同窓会の宴会場で、誠一の前にだけ日の丸弁当が置かれていた。
「負け犬なんだから、あんたにはこれで十分でしょ」
周りから笑い声が湧き上がる。高校時代のあれだ、と誰かが言った。誠一は微笑み、箸を手に取った。
「いや、せっかくだからもらうよ。好物なんだ」
なんで平気な顔してるの、とさおりが眉をひそめた。だが、その答えは翌日、本社の重役室で明らかになる。
「こちら、グループ総帥の高村でございます」
100億円の契約書類を前に、彼は静かに言った。
「音社とのこの契約、成立とさせていただきます」
さおりの顔から血の気が引いていく。まさか、あの高村誠一が、日向ホールディングスの総帥だったなんて。あの日の丸弁当を笑ったことが、100億円の契約を吹き飛ばし、彼女の女王の座を音を立てて崩し去ったのだ。
―
高村誠一、58歳。古い住宅街の一角にある「日向屋」という小さな店に、妻と二人で暮らしていた。朝の食卓には、炊きたての白飯と、妻が漬けた梅干しが並ぶ。
「うん、今年のはいい塩梅だ」
「お母さんの壺のおかげよ」
箪笥の棚には、三年前に亡くなった母が四十余年使い続けた、古い茶色の壺が置いてあった。今は妻が、その漬け方を引き継いでいる。誠一の朝は、どんな一日でもこの白飯と梅干しから始まった。一人息子は東京で働き、盆と正月に孫の顔を見せに帰ってくる。静かで穏やかな暮らしだった。
ただ、自分が今何の仕事をしているのかは、誰にも話さなかった。昔の友人ももういない。聞かれれば、いつもこう答えるだけだった。
「食べ物に関わる仕事を、少し」
その朝、妻が一通の葉書を差し出した。
「ねえ、あなた。返事、出してないでしょ」
高校の同窓会の案内だった。卒業から四十年の節目で、会場は駅前のグランドホテル。昨年も来ていた。
「一度くらい顔を出してらっしゃいよ」
「そのうちな」
「会えるうちに会っておかないと、会えないままになる人もいるのよ」
誠一は葉書に目を落とした。幹事の欄に、見覚えのある名前があった。唐木さおり。その名前を見た時、誠一の表情がわずかに動いた。だが、その下に並ぶ出席者の名前を見て、もっと長く視線を止めた。
「美咲こ太……こ太も来るのか?」
四十年前のある男の、真っすぐな顔が浮かんだ。行ってみるか。確かめたいこともある。
「それがいいわ」
出席の返事を出して二週間後、同窓会当日の朝が来た。誠一は目立たない灰色の上着を選んだ。値段を主張しない服だった。出がけに、仏壇に手を合わせる。
「楽しんでらっしゃいな。せっかくの四十年ぶりなんだから」
「ああ、行ってきます」
秋の空の下、バスに揺られて向かう駅前のグランドホテル。その宴会場で何が待っているのか、誠一はまだ知らない。
―
駅前のグランドホテル三階。宴会場の入口には「卒業四十周年記念同窓総会」の看板があった。受付の長机で名簿を並べていた男が、誠一を見て手を止めた。
「た、高村? 高村だよな?」
「こ太。久しぶりだな。四十年ぶりか。元気そうで何よりだ」
こ太の目が泳いだ。何か言いかけて、言葉を飲み込む。
「ああ。いや、なんでもない。これ、名札受付へ任されてるのか」
「ん。ほら、俺は昔からこういうの、だからさ」
笑顔の形を作った顔だった。誠一は名札を受け取り、こ太の顔をもう一度だけ見てから会場に入った。
宴会場は着席のスタイルだった。白いクロスの円卓に椅子が並び、集まった同級生は七十人。あちこちで名前を確かめ合う声が上がっている。誠一の席は、入口に一番近い円卓だった。同じ卓の男が名札を覗き込む。
「久しぶり。お、高村。えっと……ああ、高村。悪い、顔が思い出せなくて」
「無理もない」
それきり、誰も誠一に話しかけてこなかった。やがて入口の辺りがざわめき始めた。唐木さおりの登場だった。光沢のあるベージュのスーツに真珠のネックレス。とても同じ五十八歳には見えない。取り巻きの女たちが左右を固め、その後ろに下級生たちが続く。
「唐木さん、全然変わらないな」
「会社の役員になったんですって」
さおりは女王のように会場を回り、掛けられる声の一つ一つに笑顔を返していく。その目は、挨拶の間も相手の服と時計を上から下までなぞっていた。
「ねえねえ、みんな聞いた? 唐木さんって、今百億のお仕事を動かしているんですって」
「ちょっと、やだ。中さんたら声が大きいわよ。仕事の話は今日はなしよ」
口ではそう言いながら、止める声はどこか嬉しそうだった。その目が、誠一の席を見つけて止まった。彼の姿を見つめるさおりの目の奥で、四十年前の光景が蘇っていた。
―
四十年前、唐木の家はこの町で一番の会社だった。誠一の父は、唐木の会社の下請けの町工場をやっていた。その工場が潰れ、父は過労で亡くなった。人柄で知られた唐木の父は、残された誠一と母を見捨てなかった。屋敷の隅の離れと、母の働き口を世話したのだ。だが、娘のさおりにとって、誠一は「うちが食わせてやっている家の子」でしかなかった。
ある夕方、屋敷の廊下。さおりは九十四点の答案用紙を手に、父の部屋へ急いでいた。厳しい父だが、今度こそ褒めてくれるはずだった。その足が扉の前で止まる。中から父の声が漏れてきた。
「誠一はものすごい才能を持っとるよ。あの子は大物になる。もしかすると、わしらの知らんような世界で活躍するかもしれん」
客と笑い合う、上機嫌な声だった。父は、一度も娘の成績をそんな声で語ったことがなかった。廊下で、さおりの手の中で九十四点の答案がくしゃりと潰れた。
なんで。なんで、あんな下請けの子が。
その数日後、高校の教室でさおりはこ太を呼び寄せた。
「ねえ。次の昼休み、あいつがご飯食べてる時、みんなの前でバカにして、弁当箱ひっくり返して食べられなくしてきてよ」
「あ、でも……そんなこと……」
「あんた、私に逆らうとどうなるか分かってるんでしょうね」
計画は昼休みに実行された。こ太が誠一の弁当箱をひっくり返し、床に落とした。
「あ、あの、誠一君、その弁当ちょっと……」
ガシャン。
「俺の、日の丸弁当……」
こ太は床に落ちた弁当箱の中身を、誠一が拾う前に足で蹴散らした。
「ほら、みんな見て見て。高村君ったら、落ちたご飯拾ってる。汚い」
さおりが煽り、クラス中の笑い物にされた。誠一は黙って、床の米粒を拾い集めた。さおりは、その姿を見下ろしながら言い放った。
「いい気味だわ。あんたは一生、そうやって這いつくばってればいいのよ」
―
その記憶は、さおりの中でここで途切れていた。彼女はため息をつき、完璧な微笑みを作り直してマイクの前に立った。
「皆様、今日はようこそ。四十年ぶりのお顔もたくさん見えて、私、朝から胸がいっぱいですの」
拍手が起きる。マイクを置いたさおりは、隣の中にだけ聞こえる声で呟いた。
「来たのね、あの負け犬。中さん、言った通りちゃんとあの人の分の特別はホテルの人に頼んでおいたわ。タイミングもばっちり」
中は満足そうに頷き、何事もなかったように乾杯の挨拶へ戻っていく。その横顔を、受付を終えて入ってきたこ太がじっと見ていた。
乾杯の声が上がり、配膳が始まった。白い制服のホテルの係が、円卓の一つ一つに料理を置いていく。手まり寿司に湯気の立つ土瓶蒸し。あちこちで歓声が漏れた。だが、誠一の前に置かれたのは、四角い古びた箱が一つきりだった。
「皆さん、ちょっと注目。今日はね、誠一君にだけ特別メニューをご用意したの」
会場の目が誠一に集中する。
「ほら、誠一君。開けてみて」
誠一は箱に手をかけ、蓋を取った。白いご飯の真ん中に、梅干しが一つ。日の丸弁当だった。一瞬の静寂。
「負け犬なんだから、あんたにはこれで十分」
会場がどっと湧いた。
「やだ、日の丸弁当懐かしい。高校の時のあれでしょ」
「唐木さんたらひどい」
笑い声が波のように広がっていく。半分は事情も知らないまま釣られて笑っていた。その渦の中で、こ太だけが笑っていなかった。卓の下で、古いスマホの画面が開かれる。レンズが誠一へと向いていた。
「なんてね。冗談よ、冗談。ちゃんとお料理も準備してるわ。ドッキリ大成功ってところかしら」
さおりが指を鳴らすと、係が料理を運んできて、弁当の横に置いた。拍手と笑いで、一つの出来過ぎた予定調和として場は収まりかけた。だが、誠一は料理には手をつけず、日の丸弁当を引き寄せた。
「や、こっちをいただくよ。好物なんだ」
「は?」
誠一は箸を取ると、梅干しを一口、口に運んだ。その酸っぱさが、誠一を四十年前に連れ戻した。
工場が潰れ、父が亡くなった後、母は朝の暗いうちから市場の仕込み場で働いた。荒れた手が、家を出る前に詰めてくれる弁当。白いご飯に自分で漬けた梅干しが一つ。それだけしか入れてやれなかった。弁当の蓋で隠して食べる息子に、母はいつも言っていたものだ。
「軒の下で食べてごらん。軒の下で食べれば、何だってご馳走だよ」
誠一は目を開けた。
「うん。うまい」
一口ずつ味わうように箸が進む。悔しさも我慢もない。心の底から、うまそうに。誠一は日の丸弁当を食べていた。
笑い声が、少しずつ勢いを失っていった。
「あの人、本気で食べてるわよ」
「高村ちゅうたら、昔工場が潰れてさ、お母さん市場で働いてたんだよ。かわいそうに」
「ちょっと、やめなさいよ。聞こえるわよ」
哀れみのひそひそ声が、波のように卓から卓へ伝わっていく。マイクを置いたさおりの顔から、笑いが消えていた。
なんで。なんで平気なのよ、あいつは。
「大成功よ、さおりさん。みんな大受けだったじゃない」
「あいつのあれは絶対痩せ我慢よ。心の中じゃもうズタボロに決まってるわ」
さおりは答えなかった。視線の先では、誠一がうまそうに白飯を頬張っている。痩せ我慢の顔は、どこにもなかった。食事を終えた誠一は、静かに手を合わせた。
「ごちそう様でした」
―
宴も後半に入り、酒が回り始めていた。さおりのテーブルでは、酌の順番が回ってくる。注ぎ役をやらされているのは、こ太だった。
「こ太君、酌がちょっと遅いわよ」
「わ、悪い。すぐ頼んでくる」
四十年前と同じ役だった。調子を受け取るこ太の手が、一瞬だけ止まる。やがてさおりはビール瓶を手に取り、取り巻きを従えて誠一の席へやってきた。
「せっかくだから、酌してあげるわ。ほら、グラス」
「ああ、悪いな」
「ねえ、ところで誠一君って、今何のお仕事してらっしゃるの? まさか無職?」
「食べ物に関わる仕事を、少しな」
さおりの注ぐ手が止まった。
「食べ物? へえ。私と同じ業界ってわけ。あ、そういえば誰かが言ってたわね。誠一君、今すごいらしいって」
「やめてよね。笑っちゃう。見なさいよ、その昭和のまんまの格好。あんたの食べ物の仕事なんて、どうせスーパーの品出しか、道の駅で梅干しでも並べてるんでしょう。お願いだから、私と同じ業界みたいな顔しないでくれる? こっちは百億よ。あんたの人生を丸ごと全部売ったって、届かない数字なのよね」
周りの笑いが、今度は続かなかった。
「唐木さん、ちょっと飲みすぎじゃない?」
「そうか。大した数字だな」
誠一は表情一つ変えず、グラスに口をつけた。さおりの方が、ぴくりと動いた。聞いていない。この男には、何を投げても響いていない。
「あんたね……」
「そ、そうだ。さおりさん。その百億のお話、あっちでみんな聞きたがってたわよね。ねえ、聞きたい聞きたい。行きましょう」
取り巻きたちが慌てて話の舵を切り、さおりを自席へ連れ戻していく。自分のテーブルに戻ったさおりの声は、酒と共にどんどん大きくなっていった。
「だから聞いてよ。百億よ、百億。食品の百億の案件を、この私が動かしてるの。役員で私だけよ。こんな権限持ってるの、すごいでしょ。テレビで見る世界だわ」
さおりは上機嫌で注がせ、声を潜めるつもりで大声を出した。
「ねえ、いいこと教えてあげる。うち、上場してるでしょ。今のうちにうちの株、買っときなさい。近々ね、いいことがあるのよ」
「え、それって買うわ、私絶対買うわ」
その頃、誠一は帰りの挨拶のために出口へ向かうところだった。その動線は、さおりのテーブルの真横を通る。
「相手は日向っていたいう会社なんだけどね。これがまあ、ケチでケチで、じいさん経営の田舎会社なのよ。ま、私が手玉に取ってあげるけどね」
誠一はテーブルの横を足を止めずに通り過ぎた。その全部が、耳に入っていた。
「あら、誠一君、もう帰り? 明日も仕事だしね、早いの」
「ああ。今日はごちそうさま」
笑顔のまま、誠一は宴会場を出た。エレベーターホールで、後ろから声がかかった。
「た、高村。ちょっと待ってくれ」
息を切らしたこ太が、古いスマホを握りしめて立っていた。
「ね、番号交換してくれないか?」
「うん、いいよ」
「あ、あの、俺……こ太は言葉を止め、首を振った。ああ。いや、なんでもないんだ。今日は会えてよかった」
番号を交換し、エレベーターに乗り込んだ。扉が閉まる寸前、深々と頭を下げるこ太の姿が見えた。
―
同窓会から帰宅した誠一を、妻が出迎えた。
「お帰りなさい。どうだった? 四十年ぶりの同窓会は」
「いい会だったよ」
「それは良かった」
誠一はそれ以上語らなかった。風呂を出て、縁側で茶を飲んでいた時だった。机の上のスマホが短く震えた。こ太からだった。メッセージは一行だけ。
「俺にできるのはこれくらいだから」
その下に、動画が一つ届いている。誠一は最後まで見た。それから、もう一度見た。画面を消した縁側に、時計の音だけが残った。
誠一は仏壇の前に座り、線香を一本、立てた。写真の中の母は、変わらず笑っている。
「おふくろ。あんたの弁当を笑い物にした人がいてね。明日は久しぶりに、俺が己の店に出るよ」
―
月曜の朝、誠一は事務所で電話をかけた。
「おはようございます。今日の最終交渉ですが、私が直接出ます」
電話の向こうで、息を呑む気配があった。
「え、ご自身がですか?」
「ええ。少し事情がありましてね」
「承知しました。正面の席にお出になるのは、何年ぶりでしょうな」
同じ頃、音瀬食品の本社は朝から張り詰めていた。この数年、業績は落ち続けている。日向ホールディングスとの年間百億の契約は、会社の存亡を握る案件だった。営業の数字は二年続けて目標を下回り、その責任を問う声は営業トップの唐木さおりに集まっていた。来年の春には、役員の改選がある。この百億の案件をまとめられなければ、さおりの椅子はない。
最終交渉の日は、一ヶ月も前から決まっていた。今日は、ジムレベルの最終確認。ここがまとまれば、後日双方の役員を揃えた調印式が待っている。
廊下を、さおりのヒールが早足で鳴らしていく。後ろに書類の束を抱えた課長が続く。
「ほ、本部長。もし今日がまとまらなかった場合、来期の資金繰りが……」
「まとまるのよ」
廊下に声が響き、課長が首をすくめた。さおりは口元を直し、髪を撫でつけた。
「まとまらなきゃいけないのよ」
自分に言い聞かせるような声だった。パパ、見てなさい。九十四点なんかじゃない。今度は百億よ。
午後、日向ホールディングス本社。最上階の商談室へ向かう廊下で、課長のスマホが鳴った。
「はい。はい。承知しました。ほ、本部長。先方から今連絡が。本日の商談に、先方のトップご本人がご挨拶を兼ねて同席されるそうです」
「は? トップですって? なんで、なんでこのタイミングで? 聞いてないわよ、そんなの。まさか条件を蒸し返す気? それとも何か気に触った?」
「ど、どうするんですか? 常務にご連絡して、体制を整え直すべきでは」
「そんなこと分かってるわよ」
さおりは、どなり返して肩を怒らせた。手鏡を出そうとして、ポーチからリップを取り落とした。拾う指が、震えていた。
「本部長、もう始まる時間よ。今から誰かが来られるわけでもないでしょう」
さおりは目を閉じ、一つ深く息を吸った。そして、いつもの笑顔を顔に張り付けた。
「そうよ。考えてみれば、むしろ好機じゃないの。トップが出てくるってことは、向こうも今日決める気だってこと。どうせ、メディアにも出ない引きこもりの総帥様でしょ。よぼよぼのおじいちゃんよ。年寄りなんて、私みたいに綺麗な女が笑ってあげれば、判子くらいすぐ押すのよ」
強がりなのか本気なのか、課長には分からなかった。おそらく、さおり自身にも。
商談室の前で、さおりはもう一度手鏡を開き、唇を直した。縫い直す手に、まだ小さな震えが残っている。鏡の中の自分に、笑って見せた。
「百億。私の百億」
祈るような小声だった。課長が扉をノックする。扉の奥から、落ち着いた声がした。
「どうぞ」
商談室の扉が開いた。白い長机の向こう、上座の席に紺のスーツの男が座っていた。その脇に、銀縁の眼鏡の秘書が控えている。営業スマイルのまま入室したさおりの足が、止まった。笑顔が顔に張り付いたまま、固まっていく。
「ようこそお越しくださいました。ご紹介いたします。当グループ総帥の高村でございます。どうぞおかけください」
昨日と同じ、落ち着いた声だった。課長は緊張で強張ったまま、名刺を差し出した。メディアに一度も姿を見せたことのない、幻の総帥。差し出した手が、小さく震えている。本物だ。本物の総帥が出てきた。この場に、うちの運命がかかっている。
受け取った名刺に目を落とし、課長はもう一度名刺と男の顔を見比べた。だが隣のさおりは、名刺入れを出すことも忘れて、立ち尽くしていた。
「誠一君……う、嘘でしょ? なんで、なんであの負け犬がここに……」
「ほ、本部長、名刺を」
数秒の空白の後、さおりは無理やり口元を引き上げた。
「ま、まあ、誠一君、やだ。そうだったの? 昨日はどうも。すごい偶然ね。同級生とお仕事できるなんて、私心強いわ」
「ええ。そ、そうよ。誠一君と知り合いなのか?」
課長の目が、二人の間を行ったり来たりした。誠一は答えず、手を軽く上げて着席を促した。
「始める前に、一つだけ当社の流儀を申し上げておきます。事実をありのままに話せる方かどうか、私どもはお取引の相手をそれで決めています。金額や条件の話は、その次です」
「お、え、ええ、もちろんですわ。誠実さが一番ですもの。私……」
さおりは笑ったが、誠一は笑わなかった。
「では、始めてください」
課長が慌てて資料をめくり、説明を始める。新商品の企画、生産体制。説明が進むうちに、さおりは少しずつ調子を取り戻していった。
そうよ。むしろ好都合じゃない。同級生のよしみってものがあるわ。あの弁当だって、冗談で使える。ええ、通るわよ。
説明が終わると、さおりは身を乗り出した。
「というわけで、音社との共同事業、必ずや実あるものにしましょうね。誠一君、長いお付き合いになりそうね」
誠一は資料を閉じた。そして、さおりを見た。
「唐木さん。一つ、確認させてください。昨日の同窓会で、私の前に何を出されましたか?」
「は?」
「私の席にだけ、何を出されましたか?」
「な、何のことかしら? お弁当なんて、出した覚えはありませんけど」
誠一は黙ってさおりを見ている。
「あ、ああ、あれね。やだ、今思い出した。あれは余興よ。同窓会を盛り上げるための、可愛いサプライズじゃない」
「昨日、あなたは皆さんの前でこうおっしゃっていた。取引相手は、けちで貧乏臭い、じいさん経営の田舎会社だと」
「言ってないわよ。誰がそんなこと。証拠でもあるの?」
誠一は湯呑みを置いた。小さな音が商談室に響いた。
「あなたは今、この短い時間に三度、言い換えた。弁当は出していない。いや、あれは余興だ。悪口は言っていない。証拠があるのか。唐木さん、初めに申し上げましたね。事実をありのままに話せる方かどうかで、お相手を決めると」
誠一は立ち上がった。
「この百億の契約は、白紙とさせていただきます」
「は?」
課長の手からボールペンが落ちた。
「ま、待って、待ってください。あれは冗談だ。同級生のじゃれ合いじゃないの。誠一君、私たち同級生でしょ」
「同窓会では、私はあなたの同級生でした。ここでは、音社の取引先です。本日はお引き取りください」
秘書が扉を開け、脇に立った。
「ま、待って。まだお話は……」
だが、誠一はもうさおりを見ていなかった。次の書類に目を落としている。昨日「負け犬」と笑った男は、もう自分を見てもいなかった。
「失礼いたしました」
声を絞り出して立ち上がる。膝が一度、ぐらついた。課長が慌てて資料をかき集め、深々と頭を下げて後に続く。扉が、音もなく閉まった。
―
廊下に出たさおりの手は、細かく震えていた。
「本部長、白紙ってどうするんですか? それに今のは一体……」
「あんた、今日のことは誰にも言うんじゃないわよ。報告は私がする。余計な口を聞いたら、あんたの身がどうなるか分かってるわね」
「あ、はい」
課長は目を伏せた。出世の判定は、目の前の本部長が握っている。
その足で音瀬食品に戻ったさおりは、常務室の扉を叩いた。
「白紙だと? どういうことだ。君。先方のトップが急に出てきたなら、なぜその場で私に電話をよこさなかった? 体制を整え直すのが筋だろ」
「申し訳ありません。あまりに急なことで……それが、条件の細部で急に難色を示されまして」
「で、でもご安心ください。分かったんです。先方の総帥、実は私の高校の同級生でした」
「は? 総帥が同級生? 君、そんな偶然があるのか?」
「あ、本当です。昨日同窓会でお会いしたばかりなんです。窮地の時ですから、ちょっとした行き違いさえ解ければ。私に任せていただければ、明日にでも誤解を解いて見せます」
「本当だろうな。この案件が止めば、君の椅子どころの話ではすまんのだぞ」
「わ、分かっております」
常務室を出たさおりは、廊下の窓に映る自分に向かって口角を上げた。
「大丈夫。あれは総帥と言っても、元は負け犬なのよ」
―
火曜の午後。昨日の白紙宣言を受け、音瀬食品はお詫びと再交渉のお願いを申し入れていた。誠一はこれを受けた。日向ホールディングスの役員室のソファの向こうに、常務の戸田、唐木さおり、そして課長の三人が並ぶ。今度という今度は、常務が自ら同行していた。こちら側には、誠一と秘書。
口を切ったのは、戸田だった。
「この度は、弊社の者が大変な無礼を働きました。経緯はどうあれ、不快な思いをされたことに弁解の余地はございません。心よりお詫び申し上げます」
戸田は深く頭を下げ、そのまま顔を上げなかった。その隣で、さおりが口を開いた。
「やだ、常務ったら。そんなに深く頭を下げるほどのことではございませんのよ」
さおりは昨日と同じ完璧な笑顔を作っていた。
「高村総帥、昨日は行き違いがあったみたいでごめんなさいね。ただ誠一君、あなた昔から真面目で、冗談の通じないところがあったでしょ? 同級生の可愛いサプライズだったんだから。それにほら、昔のご家庭の事情がおありだから、お弁当のことには人一倍敏感なのよね。そこまで気が回らなかったことは謝るわ。ごめんなさいね」
謝罪の形をした、二度目の侮辱だった。戸田の、下げていた頭が跳ね上がった。
「唐木君!」
課長の顔から血の気が引いていく。誠一は何も答えず、湯呑みを置いた。小さな音だけが役員室に響いた。
「秘書、お願いします」
秘書がタブレットに触れると、壁の大型モニターに映像が流れ始めた。日曜の宴会場だった。蓋のついた四角い箱。マイクを握るさおり。
「負け犬なんだから、あんたにはこれで十分」
続いて、席での大声。
「相手は日向っていたいう会社なんだけどね。これがまあ、ケチでケチで、じいさんの田舎臭い会社なのよ」
映像が止まった。
「そして、ご存知の通り、当社は商談のやり方を全て記録に残しております。こちらは昨日の初回商談のものです」
「し、証拠でもあるんですか?」
誰も口を開かなかった。その重い沈黙の中で、課長が小さく息を飲んだ。昨日からの謎が、最悪の形で溶けた声だった。戸田はモニターとさおりと、何度も見比べていた。映像の中で下品に笑う女と、目の前で完璧な化粧をした部長が同じ人間だとは思えなかった。
「なんだ、これは? 唐木君。これは君なのか?」
「じ、あの、その、これは……あ、私は君が条件で難色を示されたと聞いて、だから今日は代替案を持って……」
「それが、弁当に悪口か。私は、今日、何を謝りに来たんだ?」
失敗しかけた案件がなぜ消えたのか。その答えを、こんな形で見せられるとは。戸田の手の中で、茶封筒がくしゃりと潰れた。
「ち、違います。ちょ、ちょっと待って。これは誰? 誰が撮ったのよ、こんなもの」
誠一は答えなかった。
「は、編集ですわ。そうよ。今の時代、映像なんていくらでも作れますのよ。これは誰かの悪意に決まってる」
額に、汗が一筋伝った。
「唐木さん。月曜の初回商談の始めに、私は申し上げました。事実をありのままに話せる方かどうかで、お相手を決めると。あなたは『弁当は出していない』と言った。次に『余興だ』と言った。『証拠があるのか』と言った。そして今日、『謝罪だ』という。この商談はね、始まる前から終わっていたんですよ。あの宴会場で、あなたが俺の弁当を笑った時から、な」
一瞬、別の男の声がした。さおりの背中に、冷たいものが走った。
「それと、まだあります」
モニターに、二本目の映像が流れた。自席で、取り巻きに囁くさおり。
「うちの株、今のうちに買っときなさい。近々ね、いいことがあるのよ」
「買うわ、私絶対買うわ」
「上場会社の役員が、未公開の大切な情報を発表前に人へ伝え、株を買うよう勧める。あなたが昨日やったことは、金融商品取引法で禁じられたインサイダー取引に当たります。この映像は、昨日のうちに証券取引等監視委員会の情報提供窓口へお届けいたしました。この後は、当局が審査し、調査に入ります。悪質と判断されれば、検察への告発という流れになります」
「ちょ、ちょっと待って、待ってよ。あ、私は関係ない。私はほんの少し、買っただけ……」
言葉が、途中で止まった。役員室の全員が、さおりを見ていた。
「ち、違う。違うのよ。今のは……」
数秒の沈黙の後、さおりは突然、声を裏返らせた。
「は、はめられたのよ。そうよ。まだよ。この男が私を潰すために、全部仕組んだんだわ。だってそうでしょ? 高が弁当一つでしょ。同級生の冗談一つで、百億の案件を白紙に戻すなんて、そっちの方が異常よ。昔から陰気で、何を考えてるか分からない男だったのよ。この男は……」
「唐木君! やめんか! 見苦しい」
「じゃ、じゃあ私は、この会社に三十年捧げてきたんです。やっと、やっとここまで来たんです。改選まであと少しなんです」
すがりつくさおりの手を、戸田は袖ごと振り払った。
「買っていたのが、自分の会社の株を発表の前に。助言の話も嘘。同級生だから任せろも嘘。その上で、君はもう……全部、君の独壇場だ」
さおりの目が、戸田から誠一へ移った。そして、這うように誠一の側へ回り込んだ。
「誠一君。ねえ、誠一君。昔のよしみじゃない。え、情報提供のあれ、取り下げて。取り下げてよ。お願い。何でもする。何でもするから」
昨日まで「負け犬」と笑っていた男に、さおりは今、すがっていた。誠一は動かなかった。
「ここから先は、私ではなく法律があなたの相手です」
さおりの目から、作り物の笑顔が剥がれ落ちていった。代わりに浮かんだのは、剥き出しの四十年の憎悪だった。
「なんで。なんで、なんで、なんでよ。あんたはずっと私の下で、私を見上げてなきゃいけない人間なのよ」
「唐木君、やめんか」
「パパも、あんたも、なんでなんであんたばっかり」
「いい加減にしろ!」
常務の怒声が、役員室の空気を割った。さおりの膝から、力が抜けた。床に崩れ落ちたさおりの真珠のネックレスが、机の脚に当たって乾いた音を立てた。四十年来、胸の奥で飼い続けた本音が、一番見せてはいけない場所でこぼれ落ちた。誠一は、何も答えなかった。戸田が深く頭を下げた。
「会社として、正式にお詫び申し上げます。処分は厳正に行います。音瀬食品さんとのお取引につきましても、後日改めて」
その言葉だけを残して、音瀬食品の三人は部屋を出た。扉の閉まる音だけが、役員室に残った。
―
役員室を出たところで、秘書が誠一に追いついた。
「そうそう、一つ伺ってもよろしいですか? 今回のことを、なぜご自身で処理なさらなかったのですか? 警察や弁護士に一任することもできましたのに」
誠一は足を止め、廊下の窓の外に目をやった。
「母の教えでしてね。『食い物と人は、看板で選ぶな。味で選べ』と。だから、この目で確かめたかったんです。あの人の商いの味を。確かめた結果が、あれです」
「そうでしたか。音瀬食品さんとのお取引はいかがなさいますか?」
「条件を見直して、続けてください。あの会社の社員に罪はないですから」
「かしこまりました」
秘書は深く頭を下げ、それから少しだけ笑った。エレベーターの中で、誠一はスマホを取り出し、家に電話をかけた。
「ああ、私だ。うん。仕事は終わったよ。それでな、今夜は炊きたての白い飯と、梅干しが食いたいな」
電話の向こうで、妻が小さく笑う気配がした。
「あら、珍しい。はい、はい。梅干しね。一番いいのを出しておきますね」
「ああ、頼む」
ビルを出ると、町は夕日に染まり始めていた。
―
数週間後、証券取引等監視委員会の調査が音瀬食品に入った。ニュースは実名でその名を報じた。未公開の契約情報を元に自社株を購入し、購入も勧めていた疑い。音瀬食品は同じ日のうちに、さおりの執行役員の職を解き、辞任を発表した。役員の椅子どころか、机そのものが消えた。
さおりのスマホから、着信は消えた。かけてもかけても繋がらない。あれほど媚びてくれた鳥巻きたちの番号は、一つまた一つとブロックに変わった。仲間内の集まりの連絡からは、いつの間にか名前が外されていた。女王の国は、一夜で消えた。
株を買った鳥巻きたちにも、調査の手は等しく及んだ。「絶対買うわ」と騒いだ中は、課徴金の通知を受け、自慢げだった集まりに顔を出さなくなった。あの日、耳にした通りに動いた者たちだけが、きっちりと代償を払わされた。
音瀬食品は、日向との取引を条件を改めて続けることを許された。だが、役員が取引先を失墜させた会社の看板は重く、立て直しには長い時間がかかるという。
唐木の屋敷では、引退したさおりの父が新聞を畳んで、長いこと黙っていた。それから、父は机の引き出しの奥から、一枚の古い紙を取り出した。四十年も前に娘の部屋のゴミ箱で見つけ、捨てられずにしまい込んだ、九十四点の答案だった。
「一応、見る目は間違っとらんかった。じゃが……」
父は、しわだらけの手で顔を覆った。
「よその子を褒める前に、褒めてやらにゃならん子が、家におったんじゃ。よう頑張った。たった一言。それを言わなんだ。わしじゃ……」
謝る相手は、もうこの家にはいなかった。
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そして数ヶ月後。唐木さおりは、郊外のスーパーの倉庫で、ダンボールを開けていた。役員解任と実名報道の経歴では、選べる仕事はもう多くない。ようやく決まったのは、スーパーの品出しのパートだった。「どうせスーパーの品出しか。道の駅で梅干しでも並べてるんでしょう」。いつかの自分の声を、店の制服を着るたびに思い出す。しかも、売り場の入り口にはあの忌々しいロゴが光っていた。ここは、日向系列のスーパーだった。
昼休みの休憩室。さおりは隅の席で、手弁当の蓋を開けた。白いご飯に、特売の梅干しが一つ。それしか、入れられなかった。誰も笑わない。誰も見ていない。誰も「特別メニュー」など用意してくれない。
「ねえ、知ってる? 私、前は百億動かせてたのよ」
隣で弁当を食べていた若いアルバイトが、顔も上げずに答えた。
「はあ、すごいっすね」
「あの男にはめられたのよ、私は。そうよ。あの男が全部……」
「聞いてる?」
誰も、聞いていなかった。反省の言葉は、今日も一つも出てこない。それが、唐木さおりが四十年かけて辿り着いた場所だった。
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秋が深まった頃、誠一のスマホにこ太から連絡が来た。
「あって話したいことがあるんだ」
日曜の昼下がり、駅前の古い喫茶店でこ太は待っていた。いつもの濃紺のジャケットの下に、アイロンの効いた白いシャツを着ている。精一杯の正装だった。コーヒーが来ても、こ太はしばらく黙っていた。やがて、絞り出すように言った。
「あのな、高村。四十年前の話なんだけど……」
「ああ」
こ太は椅子から立ち上がり、頭を深く下げた。
「あの日の弁当。お前の弁当のこと、本当にすまなかった」
喫茶店の客が、何事かとこちらを見た。それでもこ太は頭を上げなかった。
「あれ、さおりに言われたんだ。『お前の弁当を馬鹿にして、食えなくしてこい』って。俺は『嫌だ』って言えなくて。でも、ひっくり返すつもりまではなかったんだ。それだけは、それだけは信じてほしい」
こ太の声が震えた。
「おい、こ太。座ってくれ」
こ太は腰を下ろしたが、目は伏せたままだった。
「お前、あの日、昼を抜いたの。謝れなくて、ずっと、ずっと謝れなくて。同窓会が来るたびに、今度こそって思って。でもお前、全然来なくてさ。四十年遅れたけど、本当に、本当に悪かった」
誠一はコーヒーを一口飲んだ。そして言った。
「知ってたよ」
「へ?」
「わざとじゃないことぐらい、見りゃ分かる。あの日、お前が俺よりよっぽどひどい顔してたことも、な」
「じゃ、じゃあ……」
「俺が食いっぱぐれたのは、あの日の一食だけだ。お前は、四十年もそいつを抱えてきたのか」
こ太の目から、ぼろりと涙が零れ落ちた。しばらくして、誠一が口を開いた。
「なあ、一つ聞いていいか? あの動画、なんで俺に送った?」
こ太は、カップの底を見つめた。
「正直、迷ったんだ。やられた本人にあんなもんを送り付けて、嫌な思いさせるだけかもしれねえって。でもよ、あいつ、どっかの会社のお偉いさんなんだろ? そんな人間があんな風に人をコケにして、何やらやばそうな話までしてる。いいわけねえじゃんか。もし何か問題になった時、あれは証拠になる。何の問題か、なんて俺にはわかんねえけどさ。だったら、持ってるべきなのは俺じゃねえ。やられた、お前だと思ったんだ。四十年前はな、全部が『冗談だった』ってことにされて、消えたんだ。今度はそうなるのだけは、我慢ならなかった。俺にできるのは、それくらいだから」
誠一は、しばらく黙っていた。そして、言った。
「そうか。よく撮ってくれた。よく決めて、送ってくれた」
「や、役に立ったのか? あれ」
「ああ。とてもな」
こ太は鼻をすすり、それから少しだけ笑った。
「まあ、聞いてくれよ。次の同窓会な。俺が幹事をやることになったんだ。今度はな、誰の席にも同じものが並ぶ会にする。誰一人、笑いの的にさせねえ。それだけは決めてるんだ。次も来てくれるよな?」
「ああ。全員分の日の丸弁当もあるといいな」
窓の外の日差しの中で、二人の還暦を過ぎた同級生は、四十年ぶりに声を上げて笑った。
―
次の日曜日。誠一の家の縁側に、弁当箱が二つ並んでいた。白いご飯の真ん中に、妻の漬けた梅干しが一つ。日の丸弁当だった。
「うん。今日もいい塩梅だ」
「まさか、お弁当だなんて。子供みたいね」
「『軒の下で食べれば、何だってご馳走』。お袋の口癖でな」
「あら。それ、うちの会社の名前と同じじゃない?」
「うん。日向」
「そういうことだったの?」
誠一は少し照れたように笑った。
「あの言葉に、俺は何度も救われたからな。うちの店で買った飯が、誰かのご馳走になればいい。そう思って、つけた」
「いい名前ね」
秋の日差しが、縁側いっぱいに注いでいる。二人は手を合わせた。
「いただきます」
軒の下の日の丸弁当は、今日も世界一のご馳走だった。



