離婚から3日後、海外旅行中の義母から電話が来た。「ちょっと、このクソ女、なんで私のカードが使えなくなってるの?」——私は冷たく笑って言った。「すみません、どちら様ですか?」

離婚から3日後、海外旅行中の義母から電話が来た。「ちょっと、このクソ女、なんで私のカードが使えなくなってるの?」——私は冷たく笑って言った。「すみません、どちら様ですか?」

第2部

     

電話の向こうから落ち着いた低い声が聞こえてきた。

「桐さん……いや、まゆ子さん。本当に全て停止してよろしいのですね」

長年私の会社の顧問弁護士を務めてくれている森下だった。61歳になる彼は、私がこの28年間義理の家族からどのような扱いを受け、どれほどの苦労を一人で背負ってきたかを全て知っている。数少ない理解者だ。

私は新しく借りた小さなマンションのテーブルに数枚のクレジットカードを並べていた。漆黒の輝きを放つブラックカード。手厚い海外旅行保険がついたプラチナカード。それらは全て先ほどまで義母やかよたちが自分たちのものだと信じて疑わなかった家族カードの大本となるものだ。カードの表面にはローマ字ではっきりと刻まれている。

MYUYUKO

高志のカードではない。全て私の名義。私の会社の信用で作られたカードだった。

「はい。森下先生、今日で全て整理してください」

私は静かに、しかしはっきりと答えた。森下は少しだけ黙り、手元の資料をめくるような音を立ててから確認した。

「ご義母様のハワイ旅行の件ですが、明日からの出発ですね。すでに予約保障として切られている高級ホテルの代金や現地で使われる予定の家族カードも即座に利用停止となりますが、構いませんか」

「もう家族ではありませんから」

私の淡々とした言葉に森下は短くため息をついた。

「28年間本当によく耐えましたね。元ご主人の体面を守るためとはいえ、ご自身の稼ぎを全てあの家族に吸い取られて……あとは私と各カード会社の担当者で確実に進めておきます。み子さんへの定期送金の解除も明日には完了するでしょう」

「ありがとうございます。よろしくお願いします」

電話を切ると部屋には心地よい静寂が戻った。誰も私を役立たずと罵らない。誰の身勝手な請求書にも怯えなくていい。私はテーブルの上のカードを指でそっと撫でた。

「これで終わり」

独り言のようにこぼれた言葉は、自分でも驚くほど冷たく響いていた。

同じ頃、都内の高級レストランではワイングラスの触れ合う心地よい音が響いていた。

「ついに自由のみだね。おめでとう」

40歳になるマレーナは嬉しそうに目を細めてグラスを傾けた。元夫である高志の新しい交際相手である彼女は、高志のことを若々しくて裕福なエリート部長だと信じて疑っていない。

高志は満足そうに頷き、高級なステーキを口に運んだ。

「ああ、長かったよ。これでやっと君と堂々と会える。でも奥さん、本当に何も言わずに出ていったな。慰謝料とか財産分与で揉めなかった?」

レナが少しだけ不安に尋ねると、高志は鼻で笑った。

「あいつにそんな度胸はないさ。昔から俺の顔色ばかり伺う度胸のない女だからな。今日も母さんの明日のハワイ旅行の代金や妹の子供への学費援助は今まで通り払うって約束したんだ」

高志はさも自分が寛大で力のある男であるかのように胸を張った。しかしその言葉を聞いたレナの顔にほんの少しだけ違和感の影が落ちた。

「え、どうして離婚した奥さんがお母さんの旅行代や妹さんの学費を払うの? それって普通は高志さんが払うものじゃ……」

レナの指摘に高志は一瞬だけ言葉に詰まった。だがすぐに余裕の笑みを作って手を振った。

「まゆ子は非常に弱いんだよ。俺の稼ぎで長年いい思いをさせてやった恩があるから、最後くらい役に立ちたいんだろう。俺の信用で持たせてやってるカードを使えばいいって言ってやったんだ」

「ふうん……そうなんだ」

レナは納得したように微笑みながらも、心の奥底で小さな疑問が消えなかった。いくら上に弱いからと言って、離婚した相手の家族の生活費まで負担し続ける人がいるだろうか。それに高志の「俺の信用で持たせてやっている」という言い方にはどこか不自然な響きがあった。

その日の深夜、私のスマートフォンにカード会社から一件の通知が届いた。

「全ての家族カードの利用を停止して手続き、及び定期送金契約解除が完了いたしました」

画面を見つめながら私は静かに窓の外の夜景に目を向けた。明日の朝、かよは意気揚々と空港へ向かうだろう。み子もいつも通り来月分の送金を当てにして子供の塾の申し込みに行くはずだ。そして高志も自分の足元がすでに完全に崩れ落ちていることなど知るよしもない。

彼らが当たり前だと思っていた日常は、たった今おもなく終わりを告げた。明日彼らの前に広がるのは、見えと勘違いで塗り固められた幻想の焼け跡だけだ。

果たして彼らは、どこに行ってもカードが使えないという真実に直面した時、どんな反応を示すのだろうか。

翌朝、時計の針が午前10時を回った頃、義妹のみ子のスマートフォンが短く震えた。ダイニングテーブルで優雅に紅茶を飲んでいたみ子は、画面に表示された通知を見て思わず手を止めた。

「定期送金契約終了のお知らせ」

み子は目を疑い、慌てて銀行のアプリを立ち上げた。毎月まゆ子の口座から自動的に振り込まれるはずの子供の学費援助という名目の10万円が、今月は入金されていない。それどころか送金の設定そのものが解除されていたのだ。

「ええ、ちょっとどういうこと……」

み子の顔色が一瞬で青ざめた。来週には長男の塾の引き落としが控えている。まゆ子からの援助がなければ到底払える金額ではなかった。昨日の離婚の話し合いでまゆ子は「わかりました」とはっきり言ったはずだ。

み子はすぐに元夫である高志の携帯に電話をかけた。

「お兄ちゃん、お姉さんからの送金が止まってるんだけどどうなってるの?」

電話口の高志は会社のデスクで余裕の笑みを浮かべていた。

「なんだそんなことか。まゆ子も家を出たばかりで口座の手続きを間違えたんだろう。あいつはどん臭いからな。後で俺からきつく言っておくから。気にするな」

高志は全く事態の深刻さを理解しておらず、あっさりと電話を切ってしまった。み子は納得がいかないまま、画面の「契約終了」という冷たい文字を何度も見つめ直した。

その頃、時差を超えたハワイの高級ホテルでは、義母のかよが友人二人と一緒に極上のスパを満喫していた。窓の外には青い海が広がり、心地よい波の音が聞こえてくる。かよはハーブティーを飲みながら自慢げに笑っていた。

「息子の嫁、昨日やっと追い出してやったのよ。これで我が家もすっきりしたわ」

「でもかよさん、離婚しちゃったらこうして毎年ハワイに来る費用はどうなるの?」

友人が少し心配そうに尋ねると、かよは鼻で笑って手を振った。

「心配ないわよ。あの女、昔から私には絶対に逆らえないの。昨日も『これからもカードは使わせなさい』って命令したら黙って頷いてたわ。離婚してもあの女は私にとって便利な財布のままなのよ」

かよは勝ち誇った顔で立ち上がり、スパのフロントへと向かった。

「お会計をお願い。このカードで」

かよはまゆ子の名義であるブラックカードをカウンターに叩きつけるようにおいた。しかし、カードを機械に通したフロントスタッフの表情がすっと曇った。

「お客様、申し訳ございません。こちらのカードは現在ご利用いただけないようです」

「はあ? 何言ってるの? 限度額なんてないカードよ。機械が壊れてるんじゃないの?」

「いえ、何度試してもエラーコードが出ます。すでに無効化されているカードかと……別のお支払い方法はお持ちでしょうか?」

スタッフの言葉にかよの顔から血の気が引いた。後ろでは友人たちが不審そうな顔でこちらを見ている。

「そんなはずないでしょう。私の息子が持たせてくれてるカードよ」

かよは声を荒げたが、現実は変わらない。その場は友人が立て替えてくれたが、かよは屈辱で震えながら急いで部屋に戻って高志に電話をかけようとした。

同じ頃、日本にある私の新しいマンションでは、27歳になる娘の彩佳が引っ越しの荷ほどきを手伝ってくれていた。外資企業で働く彩佳は、私が長年この家で受けてきた扱いを知る唯一の味方だった。

「お母さん、このダンボール開けていい?」

「ええ、お願い。それは古い書類ばかりだから適当に棚にしまっておいて」

彩佳がダンボールから取り出したのは古びた分厚いファイルだった。ふと中身に目を落とした彩佳の手がピタリと止まった。

「え……お母さん、これ……」

彩佳の声が微かに震えていた。振り返ると彼女はファイルを開いたまま、泣きそうな顔で私を見つめている。そこには28年間にわたる桐家の支払い記録が全て私の字でびっしりと書き込まれていた。かよの医療費、年に二回の海外旅行の代金、み子の子供たちへの学費援助、そして高志の車のリース代から外で使う接待費の補填まで。全て高志の給料ではなく、私の口座から引き落とされた明細がファイリングされていた。

「これ……おばあちゃんの旅行代も皆さんの生活費もお父さんの車のローンまで全部お母さんが払ってたの……?」

彩佳の目からポロリと涙がこぼれ落ちた。彼女はファイルの最後のページに挟まっていた色あせたメモ用紙をそっと手に取った。そこには私が20数年前に自分自身を納得させるために書いたたった一言が残されていた。

「高志の顔を潰さないため」

「お母さんはずっとお父さんを立たせるために、お金だけじゃなくてお父さんの体面まで一人で守ってたのね」

私は黙って頷き、静かに彩佳の肩を抱き寄せた。これまでずっと家族だと思っていた。夫の顔を立て、義理の家族を支えることが私の役目だと信じていたのだ。だが、その見えない努力を彼らは「役立たず」と踏みにじった。

「もういいのよ、あやか。お母さんは昨日でその役目を降りたから」

私の言葉に彩佳は涙を拭いながら強く頷いた。

遠く離れたハワイでは、カードが使えないという現実に直面したかよがホテルの部屋でパニックを起こし始めていた。み子もまた止まった送金の理由を必死に探ろうとしている。彼らはまだ気づいていない。自分たちが今まで立っていた豪華なステージがすでに根元から崩れ去っていることに。

ハワイの高級ホテルの一室で、かよは怒り気味を震わせながら日本の息子へ国際電話をかけていた。

「高志、一体どういうことなの? スパの支払いでカードが使えなくて友達の前で大恥をかいたわよ」

電話の向こうで昼休みの時間を過ごしていた高志は呑気な声で答えた。

「落ち着けよう母さん。どうせカード会社のシステムエラーか何かだろう。それかまゆ子が家を出たゴタゴタで引き落とし口座の残高でも移し間違えたんじゃないか」

「あの役立たず、出ていく時まで私に迷惑をかける記念ね。今すぐあの女に電話してなんとかさせなさい。明日はブランド店で買い物をしなきゃいけないんだから」

かよはヒステリックに叫んだ。自分のお金ではないのに、まるで自分の財布を隠されたかのような激しい怒り方だった。高志はため息をつきながらかよをなだめた。

「分かったよ。まゆ子には俺からがつんと言っておくから。あいつは昔からどん臭いんだ。心配しなくても俺の稼ぎがあるんだから何とでもなる」

電話を切った高志のスマートフォンに、今度は義妹のみ子から立て続けにメッセージが入ってきた。

「お兄ちゃん、やっぱりおかしいよ。銀行に問い合わせたらエラーじゃなくて、お姉さんの口座からの自動送金が完全に解約されてるって言われたの」

高志は軽く舌打ちをした。

「全く女ってやつはすぐ大袈裟にする。まゆ子が引っ越しの手続きで間違えて解約しただけだろうに」

高志はこれら全ての支払いの大本がまゆ子の契約であるという決定的な事実を未だに理解していなかった。彼は自分を中堅企業のエリート部長だと信じ込んでいる。家計は自分が支えており、妻はただそのお金の管理をしていただけだという、恐ろしいほどの勘違いの中で28年間を生きてきたのだ。

その日の夜、高志は新しい交際相手であるレナを連れて都内の高級フレンチレストランを訪れていた。

「来月の週末、会員制のホテルに連れて行ってくれるんでしょう。すごく楽しみ」

レナが目を輝かせて言うと、高志は満足そうにワイングラスを傾けた。

「ああ、任せておけ。あそこのスイートルームは最高だからな」

食事が終わり、高志はウェイターを呼んで黒いプラチナカードを渡した。いつも通りスマートに会計を済ませるつもりだった。しかし数分後に戻ってきたウェイターの顔には困惑の表情が浮かんでいた。

「お客様、大変申し上げにくいのですが、こちらのカードご利用を停止されているようです」

「はあ? 何かの間違いだろう。俺のカードだぞ。もう一度機械に通してみてくれ」

高志は不機嫌に声を荒げた。しかしウェイターは申し訳なさそうに首を振る。

「何度か試しましたがやはり『無効』と出てしまいます。恐れ入りますが、別のカードか現金でのお支払いは可能でしょうか?」

そのやり取りを見ていたレナの表情がすっと覚めた。

「高志さん、今日お母さんのカードも使えなかったって言ってたわよね。それって本当にただのエラーなの?」

レナの指摘に高志は焦りを隠せなかった。

「た、たまたま……だ。ほら、カード会社が不正利用と勘違いして一時的にロックをかけたんだろう。今日は現金で払うよ」

高志は財布から慌てて数万円の札を取り出し、逃げるようにレストランを後にした。店の外に出た高志はレナをタクシーに乗せて見送った後、怒りで顔を真っ赤にしてスマートフォンを取り出した。そしてまゆ子の番号を強くタップした。

コール音が数回鳴った後、静かな声が聞こえた。

「はい」

「お前一体何をした? 母さんのカードだけじゃなく、俺のカードまで止まってるじゃないか。早くカード会社に電話してロックを解除しろ」

高志は道端で大声を張り上げた。電話の向こうのまゆ子は少しの沈黙の後、驚くほど冷やかな声で答えた。

「ロック? 何を勘違いしているんですか」

「勘違いだと? 現に今レストランで恥をかいたんだぞ。早くな何とかしろ」

まゆ子の声は一切の感情を交えずに響いた。

「私は何も間違えていません。ただ私の名義のカードを全て解約しただけです」

「はあ……?」

高志は自分の耳を疑った。

「あなたのカードもお母様のカードも全て私のものでしたから。では失礼します」

ツーという無機質な音が夜の町に立ち尽くす高志の耳に虚しく響いた。高志の頭の中で28年間信じ続けてきた自分の見えという巨大な城が音を立ててひび割れ始めていた。

夜の街に取り残された高志はスマートフォンの画面を呆然と見つめていた。「私の名義のカードだ」とまゆ子の声が耳の奥でこだましている。そんなはずはない。自分が一家の大黒柱であり、まゆ子はただ自分が稼いできたお金を管理していただけだ。高志はそう信じて疑わなかった。

高志は財布の中に残っていた泣けなしの現金でタクシーを拾い、急いで自宅へと戻った。誰もいないくらいリビングを通り抜け、書斎の引き出しを乱暴に開ける。そこには家計に関する書類がまとめられた分厚いファイルがいくつか入っていた。高志は結婚してから28年間、これらを自分から確認したことは一度もなかった。妻に任せておけば全て自分の立派な稼ぎで回っていると思い込んでいたからだ。

乱暴な手付きでファイルの中身を一枚ずつめくる。クレジットカードの契約書、生命保険の証書、愛車のリース契約。高志の目は書類の右上に記載された文字に釘付けになった。

本会員 桐まゆ子 家族会員 桐高志 桐かよ

「な、なんだこれは……」

高志は震える手で次の書類をめくった。車のリース契約者も桐まゆ子。自分が行きつけにしている会員制リゾートホテルの登録者名も桐まゆ子。医療保険の契約者も全てまゆ子の名前だった。

「嘘だろう……」

高志の喉からかれた声が漏れた。自分の給料だけでこれら全ての贅沢が維持されていると信じていた。だが書類に記載されている引き落とし口座は全てまゆ子が経営する会社のメインバンクのものだったのだ。

その時再びスマートフォンがけたたましく鳴った。義妹のみ子からだった。

「お兄ちゃん、さっき銀行の窓口で文句を言ってきたのよ。そしたら振込元の口座はお姉さんの個人のものでお兄ちゃんには何の権限もないって言われたわ。どういうことなの?」

み子の声は完全にパニックに陥っていた。

「子供の塾の引き落としが来週なのよ。このままじゃ通えなくなるわ。お兄ちゃんが払ってくれるんでしょう」

高志は答えることができなかった。自分の口座には日々のランチ代や少しの飲み代程度の残高しかない。毎月振り込まれるはずの給料は家のローンと光熱費でほとんど消えてしまうのだ。

「ちょっと待ってろ。まゆ子を問い詰めてやる」

高志は半ば自暴自棄になりながら再びまゆ子に電話をかけた。どうしても自分が元の収入に依存していたという現実を認めたくなかった。だからこそ強い言葉でまゆ子を追い詰め、無理やりにでも言うことを聞かせようとした。

数回のコールの後、まゆ子が電話に出た。

「何ですか」

「お前、ふざけるなよ。夫婦の財産を勝手に自分のものに仕上がって。俺の給料はどこに消えたんだ? 弁護士を立ててきっちり取り返してやるからな」

高志は電話で声を荒げてまゆ子を脅した。昔のまゆ子ならここで「ごめんなさい。私が悪かったわ」とひれ伏したはずだ。彼はそう信じていた。しかしまゆ子の声は氷のように冷たく、そして落ち着いていた。

「弁護士ですか? どうぞ立ててください。私の顧問弁護士である森下先生が全て法的に対応しますので」

顧問弁護士——高志の動きがピタリと止まった。

「それとあなたの給料がどこに消えたか本気で言っているんですか?」

まゆ子はまるで聞き分けのない子供を諭すような口調で言った。

「あなたの毎月の給料はこの家のローンとあなた個人の見えのための飲み代で28年前から一円も残っていませんよ」

「何を言っている? 俺は部長だぞ。毎月しっかり稼いで……」

「ええ、稼いでいましたね。でもお母様の毎月の生活費や高額な医療費、み子さんへの援助、それにあなたが後輩に奢るための接待費。あなたの給料だけでどうやって足りると言うんですか?」

まゆ子の言葉が鋭いナイフのように胸に突き刺さる。

「足りない分は全て私の会社の収入から補填していました。28年間ずっとです」

「嘘だ……そんな話一度も聞いたことがない」

「言わなかったからです」

まゆ子は短く息を吐いた。

「あなたが惨めな思いをしないように、一家の大黒柱として外で堂々と振る舞えるように、私がずっと黙って口座の穴を埋めていたんです」

高志は言葉を失った。手元にある大量の契約書がまゆ子の言葉が全て真実であることを証明していた。

「私はもうあなたたちの顔を立てる必要はありません。ご自身の身の丈にあった生活をご自身の本当のお金でなさってください」

電話は一方的に切られた。ツーという音が静まり返った部屋に虚しく響く。高志は力なくその場にへたり込んだ。まゆ子を役立たずと見下し追い詰めようとしたはずが、逆に自分自身の無力さと空虚さを突きつけられる結果となってしまった。

自分の足元が崩れ去っていく恐怖の中で、高志はまだ知らなかった。この瞬間、遠く離れたハワイで最大の悲劇に見舞われている人間がいることを。

ハワイの目抜き通りにある高級ブランド店で、かよの甲高い声が響き渡った。

「どうして使えないのよ。何かの間違いでしょう。もう一度ちゃんと機械に通しなさい」

かよはショーケースに並んだ数十万円の新作バッグを前にレジカウンターをバンバンと叩いた。店員の表情は引きつり、背後に立つ友人たちの目は同情から明らかな軽蔑へと変わっていた。

「かよさん、さっきのスパでも使えなかったじゃない。無理しないで。今日はやめておいたら」

友人の一人が呆れたような声で言った。

「違うのよ。これは息子のカードなの。日本にいる高志が私のために持たせてくれているカードなのよ」

かよは必死に言い訳をしたが、カードリーダーに表示される「無効」という冷たい文字は消えない。結局かよはバッグを諦め、友人たちの冷ややかな視線を背中に浴びながら逃げるように店を飛び出した。

「どういうことなのよ。高志のや……一体何をしているの?」

かよはホテルの部屋に戻りベッドに倒れ込んだ。明日はチェックアウトの日だ。もしこのままカードが使えなければ数日間の高級ホテル代をどうやって支払えばいいのか。それに帰りの飛行機もこのカードに付随するサービスで手配したものだ。かよの背筋に初めてじっとりとした冷たい汗が伝った。

一方、日本のまゆ子の新しいマンションでは静かな時間が流れていた。テーブルの上には娘の彩佳が見つけた分厚いファイルが広げられている。彩佳は一枚一枚丁寧に閉じられた明細書をめくりながら言葉を失っていた。

「お母さん、これ……お母さんの会社の利益、ほとんどお父さんたちのために使ってたの……」

彩佳の問いにまゆ子は静かに温かいお茶をすすりながら頷いた。

「ええ、そうしないとあの家の生活は成り立たなかったから」

彩佳は悔しそうに唇を噛みしめた。

「でもおばあちゃんも皆さんもずっとお母さんのことを『役立たず』って呼んでたじゃない。家事も全部お母さんに押し付けて自分たちは贅沢して……どうしてお母さんが払ってるって言わなかったの?」

まゆ子は少しだけ遠くを見るような目をした。

「結婚したばかりの頃、一度だけ言おうとしたのよ。お母さんの浪費がひどくて高志さんの給料じゃ生活できないから私が働きに出るって。お父さんはなんて言ったと思う? 『俺の稼ぎが少ないって言いたいのか? お前は俺の顔に泥を塗る気か』ってね」

「あの人は自分が一家を支える立派な男だと思い込みたかったの。お母様も優秀な息子が自分を養ってくれているという現実が必要だった」

まゆ子はゆっくりと息を吐き出した。

「だから私は自分で会社を立ち上げて、そこから出た利益を少しずつ高志さんの口座や家族カードの引き落とし口座に補填し続けたの。お母様が自慢げにカードを使うたびに、高志が『立派ね』って褒めたたえるたびに、私が黙っていればあの家の平和は守られたから」

それがまゆ子が28年間守り抜いてきた秘密だった。夫の見えと義母の虚栄心。それを満たすためだけに自分の人生の時間を削って働き、稼いだお金を無言で差し出し続けていた。自分が「役立たずの財布」として扱われる屈辱に耐えながら。

「そんなのあんまりだよ。お母さんは自分のために使ったお金なんて全然ないじゃない」

彩佳の目から再び大粒の涙がこぼれ落ちた。娘のその涙を見てまゆ子の心に小さく温かいものが広がった。自分の苦労を分かってくれる人が一人でもいる。それだけで28年の時間が少しだけ報われた気がした。

「もういいのよ、あやか。だから昨日全て終わりにすると決めたの。もう誰の顔も立てなくていい。誰の見えも支えなくていい。これからは私の人生を生きるわ」

まゆ子は優しく微笑み、彩佳の頭を撫でた。

その時だった。テーブルの上に置かれていたまゆ子のスマートフォンがけたたましい音を立てて震え始めた。画面には見慣れた文字が表示されている。

かよ 希望 海外からの国際電話

彩佳がビクっと肩を震わせる。

「お母さん、おばあちゃんからだ」

「大丈夫よ。こうなることは分かっていたから」

まゆ子は慌てることなく、ゆっくりとスマートフォンを手に取った。深呼吸を一つして通話ボタンを押す。電話が繋がった瞬間、鼓膜を突き破るようなヒステリックな声がスピーカー越しに部屋中へ響き渡った。

「ちょっとこのクソ女、あんた一体どういうつもり?」

それはこれまで28年間まゆ子を支配し続けてきた傲慢な声だった。だが今のまゆ子にとってその声はもう何の力も持っていなかった。まゆ子は表情一つ変えずに静かに口を開いた。

「すみません。どちら様ですか?」

その一言で電話の向こうの空気がピタリと凍りついたのが分かった。

「はあ? 何をとぼけてるの? 私よ、あんたの姑のかよよ」

「離婚しましたので私に姑とはいません」

私は淡々と事務的な連絡をするように言葉を紡いだ。

「な、何言ってんじゃないわよ。高志のカードを勝手に止め上がって。ただで済むと思ってるの?」

「あなたが使っていたカードは高志さんのものではありません。契約者は私です。全て私の会社と個人の信用で作られた家族カードです」

「嘘よ。高志が自分のお金で私に持たせてくれてるって……」

「高志さんの口座からあなたの海外旅行の費用や高級ホテル代を引き落とせるはずがないでしょう。彼の毎月のお給料は家のローンとご自身の飲み代で消えているんですから。28年間あなたをハワイで豪遊させていたのはあなたの息子ではなくこの私です」

電話の向こうでかよが息を飲む音が聞こえた。言葉の意味を理解しようと必死に頭を働かせているのだろう。だが真実を受け入れるには彼女のプライドが高すぎた。

「そ、そんなの信じないわよ。だったら高志に払わせるわ。息子に電話して……」

「どうぞですが、彼にはあなたのホテル代を払う余裕など一円もありませんよ。帰りの飛行機のチケットも私のカードのサービスで手配したものです。カードが停止された今、そのチケットが有効かどうかも分かりませんね」

「ええ……」

かよの声から初めて怒りが消え、恐怖の色が混じった。

「カードや支払いについてはご自身の立派な息子さんにご相談ください。私はもう桐家の財布ではありません」

「ちょっと待ちなさい。まゆ子ねえ……」

すがるような義母の悲鳴を冷酷に断ち切り、私は通話終了のボタンを押した。画面が暗くなったスマートフォンをテーブルに置くと部屋には深い静寂が戻ってきた。

彩佳が信じられないものを見るような目で私を見つめている。

「お母さん、すごい……あのおばあちゃんが何も言い返せなくなってた」

「事実を伝えただけよ。これからは自分たちの力で生きていってもらわないとね」

私は冷めたお茶を一口飲み、小さく息を吐いた。胸の奥に溜まっていた重い塊りが少しずつ溶けていくような気がした。

一方、ハワイの高級ホテル。通話が切れたスマートフォンを耳に当てたままかよはベッドの上に座り込んでいた。

「嘘……嘘でしょう。あれが全部あの女のお金だったなんて……」

震える手で何度も高志の番号にかけるが一向に繋がらない。その時部屋のドアがノックされた。一緒に来ていた友人たちだった。彼女たちの顔にはいつもの愛想笑いはなく、冷え切った軽蔑の表情が浮かんでいた。

「かよさん、フロントで聞いたんだけどあなたのカード本当に使えなくなってるらしいわよ。私、明日のホテル代まで立て替える余裕なんてないからね」

「そ、そんなこと言わないで。日本に帰ったらすぐに返すから……」

「無料。さっき電話で怒鳴り散らしてるの聞こえちゃったし。本当は息子さんじゃなくてお嫁さんのお金で旅行してたんでしょう。私たち、かよさんとは別のホテルに移ることにしたわ」

「待って……置いて行かないで……」

友人たちはかよの叫びを無視してドアを閉めた。一人取り残されたかよの部屋に無常にもフロントからの電話が鳴り響く。有効なクレジットカードを提示しなければ明日には部屋を退出してもらうという最後通告だった。かよは異国の地で頼るものもお金もなく、完全に孤立してしまった。

そして日本。深夜の桐家では暗いリビングで頭を抱えていた高志がいた。床にはまゆ子の名前が記された数々の契約書類が散乱している。何度計算しても自分の手元にあるお金では明日の生活すらままならない現実がそこにあった。

「どうして……どうしてこうなった……」

高志がうわごとのように呟いた時、玄関のドアが乱暴に叩かれた。

「お兄ちゃん、開けてよ。お兄ちゃん!」

義妹のみ子だった。夜中だというのに彼女はパジャマの上にコートを羽織っただけの姿で血相を変えてやってきたのだ。高志が重い足取りでドアを開けると、み子は泣きそうな顔で掴みかかってきた。

「お姉さんの電話繋がらないの。着信拒否されてる。子供の塾の引き落としどうしてくれるのよ。お兄ちゃんが払ってくれるって言ったじゃない」

「うるさい。俺にそんな金があるわけないだろう」

高志は思わず怒鳴った。その言葉にみ子は目を丸くした。

「え……お兄ちゃん部長なんでしょう。お金ないの?」

「ない。今までお前たちの世話をしていたのは全部まゆ子だったんだよ」

高志がそう吐き捨てた瞬間、彼のスマートフォンが短く震えた。画面には新しい交際相手であるレナからのメッセージが表示されていた。

「高志さん、昨日のレストランの件で少しお話があります。明日の夜会えませんか?」

それは高志が必死に守り続けてきた裕福で頼りがいのある男という最後の虚像が音を立てて崩れ去る合図だった。

翌朝。私の新しいマンションには穏やかな朝日が差し込んでいた。キッチンで自分のためだけにお湯を沸かし、ゆっくりとコーヒーを入れる。誰の機嫌を取る必要もない。誰の身勝手な要求に振り回されることもない。ただ静かな私だけの時間だった。

一口コーヒーを飲んだところでスマートフォンが鳴った。顧問弁護士の森下からだった。

「まゆ子さん、おはようございます。手続きの進捗をご報告します」

「おはようございます、先生。いつもありがとうございます」

「ハワイのご義母様の件ですが、ホテル側から連絡があり、支払いができないため本日強制チェックアウトになったそうです。帰りの航空券もキャンセル済みですので、ご自身でなんとかするしかありません」

「そうですか」

私は静かに頷いた。

「それから高志さんの車のリース契約ですが、こちらも無事に解除手続きが完了しました。リース会社が本日車両の回収に向かいます。GPSで追跡したところ、これから高志さんが来るまで出かけるようですので出先で回収する手はずになっています」

「わかりました。先生、全てお任せします」

電話を切り、私は再びコーヒーカップを手に取った。高志にとってあの高級な黒い車は自分の成功を示すための最大のステータスだった。だがそれも今日で終わる。

その日の夕方、高志は新しい交際相手であるレナと待ち合わせをしていた。待ち合わせ場所のホテルのラウンジには例の黒い車に乗って向かった。手元のお金は少なかったが、車さえあれば裕福な男という体面は保てると信じていたからだ。

「お待たせ、レーナ」

高志は無理に作った笑顔で席に座るレナに声をかけた。しかしレナの表情は固かった。彼女の冷たい視線が高志の顔をまっすぐに射抜く。

「高志さん、昨日のレストランのカードの件、本当にシステムエラーだったの?」

レナの単刀直入な問いに高志はぎくりと肩を揺らした。

「あ、ああ、そうだと思う。後でカード会社に文句を言ってやったよ。全く迷惑な話だ」

額に冷たい汗を滲ませながら高志は必死に嘘を重ねた。レナを失えば自分にはもう何も残らない。そう思うと。

レナは目を伏せ、ハンドバッグの持ち手を強く握った。その時だった。二人のテーブルに黒いスーツを着た見知らぬ男性が近づいてきた。

「恐れ入ります。桐高志様でいらっしゃいますね」

「ええ……ああ、そうだが君は誰だ?」

高志がいかめしい顔をあげると男性はうやうやしく名刺を差し出した。

「私、○○オートリースのものです。本日ご乗車されているお車の回収に上がりました」

「か、回収だと?」

高志の顔から一瞬で血の気が引いた。男性は事務的な、しかし周囲の客にも聞こえるようなはっきりとした声で告げた。

「はい。契約者である桐まゆ子様よりリース契約の即時解除のお申し出がございました。大変恐縮ですが、この場でお車の鍵を返却していただきます」

その言葉が落ちた瞬間、レナが引かれたように顔をあげた。

「契約者……桐まゆ子様……」

レナの目が高志を鋭く捉えた。

「高志さん、あの車あなたのものじゃなかったの? 奥さんの名義だったっていうことを」

ラウンジの静かな空間にレナの問い詰める声が響く。高志は口をパクパクとさせるだけで何一つ言い返すことができなかった。彼の見えで作られたメッキが今完全に剥がれ落ちていた。

「ち、違う。これはただの名義貸与だ。節税対策のために元の会社の名前を使っていただけで……」

「申し訳ございません」

担当者は高志の苦しい言い訳を冷酷に遮った。

「毎月のリース代金の引き落としも桐まゆ子様の個人口座から行われております。高志様のお支払い記録は一切ございません。どうか速やかに鍵のご返却をお願いいたします」

その言葉が決定的な一撃だった。レナは小さく息を飲み、テーブルに置いていた自分のハンドバッグを静かに手に取った。

「高志さん、昨日レストランで使えなかったカードも今日の車も全部奥さんのものだったのね」

「れ、レーナ待ってくれ。誤解だ」

「何が誤解なの? あなた。自分のお金だって嘘をついては私を騙していたじゃない。会員ホテルもどうせ奥さんの名義なんでしょうね」

レナは冷ややかな目で高志を見下ろした。裕福なエリート部長だというのは全てまゆ子が28年かけて守ってきた体面の残像に過ぎなかったのだ。その残像が消えた今、高志には何の魅力も価値もない。

「もう連絡しないで。さようなら」

レナはそれだけ言い残し、足早にラウンジを去っていった。高志は手を伸ばしたが、彼女の背中は二度と振り返ることはなかった。震える手で車の鍵をテーブルに置き、高志はその場に崩れ落ちた。地位も若い恋人も移動手段すらも全てを失った瞬間だった。

その頃、ハワイの強い日差しの中、かよは大きなスーツケースを引きずりながらフラフラと歩道を歩いていた。ホテルから強制的に追い出され、日本のクレジットカードも全て使えない。手持ちの現金はチップ用に両替していたわずかなドル紙幣だけだ。

「どうして……どうして私がこんな目に……」

かよは公園のベンチに倒れ込むように座り、スマートフォンを取り出した。友人の部屋に泣きついてみたが、冷たくドアを閉められた。日本にいるみ子に助けを求めて電話をかけたが、「私だって塾の費用が払えなくて大変なのよ。お母さんどころじゃないわ」と取って切られてしまった。

帰りたくても帰国便のチケットはすでにキャンセルされている。飛行機を取り直そうにもお金がない。かつては自分を勝ち組だと信じ、嫁を役立たずの財布と見下していたかよ。だが、今彼女は言葉も通じない異国の地で完全に無力な一人の老人になり下がっていた。

一方、日本のみ子もまた自宅のダイニングで頭を抱えていた。テーブルの上には子供の塾の払い込み用紙が置かれている。期限は明日だ。まゆ子からの送金が頼りだったみ子には当然そんな大金は用意できない。夫に相談すれば「お前の兄貴夫婦からの援助があるから私立に入れたんじゃないのか」と激怒されるのは目に見えている。

み子はすがるような思いで再び高志の番号に電話をかけた。

「お兄ちゃん、お願いだから電話に出てよ」

10回以上コールしてようやく電話が繋がった。

「なんだ?」

電話の向こうの高志の声はひどくかすれていた。

「なんだじゃないわよ。塾の講習のお金どうするの? お兄ちゃんが何とかしてくれないと子供がかわいそうでしょう」

み子が泣き叫ぶと高志は力なく笑った。

「俺に何とかできるわけないだろう。車も持って行かれた。レナにも振られた。俺の口座には今日の夕飯代くらいしか残ってないんだよ」

「そんな……じゃあ私たちはどうすればいいのよ」

「知るかよ。全部まゆ子が出ていったせいだ。あいつが全部壊したんだ」

高志はそう叫んで電話を一方的に切った。自分がまゆ子を追い詰めたことなど棚に上げ、まだまゆ子のせいだと現実逃避をしている。だが、いくら逃げても彼らを待っているのは容赦のない現実だけだ。

同じ日の夜、私の新しいマンションでは静かで温かい時間が流れていた。仕事帰りに寄ってくれた娘の彩佳と一緒に手作りの夕食を囲んでいる。食卓には彩佳の好きなハンバーグと彩り豊かなサラダが並んでいた。

「お母さんのハンバーグ。久しぶりに食べた。やっぱり美味しいね」

彩佳が笑顔で頰張るのを見て、私は自然と目を細めた。あの家ではかよの好みに合わせた和食ばかりを作らされ、私が席に着く頃にはいつも料理は冷め切っていた。

「ゆっくり食べてね。これからはいつでも作ってあげるから」

「うん」と頷いた後、彩佳は少し真面目な顔になった。

「お母さん、今日お父さんから何度か電話がかかってきたの。でも出なかった」

「そう。多分おばあちゃんのことやお金のことで私を味方につけようとしたんだと思う。でも私、お母さんが28年間どんな思いでお父さんたちを支えてきたか、もう全部知ってるから」

彩佳は箸を置き、まっすぐに私を見つめた。

「お母さん、もう誰かの顔を立てなくていいんだよ。お父さんを庇う必要なんてない。これからはお母さんのためだけに生きて」

その言葉に私の胸の奥で何かが静かに溶けていくのを感じた。

「ええ、そうね。もう二度とあの人たちのためにお金も時間も使わないわ」

私は静かに微笑んだ。真実から目を背け、私の沈黙に甘え続けてきた高志たち。彼らが自分たちの足元の崩落に気づいた時、どんな顔をして私にすがってくるのか。だが私が彼らに差し伸べる手はもうどこにもなかった。

レナに去られ、車も失った高志は重い足取りで深夜の自宅へと帰りついた。玄関の明かりをつける気力もなく、暗いリビングのソファに倒れ込む。家の中は不気味なほど静まり返っていた。テーブルの上には先ほどみ子が散らかしたまま帰って行った家計のファイルや契約書が無惨に広がっている。

高志はスマートフォンを取り出し、震える指で自分の銀行口座の残高照会アプリを開いた。画面に表示された数字は3万2560円。

「嘘だろ……」

高志は乾いた笑いを漏らした。次の給料日まであと二週間もある。まゆ子が言っていた言葉が頭の中で何度もリフレインする。

「あなたの毎月のお給料は家のローンとあなた個人の見えのための飲み代で一円も残っていませんよ」

初めて現実の数字と向き合った。毎月の手取り、そこから引かれる住宅ローン、部下や後輩に奢るための高額な飲食代、自分のスーツ代やゴルフの付き合い。計算すればするほどまゆ子の言う通りだった。自分の収入だけでは日々の食費すらまともに捻出できない赤字状態だったのだ。

自分が優秀な大黒柱だというのは完全な錯覚だった。まゆ子が黙って口座の底を塞ぎ、湯水のように溢れ出る赤字を彼女自身の稼ぎで埋め続けてくれていたからこそ成り立っていた嘘の人生だった。

その時静寂を切り裂くようにスマートフォンが鳴った。画面には「母」と表示されている。高志が通話ボタンを押すとノイズ混じりの波の音と一緒に泣きじゃくるような老婆の声が聞こえてきた。

「高志……高志、助けてちょうだい」

ハワイにいる母親のかよだった。

「母さんか。今どこにいるんだ?」

「公園よ。ホテルの人に追い出されて友達にも見捨てられたわ。行くところがないの。さっきから何も食べてない。お願いだから今すぐお金を振り込んで。飛行機のチケットも買って……」

かよの声はかつての傲慢さが完全に消え失せ、惨めな響きを持っていた。見知らぬ日本人に泣きついてスマートフォンを借りて電話をかけてきているようだった。

高志は喉の奥がカラカラに乾くのを感じた。

「無理だ、母さん」

「無理ってどういうことよ? あんた部長でしょう。母親がの宿してるのよ。早くな何とかしなさい」

「なんとかできるわけないだろう」

高志は自分でも驚くほどの大きな声で叫んでいた。

「俺には金がないんだよ。ホテル代も帰りの飛行機代も俺には払えない」

電話の向こうでかよが息を飲む音がした。

「母さんが毎年ハワイに行けたのも高級スパに行けたのも全部俺の金じゃない。全部まゆ子のお金だったんだよ」

高志の目からポロポロと涙がこぼれ落ちた。それは後悔と自分の情けなさに対する惨めな涙だった。

「俺はあいつの稼ぎに寄生して見えを張っていただけのただの発球の男だったんだ。だからまゆ子が出ていった今、俺たちにはもう一円の余裕もないんだよ」

ハワイの夜空の下でかよはその言葉を聞き、完全に凍りついた。全部まゆ子のお金だった。先ほどまゆ子が電話で言っていたことは嫌がらせでも妄言でもなく、残酷な真実だったのだ。

「じゃあ……私がずっと役立たずでのしっていたあの女が私をハワイに行かせてくれていたの……?」

かよの震える声に高志は力なく答えた。

「ああ、そうだ。まゆ子は俺の顔を立てるために28年間黙って俺たちを養ってくれていたんだ。俺たちは一番感謝しなきゃいけない人間を自分たちの手で追い出したんだよ」

電話の向こうからかよの嗚咽が漏れ聞こえてきた。自分がどれほど愚かで恐ろしい勘違いをしていたのか。自分は女王様でも何でもなく、ただ嫁の優しさと忍耐にぶら下がっていただけの哀れな存在だった。その唯一の命綱を自らの暴言で断ち切ってしまったのだ。

「ごめんなさい……ごめんなさい……まゆ子さん……」

異国の地の公園でかよは泣き崩れた。だがその謝罪がまゆ子に届くことは永遠にない。電話が切れ、リビングには再び重い沈黙が落ちた。

高志はソファに崩れ落ち、両手で顔を覆った。妻を失った。28年間の支えを失った。レナという新しい恋人も、エリート部長という見えも全てを失った。彼らが財布だと思って見下していた相手は、彼らの人生の土台そのものだったのだ。土台を失った家がどうなるか。それはこれから彼らが身をもって思い知ることになる。

窓の外では夜がしらじらと明け始めていた。高志の絶望の朝が静かに幕を開けようとしていた。

あれから一ヶ月が過ぎた。

私の手元には顧問弁護士の森下先生から送られてきた分厚い書類が置かれている。そこには私との完全な決別を示す法的な手続きの完了報告と、あの義理の家族たちのその後が記されていた。

「まゆ子さん、本当にこれで法的な手続きは全て終わりましたよ」

スマートフォンのスピーカーから聞こえる森下先生の声はどこか晴れやかだった。

「ありがとうございます、先生。長年ご苦労をおかけしました」

「いやいや、それにしても彼らの転落ぶりはまさに自業自得という言葉がふさわしいですね」

森下先生の言う通りだった。高志はあの後すぐに会社での立場を失った。これまで後輩たちに気前よく奢ることで保っていた「頼れるエリート上司」というメッキは完全に剥がれ落ちた。財布の中身が空っぽになった彼は今やただの見えっ張りの哀れな男として社内で完全に孤立しているという。さらに彼が何よりもこだわっていたあの立派な家もローンの支払いが滞り、ついに手放すことになった。しかし売却してもローンは完済できず、彼の手元には多額の借金だけが残された。

「今、高志さんは都外れの古くて狭いアパートで暮らしているそうです。そしてハワイから強制送還されたかよさんもそこに転がり込んでいるとのことですよ」

森下先生の報告に私は思わず小さく息を吐いた。かよは両大使館からの借金でなんとか日本に戻ってきたものの、彼女を待っていたのは自慢の息子の転落と借金まみれの現実だったのだ。

「なんで私がこんな貧乏長屋に済まなければいけないのよ。あんた本当に役立たずね」

「うるさい。誰のせいでこんな借金ができたと思ってるんだ。母さんの浪費のせいだろう」

毎日のように薄い壁のアパートから親子の見苦しい怒鳴り声が響き渡り、近所から苦情が出ているそうだ。かつて「役立たずの財布」と見下して結託していた二人は今や互いを憎み合い、いがみ合いながら底辺を這いずり回っている。

み子さんも大変なようですよ。夫からの信用を完全に失い、今まで通りやランチに行く余裕など一円もないそうです。毎日朝から晩までスーパーのレジ打ちと清掃のパートを掛け持ちして身を粉にして働いているとか。

「そうですか」

私は静かに相槌を打った。彼らに対する同情は一切ない。ざまぁみろという優越感すら湧いてこなかった。本当にただどうでもいい他人の話になっていた。私は長年背負っていた重い荷物をようやく完全に下ろすことができたのだ。

28年間、夫の体面を守るため、義母の虚栄心を満たすため、家族という形を維持するため、私は自分の心を殺し、ひたすらお金を出し続けてきた。それが妻としての勤めだと信じていたからだ。しかし、彼らは私の献身を当たり前だと思い上がり、私を踏みにじった。結果として彼らは最も失ってはいけないものを失った。私というお金の供給源だけでなく、彼らの人生を守っていた防波堤を自らの傲慢さで叩き壊してしまったのだ。

「先生、これまで本当にありがとうございました。これからはまゆ子さんご自身の人生を誰にも遠慮せずに楽しんでください」

電話を切り、私はゆっくりと立ち上がった。窓を開けると初夏の爽やかな風が部屋の中を通り抜けた。大きく深呼吸をする。誰の怒鳴り声にも怯える必要がない。誰かの身勝手なカードの支払い明細を見て心を乱されることもない。私の人生は今日ここから本当の意味で新しく始まるのだ。

「お母さん、お待たせ」

玄関のドアが開き、明るい声が響いた。今日は日曜日。娘の彩佳と買い物に出かけて一緒に食事をする約束をしていたのだ。

「今行くわね」

私は軽く身だしなみを整え、鏡の前で微笑んだ。ここに映る顔はあの暗くて息苦しい家にいた頃の私ではない。重荷が落ちたように穏やかで自然な笑顔を取り戻した一人の女性が立っていた。

デパートの明るい照明の下、私は娘の彩佳と一緒に洋服を選んでいた。

「お母さん、この色のカーディガンすごく似合うと思う」

彩佳が私の肩に合わせてくれたのは柔らかな明るい水色のカーディガンだった。結婚していた28年間、私は常に義母のかよや夫の高志の目を気にして目立たない地味な色ばかりを選んできた。「嫁の分際で派手な格好をするな」とかよに嫌みを言われ、高志にも「俺より目立つな」と不機嫌になられるのが日常だったからだ。

「そうね。たまにはこういう明るい色、着てみようかしら」

私は少し照れながら微笑み、自分のためだけにその服を買うことにした。自分の稼いだお金を誰の顔色を伺うこともなく自分のためだけに使う。そんな当たり前のことが今の私には涙が出るほど新鮮で嬉しかった。

買い物を終えた後、私たちは見晴らしの良いレストランに入り、ゆったりと昼食を取った。あの家では食事の時間は常に緊張を強いられていた。高志が機嫌を損ねないか。かよが料理の味付けに文句を言わないか。私はいつも冷え切ったおかずを急いで喉に流し込むだけだった。しかし今は違う。彩佳と二人で笑い合いながら温かい料理を温かいうちに心から美味しいと感じて味わうことができる。

「お母さん、最近すごく顔色が良くなったね。本当に前よりずっと若返ったみたい」

彩佳がデザートのケーキを頰張りながら目を細めて言った。

「そう? きっと毎日ぐっすり眠れるからかもしれないわね」

誰の足音や怒鳴り声にも怯えず、他人の理不尽な要求に振り回されることもない日々。それは想像していた以上に私の心と体を軽くしてくれていた。

28年間、長かったようなあっという間だったような気がする。役立たずとののしられ、どれだけ見下されても私が耐え続けられたのは目の前で笑っている彩佳という存在があったからだ。それに皮肉なことではあるが、彼らの贅沢な生活費や虚栄を支え続けるために必死で会社を経営してきたおかげで、私は今誰に依存することもなく一人で生きていける確かな力と財産を手にしている。決して無駄な時間ではなかった。あの苦しい日々があったからこそ今のこの穏やかな自由を心の底から感謝して味わうことができるのだ。

今頃、高志やかよ、そしてみ子はどうしているだろうか。狭いアパートで貧しさに耐えきれずお互いを責め合い、息子日々の支払いに追われ他人の荒しを笑って笑う余裕すら完全に失った二人。彼らは長年私という存在をただの都合の良い財布としてしか見ていなかった。私が彼らの人生という重い荷をどれほどの力で下から支え続けていたのかを知ろうともしなかった。だからこそ私からの送金が止まり、カードが使えなくなったことで彼らは初めて自分たちの無力さを知ったはずだ。しかし私が彼らに手を差し伸べることはもう二度とない。

夕方になり、彩佳を駅まで見送ってから私は新しい自分のマンションに帰宅した。ドアを開けると静かで心地よい空間が私を待っている。キッチンでお湯を沸かし、お気に入りのカップで温かい紅茶を入れた。ソファに深く腰かけ、窓の外を眺める。空は美しい夕焼けに染まり、一番星が静かに瞬き始めていた。

遠くから微かに聞こえる町の喧騒すら、今の私には心地よい音楽のように感じられる。これからの人生は誰かの顔を立てるためでもなく、誰かの見えを支えるためでもない。私自身の喜びと、私を本当に大切に思ってくれる娘のために生きていくのだ。

温かい紅茶の香りが部屋全体を優しく包み込んでいる。私の心には一点の曇りもない、すがすがしい風が吹いていた。

人は支えられている間、その支えの重さに気づかない。だが失った瞬間、それが自分の人生を支えていた柱だったと知る。