廊下の壁に背中を押し付けられた9歳の女の子が、震える手で作文用紙を握りしめていた。担任の田村香は、その紙を指差しながら、冷たい声で言い放った。
「泣いても無駄よ。嘘をつくのはね、人間の質の問題なの。嘘つきは泥棒の始まりよ。父親を呼びなさい」
美桜は首を振った。
「私、嘘なんてついてない。嘘じゃないよ」
田村は廊下に響く声で、わざと周りの生徒たちに聞かせるように続けた。
「破られたのは、お父さんについて書いた作文よ。出鱈目な作り話だと決めつけてあげたの。この学校にふさわしくないわ。転校を勧めます」
その日、田村は保護者の柏木誠一を職員室に呼びつけた。だが、応接室の扉を開けて現れた男の後ろには、数人の刑事が立っていた。
「な、何なんですか?」
「申し遅れました。私、柏木と申します。そのお言葉、『嘘つきは泥棒の始まり』という、あなたが娘にかけた言葉ですよ。この学校で、何が行われていたのか、少し調べさせてもらいました」
その日、教師は手錠をかけられた。金で買ったものは数多くあった。だが、ひとつだけ、買えなかったものがあった。
その答えは、24年前、この男の右手の傷にあった。
1月の朝。外はまだ暗かった。団地の3階の台所で、柏木誠一は卵を割っていた。その右手の甲には、白く盛り上がった大きな傷があった。もう24年、考えないようにしてきた傷だった。
食卓の隅の写真立てでは、亡き妻・千尋が柔らかく笑っていた。誠一は湯飲みを2つ出し、片方にだけ茶を注いだ。妻を亡くして3年。それでもまだこの癖が抜けなかった。
6時半、娘の美桜が起きてきた。小柄で痩せた9歳の女の子だった。誠一は不器用な手つきで娘の髪を結んでやった。
「パパ、今日もちょっと曲がってる」
「すまん。直すか?」
「うん。……せっかくパパがやってくれたんだから、そのままでいい」
美桜はふと、父の右手を見つめた。
「ねえ、パパ、その手、まだ痛いの? どうやって怪我したの?」
「これか? 気にするな。もうずっと前のだ。それよりも、味噌汁が冷めるぞ」
誠一が話をそらす時は、それ以上聞いても無駄だと美桜は知っていた。
「みお、パパの仕事のことは、あんまり人に言うんじゃないぞ」
「うん、分かってる。公務員でしょ」
誠一の帰りは遅く、何日も家を開けることもあった。そんな時は決まって、机の上に日数分の飴玉が置かれていた。コンビニで売っている一番安い飴だった。
「パパ、なんで飴なの? チョコじゃなくて」
「どんなに大変でもな、甘い味を忘れないようにしないと」
「ふうん。じゃあ私、包み紙は捨てないよ。切り絵にしてカレンダーに貼るの」
「何の印だそれは?」
「秘密」
それは、誠一がちゃんと帰ってきた日の印だった。美桜はそのことをまだ誰にも言ったことがない。
朝食の後、美桜はランドセルから作文を取り出した。
「パパ、今度の作文ね、テーマが『私のお父さん』なの」
誠一の箸が一瞬止まった。
「あんまり、書いてもらうようなことはないけどな」
「あるよ。いっぱいあるよ」
「そうか」
誠一は何かを言う代わりに、美桜の茶碗に卵焼きをもうひとつ足した。
この若宮小学校を選んだのは千尋だった。美桜が入学した後、1年生の秋に千尋は亡くなった。
その日の電話は午後2時過ぎに鳴った。
「柏木美桜さんの保護者の方ですね。今すぐ学校に来てください。娘さんに、非常に深刻な問題があります。問題というのは、来れば分かります。お急ぎください」
金属を擦り合わせるような、高い声だった。
学校に着くと、4年3組の前の廊下に人だかりができていた。子供たちの視線の先で、美桜が冷たい壁に背中を押し付け、体を縮めていた。彼女は肩を震わせているのに、声を出して泣かなかった。3年前、母を亡くしてからずっとそうだった。その手の中で、作文用紙が丸められて下がっていた。
その前に、一糸乱れぬダークスーツの女が立っていた。4年3組担任、田村香、40歳だった。
「泣いても無駄よ。いいこと、柏木さん。嘘をつくのはね、人間の質の問題なの。嘘つきは泥棒の始まりよ。父親を呼びなさい」
父親は、もうこの女教師が呼んでいる。田村は、廊下の子供たちという観客に聞かせるために叫んでいたのだった。
「田村先生、美桜の父です。何があったんですか?」
田村が振り返り、誠一を上から下まで舐めるように見た。安物のスーツ、擦り切れた靴、職業欄は公務員。どうせ役所の窓口あたり。それだけの男だと、1秒で結論を出した顔だった。
「ちょうど良かったわ。娘さんが何を書いたのか、よく見てください。あなたの娘さんだけが、嘘ばかりの出鱈目な作り話を書いたんです」
「パパ、私、嘘なんてついてない。嘘じゃないよ」
「先生、作文を見せていただけませんか?」
「見せる必要はありません」
「私が見たい」
誠一は答えを待たず、美桜の前に片膝をつき、氷のように冷たい指から作文を抜き取った。破られていたのは、一番新しいページだった。
『私のパパ。私のパパは世界で一番かっこいいパパです。毎日帰ってくるのが遅くて、たまに帰ってこない時もあります。でも帰ってきたら必ず甘いキャンディを買ってきてくれます。パパの手には大きな傷があります。かっこいいです。ママが昔、パパはみんなを守っているんだよと教えてくれました。パパは私のヒーローです』
誠一の指が止まった。喉に何かが込み上げていた。
「どこが嘘かお分かりになりました?」
「いえ」
「今時、たまに家に帰ってこない仕事って何なんですか?」
「仕事は仕事です」
「あら、言えないんですね。まあ、大人には色々なご事情がありますものね。もしかして、夜に外で遊んでいたりとか。それって、お仕事とは言わないんじゃありませんか?」
遊び、女、博打。言葉にはしないが、その含みは9歳の娘の前で父親をそう呼んでいるように聞こえた。
「違う。パパは本当にお仕事だもん」
「傷を自慢する。そんな汚いものを『みんなを守っている』? 誰を、どうやって守ったんですか? 書いてありませんよね。柏木さんは確か片親のご家庭でしたね。父親が帰ってこない寂しさを埋めるために、無意識に嘘をついて、大人の気を引こうとする。まあ理解はできますが、教師としては甘やかすわけにはいかないんです」
廊下の子供たちはじっと見ているだけだった。隣にいた若い女性教師が田村の袖を引いた。
「田村先生、そろそろ授業が……」
「子供たちに見られたら、あら、いいじゃないの? 嘘をついたらどうなるか、ちょうどいい見せしめになるわ」
見せしめ? 誠一の耳がその言葉を拾った。
「私はね、毎朝誰よりも早くこの学校に来ているんです。それくらいの覚悟でやっているんですよ」
誠一は答えず、破れた作文用紙を閉じて鞄にしまった。田村が出した条件は2つ。作文の書き直し。そして、クラス全員の前で、前の作文は嘘だったと謝罪すること。できないなら、このクラスにふさわしいか考え直すと。
美桜はその日、6時間目が終わるまで廊下に立たされた。通りかかる子供たちがみんな見ていった。誰も何も言わなかった。それが一番応えることを、この女は知っているのだった。
夜、団地の台所にケチャップの匂いが漂った。誠一の作ったオムライスには、ケチャップで猫が書いてあった。3年前から同じ猫だった。
美桜はスプーンを握ったまま動かず、やがて涙をこぼした。
「パパ、私、嘘なんてついてないよ」
「うん。そうだな。嘘ついてない。パパは知ってる。ほら、猫も知ってるよ」
「……いつもの猫ちゃんより、ぽっちゃりしてる」
「みおが悲しいと、もっとぽっちゃりするぞ」
美桜の口からふっと息が漏れた。
美桜が寝た後、誠一はスタンドをつけ、破れた作文用紙を透明なテープで1ミリずつ貼り合わせた。傷のある右手はなおさら不器用だった。
『パパの手には大きな傷があります。かっこいいです』
テープの跡がその行の上を横切った。傷跡のように見えた。誠一はそれを長く見ていた。
保護者の噂は前から耳に入っていた。金を積んだ家の子が良く扱われる。そこまでは知っていた。だが、それなら美桜は関係ないはずだった。
そうか。そういうことか。包む家があるなら、包まない家もある。包まない家が平気な顔でクラスにいたら、包まなくてもいいということになる。だから包まない家の子を一人潰してみせる。金で売る教室には見せしめがいる。美桜はただ嫌われたんじゃない。あの学校から、うちを追い出そうとしているんだ。
その時、寝ているはずの美桜の声がした。
「パパ。パパは本当に、みんなを守ってるの?」
「ああ、嘘じゃないんだよね」
「ああ、本当だ」
誠一はそっと美桜の頭に手を置いた。
「今日はもう寝なさい」
「うん」
やがて寝息が聞こえた。守ってきたつもりだった。なのに、一番守りたかったものが、今日、冷たい廊下で泣いていた。
3日後の午後、また電話が鳴った。苛立ちの混じった冷たい声だった。
「今すぐ学校に来てください。柏木さんの問題がさらに発覚しました」
職員室に通されると、田村の横に美桜が青い顔で俯いて立っていた。父の姿に目が潤んだが、声にはならなかった。
「みお、大丈夫だ」
一言だけ告げて、田村に向き直った。そこへ、腹の突き出た男がもみ手で入ってきた。
「ああ、お父さん。教頭の戸田です。いや、度々申し訳ありませんね。実はこれはもう、指導の範囲を超えておりまして、私どもとしても大変困っておるんですよ」
話は長かった。田村は一言も喋らず腕を組んで身を俯せていた。戸田が喋り終わってから、短く切るように口を開いた。
「今日のグループワークで、柏木さんが他の児童にこう言いました。『自分の父親は警察官で、秘密の任務をしているから家に帰ってこない。悪い奴をたくさん捕まえた』と。クラス中に電話を流したんです」
「言ってない。秘密の任務なんて言ってない。ただ、パパは警察のお仕事をしてて、大事なお仕事だから、疲れてたまに帰ってこないんだよって。それだけ言ったの」
その時、田村が机をバンと平手で叩いた。美桜の体がビクっと跳ねる。
「まだ言い逃れするの? 何人もの子が聞いているのよ」
誠一には全部分かっていた。美桜の言葉を、子供たちが面白がって膨らませた。9歳の想像力だ。その膨らんだ部分だけを、この女が切り取ったのだった。美桜を潰すための、2本目の罪として。
「先生、娘が本当に自分の口でそう言ったんですか? 他の子が膨らませた可能性は?」
「クラスのみんながあなたのお嬢さんを陥れたとでも? そもそも、あの子には嘘をついた前科がありますから。この前の作文がその証拠です」
「証明できますか?」
「本当に秘密の任務をする警察官だというなら、今すぐ警察手帳を出して証明してください。できないなら、真っ赤な嘘をクラス中に言いふらして、他の児童を騙したことになります」
職員室の空気が動かなくなった。誠一のズボンのポケットに、手帳はあった。しかし、まだだ。ここは出すタイミングじゃない。
「やっぱり今日は話し合いのために呼んだのではありません。柏木美桜さんは、明日から自宅謹慎です。反省を完全に認めるまで、学校にはこさせません。それができないなら」
田村が書類を1枚、さっと机に置いた。
「他校への自主的な転校を、強くお勧めせざるを得ません」
その2文字を見た瞬間、美桜の顔から色が消え、膝が折れた。父の服の袖を掴もうとした手が途中で止まった。掴んだらパパにもっと迷惑がかかる。九歳なりにそう思ってしまったのだった。
「まあまあ、お父さん。これも教育ですからねえ」
誠一の体の横で拳が握られ、爪が食い込み、右手の傷がさらに白くなった。24年でこれほど怒ったことはなかった。だが爆発させなかった。誠一は拳を静かに開いた。そして、しゃがみ込んだ娘の前に膝をつき、親指で涙を拭った。
「みお、大丈夫だ。大丈夫だから」
「パパ……」
その低い声は、決して揺れていなかった。美桜は少しだけ緊張がほぐれ、息ができるようになった。
翌日、誠一は学校長宛てに、事実関係の調査と証言した児童との対面確認を求める書面を出した。3日後、校長室に呼ばれた。校長の鍛原は、細い銀縁の眼鏡をかけた小柄で痩せた男だった。誠一が出した書面を1度だけ持ち上げ、また置いた。代わりに喋ったのは戸田だった。
「いやあ、お父さん。お気持ちは分かるんですよ。ただね、田村先生も熱心なあまり、熱意が空回りした部分はあるかもしれません」
「調査はしていただけるんですか?」
「調査と言いますとね、大げさな話になってしまう。帰って、お嬢さんが悪者立ちますよ。他の保護者に知れたらどうなります?」
「事実確認もせず、児童から教育を受ける権利を奪えるんですか?」
戸田の笑顔が一瞬止まった。すぐに元に戻った。
「お父さん、難しく考えすぎです。丸く収めましょう。お嬢さん、これからもうちの学校に通うわけですからね」
人質だ。騒げば子供に返ってくる。この男は今、はっきりそう言ったのだった。
鍛原は一度も喋っていなかった。
「お父さん、お気持ちは分かりますよ」
鍛原が初めて開いた口の一言で、部屋の温度が下がった。
「ええ、校長もこう言っておられますのでね。お嬢さんにはしっかり反省文を書かせてください。失礼します」
誠一は、言っても無駄だと3分で分かっていた。校長室を出て、誠一は4年3組の窓を振り返った。校長は田村を庇ったんじゃない。自分を庇ったんだ。
誠一はスマートフォンを取り出した。ある名前の上で指が5秒止まり、そして画面を閉じた。まだだ。今、あいつに電話して何を渡せる?
必ず尻尾を掴む。24年前、誓ったことだった。誠一はスマホをしまい、前を向いて歩き出した。
翌週、田村から呼び出しがあった。放課後の誰もいない4年3組の教室の机に、転校届が1枚置いてあった。
「もう1週間になります。反省はまだですか?」
「娘は嘘をついていません」
「柏木さん、そろそろ現実を見ませんか?」
誠一は鞄から書面の控えを出し、机に置くために右手を伸ばした。たったそれだけの動作で、白く盛り上がった右手の甲の傷が、田村の視界に入った。そして、誠一は胸ポケットから1本のペンを抜いた。深い緑の軸に、金の細い線が1本。
田村の動きが止まった。顔から色が引き、視線が誠一の顔と右手とペンの間を往復した。
「あ、あんた、もしかして……」
この教室で今何が起きているのか、知っているのは2人だけだった。
24年前。灰色の取り調べ室。有名私立の制服を着た16歳の少女が机の向こうに座っていた。同級生5人から3年で200万近くを巻き上げた、恐喝の被疑者だった。少女は足を組んだまま3日間、一言も喋らなかった。黙っていればパパが何とかする。大人を舐め切った目だった。
向かいに座る取り調べの刑事は26歳の青年。怒鳴りもせず、毎日同じ時間に座って、黙って書類を書いていた。その右手の甲には、まだ生々しい傷があった。
「汚い手」
刑事は顔をあげなかった。4日目、少女の目がふと刑事の手元で止まった。深い緑の軸に、金の細い線が1本。
「ねえ、ちょっと、それ、なんであんたがそれ持ってんのよ」
3日間の沈黙が破れた瞬間だった。昭和の終わりに廃業した万年筆の製造所が、最後の年に数十本だけ手作りしたボールペン。市場には2度と出ない。1年前、少女はそれを父にねだった。父は値段の10倍を積んでも手に入れられなかった。何でも買えた少女の人生で、初めて買えなかったものだった。
「ちょうだい。値段の10倍、買ってあげる。それくれるなら、全部喋ってあげてもいいわよ」
刑事が初めて顔をあげた。
「やらん。これは金で買えるものじゃない」
「はあ? じゃあ、どうやって?」
「探したからだ。10年。子供の頃世話になった駐在の巡査の1本だった。正一が警察官を志した理由の人。その人が亡くなった16歳から探し始め、10年目に古書店の棚の隅で見つけたのだった」
少女の口が開いたまま止まった。金で買えないものを持ち、金で動かない男が、目の前にいた。
長い沈黙の後、少女は喋り出した。誰から、いくら、どうやって、全部だった。
だが3日後、少女の両親が署に来た。父は分厚い封筒、母は指と首に宝石。間もなく、被害者の家は全員届けを取り下げた。少年審判は開かれず、前科も記録も残らなかった。
誠一が最後に見たのは、署の玄関で娘の肩を抱く母親だった。
「あなたは何も悪くないのよ。世の中、お金よ」
振り返った少女と目があった。少女は笑っていた。
場面は戻り、4年3組の教室。田村が後ずさり、腰が教卓に当たった。
「なんで……なんで、あんたが」
上ずった声だが、その目に少しずつ色が戻り、唇の端が上がった。
「ああ、そう。そういうこと。あの子、あんたの子供だったのね。あの汚い手の刑事さんの娘なら、作り話が上手いはずだわ。でも、あの件、どうなりました? 時効で終わったでしょう。私、何も咎められてない。前科もない。あなた、何もできなかったじゃない」
事実だった。だから誠一は答えられなかった。
「それに、5年前も、気づいてないとでも? 変な人が聞き込みに来たって、みんな言ってました。でも何も起きなかった。誰も喋らないんです。喋ったら、その人も捕まるから」
田村は勝ち誇ったように続けた。
「そう、2度目でしょ。あなたが私に負けるのは」
「失礼します。明日の朝、始業前に職員室へ来てください。サインを用意しておきますから」
田村が転校届を指で叩いた。
学校を出て、誠一は長いこと歩いた。4月の担任発表で、あの名前を見た日から知っていた。証拠がないから動けなかった。その堪えた結果が、廊下で声を殺して泣く娘か。俺が、あの時、あの女を堕としていれば、美桜があんな目に会うことはなかった。
それから誠一には、思い当たる家が1つあった。2年前、同じ4年3組で問題児扱いされ、逃げるように転校していった子。金を包まなかった家だった。
その夜、誠一は隣の市の古い団地を訪ねた。名乗ると、ドアが鎖をかけたまま10センチだけ開いた。
「もう終わったことですから」
隙間から見えたのは、痩せた女の、色褪せたダウンの下から覗く工場の作業着だった。誠一は鞄から作文用紙を取り出し、テープだらけの破れたページをドアの隙間から見せた。
『パパは私のヒーローです』
その上をテープが横切っていた。女の目がそこで止まった。やがて、鎖が外れる音がした。
「うちの子と、同じだ」
暖房の入っていない部屋で、女は押し入れの奥から靴の空き箱を出した。中にはビニール袋、髪の毛が1本、そして古い録音機が入っていた。女は三宅という名前だった。
「カイトが4年生になった年、うちにも配られたんです。パッと見はただの事務連絡です。でも、『ご協力』『お心遣い』『例年通りのご対応』。私たちには意味が分からなかった。でも、払っている家の人には分かる文章なんです。事務連絡の顔をした、ワイロの集金だった」
「私、これを持っていったんです。田村先生のところに。これはこういう意味ですよねって。髪の毛を手渡して。先生、全部喋りました。私が何も知らないバカな親だと思ったから。ここに全部入ってます。その後、その紙、返してもらいました。先生が触った紙です。ビニールに入れて、ずっとしまってあります」
誠一の呼吸が1つ止まった。指紋、録音、日頃の言葉を本人の口から説明された記録。この3つで、言い逃れは消える。
「なぜ、こんなことを?」
「叔父が警察官だったんです。もう亡くなりましたけど。口癖だったんです。『何かあったら証拠だ。録音と指紋のついたもの。それがなきゃ、俺たちは動けない』って。相談できる人はもういませんでした。でも、言葉だけは覚えてて」
「なぜ、警察に出さなかったんですか?」
三宅の手が袋の上で止まった。
「出したら、あの人、うちの子に何をするか分からない。あの時、カイトはまだ、あの教室にいたんです。転校させてからも、私だけが騒いでる変な親になるだけだって。誰かが最初に立つのを待ってたんです。2年待ちました」
「三宅さん、明日の朝、署に行ってください。刑事の朝倉という男を訪ねてください」
「あなたが持っていってくれるんじゃないんですか?」
誠一は首を振った。
「あれは、あなたが提出してこその証拠なんです。あなたから渡すんです。あなたが必死の思いで揃えた、解決に導く重要な証拠品です」
「私が……」
誠一が団地の階段を降りながら、スマートフォンを出した。今度は押した。コールは2回で切れた。
「課長。朝倉です。俺はこの件を操作できない。管轄が違う。それに、被害者の親だ。だから、これは情報提供だ」
「どんな女ですか?」
「明日の朝9時、三宅しのさんという方がそっちに行く。その人の話を最後まで聞いてやってくれ。手続きを丁寧に頼む。あれは、あの人が2年かけて揃えたものだ」
「課長、2年じゃないですよ。こっちは5年、待ってました」
誠一は答えなかった。団地の外に出ると、空に冬の星が出ていた。
朝6時20分。田村香の自宅マンションの前に、車が2台止まっていた。
「神奈川署までご同行願いますか?」
日の出は6時51分だ。令状の執行は日の出を待つ。昨日の朝9時、三宅しのは約束通り署に来た。5年前の内偵資料に、最後の1枚がはまり、その日のうちに令状が出たのだった。
6時51分。空が白んだ。
「行くぞ」
インターホンに応答はなかった。管理人を呼び、鍵を開けた。部屋は空で、ハンガーにコートがなかった。先日、夜の在宅は確認していた。日の出前に出たのだ。
「私はね、毎朝誰よりも早くこの学校に来ているんですよ」
朝倉の口の端が、少しだけ上がった。
「学校だ」
午前8時。若宮小学校の職員室には、始業前の教師が10人ほどいた。田村は誠一を来客用のソファーに呼びつけ、テーブルに転校届を置いていた。本来なら相談室に通す話だった。だが、田村は職員室を選んだ。教師たちの見ている前で、頭を下げさせるためだった。
「昨日の朝と言ったはずですけど。1日逃げて、覚悟は決まりました? お座りになったら、ここにサインを」
田村は知らなかった。誠一が昨日来なかったのは、署に大きな案件が入り、夜も帰れなかっただけだった。誠一は夜明け前に家に寄り、眠る美桜の机に飴を置いて、この時間にここへ来ていた。
誠一は座らず、ペンも受け取らなかった。
「戸田先生、聞いてください」
「1週間ですよ」
「ええ、困りましたね。ああいうご家庭はね、一度きちんと分からせないと、甘い顔したら付き上がるんです。子供のためを思うなら、ここで……」
扉が控えめに叩かれた。田村の言葉が止まった。近くに出た若い教師が廊下を見て、すぐ戻ってきた。
「校長先生、お客様です。廊下に」
鍛原が立ち上がり、出ていった。戻ってきた鍛原の顔色を見て、田村は口を閉じた。
「田村先生。大雪室まで。戸田先生も」
呼んだのは警察ではなく、教育委員会だった。捜査員は職員室に1人も入らず、ただ1人が廊下の窓越しに、田村の見える場所に立った。大雪室では、教育委員会の担当者と戸田が窓際に立ち、朝倉が書面を広げた。
「田村香さんでお間違いないですね。逮捕状が出ています。容疑は収賄です」
沈黙が3秒あった。
「何かの間違いです」
「8時2分。間違いだって言ってるでしょ。証拠は? 誰が言ったの? どこの誰が」
「署で伺います」
「私は担任として、この学校のために……」
田村の言葉がそこで止まった。目が動いた。ソファー、壁、鍛原、戸田、そして扉。
「先生、遅かった」
田村が走った。捜査員の手を体をひねって交わし、扉を開けて、廊下に飛び出した。
「おえっ」
コンクリートの床に、ヒールの音が響いた。田村は玄関にも、職員室にも向かわなかった。頭にあったのはたった1つ。自分の机の、一番下の引き出しだった。
職員室の扉が勢いよく開いた。10人の教師が一斉に振り返った。飛び込んできた田村の髪が顔にかかっていた。田村は自分の机に走り、引き出しに手をかけ、自分で開けた。捜査員2人が飛び込み、両側から腕を掴んだ。
「話しなさいよ」
ソファーでは崩れなかった女が、床に膝をつき、肩が床についた。その目の前で、引き出しが開いたままだった。全員がそこを見ていた。上品な紙の袋。遅れて入ってきた朝倉がそれを見た。
「先生、網を張って損したのに」
8時7分。収賄の容疑で逮捕します。朝倉が令状を広げ、捜査員が袋の蓋を開けた。現金は入っていなかった。そこに、指紋がついた紙が詰まっていた。出させたのは警察ではない。この女自身だった。
捜査員が引き出しの奥から手帳を出した。
「正面ですね。入学50万、調査書30万…… あ、クラス委員長は5万か。先生、これ、値段が書いてありますよ」
職員室が凍った。教師たちの顔から順に色が抜けていった。戸田が椅子を蹴り倒して立ち上がった。
「うわっ、私は何も知りません。全部、この人が」
「戸田さん、ここにお名前がありますけど」
戸田が絶句した。捜査員が戸田の横にも立った。鍛原は扉のところで眼鏡を外し、目を閉じた。それが全部の答えだった。
「鍛原俊さんですね。ご同行願います」
鍛原は頷き、一言も話さなかった。
床の上で、田村がまだ喋っていた。
「あの人たちが勝手に持ってきたのよ。私は受け取っただけ」
職員室が静まった。今、この女は「受け取った」と言ったのだった。
「先生、それ、後で供述書に書きますね」
田村の口が止まった。その視界の端に、ずっとそこに立っていた地味なスーツの男。目が合った。
「あんたがやったのね。ありえない。誰も喋らないはずなのよ。あんたは私に勝てないはずなのよ」
誠一は田村の前に立った。数歩の距離で止まり、口を開かなかった。沈黙が続き、田村はこの男が何か言うのを待ってしまった。誠一の右手が、胸ポケットのペンに触れた。それだけの動作で、田村の喉が鳴った。
「嘘つきは泥棒の始まり。あなたが一番よく知っていたはずだ」
田村の口が開いた。声は出なかった。
「あんたは美桜が嫌いだったんじゃない。付き合いのいい金づるにならなかっただけだ。9歳を脅しの道具に選んだ。あんたがやったのは教育じゃない。商売だ。違うか。24年前、あなたのお母さんが言った言葉を、俺は覚えている。『世の中、お金よ』と。あなたはそれを信じた。そしてそれを売り始めた。2度目はない」
田村が床を睨んだ。両腕を抑えられたまま、誠一の足元に向かって。その視線が途中で止まった。誠一の右手。袖から出た手の甲の、白く盛り上がった大きな傷。24年前、この女が「汚い」と言った手が、そこにあった。
「その手、あなたが『汚い』と言ったこの手が、今日あなたを捕まえたわけじゃない。捕まえたのは、あなたが2年間踏みつけてきた母親だ。あなたに子供を潰されて、黙って耐えてきた親の1人が、昨日、自分の足で署へ行った」
「あの人が? あんな、何も知らない人が?」
「知らないんじゃない。言えなかっただけだ。あなたが子供を人質に取っていたからだ。『2年待った』そうだ。誰かが最初に立つのを」
朝倉が前に出て、手錠を出した。金属の音が2つ鳴った。誠一はその手錠に指1本触れていなかった。その音で、田村の中の何かが切れた。
「ふざけないで」
顔が上がった。髪が半分かかったまま、目だけが釣り上がっていた。
「戸田! あんた、何黙ってんのよ。あんたも受け取ってたじゃない。私の机の金、いつも半分持ってたでしょうが!」
戸田の体が跳ねた。教師たちの目が一斉に戸田へ向かった。
「先生、喋れば喋るほど、こっちは楽なんですけどね」
「校長! なんとか言いなさいよ! 外の件、あんたが関与したんでしょう! 私1人でできるわけないでしょうが!」
鍛原は目を開けなかった。それがまた答えだった。
「何見てんのよ。あんたたち、全員知ってたでしょ? あの子が廊下に立たされてる時、誰が止めた? 誰も止めなかったでしょうが!」
誰も答えなかった。何人かが目を伏せた。あの日の廊下と、同じだった。
「あの女! よくもあんな貧乏な家の分際で! あんたが全部壊したのよ! あんたみたいな、何も持ってない男に何が分かるのよ! その汚い手で!」
誠一は答えなかった。
「あの子よ! あの子が嘘なんかつくから、こんなことに! 全部あの子のせいじゃない!」
職員室が静まり返った。手錠をかけられた40歳が、床の上から、9歳のせいにしたのだった。誠一は動かず、ただ一度瞬きをして、捜査員の方へ顔を向けた。
「お願いします」
朝倉が頷き、誠一の方を見て、少しだけ頭を下げた。
「課長、ついに、ですね」
誠一はただ頷いた。田村は連行される間も叫び続けた。
「はめられたのよ! 私ははめられたの! 話しなさいよ! 私は教師よ!」
その声が廊下に響いた。片方のヒールがどこかで折れていた。声が遠くなっても、最後まで聞こえていた。
「なんで私だけが! なんで私だけが!」
職員室に10人の教師が残った。誰も動かなかった。倒れた椅子、開いたままの引き出し、そしてテーブルの上の転校届。誠一はそれを取り、両手で真ん中から破いた。音は小さかった。それでも、職員室の全員に聞こえた。
校門を出ると、冬の低い日が校舎の窓を白く光らせていた。後から出てきた朝倉と2人で、しばらく黙って歩いた。
「課長。よく我慢しましたね。俺だったら、あの廊下で殴ってました」
「殴ったら、あの女の言う通りになる。手をあげる父親だと。家に帰らない、手の汚い、乱暴な男だと。あの子の作文が嘘になる」
「そのために1週間、黙ってたんですか?」
「1週間じゃない。24年だ」
少し歩いて、朝倉が言った。
「三宅さん、震えてましたよ。それでも最後まで自分で説明しきった。供述書に名前を書く時だけ、手が止まって」
「そうか」
「署の前まで、付き添うこともしなかったんですね」
「俺が横に立ったら、あの人はまた、誰かの後ろで生きることになる。あれは、あの人が自分の足で運ぶことに意味があるんだ」
「そういうとこですよ。課長の、そういうとこ」
誠一は答えず、胸ポケットのペンに手をやった。
「この力ってのは、人を脅かすために使うもんじゃない。曲がったことを、まっすぐに直すために使うんだ」
「みおちゃんには、今日のことを話すんですか?」
「言わない。あの子にあの女の最後を見せる必要はない。守るってのは、そういうことだ」
誠一は歩き出した。
「帰る。娘が家で待ってる」
だらしなく歩く誠一の背中に、朝倉が声をかけた。
「課長。今日は刑事として来たんですか? それとも、親としてですか?」
「決まってるだろう。俺は今日、親として来たんだ」
誠一は駅の方へ歩いていった。その背中は、どこにでもいる地味な男のものだった。朝倉はそれを、しばらく見送っていた。
取り調べ室は灰色だった。壁も机も24年前と同じ色をしていた。田村香は24年前と同じように足を組んだ。変わったのは、腰の帯が椅子に固定されていることだけだった。田村は黙した。24年前と同じ手だった。3日黙っていれば、親が来る。
「保釈金って、いくらなんですか? 払えば出られるんですよね」
「保釈は起訴された後の話です。それに、今回は『積んで消える』相手がいませんよ」
「両親が来たのは5日目だった」
アクリル板の向こうに、老人が2人。田村の顔が崩れ、40歳の女がアクリル板に手をついた。
「パパ、ママ! なんとかしてよ! ねえ、いつもみたいに、お金でしょ? お金なんでしょ?」
母親の唇が動いた。
「あなたは何も悪くない」
その言葉が喉の途中で止まった。24年ぶりに、出てこなかった。
「なんで? なんで言ってくれないの?」
母は答えず、ただ目をそらした。面会の後、父は廊下で弁護士に詰め寄り、鞄から分厚い白い封筒を出した。昔はこれで全部が済んだのだった。
「お父さん、それを誰かに渡した瞬間、罪が1つ増えます」
父の手が止まった。70年、それで全部片付けてきた男が、生まれて初めて封筒の使い道を失って、立ち尽くしていた。その日から、両親は来なくなった。
判決は実刑だった。同じ目にあったと申し出た家庭は次々と出てきた。最初の1人が立つと、堰が切れたのだった。教員免許は剥奪された。鍛原も同じ日に起訴され、38年の教歴が退職金ごと消えた。「私は知らなかった」を通そうとした戸田も、手帳に名前も金額も日付もあった。
積んでいた保護者たちも、事情聴取として呼ばれた。もう誰も、若宮小学校を名門とは呼ばなかった。
3年が過ぎ、田村は出所した。父は2年目に病で亡くなり、母は施設で娘の名前を思い出せないまま、旅立った。家は弁償と裁判費用で消えていた。
田村は小さな学習塾で事務のパートを始めた。前歴は伏せた。払いのいい家の子には笑顔で、払えない家の子には別の顔で。「あの子はちょっとね」と、それをまた始めたのだった。3年刑務所にいて、何ひとつ学ばなかった。9歳の頃から「世の中、お金よ」と、それしか教わってこなかったのだから。
発覚は前より早かった。今度は、肩書が1つもなかったからだ。塾を追い出される日、田村は事務所で叫んだ。
「なんで私だけが! 私ははめられたのよ!」
3年前、あの職員室で叫んだのと、一字一句同じだった。その夜、まともな家具のないアパートの一室で、田村香は膝を抱えて座っていた。スーツも、磨いていた靴も、優秀教員賞の盾も、全部なかった。あの女が「買ったもの」と呼んでいたものは、全部買ったものだった。買ったものは、金が尽きれば消える。
履歴書を出すたび、面接には呼ばれなかった。名前を検索されるからだ。「小学校の教師が子供を値段で選んで逮捕された」事件。この国のどこへ行っても、名前が先回りしていた。
金で全部買った女が、最後に自分の名前だけは買い戻せなかったのだった。
暗い部屋で、女は誰にともなく呟いた。
「なんで私だけが」
その声を聞くものは、もうこの世に1人もいなかった。
新しい担任は、園部という先生だった。カーディガンにチョークの粉をつけた、笑い皺の深い人だった。
3日目の国語の時間、園部が教壇で、テープだらけの作文用紙を開いた。
「柏木さん、これ、読ませてもらったの? 『私のパパ』」
美桜の肩が跳ねた。また笑われる。だが、園部は読み始めた。
『私のパパは世界で一番かっこいいパパです。毎日帰ってくるのが遅くて、たまに帰ってこない時もあります。パパの手には大きな傷があります。かっこいいです。ママが昔、パパはみんなを守っているんだよと教えてくれました。パパは私のヒーローです』
園部が作文用紙を閉じ、教室を見渡した。
「愛情に溢れた、素晴らしい作文です。先生、35年やってるけど、こんなにいいお父さんの作文、久しぶりに読んだ。柏木さん、ごめんね。先生たちがあなたに謝らなきゃいけない」
美桜の目が、みるみる潤んだ。
その日の帰り道、美桜は誠一の手を握って、ずっと喋っていた。声が途切れなかった。
その週、三宅から短いメッセージが届いた。
『カイトは転校先の学校でバスケ部に入りました。うるさいくらい喋るようになりました。うちの子は間に合いませんでした。でも、間に合った子がいた。それでいいんです』
誠一は文面を長く見てから、短く返した。
『間に合わせたのは、あなたです』
春が来て、美桜は5年生になった。夜、誠一が帰ると、美桜が机に向かっていた。
「まだ起きてたのか?」
「うん。日記。パパ、私、大人になったらね、パパみたいになりたい」
誠一の手が止まった。
「パパみたいに、何をしたいんだ?」
「間違ってることは間違ってるって、ちゃんとお話しして、守らなきゃいけない人を絶対に守る人になるの」
誠一はすぐには答えられなかった。金で守られ続けた女は40歳で、床の上から「なんで私が」と叫んだ。目の前の子は10歳で、守る側になると言ったのだった。
「なれるよ。絶対になれる」
「あとね、パパ。ママが言ったこと、本当だったね。パパはみんなを守ってるって」
「ああ。ママは嘘をつかないからな」
美桜が寝た後、誠一は机の奥から、あの作文用紙を取り出した。
『パパの手には大きな傷があります。かっこいいです』
誠一は自分の右手を見た。24年前、この手を「汚い」と言った女はもういない。この手を「かっこいい」と書いた子は、隣の部屋で眠っている。
これは傷跡ではなく、娘が信じてくれたものを守り切った男の勲章だった。
食卓の隅の写真で、千尋が柔らかく笑っていた。誠一は湯飲みを2つ出し、片方に茶を注ぎ、もう片方は空のまま置いた。
「守ったぞ」
窓の外に、春の夜が広がっていた。明日も多分、帰りは遅い。それでも、飴だけは忘れない。



