土曜日の午後、夫の姉から突然電話がかかってきた。
私は持っていたカップをテーブルに置いた。
「あなたたちの離婚届、さっき役所に出してきたわ」
「離婚届って、私と夫のですか?」
「他に誰がいるのよ。二人とも署名してあったから、私が提出してあげたの。月末まで待つ必要なんてないと思って」
夫は朝から出かけていた。仕事の打ち合わせがあると言っていたが、彼は1年半前に会社を辞めている。今も仕事は決まっていない。
「夫には確認したんですか?」
「必要ないでしょ。あの子は上に流されるから、姉の私が代わりに決断してあげたのよ」
夫の姉は得意げに続けた。
「弟に養われていたくせに、随分偉そうにしていたわね。もう他人なんだから、今すぐ出ていって」
私は一度息を整えた。
「本当に受理されたんですね」
「ええ、もう取り消せないわよ。今さら泣いても遅いから」
「ありがとうございます。助かりました」
電話の向こうが静かになった。
「え?」
「ちょうど荷物をまとめるところだったんです」
私は電話を切り、押入れからダンボールを取り出した。
午後7時を過ぎた頃、夫が帰宅した。玄関に積まれたダンボールを見るなり、靴も脱がずに声を荒げた。
「何をしているんだ?」
「出ていく準備」
「急に何を言ってる?」
「お姉さんから聞いていないの?」
私は夫の顔を見た。
「離婚届、今日受理されたそうよ」
夫の手からカバンが落ちた。
「受理された? お姉さんが役所へ持っていったって?」
夫は震える手でスマートフォンを取り出した。夫の姉が電話に出ると、夫は怒鳴った。
「姉貴? お前、何をした?」
電話の声は私にも聞こえた。
「何って、離婚届を出したのよ。あんたがなかなか出さないから、代わりにやってあげたの」
「今月末まで預かっていろと言っただろ」
「離婚するって言ってたじゃない。証人欄まで揃えて渡してきたのはあんたでしょ。数日早めただけじゃない。何を怒ってるのよ。これであの人のために使っていたお金をもっとこっちへ回せるでしょ」
夫は言葉を失った。私は黙って二人の会話を聞いていた。
夫が電話を切り、私へ向き直った。
「姉貴が勝手にやったんだ」
「分かってる」
「なら、取り消せないか確認しよう」
「私は離婚を望んでいるから、取り消す理由がない」
夫は積まれたダンボールを見回した。そこで初めて、テーブルに置かれた新しい部屋の鍵に気づいた。
「その鍵は何だ?」
「私がこれから住む部屋の鍵」
夫の顔色が変わった。
「いつ?」
「3ヶ月前」
私は岸本直美、56歳。夫の正とは結婚して27年になる。子供はいない。
私は結婚後も食品会社の事務職を続け、夫も長く会社員として働いていた。
暮らしが変わったのは1年半前だった。
平日の昼間、夫が青ざめた顔で帰宅した。
「会社をやめることになった」
業績悪化による人員整理だった。
私は夫を責めなかった。20年以上働いてきたのだから、少し休んでから次を探せばいいと思った。
「しばらくは私の給料で何とかするから、焦らなくていいよ」
夫は俯いたまま頷いた。
ただ一つだけ頼まれた。
「姉貴にはまだ言わないでくれ」
「どうして?」
「余計な心配をかけたくない」
夫の姉の雪子は6年前に離婚して、一人で暮らしていた。夫が時々生活を援助していることは知っていた。夫が働いていた頃、自分の給料から姉を助けていたのなら、私が口を挟むことではないと思っていた。
失職後、夫は家計の支払いを引き受けると言い出した。
「働いていない俺が、せめてこれくらいやるよ」
私の給料が入る口座のカードも、それまで通り夫が持っていた。家賃や光熱費は問題なく払われていたため、私は夫を信じていた。
夫は毎朝スーツに着替えて家を出た。
「知り合いの会社から相談を受けている。今日は仕事の話をしてくる」
そう言っていたが、収入が入った形跡はなかった。
夫の姉と三人で食事をした時も、夫は仕事の話をしていた。
「まさは昔から頼りになるわ。会社をやめてもすぐ声がかかるんだから」
夫の姉は満足そうに笑った。そして私へ顔を向けた。
「あなたも仕事を続けていることを、知っているはずなのに」
夫の姉はそう言った。夫は訂正しなかった。むしろ頼れる弟と呼ばれ、誇らしそうに笑っていた。
3ヶ月前の給料日、私は銀行へ向かった。口座残高が思った以上に減っていたからだ。
通帳を確認すると、毎月末、同じ不動産管理会社への支払いが続いていた。私たちが住む家の管理会社とは違う。さらに、その前月には通常より大きな金額が振り込まれていた。
その日の夜、夫宛てに届いた封筒を見て、全てが繋がった。
封筒に書かれていた不動産管理会社の名前は、通帳の振り込み先と同じだった。中身を勝手に開けることはしなかった。ただ、封筒の表には夫の姉が住むマンションの名前が記載されていた。
帰宅した夫へ通帳と封筒を見せた。
「これ、お姉さんの家賃よね」
夫は一瞬だけ目をそらした。
「そうだ」
「あなたが会社を辞めてからも、ずっと払っていたの?」
「姉貴も生活が大変なんだよ」
「それなら、どうして私に相談しなかったの?」
夫は面倒そうにため息をついた。
「夫婦の金だろ。俺が働いていた頃は俺の給料で生活していたんだから、同じじゃないか」
「同じじゃない。お姉さんを助けるなと言っているんじゃないの。黙って私の給料を使ったことを聞いているの」
「家賃くらいで細かいことを言うな」
「家賃だけじゃないでしょ。更新に必要な金まで払っている」
「家族なら助けるのが当たり前だ」
「それなら自分で働いて助けて」
夫の顔が険しくなった。
寝室から戻ってきた夫の手には、離婚届があった。すでに夫の署名は書かれていた。
「そんなに俺の家族が嫌なら、離婚するか」
夫は離婚届とペンを私の前へ突きつけた。
「今まで俺に養われた恩も忘れて、よくそんなことが言えるな。離婚したら一人で生活できるのか」
私はペンを受け取った。そして何も言わず、自分の名前を書いた。
夫の表情が固まった。
「書いたよ。提出しましょう」
私が離婚届を差し出すと、夫は乱暴に奪い取った。
「今月末に出す。それまでに荷物と金の整理をする」
「今すぐ提出できないの?」
夫は答えず、離婚届を封筒へ入れて持ち去った。
その後、夫は証人欄を整え、月末まで預かるよう夫の姉へ渡していた。私は今日の電話を受けるまで知らなかった。
あの時、私は理解した。夫は離婚届を脅しに使いながら、自分に都合のいい月末まで私をつなぎ止めるつもりだった。もし私が折れば離婚届を提出せずに済む。私が折れなくても、月末までは私の給料を使える。姉の前で頼れる弟でもいられる。
翌日、私は勤務先の総務窓口へ行った。
「給与の振り込み先を変更したいんです」
担当者が書類を差し出した。新しい口座番号を書き、署名した。その場で手続きを終えた時、胸の奥に張り付いていたものが少しだけ軽くなった。
仕事帰りには不動産会社へ寄った。駅から歩いて10分ほどの1LDK。今の家より狭いが、私一人なら十分だった。窓から夕方の光が入り、遠くに勤務先の建物が見えた。
「こちらでよろしければ、来月から入居できます」
「お願いします」
後日、鍵を受け取った。冷たい金属の感触が、自分の生活を自分で選べる証明のように思えた。
重要な書類や母から譲られた品も、少しずつ新居へ運んだ。共有してきた預金には手をつけなかった。それは離婚後、きちんと話し合えばいい。
私は月末に別れを告げるつもりだった。夫が離婚届を隠しても、もう結婚生活を続けるつもりはなかった。
ところが、その数日前に夫の姉が提出してくれた。
現在へ戻り、夫はテーブルの鍵と私を交互に見た。
「給与の振り込み先も変えたのか」
「3ヶ月前に。今月の給料は新しい口座に入っている」
夫は椅子に座り込んだ。
最初に心配したのは、私の生活ではなかった。
「姉貴の家賃、来週なんだぞ」
私は夫を見た。
「それを、離婚した私に払わせるつもり?」
「今月だけだ。急に止めたら姉貴が困る」
「私も急に離婚届を出されたけど」
夫は何も答えなかった。
しばらくすると、玄関のチャイムが鳴った。夫の姉だった。
部屋へ入るなり、私に険しい顔を向けた。
「正から聞いたわよ。給料を別の口座へ移したんですって」
「私の勤務先から私へ支払われた給料です」
「ふん。だったら、勝手にしたら困るでしょう」
「離婚届を勝手に提出したのは、お姉さんですよね」
夫の姉は一瞬黙ったが、すぐに言い返した。
「私は弟を助けただけよ。今まで弟に養われてもらったくせに、最後までお金を持っていくなんて図々しい」
私は鞄から通帳の写しを取り出した。
夫が失職してから口座へ定期的に入っていたのは、私の給料だけだった。そこから私たちの家賃と光熱費が引き落とされ、夫の姉が住むマンションの管理会社へ支払いが続いている。
夫の姉は、最初はすぐには理解できないようだった。
「正の給料は、一銭も入っていません」
「そんなはずないわ。正は会社の相談を受けて働いているって」
私は棚から夫の退職を証明する書類を出した。
「夫が会社を辞めたのは、1年半前です」
夫の姉が弟を見た。
「どういうこと?」
夫は目を合わせなかった。
「次の仕事は探していた」
「じゃあ、私の家賃は誰が払っていたの?」
夫が答えないため、私が口を開いた。
「私の給料です」
夫の姉の顔から血の気が引いた。
「嘘でしょ?」
「家賃も、前回の更新に必要だった金も、同じ口座から支払われています」
夫の姉は通帳の写しを握ったまま、弟へ詰め寄った。
「あなた、自分が払っているって言ったじゃない」
「夫婦の金なんだから、同じだろ」
「同じなわけないでしょ。私は直美さんに養われていたってこと?」
夫は苛立った声をあげた。
「姉貴が金に困ってると言うから、助けてやったんだ」
「だったら、自分のお金で助けなさいよ」
夫の姉が声を荒げた。
その言葉だけは、3ヶ月前に私が夫へ言ったものと同じだった。
夫は姉の前で頼れる男でいたかった。仕事を失ったと認めれば、その立場も失う。だから私の給料を使い、働いているふりを続けた。
夫の姉が私へ向き直った。
「でも、急にやめられたら困るのよ。せめて次の支払いまでは」
「私はお姉さんの家賃を払う約束をしていません」
「家族だったでしょ?」
「今日、お姉さんが家族ではなくしてくれました」
夫の姉は口を閉ざした。
夫が低い声で言った。
「離婚届のことは、もう一度話し合おう。直美も少し頭を冷やせ」
「私は3ヶ月考えた」
「俺が仕事を見つけたら、それで済む話だろ」
「仕事だけの問題じゃない。私のお金を黙って使って、姉には自分が払っていると嘘をついた。私のことは、養われている妻だと説明した」
夫は何も言い返せなかった。
「離婚届を提出したのはお姉さん。私はその結果を受け入れる」
私は通帳の写しを鞄へ戻した。
翌朝、引っ越し業者が来た。私は自分の荷物だけを運び、鍵をテーブルへ置いた。
共有していた預金や家具については、後日話し合った。過去に支払われた家賃まで取り返そうとはしなかった。ただし、今後の援助は一切しなかった。
数ヶ月後、手続きに必要な書類が夫から届いた。差出人に書かれていた住所は、夫の姉が住んでいたマンションだった。夫は車を手放し、今までの部屋も解約したらしい。夫の姉も自分だけでは家賃を維持できず、二人でさらに安い部屋へ移ると、共通の知人から聞いた。
私は駅近くの1LDKで暮らしている。給料日になると、決めた額を老後のための口座へ移す。家賃と生活費を払った後に残るお金を何に使うか決めるのも私だ。
今月も給料が振り込まれた。私は残高を確認し、貯蓄口座への振り替えを終えた。
もう、このお金の使い道を私に隠す人はいない。



