「お母さんとは今日でお別れしたいんです。」
玄関先で、息子の嫁である明美さんがそう言った。
「老後のことは一人で頑張ってください。私たち家族にはもう関わらないでくださいね」
あまりに突然のことで、私は言葉を失った。ゆう太も知っているの? そう尋ねると、明美さんは待っていましたとばかりにスマホを差し出した。
電話の向こうから聞こえたのは、一人息子の優太の声だった。
「母さん、ごめん」
「どうしてそんなこと言うの?」
「理由は明美から聞いてくれ」
それだけ言って、電話は切れた。明美さんは満足そうに笑っていた。
「待って。先週渡した800万円はどうするの?」
「返しませんよ」
あまりにも早い返事だった。
「あれは今までの清算です。私を預かってくれたのも、将来介護を押し付けるためだったんでしょう」
私はしばらく明美さんの顔を見つめていた。
「今までの清算? 本当にそう思っているの?」
明美さんは静かに頷き、そのまま背を向けて帰っていった。その時、私は全てを辞めると決心した。
私の名前は良子、62歳。夫を数年前になくし、今は娘のゆかりと二人で暮らしている。
自分で言うのもなんだけど、私は裕福な家に生まれた。けれど両親の教えは「自分の人生は自分の力で支えなさい」だった。だから私は結婚後も実家を頼らず、夫と働き、ローンを払い、長男の優太と長女のゆかりを育てた。子供たちにも実家の資産のことは話さなかった。お金があると、自分で人生を切り開く力を奪ってしまうかもしれない。両親の教えを継ぐ。そう考えたからだ。
夫と両親が亡くなった後、土地や預金は私が相続した。葬式の費用や供養のためのお金をまとめると、半分以上はなくなった。それでも残った不動産からの収入もあり、老後や施設の費用も準備できている。それでも質素に暮らしていた。
息子の優太は28歳の時、明美さんと結婚した。その後、一人娘の梨華が生まれた。優太は夜間の配送の仕事で、夕方に家を出て朝に帰る生活だ。明美さんも育児で疲れるだろうと思い、私は幼い頃から孫の梨華をよく預かった。娘のゆかりも梨華を可愛がり、三人で料理をしたり宿題を見たりして過ごした。私の家は孫にとって第二の家だった。
ある日、梨華が小さな声で言った。
「おばあちゃん、今日ももう少しいていい?」
「ママが心配するでしょ?」
すると梨華の顔が曇った。
「帰りたくないの?」
「ママ、ずっとスマホ見てるもん。話しかけると怒るし、洗濯物も食器洗いも私にやらせるの」
一瞬、孫の言葉を信じられなかった。たとえ忙しくても、親として失格。本当にそんなことをさせているのか。けれど義母の私が口を出せば、関係を悪くするかもしれない。その日は夕食まで預かり、送り届けた。
間もなくして娘の結婚が決まった。結婚相手はよく家にも来てくれて、裏表のない方だった。一つ心残りなのが、お相手の仕事の都合で遠方へ引っ越すことが決まっていること。でもゆかりが幸せならそれで良かった。
婚約祝いをすることになり、息子夫婦も呼んで顔合わせをした。祝福ムードの中、息子の嫁の明美さんだけは落ち着かない様子だった。
「ゆかりちゃん、本当に向こうへ行くの? そのうち戻ってくるんでしょ?」
私は明美さんが寂しがる私を気遣って言ってくれたものだと思っていた。皆が帰る頃、明美さんは私だけを台所へ呼んだ。
「実は、私たち家を買おうと思っているんです」
「あら、良かったじゃない」
「でも優太が身の丈に合わない家を欲しがっていて、梨華の進学もあるのに大きなローンが不安だと」
明美さんは涙を浮かべた。私はその時、夫婦の助けになりたいと思った。
「少しなら私が援助しましょうか」
「でも、お母さんの老後のお金でしょ」
「私のことは心配しなくていいの」
明美さんは何度も遠慮し、最後に頭を下げた。
「ありがとうございます。梨華のために大切に使います」
私はその言葉を信じ、800万円を振り込んだ。ところがその一週間後、明美さんは私に絶縁を告げに来たのだ。ゆかりが遠方へ嫁げば、私の介護が自分一人へ来る。梨華を預かってきたこともそのための恩売りだと決めつけていた。
「介護なんて頼みません。必要になれば施設へ入ります」
何度説明しても明美さんは聞かなかった。
「人間、口では何とでも言えますから」
そして800万円も返さず、これまでの感謝もなく、私との縁を切った。
それから三ヶ月間、優太にも連絡はつかず、梨華とも会えなかった。でも夏休みのある日、玄関を開けると梨華が立っていた。
「おばあちゃん!」
飛びついてきた孫を、私は夢中で抱きしめた。
「一人で来たの?」
「パパが、ママに内緒ならいいって」
嬉しい反面、なぜ優太自身は来ないのかという寂しさも残った。ちょうどゆかりも帰省したタイミングだったため、久しぶりに三人で話した。私は何気なく訪ねた。
「新しい家は決まったの?」
梨華はきょとんとした。
「新しい家? 見学へ行っているんでしょ?」
「そんなの言ってないよ。でもママ、最近は鞄とか服をいっぱい買ってる。夜に誰かと遊びに行くことも増えたし」
その時、玄関の呼び鈴が何度も激しく鳴った。明美さんと優太の息子夫婦が揃って家に押しかけてきたのだ。
「梨華を返してください」
明美さんは扉を開けるなり声を上げた。
「絶縁したんだから、勝手に会わないでください」
「梨華は自分の意思で来たのよ」
「子供の意思なんて関係ありません」
明美さんが腕を掴もうとすると、梨華は私の後ろに隠れた。
「帰りたくない。ママは話も聞いてくれないし、家事ばっかりやらせる。それに新しい家なんて見に行ってないじゃん」
優太が眉をひそめた。
「新しい家?」
私は優太を見た。
「あなた、高い家を買おうとしていたんでしょ?」
「何を言ってるんだ? 高い家を欲しがったのは明美だ」
明美さんの顔から血の気が引いた。
「家を買うって言うから、私は800万円を振り込んだのよ」
「800万円?」
優太の声が裏返った。
「母さん、何の話だ?」
「あなたは知らなかったの?」
優太は首を振った。
「話そうと思ってたのよ」
明美さんが突然叫んだ。
「でも、あなたっていつも疲れて寝てばかりで…」
「だからって800万円を黙って受け取るのか。少しくらい私が使ったっていいでしょ。私は毎日家事も育児もしてるの」
すると、梨華が小さな声で言った。
「家事は私がしてるよ」
その一言で明美さんは黙った。優太は私の前で深く頭を下げた。
「母さん、ごめん。明美から、母さんに介護を迫られているって聞いたんだ。あの時、妻を守らなきゃと思って…」
「妻の味方になることは悪いことではないわ」
私は答えた。
「でも妻の話だけを聞いて、母親を捨てることとは違います」
優太は顔を上げられなかった。
「あなたは明美に騙されただけではない。私へ確認する責任から逃げただけよ。電話一本で絶縁を告げて、理由すら自分の口で説明しなかった。それがあなた自身の選択です」
「私はあなたたちに介護を頼む必要はありません。老後を暮らす蓄えも、施設へ入る準備もあります」
明美さんの目の色が変わった。
「じゃあ、あの800万円は…」
「優太とゆかりへ平等に残すつもりだった財産の一部よ」
「お母さん」
明美さんは急に声を柔らかくした。
「誤解だったんです。介護が怖くて、少し考えすぎただけで…」
私は首を振った。
「私にお金があると分かった途端に態度を変えるなんて。たとえ年金しかなくても、話も聞かずに人を捨てていい理由にはなりません」
明美さんは何も言えなかった。
「800万円は返してもらいます。もう使った分も、全て返してもらいます」
「そんなお金、すぐには用意できません。もらったものを返せって言われても無理です」
私はどうしようもない彼女を見ながら言った。
「嘘をついて人のお金を使って、子供に家事をやらせて、自分は遊び放題。あなたがしているのは犯罪。よく考えて発言しなさい」
明美さんはまた何も言えなくなった。
その後、夫婦は話し合いの末、離婚した。残っていたお金は返され、使われた分も返済されることになった。孫の梨華は優太と暮らしながら、以前のように私の家へ来ている。優太からは何度も謝罪されたけれど、私はすぐに元通りにはしなかった。
「これからの行動で示すのよ」
優太は黙って頷いた。
財産についても、今すぐ誰かへ渡すことはやめた。私自身の老後と、本当に必要な時のために使う。
ある日、夕食を作っていると、梨華が笑顔で言った。
「おばあちゃん、料理教えて。おばあちゃんの誕生日は私がご飯作ってあげる」
私が家族へ与えてきたものは、お金だけではない。時間、食事、安心して帰れる場所、どんな話でも最後まで聞くこと。それらを当然だと思った人は、自分から手放した。あの日、私が失ったのは家族ではない。私を大切にしない人へ全てを与え続ける生き方だった。



