叩き出すぞ」
高志が私の肩を掴み、床に抑えつけようとした。私は膝を折らなかった。
その時、義父が低くかれた声で言った。
「やめなさい、高志」
「親父、何を言っているんだ? こいつは親父の食事をひっくり返したんだぞ」

「いいからお前は少し黙っていなさい」
義父は私に向き直った。
「みさきさん、5分の間に君は台所で何をしていたんだね」
私は姿勢を正して答えた。
「お母様から渡された調味料の匂いが違うことに気づきました。お父様のお薬手帳を事前に確認していたので、あの成分が薬と極めて相性が悪いと判断しました。全員分を作り直す時間はなかったので、お父様の分だけ別の鍋で安全な出汁と薄味にして一から作り直したんです。そのために5分かかりました」
佐々木が深く頷いた。
「床にこぼれた会長の味噌汁だけ、他とは全く違う出汁が使われていました。塩分も見事に調整されていました」
空気が一変した。
義父は震える手で薬を畳に置き、静かに言った。
「みさきさん、君は私が薬を飲む前に他の食事に口をつけてしまうかもしれないと思ったのか」
「はい。だから食卓をひっくり返しました。誰にも口をつけさせないために。私は朝食を壊したんじゃありません。命を粗末にする食卓を止めただけです」
義父は目を閉じ、深く息を吐いた。次に目を開けた時、その視線はかよと高志に向けられていた。
「かよ。お前は封印されていたものだと知っていて持ち出したのか」
「知らなかったのよ。少し具合が悪くなるくらいなら嫁が慌てる姿を見られると思って……」
その瞬間、広間は氷結した。
「少し具合が悪くなるくらいなら……お前は自分の夫の命を天秤にかけたというのか」
「そんなつもりじゃ……」
高志が口を挟んだ。
「母さんは少し悪ふざけをしただけだ。結果的に親父は何も食べていないんだし……」
「高志!」

義父が今日一番の大声で息子を怒鳴った。
「お前はまだ分からないのか? みさきさんが食卓をひっくり返さなければ私は今頃どうなっていたか分からないんだぞ。彼女はお前の父親の命を救ってくれたんだ。お前は自分の父親の命を救ってくれた妻の顔を皆の前で平手打ちにしたんだぞ」
高志の顔から血の気が引いていく。自分が叩いた相手が、ただの生意気な嫁ではなく、父親の命を守るために一人で責任を背負った専門家だったとようやく理解したのだ。
義父は畳に正座をし、私に向かって深く頭を下げた。
「私の命を救ってくれたこと本当に感謝する。そして妻と息子が君にひどい仕打ちをしたこと。黒崎家の家長として心から詫びたい」
「親父……なんで親父が頭を下げるんだよ」
「お前は下がっていなさい。妻の尊厳を守れず、自分の非を認めず、最後まで世間体を気にするような男に黒崎の看板は任せられない」
高志は崩れ落ちた。次期社長という肩書きが音を立てて崩れ去った瞬間だった。
かよも実権を失い、料亭の女将としての地位を剥奪された。弓も同罪として縁を切られた。
高志が弱々しい声で許しを請うた。
「俺が悪かった。本当に知らなかったんだ。叩いたことは謝る。だから考え直してくれないか」
私は伸びてきた手を静かに払いのけた。
「勘違いしないでください。私はあなたたちに許してもらおうと思って食卓をひっくり返したわけではありません。管理栄養士としてただやるべきことをやっただけです。命を脅かす食事を止める。それは専門家としての私の責任ですから」
「でも俺は謝ってるじゃないか」
「謝って済む問題ではありません。あなたが私に教えようとしたのは伝統でも絆でもなく、逆らうものは力でねじ伏せるという支配です」
私はエプロンを外し、丁寧に折りたたんで畳の上に置いた。
「結婚生活は始まった翌朝に終わりました。離婚届けは後日いたします」
高志の絶叫と義母の泣き声を背に、私は広間の襖を開けた。初夏の爽やかな風が吹き込む。もう二度とこの冷え切った食卓に戻ることはない。
二階の寝室で荷物をまとめていると、高志が飛び込んできた。
「荷造りなんてやめろ。昨日結婚式をあげたばかりなんだぞ。俺の顔に泥を塗る気か」
「あなたの顔に泥を塗ったのはあなた自身です。親族の前で理由も聞かずに妻を平手打ちにした事実をどうやって他人のせいにするつもりですか」
高志は急に薄笑いを浮かべた。
「俺と別れてお前に何のメリットがある? お前はただの管理栄養士だ。俺は黒崎料亭の専務だぞ。このままいれば一生お金に困らない社長夫人になれるんだ」
「お金や地位で人の心は変えません。そして命も変えません。あなたはただの管理栄養士と笑いますが、その地味な仕事が今日お父様の命を救いました。私は自分の仕事に誇りを持っています」
高志が再び手を振り上げた。私は冷え切った目でそれを見つめた。
「叩けばいいではありませんか。ここでまた私を殴ればあなたは本当に全てを失いますよ」
手は空中で止まった。力という唯一の武器が通用しなくなった瞬間だった。
私はスーツケースを引き、玄関へ向かった。かよと弓は壁に張りつくようにして道を譲った。彼女たちの誇っていた家柄や立場は、真実の前ではこれほどもろく崩れ去るのだ。
門を抜け、外の通りに出た瞬間、一台のタクシーが急停車した。父・白川敬語が飛び出してきた。
「みさき……その頬、叩かれたのか」
高志が後を追ってきた。父が私の前に立ちふさがった。
「あなたが黒崎高志さんですね。先ほど電話を無理やり切られた白川です。みさきの父親です」
高志は後ずさりした。
「お父様が飲まれているお薬とあの古い調味料が合わさった場合起こるのは単なる体調不良ではありません。急激な血圧低下に伴うアナフィラキシー様ショックです。もし一口でも飲んでいれば数分以内に呼吸困難に陥り心停止を引き起こしていた可能性が極めて高い。私の娘が食卓をひっくり返さなければあなたの父親は今間違いなく冷たい御遺体になっていたんです」
高志は震える手で口元を覆った。
「あなた方は老舗料亭の看板を背負う人間だというのに、食事を嫁をいびる道具や権力を見せつける手段としてしか見ていなかった。そんな家に大切な娘をこれ以上置いておくわけにはいきません」
高志が砂利の上に膝をつき、土下座をした。
「俺が間違ってました。心を入れ替えます。だからみさきを連れて行かないでください」
父は冷たく言い放った。
「命の尊さを理解できない人間に他人の人生を預かる資格はありません」
父は私に優しく頷いた。
「帰ろう。みさき。お前は管理栄養士として最高の仕事をした。誇りを持っていい」
「うん。ありがとう、お父さん」
私は最後に一度だけ泣き崩れる高志を見下ろした。そこにはもう怒りも悲しみもなかった。ただ命の重さを知らずに生きてきた哀れな男がいるだけだった。
タクシーが走り出す。後ろを振り返ることはしなかった。私の短い結婚生活はこうして完全に終わりを告げた。
三ヶ月後。
私は高齢者向けの食事支援施設で働いている。入居者のさち子さんが私の手を握り、満面の笑みで言った。
「みささん、今日のご飯もとっても美味しかったわ。あなたが見てくれるようになってから体調もすごく良いのよ」
私は微笑み返し、空になった食器を丁寧にお盆へ下げた。一人一人の持病や体調、噛む力に合わせて献立を作り、時にはベッドサイドまで行って様子を確認する。命に関わる責任の重い仕事だが、そこには確かなやりがいがあった。
一方、黒崎家の人々は完全に転げ落ちていた。

高志は系列ホテルの地下倉庫で汗と埃にまみれて働いている。かつて高級スーツを着こなしていた男が、10歳以上も若い現場監督に怒鳴られ、重いダンボールを運んでいる。仕事が終わって食べるのは冷え切ったコンビニ弁当だけだ。一口食べるたびに、あの朝の出汁の香りが蘇る。
かよは本家から追い出され、裏山のカビ臭い離れに押し込められた。自分でまともな食事を作ることすらできず、安いお惣菜をつつく日々。親戚中からは「夫を殺しかけた恐ろしい女」として縁を切られている。
弓も役員報酬を打ち切られ、近所のスーパーでパートを始めた。レジ打ちのミスで怒鳴られ、店長から毎日お説教を受ける。かつて私の資格を馬鹿にしていた彼女は、自分には何の取り柄もないという現実に打ちのめされていた。
ある休日の夕方、私は実家の小さな台所に立ち、父と二人分の夕食を作っていた。
「いい匂いだな。今日の献立は何だい?」
「お父さんの血圧を考えて、出汁をしっかり聞かせた和食。白身魚の煮つけと野菜の炊き合わせ」
父が美味しそうに口に運ぶ姿を見て、胸の奥がじわりと温かくなる。決して高級な食材ではない。料亭のような豪華なお皿でもない。でも小さなテーブルを挟んで向かい合い、「いただきます」と手を合わせるこの瞬間が、私には何よりも尊く感じられた。
かつて私は人に尽くすことを自分の義務だと信じ込んでいた。自分がどれほど見下され、理不尽に扱われようとも我慢して尽くすことが優しさだと勘違いしていた。でもそれは違ったのだ。自分を尊重してくれない場所でただ言いなりになって働くことは、自分自身の命を粗末に扱うのと同じことだ。
あの黒崎家での清々しい朝。頬を打たれ、理不尽な罵声を浴びた絶望の中で、私はようやく自分の尊厳を守るという一番大切なことに気づくことができた。
だからこそ今のこの穏やかな生活がある。
本当の食卓とは、支配を教える場所ではない。命を思い、感謝を分け合う場所である。
私はすっきりした気持ちでパソコンに向かい、明日の献立の最終確認を始めた。私の新しい人生は、今、最高に輝き始めていた。


