第1部
「何勝手なことしてんの? じじが出しゃばるんじゃねえ」
乾いた音が、大企業の本社・午後のフロアに響いた。
みすぼらしい作業着の老人が、若い女部長の前で頬を打たれたまま、静かに立っていた。大石倉之助、七十二歳。先月この会社に入った契約社員だった。たった今、些細なミスをとがめられ、この女部長に平手で頬を打たれたところだった。
それでも彼は、打たれた頬に手を当てることもなく、一言も言い返さなかった。
女部長の名はキラ・レイカ、三十二歳。成果だけで人を測るフロアのエリートだった。その目には、老人を虫けらのように見下す冷たい光があった。周りの社員は気まずそうに目をそらすか、薄く笑うものもいた。ただ一人、若い女性社員だけが唇を噛んで俯いていた。
大石は乱れた書類を黙って拾い集めると、何も言わずに自分の持ち場へ戻った。その背中は、打たれたものとは思えないほどまっすぐで、揺るがなかった。
なぜこの老人は、これほどの屈辱を黙って受け入れたのか。そして翌朝、その同じ会社で役員フロアの電話が一斉に鳴り出した。受話器を取った男たちの顔から、見るみる血の気が引いていった。
大石倉之助の朝はいつも同じだった。郊外の古い一軒家。庭の草に水をやり、仏壇に手を合わせる。そして二年前に亡くした妻の写真へ、今日の予定を静かに報告する。
「今日も会社に行ってくるよ。この年で新人扱いだがな」
写真の中の妻が、少し笑ったような気がした。
大石は戦後の焼け跡から、たった一台の機械で商売を始めた男だった。来る日も来る日も働き、頭を下げ、気づけばいくつもの事業を束ねる会社を一代で築き上げていた。だが社長の座を若いものに譲り、名誉会長として一線を退いてからは、静かに暮らしていた。
そんな大石の元へ、ある一通の手紙が届いた。差出人の名前はない。そこにはこう書かれていた。
「あなたが心血を注いだ会社で、今弱いものが泣いています。若手が次々とやめています。どうか一度、現場を見てください」
大石の胸がざわついた。役員に聞いても返ってくるのは「順調です」という報告ばかり。だがこの手紙の切実な文字は、嘘には思えなかった。
上からの報告など当てにならん。自分の目で確かめるしかない。
大石はそう決めた。こうして彼は身分を隠し、一人の契約社員として、自分が築いた会社の一番下の現場に潜り込んだのだった。古い作業着に袖を通し、みすぼらしい「使えない新人の年寄り」を演じて。
この会社は大石にとって、我が子も同然だった。若い頃、妻と二人、寝る間を惜しんで育てた一番の宝物だ。その会社で若いものが泣いている。それを思うと、いても立ってもいられなかった。
若い者たちがどんな目に遭っているのか。上に立つものが、弱い立場の人間をどう扱っているのか。それをこの目で見るために。
金は人を映す鏡だ。そして肩書きもまた、人を映す。長い苦労の末に大石がたどり着いた心境だった。肩書きを持った人間が、それを持たぬものにどう振る舞うか。そこにこそ、その人の本当の根が出る。
大石は内ポケットの古い社章にそっと触れた。これを外している間だけは、自分はただの名もなき新人だ。飾らない目で、この会社の本当の姿を見つめられる。
何気ないいつもの一日になるはずだった。少なくとも大石は、そう思っていた。
大石が配属されたのは営業推進部という部署だった。若い社員が忙しそうに電話をかけ、資料を作り、フロアには張り詰めた空気が流れている。その中で古い作業着の老人は、明らかに浮いていた。
「え、何? あの人? 派遣? 契約社員だって。この年で入ってくるとか、よっぽど仕事なかったんじゃない?」
ひそひそと交わされる声は、大石の耳にも届いていた。だが彼は気にしなかった。それより、若い社員たちの顔に疲れと怯えが色濃く滲んでいるのが気にかかった。活気があるのではない。追い立てられているのだ。長年現場を見てきた大石には、それが一目で分かった。
その部を仕切っていたのが、キラ・レイカだった。
第2部
三十二歳。有名大学を出て最年少で部長に登り詰めた、社内でも評判のエリートである。びしりとしたスーツに隙のない化粧。キラにとって部下とは、数字を作るための道具だった。成果を出すものだけが人間で、それ以外は靴の下に敷く消耗品に過ぎない。
彼女の目が新入りの大石を捉えた。上から下まで値踏みするように一往復する。古びた作業着、しわだらけの手、曲がった腰。その一瞬でキラの中で大石は「使えないゴミ」に分類された。
「ちょっと、そこの新人」
キラは大石の席までカツカツと歩み寄った。
「あなた、パソコンは? まさか使えないなんて言わないわよね。まあいいわ。じゃあそこのダンボール全部シュレッダーにかけて。あとフロア中のゴミ捨て。それくらいはできるでしょう」
大石は静かに立ち上がった。
「承知しました」
腹は立たなかった。雑用も仕事のうちだ。そう思って重い段ボールを黙って運び、フロア中のゴミを丁寧に集めた。だがその姿を見てキラは鼻で笑った。
「やだ、遅い。あのね、うちは老人ホームじゃないの。ついていけないなら明日から来なくていいのよ。分かった?」
近くの席でそれを聞いていた一人の若手が、はっと顔を上げた。朝野実り、入社二年目の女性社員だった。
「あの、部長。私、手が空いていますから少しお手伝いします」
キラの視線が冷たく朝野を射た。
「朝野さん、あなた今月の数字、下から二番目よね。他人の心配してる暇があるの?」
朝野は言葉を飲み込み、俯いた。それでもキラに見えないところで、そっと大石にペットボトルのお茶を差し出した。
「あの……よかったら。無理しないでくださいね」
小さな声だった。それでもこの会社に来て、大石に向けられた初めての人のぬくもりだった。大石はしわの寄った目元をわずかに和らげた。
「ありがとう、お嬢さん」
それからも大石は次々と雑用を言いつけられた。コピー、備品の補充、会議室の掃除。若手なら一分で済ませる仕事をわざと難しく指示され、できなければまた嫌味を言われる。大石はその全てを黙って、しかも丁寧にこなした。
雑用をしながら、彼はこの部署を静かに観察していた。深夜まで明かりの消えないフロア。怯えた顔でキラの顔色を伺う若手たち。誰かが少しでもミスをするとフロア中に響くキラのかん高い叱責。そして机の島の隅にいくつも並んだ空席。大石にはそれが何を意味するのかすぐに分かった。耐えきれずにやめていった若者たちの抜けた跡だ。
手紙は嘘ではなかった。この会社は内側から静かに蝕まれていた。
翌日の月曜の朝だった。キラが大きなダンボール箱を三つ、大石の机の脇にどさりと積み上げた。中には分厚い紙の資料がぎっしりと詰まっている。
「これね、去年一年分の取引先データ全部、Excelに手入力してちょうだい。今日中に」
フロア中の視線が集まった。一年分の紙資料を一人で、しかも今日中に。それは若手が三人掛かりでも一週間はかかる量だった。しかもパソコンも使えないと思われている老人に。明らかにこなせるはずのない無理難題だった。
キラはそれを分かっていて命じていた。
「もし終わらなかったら分かるわよね。契約更新しないから。この年で職を失うって、なかなか応えるでしょうね」
キラの口元に勝ち誇った笑みが浮かんだ。周りの若手が気の毒そうに目をそらす。だが誰も助けようとはしなかった。言えば次は自分が標的にされる。それがこの職場の暗黙のルールだった。
「部長、それはいくらなんでも……」
たまらず朝野が声を上げた。
「今日中なんて絶対に無理です。私も手伝いますから。せめて期限を……」
「朝野さん」
キラはぴしゃりと遮った。
「あなたさっきから何なの? そんなにこのじいさんの肩を持ちたいなら、あなたも一緒にこの会社をやめる? 代わりはいくらでもいるのよ」
朝野の顔が青ざめた。大石はそんな朝野をそっと手で制した。
「お嬢さん、いい。私がやろう」
そして静かにダンボール箱を自分の机に引き寄せた。
大石は一枚目の資料を手に取った。その瞬間、彼の目の色が変わった。この取引先、見覚えがあった。いや見覚えどころではない。この会社の主要な取引先の名は、創業以来彼の頭に一つ残らず刻まれている。どの会社といつ、どんな縁を結んだのか。どこで苦労し、どこで助けられたのか。その全てが大石にとっては我が子の成長を見守るような思い出そのものだった。
だから彼にとってこの作業は、単なる入力ではなかった。
大石は静かにパソコンに向かうと、キーボードを打ち始めた。その指の動きに若い朝野が目を見張った。早い。しかもただ早いのではない。時々目を止めては資料の数字をじっと見つめる。何かを確かめるように。
大石は打ちながら、資料の中にいくつものおかしな点を見つけていた。取引の条件が不自然にある一社に偏っている。相場より明らかに高い金額で発注が繰り返されている。長年商売の最前線に立ってきた大石には、その意味が手に取るようにわかった。
これは誰かが会社の金をどこかへ流している。
不自然な発注は全て同じ一社に向かっていた。そしてその取引を承認していたのは決まってキラのハンコ。そしてその上には上杉常務の名があった。
大石は静かにその符合を頭に刻んだ。だが表情は少しも変えなかった。まだ証拠が足りない。ここで騒げば、尻尾を掴んだ相手に逃げる時間を与えるだけだ。長い商売で彼はそれを嫌というほど学んでいた。
夜の十時を回った頃、大石は最後の一枚を打ち終えた。三日はかかると言われた作業を、彼はたった一日で仕上げていた。しかもただ入力しただけではない。誤記を正し、抜けを補い、あの不審な取引にはそっと印をつけた別の控えまで用意していた。
翌朝、キラは自分の机に置かれた資料を見て眉を潜めた。ページをめくるほどにその表情から余裕が消えていった。入力は完璧だった。誤字一つ、抜け一つない。それどころか元の資料にあった誤記まで丁寧に正してある。
その時、彼女の目が大石がそっと添えておいた控えに止まった。不審な取引に印がつけられた一枚。キラの顔からさっと血の気が引いた。そこに印がついていたのは、まさに彼女と上杉常務が長い間金を流し続けてきたあの取引だったからだ。
「ちょっと、あなた!」
キラは大石の席へつかつかと歩み寄った。声は上ずっていた。
「これ何のつもり? 頼んでないこと勝手にして。それにこの印。あなた何を勝手に詮索してるの?」
大石は静かに顔を上げた。
「不審な取引がありましたので、念のため印をつけただけです。会社のためを思って」
「会社のため? 新入りの契約社員の老いぼれが何が会社のためよ!」
次の瞬間だった。キラの手が大きく振り上げられ、大石の頬を力任せに打った。
パン、と乾いた音が静まり返ったフロアに響き渡った。
大石の体がわずかに傾いた。だが彼は倒れなかった。打たれた頬に手を当てることもせず、ただ静かに立っていた。その姿はあまりにも静かだった。怒りでも屈辱でもない。ただ深い悲しみだけが、その目に宿っていた。
「部長、やめてください!」
朝野が悲鳴のような声をあげ、二人の間に割って入った。
「いくらなんでも暴力は……相手はお年寄りなんですよ」
大石はそんな朝野の肩にそっと手を置いた。
「お嬢さん、もういい。ありがとう」
その声は驚くほど穏やかだった。そして大石はキラに向かって静かに頭を下げた。
「お騒がせして申し訳ない。私はこれで」
乱れた資料を黙って拾い集めると、大石はゆっくりとフロアを出ていった。打たれた頬を覆うともせず、背筋をまっすぐに伸ばして。
廊下に出た大石は、窓の外の空をしばらく見上げていた。打たれたことに怒りはなかった。ただ、こうして人を殴る人間を部長にまで押し上げてしまった会社が悲しかった。そしてその目を詰めなかった自分の甘さが、悔しかった。
もう見て見ぬふりはできん。
大石は静かにそう決めた。復讐のためではない。この会社をもう一度、人のぬくもりのある場所に戻すため。そして泣いている若者たちを守るためだった。
翌朝、会社の空気はいつもとまるで違っていた。役員フロアの電話が鳴りやまない。ことの発端は一通のメールだった。明け方、主要な役員のもとに一斉に緊急役員会招集の通知が届いた。
そして始業のチャイムが鳴ったその時、フロアの自動ドアが開いた。入ってきたのは数人の幹部らしき男たち。その中央に一人の老人がいた。みすぼらしい作業着ではない。質の良い、しかし古風で品のある背広。胸にはあの古い社章が光っていた。
昨日まで雑用をさせられ、頬を打たれていたあの「使えない新人の年寄り」。その人が今日は、まるで別人のように堂々とフロアの中央に立っていた。
窮地の役員が進み出て、フロア中に響く声で言った。
「皆さんにご紹介します。この方こそ我が社の創業者にして名誉会長、大石倉之助その人です」
その瞬間、フロアの全ての血の気が引いた。
キラの手からスマートフォンが滑り落ちた。カチャンと乾いた音が、静まり返ったフロアに響いた。彼女はその場に崩れ落ちそうになった。
大石はゆっくりとフロアを見渡した。
「久しぶりだね、みんな。私がここにこうして立っていることを、どうか許してほしい。この年になって身分を偽るような真似をしてしまった」
彼はゆっくりと言葉を続けた。
「だが、そうでもしなければ見えないものがあった。上からの報告では決して分からない、この会社の本当の姿がね」
大石の視線が静かにキラへと向けられた。キラはガタガタと震えていた。
「さて、これから役員会を始めよう。話さなければならないことが、山ほどある」
役員会議室で、大石は一枚の資料を机の上に置いた。昨日彼が新人として入力させられたあの取引先データだった。
「まずこれを見てもらおう。昨年一年分の取引の記録だ。この中にどうにもおかしなものがいくつもある。相場の倍近い値で同じ一社に発注が繰り返されている。差額はざっと見ても数億」
上杉常務の喉がごくりとなった。
「その取引を承認していたのはキラ部長。そして最終決裁のハンコを押していたのは上杉常務、あなただね」
「何を根拠にそんな……言がかりだ」
「ではこの会社の登記もたまたまかね。発注先の会社の実質的な持ち主を辿っていくと、あなたの親族の名にたどり着く。会社の金を身内の会社に流し、差額を懐に入れていた。違うかね」
上杉の顔が紙のように白くなった。反論の言葉はもう出てこなかった。
大石は静かに続けた。
「そしてその不正を隠すために、気づいた若手を次々と追い出してきた。おかしいと声を上げたものをパワハラで押しつぶし、退職に追い込んできた。この一年でこの部署を辞めた若者の数を、あなたは把握しているかね」
会議室が水を打ったように静まった。
「私の元に一通の手紙が届いた。差出人の名はない。だがそこにはこう書いてあった。『あなたが心血を注いだ会社で弱いものが泣いています』と。私はそれを確かめに来た。そしてこの目で見たのだ。真面目に働く若者が道具のように使い捨てられ、殴られる。そんな職場になり果てた我が社の姿を」
大石は深く頭を下げた。
「気づくのが遅くなった。すまなかった。だが今日から変えていく。もう一度、人が人として大切にされる会社に。若い君たちが笑って働ける場所に。どうか力を貸してほしい」
上杉常務は全役職を解かれ、刑事告訴された。キラには降格の処分が下された。部長の肩書きを失い、社員としてやり直すことになった。甘い処分ではなかった。だが首にはしなかった。それは大石が望んだことだった。
「人はいくつになっても変われる。気づいた時が、その人の本当の始まりだ。私は彼女にそのやり直す機会を、一度だけ与えたい」
数ヶ月後、会社は大きく変わっていた。キラは自ら願い出て一番下の現場で働き始め、誰よりも早く来て雑用を引き受け、失敗すれば素直に謝った。朝野は新しく作られた働き方改革室の中心メンバーに抜擢された。
大石は再び名誉会長として一線を退いた。大きな権力を振るうことはしなかった。ただ月に一度だけ、ふらりと会社に顔を出す。相変わらず古びた作業着で。そして一番下の現場で若い者たちと汗を流し、その手に技と心構えを伝えていくのだった。
会社の根は、一番儲けるものではなく、一番弱いものをどう扱うかで決まる。
その当たり前で一番忘れがちなことを、一人の老人が、その背中で静かに示し続けていた。



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