第2部
家を出た私は、そのまま駅へ向かわなかった。
向かった先は、田中先生の法律事務所だった。
田中先生は、義父が生前から信頼していた弁護士だった。
事務所へ入ると、先生は静かに立ち上がった。
「由美さん」
「無事に出られましたね」
私は小さく頷いた。
「はい。浩司さんは、完全に自分が勝ったと思っています」
私はバッグから茶色の封筒を取り出した。
田中先生が中身を確認する。
そこには古い通帳。
写真。
書類のコピー。
そして、浩司が隠していた証拠が入っていた。
先生は静かに息を吐いた。
「これで十分です」
その通帳には、信じられない記録が残っていた。
毎月のように引き出される大金。
50万円。
100万円。
時には300万円。
始まった時期は、浩司が営業部長へ昇進した頃と一致していた。
私はすぐに分かった。
仕事のためでもない。
家族のためでもない。
義母のお金を使っていたのだ。
義父が残した大切な財産。
義母が老後のために守っていたお金。
それを浩司は自分の財布のように扱っていた。
しかも、そのお金の一部は明美との食事や旅行、高級品に使われていた。
私は怒りで手が震えた。
でも、感情に流されてはいけない。
ここで怒れば、浩司はまた嘘をつく。
「母さんのためだった」
「後で返すつもりだった」
そんな言葉で逃げるに決まっている。
だから私は待った。
彼が完全に逃げ道を失うまで。
翌日。
私は義母と一緒に銀行へ向かった。
義母は杖を持っていたが、歩く姿はいつもより強かった。

窓口で義母は静かに言った。
「カードを停止してください」
「そして登録情報を変更したいです」
これで浩司が持っていたカードは使えなくなった。
彼が盗んだお金への道は閉ざされた。
その日の夜。
浩司は帰宅すると、すぐに異変に気づいた。
「母さん!」
怒鳴り声が響く。
「カードが使えないんだけど、どういうことだ!」
私は台所から出た。
「あなた、どうしてお義母さんのカードを持っているんですか?」
その一言で、浩司の顔色が変わった。
彼は慌てて言い訳を探す。
「施設の費用を下ろそうと思っただけだ」
しかし義母は静かに答えた。
「私は施設になんて行きません」
浩司は黙った。
その日、初めて彼は母親が自分の味方ではないことを理解した。
数日後。
浩司と明美は家族会議を開いた。
親族の前で私を悪者にするつもりだった。
「由美が母さんを虐待している」
「だから離婚する」
そんな嘘を並べる予定だった。
しかし、その場に現れたのは田中先生だった。
「私は佐藤和子様と佐藤由美様の代理人です」
浩司の顔から血の気が引いた。
田中先生は次々と証拠を出した。
義母の判断能力を証明する診断書。
浩司による財産の不正利用記録。
明美が現金を引き出していた証拠。
すべてが明らかになった。
「これは……」
浩司は言葉を失った。
さらに田中先生は最後の書類を出した。
義父の遺言書だった。
「浩司さん」
「あなたは、この家と土地を自分のものだと思っていたようですね」
田中先生は静かに続けた。
「しかし土地の名義は由美さんです」
浩司の目が大きく開く。
「……嘘だ」
義父は10年前、すべてを見抜いていた。
自分の息子がいつか欲に負けることを。
だから、この家を守る人間として私を選んだ。
遺言にはこう書かれていた。
『この家を守れるのは、家族を本当に大切にする人間だけだ』
浩司は完全に崩れ落ちた。
自分が追い出そうとした妻が、この家を守る権利を持っていた。
その事実を受け入れられなかった。
明美も同じだった。
「じゃあ、マンションのお金は?」
彼女は浩司へ怒鳴った。
「私、もう契約するって言ったのよ!」
その瞬間、二人の関係は壊れた。
お金で繋がった関係は、お金がなくなれば終わる。
浩司は誰にも助けてもらえなかった。
弟の直さんも言った。
「兄貴」
「もう俺は、お前を家族だと思えない」
その言葉が一番堪えたようだった。
最後に義母が立ち上がった。
「浩司さん」
静かな声だった。
「あなたはもう私の息子ではありません」
浩司は泣いた。
しかし、もう遅かった。
25年間私が守ってきたもの。
義母との絆。
義父との約束。
それは、彼には壊せなかった。
離婚は成立した。
浩司は会社でも責任を問われた。
明美も損害賠償を抱えることになった。
一方、私は義母と新しい生活を始めた。
朝、二人でお茶を飲む。
料理を作る。
何気ない会話をする。
それだけで幸せだった。
ある日、義母が二つの湯のみを出してきた。
桜色と藍色の手作りの湯のみ。
「これからは、これでお茶を飲みましょう」
私は笑った。
25年間、私は誰かのために生きてきた。

でも今は違う。
自分の人生を、自分の意思で歩いている。
窓の外には青空が広がっていた。
長い雨は、もう終わった。
私は温かいお茶を一口飲んだ。
その味は、25年間で一番優しかった。



