「お前、正社員になりたいんだろう。なら、覚悟を見せろよ」
朝の大会議室に、若い女性が一人立たされていた。人事部長の富田裕介が、余裕の笑みを浮かべて見下ろしている。
「土下座しろ。額を床に擦りつけて『お願いします』ってな」
そう言って富田は、机の上に一台のバリカンを放り投げた。低い振動音が会議室に響き渡る。
「足りないなあ。本気の覚悟ってのはな、これで自分を丸坊主にして見せるもんだろう」
そこにいる誰もが、その男の行動を止めようとしなかった。しかしその時、くたびれた色のジャンパーを着た老人が静かに歩み出た。
「なんだ、おい、ぼけじじい。雑用係が俺に何か用か?」
老人は男を気にする様子もなく、静かに告げた。
「お前ら、全員首だ」
「はあ?」
だがこの男はまだ知らない。雑用係と見下したこの老人こそが、自分の運命を握っていることを。全ては三か月前から始まっていた。
ある朝の光がオフィスビルのガラスに滑り込んでいた。社員通用口から一人の老人が入ってくる。くたびれた色のジャンパーは袖口が少しほつれ、肘の辺りは色が抜けていた。白髪の頭以外に目を引くものは何もない。すれ違う若い社員たちは、誰一人として彼に挨拶しなかった。
山田義雄、七十二歳。三か月前からテトコーポレーションの第二倉庫で警備と雑用を任されている契約社員である。義雄は地下の備品室へ向かう前、いつものように一階のロビーを横切った。
「あのじいさんさあ、あれで倉庫の整理とかできてんの? 荷物が荷物を整理してんのか? ははは」
社員たちが笑いながら通り過ぎていく。聞こえないふりをするのはもう慣れていた。彼は何も言い返さない。備品室に着くと、義雄はポケットから一本の万年筆を取り出した。漆黒の軸にわずかな金をあしらった古いモデルだった。長年握り込まれて、キャップの縁が柔らかく光っていた。
「うみ子、お前がくれたこの一本も、随分年を取ったな」
亡き妻の声が、ふと耳の奥に蘇る。
「あなたは肩書きで人を見ない人でいてくださいね」
結婚した日に彼女が笑いながら言った言葉だった。義夫は胸のポケットから、擦り切れた皮の財布を取り出した。中には一枚の写真が挟んである。若い女性と、まだ幼い少女が笑っている写真だった。義雄はその写真を指の腹でそっとなぞった。備品室の窓から朝の冷たい空気が忍び込む。彼は薄いジャンパーの襟を一度だけ立て直すと、また黙々とダンボールの整理にかかった。
廊下の奥から誰かの怒鳴り声が響いてきた。
「だから何度言わせるんだ! 覚悟が足りねえんだよ! 覚悟が!」
義雄の手が、ほんの一瞬だけ止まった。
「また、あの声か」
テトコーポレーション人事部長、富田裕介の声だった。この三か月、義雄が幾度となく耳にしてきた声であり、若い社員を委縮させ、フロア全体の空気を凍りつかせていた。義雄は再び手を動かしながら、その騒動に静かに耳を済ませる。何も言わず、ただ全てを聞いていた。
その日の昼下がり、義雄が書類の束を運ぶために二階の人事フロアを通りかかった時、富田がフロアの中央に仁王立ちをしていた。仕立てのいいスーツに磨かれた革靴。五十二歳という年齢の割に、その態度だけは妙に若々しかった。彼の前には一人の若い女性社員が硬直したように立たされている。
「ねえ、岩崎君。この資料の数字、昨日と同じミスをしてるよな」
岩崎彩花は総務の新人だった。顔は青ざめ、唇が小さく震えている。
「も、申し訳ありません。す、すぐに直します」
「直します、じゃないんだよ。なぜ間違えたかを言えよ。君らの世代はすぐそうやって謝る。それが甘えなんだよ」
富田はゆっくりと彼女の周りを歩き始めた。靴がコツコツと床を鳴らす、その音だけが静まり返ったフロアに響いていた。
「いいか、俺たちの若い頃はな、終電なんか乗ったことがなかった。会社に泊まり込んで根性で数字を作ったんだ。それを今は『残業が何だ?』『ハラスメントがどうだ』って、ふざけるな」
近くのデスクの社員たちは誰も顔を上げない。キーボードを打つふりをしながら、ただ息を殺していた。
「気合いだよ、気合い。なんだよ、その目つきは。覚悟が足りねえんだよ」
岩崎の目に涙が滲んでいくけれど、彼女は奥歯を噛みしめて、それをこぼすまいと耐えていた。
そこへ一人の女性社員が歩み寄った。
「部長、数字の確認でしたら私が一緒に見直します。岩崎さんはまだ入ったばかりですし」
山田美咲、二十五歳。派遣社員でありながら、背筋をまっすぐ伸ばし、富田の目を据えて見据えていた。
「はあ? 君、派遣だよね。んで口を出すのか。立場ってもんをわきまえた方がいいぞ。誰のおかげでここで働けてると思ってんの?」
「岩崎さんが委縮していては、確認できるものもできません。それだけです」
富田は鼻で笑った。義雄の目がほんのわずかに細められる。抱えた書類を握る指に、自然と力がこもっていた。
「はあ。最近の若い女ってのは勘違いもはなはだしい。実績もないくせに口だけは一人前ってか。まあ、よく考えるんだな」
そう吐き捨てると、富田はフロアを後にした。義雄はその光景を黙って見送る。そして、廊下を戻りながら、富田が最後に見せたあの表情を何度も胸のうちで反芻していた。
それから数日後の夕方のことだった。段ボールを抱えて廊下を歩いていると、給湯室の前に人が集まっていた。その中心にいるのは、やはり富田だった。傍らには部長代理の黒木理佐が控えている。四十八歳、富田の忠実な右腕だった。
「部長、この子、また期限を守れなかったんですよ」
富田の前に立たされていたのは、また岩崎だった。
「岩崎さあ、自分が何回チャンスをもらったか分かってるのか?」
「はい。すみませんでした」
「だから、その謝罪が安いんだって言ってんの。そういうのはさ、態度で示すもんだろう。指導してあげないといけないのかな」
黒木が横から猫撫で声で口を挟む。そして自分のデスクの引き出しから黒い箱を取り出した。
「部長、ちょうどいいものがありますわ。前の子の時に使った、これ」
黒木が箱から取り出したのは、一台のバリカンだった。それを岩崎の手のひらに握らせた。
「見てわかるだろう。バリカンだよ。本気で反省してるなら、それで丸坊主にしろ。ここで、今、自分の手で」
給湯室の前に、張り詰めたような沈黙が落ちた。岩崎の顔はみるみる青ざめていく。彼女は震える手でバリカンを握ったまま、ただ立ち尽くしていた。
「あの、来月に私の結婚式があるので、それまでは髪を……」
「結婚式? はあ、聞いたか、黒木さん。仕事より自分の晴れ姿が大事だってよ。だからお前は半端なんだ。覚悟が足りねえ」
「あら、髪なんてまた伸びるわよ。岩崎さん、今この時が大事なのよ。それくらいの覚悟も見せられないなら、結婚しても長く続かないわよ。ほら、スイッチ入れろ。早く」
岩崎の指がバリカンのスイッチに触れる。低い虫の羽音のような振動音が、しんとしたフロアに響き渡った。彼女の目からは涙がぽろぽろとこぼれ落ちている。やがて岩崎の手がゆっくりと持ち上がり、バリカンが自分の頭に近づいていった。震える手が刃の手前でひどく揺れている。岩崎は唇を噛み、目を閉じた。来月の結婚式のこと、式場で待っている人のこと、そしてその日のために伸ばし続けてきたこの髪のこと。それらが一度に胸の奥をよぎっていく。
ちり、と、ほんの一筋だけ細い髪が刃に触れた。
その瞬間、岩崎は思わずバリカンを手放し、床へと落としてしまった。振動音が乾いた音を立てて止まる。
「うわあああ」
こらえていた嗚咽が漏れる。岩崎は顔を覆ってしゃがみ込んだ。切れたのはほんの一筋だけだった。それでも、周囲の社員たちは誰も声を出せず、動くこともできず、ただ凍りついていた。
「おいおい、何泣いてんだ? 続けるんだろ? 覚悟を見せてくれるんだろう」
その言葉が義雄の耳に届いた瞬間だった。義雄は廊下の隅で人目を避けるように、上着の内ポケットからスマートフォンを取り出した。
「頼む」
低く、静かに、電話口の誰かに向かってそれだけを言うと、義雄は電話を切った。
給湯室の中では、美咲が人だかりをかき分けて前に出てきた。
「やめてください。こんな酷いこと」
「ああ、また君か。うるせえな。引っ込んでろ」
「結婚式を控えている方に対して、これのどこが指導なんですか?」
「感情論を持ち込むんじゃねえよ。これはな……」
その時、富田の手に持ったスマートフォンが着信音を立てた。
「チッ、誰だ。今から面白いところだってのによ」
と富田は一瞬眉を潜めた。だが画面を見た途端、その表情が変わる。
「本社、田島副会長室……」
液晶に光っていた文字を見て、富田の顔色が変わった。
「ち、ち、ちょっと待て」
富田は素早く給湯室の外に出ると、廊下の奥へ小走りに消えていった。
「ああ、チッ、最近の若い子は」
そう言い捨てると、黒木も踵を返した。人だかりは潮が引くように散っていく。給湯室に残されたのは、岩崎と美咲だけだった。美咲は岩崎のそばにしゃがみ込み、震える背中にそっと手を置いた。
「もう大丈夫。よく我慢したね」
「私、髪、切らなきゃって。でも、できなくて……」
「切らなくていい。あなたは何も悪くない。結婚式の日、誰よりも綺麗でいなきゃ」
「でも、こんな会社、もう……」
「逃げてもいいんだよ。自分を守ることは、負けじゃないから」
岩崎は声を上げて泣いた。美咲はその背中をさすり続ける。床には、切れたほんの一筋の髪だけが残されていた。
翌日から、フロアで岩崎の姿を見かけることはなくなった。あんなことがあったのだから、辞めてしまったのだろう。美咲はそう思うしかなかった。
「うん。岩崎のやつ、結局逃げたのか。それくらいの根性しかなかったってことだな、黒木」
「はい。まあ、ああいう子は所詮その程度ですわ」
富田は周囲の全員に聞こえるよう、わざと声高にそう言ってのける。黒木がクスクスと笑いで追従した。美咲は自分のデスクで拳を固く握りしめている。そして、またダンボールを静かに運びながら、その騒動をまた一つ、記憶に刻んでいた。
岩崎の一件の後、富田の標的ははっきりと美咲に向き始めた。二度も自分に口答えした派遣社員。それは富田にとって、許しがたい秩序の乱れだった。
「山田君。明日までにこの資料、全部まとめておいてくれるか? ああ、それから、こっちの集計も」
「はい」
それは一人で一晩かかっても終わらない量だった。美咲がそれを受け取ると、富田は満足そうに頷いた。
「いいね、その素直さ。最初からそうしていればよかったんだよ」
その日から、美咲の深夜残業が始まった。誰もいなくなったフロアで、彼女は一人、ディスプレイの光に照らされながらキーボードを打ち続ける。義雄は夜の見回りの度に、その背中を見守っていた。
そして数日後、それは起きた。重厚な長机が並ぶ会議室に、富田を中心に幹部たちが並んでいる。その中央に、美咲が一人立たされていた。富田が一枚の書類を机に叩きつけた。
「山田君がまとめたこの書類。取引先に出したものと食い違っている。大変なクレームになったぞ。どう責任を取るつもりだ?」
「書類を確認させてください」
美咲が書類を手元に引き寄せて中身を確認すると、所々が別のものにすり替えられていた。
「これは私が提出したものと違います。私が作ったのは……」
「言い訳をするな!」
富田の声が会議室に響き渡る。黒木は富田の背後で、ほんの一瞬だけ口元を歪めた。
「部長、これはもう、処分を見せていただかないとねえ。山田さん。会社にこれだけの迷惑をかけたのよ」
「そうだな。山田君は、本当はずっと正社員になりたかったんだろう。こんなミスをやらかして、まだその希望を捨ててないってんなら……覚悟を見せろよ」
「覚悟、ですか……」
「土下座しろ。『正社員にしてください』ってな。ここにいる幹部の皆さんに頭を下げて、誠意を見せるんだ。それくらいの覚悟、見せられるよな」
会議室がしんと静まり返った。美咲は唇を固く結んでいる。その目には悔しさの涙が滲んでいた。それでも彼女は、まっすぐに富田を見据えていた。
「あら、やだ。何ぼうっと突っ立ってるの? 派遣の方はこういう常識もご存知ないのかしら? 若いからかしら。誠意を見せなさいよ」
長い、長い沈黙の後、美咲はゆっくりとその場に膝をついた。冷たい会議室の床に両手をつき、そして頭を下げる。
「申し訳ありませんでした」
「はあ? 違うな。土下座の仕方も知らないのか。ほら、体だ。額を床につけるんだよ。本当になりたいんなら、一回じゃ誠意は伝わらないと思うんだよね。三回だ。額を三回床につけて、三回言うといいと思うよ」
茶化すような富田の声に、黒木がまた笑う。
「部長、それは名案ですわ。本気なら、それくらいできるはずですものね」
美咲は震える両手を床について、ゆっくりと上体を倒した。額が冷たい床に触れる、こつ、と小さな音がした。
「正社員にしてください」
「え? 何て言ったのかな? 聞こえないなあ。もっと大きな声で。それと、音が小さい。本気で額をつけてないんだろう」
美咲はもう一度、体を床に打ちつけた。今度はこつん、と硬い音が会議室に響く。
「正社員にしてください!」
「はい、あと一回」
三度目、美咲の体が床を打つ音と、殺した嗚咽とが重なり合った。
「正社員にしてください……」
床に、ぽたり、と涙が落ちる。それでも富田は腕を組んだまま、まるで珍しいものでも眺めるように、その姿を見下ろしていた。
「ふん。最初からそうやって誠意を見せりゃいいんだ。いいか? 俺もそうやって気合いでここまで来たんだ。これも君のためを思ってのことだぞ」
廊下の隙間から、義雄はその一部始終を見ていた。何度も床に打ちつけられた美咲の額、小さく震える肩、そして床に落ちた涙の跡。義雄の手は、胸ポケットの万年筆を固く握りしめていた。爪が手のひらに食い込むほど、強く。
会議室の窓から差し込む朝の光が、土下座する美咲の背を、ただ無慈悲に照らしていた。
「もう十分だ」
翌朝のことだった。義雄がゆっくりとダンボールを運びながら、人事フロアの前の廊下に差しかかると、給湯室から声が聞こえてくる。富田と黒木が何かを話しながら出てきたところだった。
「いやあ、しかし、派遣の山田ってやつもしたたかだよな。土下座までさせてもまだ辞めねえなんて」
「でも部長、ああいう子って結局自分から折れますわよ。もう少しです」
「そうだな。数字を出せねえやつはいらねえんだよ。次は……」
義雄はダンボールを窓際に置いた。昨日、孫が床に額をつけたあの光景がまだ目の奥に焼きついている。彼は静かに二人の前へと歩み出た。富田は突然目の前に現れた老人を見て、一瞬だけ眉を潜めた。
「おお、びっくりした。なんだ、お前」
「少しよろしいですか? 富田部長」
「はあ?」
「山田美咲さんのことです。彼女は真面目にやっています。昨日の土下座、あれは行き過ぎではありませんか?」
「なんだと?」
フロアの空気が、すっと冷えた。近くを通りかかった社員が思わず足を止めて息を飲む。富田の表情は、面倒そうな顔から、無骨な色を帯びた顔へとゆっくり変わっていった。
「お前、倉庫の雑用じじいだろ」
「はい」
「じゃあ黙ってろよ。お前みたいな雑魚の分際で、うちの社員のことに口出すんじゃねえよ。立場をわきまえろ」
義雄は富田の目をまっすぐに見ていた。その声はどこまでも穏やかなままだった。
「立場ですか? 人が理不尽に傷つけられているのを見た時、黙っているのが正しい立場だとは私には思えません」
「はあ? お前、誰に向かって物を言ってるのか分かってんのか? 俺は人事部長だぞ。お前は契約社員だろうが。しかも倉庫の雑用係だ。俺とは立場が違うんだよ」
「部長、こんな老人、相手にしなくてよろしいのに」
「そうだな。よくもまあ、己の老いぼれが会社のことを分かった顔で口を挟む。それが一番迷惑なんだよ。昔の常識を今に持ち込んで現場を引っかき回す。お前らの世代が会社をダメにするんだよ」
富田は義雄の顔を一瞥すると、鼻で笑った。
「分かったら黙ってダンボールでも運んでろ。それがお前の仕事だろう」
黒木がクスクスと笑いながら、富田の後ろをついて歩いていく。二人はそのまま廊下を歩き去り、革靴の音が次第に遠ざかっていった。義雄は表情も変えず、声をあげることもない。ただ、胸ポケットの万年筆に、右手でそっと触れていた。それ以上は何も言わず、義雄はまたダンボールを拾い上げる。くたびれたジャンパーの背中が、廊下の奥へと静かに消えていった。
その日の夜のことだった。誰もいなくなったオフィスで、義雄は備品室の机に向かった。手帳を開き、几帳面な字で日記を書きつける。今日起きたことを、淡々と事実だけを記していった。書き終えると、彼はしばらくその文字をじっと見つめていた。
「そろそろ、潮時だな」
窓の外では、東京の夜の灯りが遠くまで広がっている。そのどこかで、美咲もまた今夜、ディスプレイの光の前に座っているのかもしれない。義雄は立ち上がると、ジャンパーを羽織り、備品室の電球を消した。暗くなった小さな部屋には、古い紙の匂いだけがしばらく残っていた。
その朝、社内はまだ静かだった。廊下の窓からは春の淡い光が差し込んでいる。出社まであと一時間、フロアに人影はほとんどなかった。美咲はいつも、誰よりも早く出社していた。ここしばらく深夜まで残業して、それでも翌朝一番に来る。それが今の美咲だった。
廊下を歩く美咲の目は虚ろだった。今日もまた、あの会議室に呼ばれるかもしれない。その考えが頭から離れない。
その時、備品室の前を通りかかった美咲の耳に、静かな声が届いた。
「おはようございます。今日まで、よく頑張りましたね」
美咲は足を止めた。備品室の入口に、帽子を目深にかぶったジャンパーの老人が立っている。倉庫の雑用係の老人だということは知っていたけれど、今の美咲にはそれ以上何かを考える余裕などない。かけられた言葉さえ、よく聞き取れなかった。
「あ、おはようございます」
美咲は小さく頭を下げると、また歩き出した。今日のことを考えると、足が重い。胸が苦しかった。
「美咲」
美咲の足が止まった。振り返ると、老人は帽子のつばの下から、穏やかな目で美咲を見つめている。なぜこの老人が自分の名を知っているのか。しかも呼び捨てで。美咲が口を開きかけたその時、廊下の奥から足音が響いてきた。富田裕介が、黒木を従えて歩いてくる。
「なんだ、昨日の雑用じじいも一緒か。このじいさん、お前のスケットか?」
「いえ、私はただ……」
「なんだ?」
義雄が一歩前に出た。静かに、ゆっくりと。
「富田部長。今からでも遅くはありません。あなたがされてきたことを、誠心誠意お詫びになるなら、ことは大きくはなりません」
富田は義雄を見下ろした。くたびれたジャンパーに安物のスニーカー、帽子を目深にかぶった冴えない老人にしか見えなかった。
「はあ? お前、何様だ? 今度は俺に説教か」
「説教ではありません。最後の機会をお伝えしています」
「最後の機会? 何を偉そうに。誰に向かって言ってんだ? 耄碌してるんじゃねえの?」
美咲は思わず息を飲んだ。
「部長、構うだけ時間の無駄かと」
「そうだな。お前みたいな社会のクズが会社のことを語るんじゃねえ。山田、お前もだ。派遣のくせに、こんなじいさんを連れてきて俺に意見させるなんて。いい度胸じゃねえか。覚えてろよ」
「このおじいさんは、何も悪くありません。私が……」
「もういい。今日は田島副会長がいらしてる。お前のことは、副会長に話したらすぐに首になるぞ」
富田は義雄と美咲の横を、肩をぶつけるようにして通り過ぎると、大会議室へと向かっていった。その背中は、相変わらず余裕に満ちている。義雄はただ、静かにその背中を見送った。
やがて大会議室には、社員たちが次々と集まってきた。百人の社員が静かに着席していく。前方の壇上には、大型のスクリーンが用意されていた。テトホールディングス副会長、田島鷹雄が壇上に立つ。六十八歳。銀色の髪を綺麗に撫でつけ、濃紺のスーツをまとっている。その立ち姿には、長年会社の中枢にいた人間だけが持つ、静かな重みがあった。
「社員の皆さん、本日は急遽お集まりいただきありがとうございます。早速ですが、報告があります。まずは、こちらの映像をご覧ください」
スクリーンに映像が流れ始めた。震える手に、富田がバリカンを握らせている。結婚式が、という細い声。それを笑い飛ばす富田の声。髪を剃られそうになった岩崎が、その場に崩れ落ちて号泣する。会議室が、水を打ったように静まり返った。
「続けます」
画面が切り替わる。冷たい床に額をつけ、「正社員にしてください」と繰り返す美咲。「音が小さい」と見下す富田の声。その隣で、口元を歪めて笑う黒木がいた。
「部長、これ、誰が……」
「黙ってろ」
さらに映像は変わる。深夜のオフィス。黒木が美咲のデスクから書類を抜き取り、別の紙とすり替えていた。社員たちの間から、息を飲む声が幾つも漏れる。
「違う! それは山田が勝手に……」
「いいえ、私は知らない。私は……」
言葉が続かなかった。富田の額に汗が滲む。組んでいたはずの腕が、だらりと落ちる。さっきまでの余裕は、もうどこにもなかった。
「以上が、この三週間で記録された映像の一部です。社内の監視カメラ、また、ある社員諸君から本社に直接届けられたものも含まれています」
田島は壇上から会議室をぐるりと見渡した。そして、最前列近くに座っている美咲のそばへ歩み寄ると、静かに頭を下げた。
「山田さん。長い間、本当に辛い思いをさせてしまいました。申し訳ありませんでした」
「え? あの……」
美咲は戸惑いながら立ち上がった。会議室の全員が、その光景を見つめている。
「富田部長。山田さんに、謝罪をしていただけますか?」
「はあ? 何でですか?」
「山田美咲さんは、テトホールディングス創業者のご令嬢です」
その瞬間、誰よりも大きく息を飲んだのは、美咲自身だった。
「え? 今、何て……」
創業者の孫。私が? 頭が真っ白になる。自分はただの派遣社員のはずだ。祖父のことは……何も聞かされていなかった。美咲はその場に立ち尽くした。会議室の空気が、一瞬で凍りついた。
田島はそんな美咲を見て、静かに微笑んだ。
「お嬢様は、お父上にそっくりでいらっしゃいますね」
亡き父の名を、こんな場所で、こんな形で聞くとは思わなかった。美咲の目に、みるみる涙が滲んでいく。
「う、嘘だ……!」
声が裏返った。美咲の頭の中を、これまでの光景が一気に駆け抜けていく。冷たい床に額を擦りつけさせたこと。バリカンを突きつけたこと。「派遣のくせに」と吐き捨てたこと。その相手が創業家の令嬢。
「う、嘘だ。そんな……だって、彼女はただの派遣で……」
富田は膝が震え、机に手をついてようやく体を支えている。体から汗が滝のように流れ落ちていた。
富田はよろめくように美咲の前へ歩み寄ると、深々と頭を下げた。これまで自分が美咲にしてきた行いの全てが走馬灯のように駆け巡ったが、富田は反射的に言い訳をするしかなかった。
「も、申し訳ありませんでした! 私、山田さんのことをご令嬢とは存じ上げず! これからは全力で会社のためにお力添えを! 創業者のお孫さんとあらば、私も誠心誠意、命をかけてお仕えする所存です!」
次から次へと言い訳が溢れ出てくる。富田の頭がペコペコと上下した。だが美咲は、ただ静かにその姿を見下ろしている。声を荒げることも、嘲ることもない。その目には、もう何の感情も浮かんでいなかった。
その時、会議室のドアが静かに開いた。くたびれた色のジャンパーを着た老人が、ゆっくりと入ってくる。その右手には、黒い箱が握られていた。社員たちが一斉にその老人を見る。いつもダンボールを運んでいた、あの老人だった。
「見なさい、部長」
老人はゆっくりと話し始めた。
「誠意を見せていただきましょう」
義雄は右手の黒い箱をゆっくりと開けた。中から取り出したのは、一台のバリカンだった。会議室にどよめきが広がる。富田の顔が、みるみる歪んでいった。
「いきなり、お前、何なんだよ! 今はそれどころじゃない。このぼけじじいの雑用係が……」
「富田部長」
田島の声が、静かにそれを遮った。
「こちらの方をご存知ですか?」
「も、も、も、申し訳ございません! 変なものが紛れ込んでしまいまして! この老人は倉庫の雑用を担当しておりますもので、ここ最近、認知症が進行してるようでして、会議室にも迷い込んできたようでございます! 早急に対処を! 黒木! 黒木! こいつを外に連れて行け!」
「富田部長」
「は、はい!」
「ご紹介します。この方は、テトホールディングス創業会長、山田義雄です」
会議室が、しんと静まり返った。富田の頭の中で、これまで自分が放った言葉が次々と蘇る。「雑用係のじじい」「老いぼれ」「社会のクズ」——それらをよりにもよって、この会社を一代で築き上げた男に、面と向かって言ったことを。
「そ、創業会長……? 嘘だ……。嘘だろ……? あの、雑用のじいさんが……」
「はい。物を運ぶのが仕事の『ぼけじじい』『老いぼれ』、はたまた、『社会のクズ』とまで仰っていただいた、山田義雄と申します」
義雄は微笑みもせず、静かに続けた。
「会社への忠誠心は素晴らしい。では、覚悟の見せ方もご存知なのでしょう」
義雄はバリカンを、富田の手に握らせた。
「是非、その覚悟を見せていただきたい」
富田の顔が、みるみる蒼白になっていく。
「こ、こんなものを私に……! 私は人事部長であり、実績も誰よりも出してきた人間です! 会長ともあろうお方が、そのような真似を!」
だが、いくら周囲を見回しても、誰一人として助けを出すものはいなかった。百名の社員が、ただ黙って富田を見つめている。
「もちろんです。会社のために、これからも富田裕介は忠誠を誓います」
富田は震える手でバリカンのスイッチを入れる。低い振動音が、しんと静まった会議室に響き渡った。やがて富田の手がゆっくりと持ち上がり、バリカンが自分の頭に近づいていく。
ちり、と。ほんの一筋だけ、髪が刃に触れた。
バリカンが床に落ちる。乾いた音が、会議室に響いた。富田は切れた部分の髪を手で探りながら、その場にしゃがみ込んでしまう。
「覚悟が足りませんね。それとも、忠誠がないのかな?」
義雄は床に落ちたバリカンをゆっくりと拾い上げる。また、富田の手に握らせた。
「さあ」
会議室の全員が、固唾を飲んで見守っている。美咲も、そして百名の社員も。
「こ、ここでですか? 皆さんの前で?」
「ええ。あなたが岩崎さんにしたように」
富田に、返す言葉はなかった。彼は震える手でバリカンを握り直す。立ち上がるその目は充血し、唇も震えていた。
「ど、どうか、これだけはご勘弁を……! 二十年、会社に尽くしてきたんです!」
「岩崎さんも、美咲も、この会社に尽くしていました。あなたが、踏みにじった」
富田は覚悟を決めたように、大きく息を吸うと、バリカンを自分の頭に当てた。
ばさり、と。
黒い髪の束が、床に落ちる。
「ううううううわあああ!」
涙をぼろぼろとこぼしながら、震える手でバリカンを動かし続ける。その振動音と、押し殺した嗚咽だけが、会議室に響いていた。落ちた髪が、磨かれた床に少しずつ広がっていく。やがて、富田の頭は見すぼらしい坊主頭と変わっていた。
「お、終わりました……。これで、許して……」
「ほぉ、見事な覚悟だ」
富田が顔を上げる。涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔には、かすかな安堵の色が浮かんでいた。義雄は静かに富田から視線を外す。そして、田島を見て、一度だけ小さく頷いた。
義雄は、富田と黒木、そして加担した幹部たちへ、静かに目を向けた。
「お前ら、全員、首だ」
会議室が、大きくどよめいた。
「富田部長、黒木部長代理、その他、報告を受けながら目認した管理職。このリストに名を連ねるもの、全員、本日付けで解雇とする」
「え? え? 首……? 今、私の覚悟は素晴らしいと……」
「覚悟は素晴らしかった。しかし、それとこれとは別の話だ」
「はあ……?」
「創業会長として、会社の根幹に関わる人事については、最終承認権を持っている」
富田の両膝が、くくり、と折れた。坊主頭を両手で覆い、その場に崩れ落ちる。嗚咽だけが、広い会議室に漏れていた。
その光景を、美咲は呆然と見つめていた。雑用係だと思っていたあの老人が、創業会長。それがまだ信じられなかった。
その時、義雄がふと振り返った。穏やかな目が、まっすぐ美咲を捉える。何かを語りかけるような、けれど何も言わない、その視線に美咲の胸はわけもなく熱くなった。涙が頬を伝う。義雄はただ、小さく頷いた。
会議室の窓から、春の光が差し込んでいた。社員たちが去り、がらんとした大会議室に、美咲は一人残っていた。窓際に立つ義雄の背中へ、恐る恐る歩み寄る。さっき聞かされたばかりの言葉が、まだ胸の中で渦を巻いていた。創業者の孫。そして、この人が祖父。
「あの……本当に何ですか? 私が、その……あなたの孫だって」
「ああ、本当だ」
義雄が静かに振り返った。もう帽子も、くたびれたジャンパーもないけれど、その穏やかな目だけは、毎朝すれ違っていた雑用係の老人と何も変わらなかった。
「どうして……どうして黙ってたんですか? それに、雑用係の格好なんかして……」
「この会社の様子を、肩書きのない場所から、この目で確かめたかった。それに、お前のこともずっと気がかりだった」
「私のこと?」
「お前の父が命をかけて守った会社で、一人、歯を食いしばっている姿をな」
美咲の頭は、追いつかない。毎朝の「おはようございます」。残業の夜に現れた背中。あの全てが、私を見守るためだったのか。
「ずっと……見てくれてたんですか? 私のことを」
「ああ。すぐそばで」
その一言で、こらえていたものが一気に決壊した。
「怖かった……。毎日、毎日怖かった。何度もやめようと思った。でも、やめたらお父さんとお母さんに顔向けできない気がして……。ずっと、一人だと思ってた」
「一人になど、させていない」
義雄は歩み寄ると、そっと美咲の頭に手を置いた。大きく節くれだった、温かい手だった。美咲は子供のように声を上げて泣いた。義雄は何も言わず、ただその背中をさすり続ける。しばらくして、義雄が穏やかに口を開いた。
「お前は強いなあ。泣きながらでも、最後まで折れなかった」
「……お父さんに、似てますか?」
「ああ。お前は、父さんにそっくりだ。お母さんの、突っ張った優しさもなあ。あいつも、損ばかりする男だった」
二人は、どちらからともなく小さく笑った。窓の外を、桜の花びらが一枚、風に乗って横切っていく。
「おじいちゃん、って呼んでもいいですか?」
「ああ。今更、何を言う?」
差し込む春の光が、寄り添う二人の影を長く、床に伸ばしていた。
その日の午後から、富田裕介の人生は、がらりと崩れ始めた。解雇通知が届いたのは昼過ぎ。即日解雇。退職金は全額、被害者社員の保証に当てられる。だが、富田を本当に震え上がらせたのは、添えられていた一枚の別紙だった。
「損害賠償請求予定額、一億二千万円」
一億二千万。被害者六名分の慰謝料と逸失利益。訴訟費用は会社が全額支援すると、淡々と記されていた。手から、書類が滑り落ちた。
同じ頃、黒木理佐にも解雇通知が届く。富田に電話をかけても、もう繋がらなかった。
その夜、帰宅した富田を妻の雅子が玄関で迎えた。いつもとは、まるで違う目をしていた。
「会社から電話がありました。ニュースも、映像も見ました」
「あれは指導で……」
「いい加減にしてください」
怒りもせず、泣きもしない。ただ、どこまでも冷たい声だった。
「子供たちも、あれを見ました。娘は、あなたと同じ苗字が嫌だと言っています。テーブルに、書類があります」
離婚届だった。署名欄は、すでに埋まっている。
「もう、あなたと同じ空気を吸いたくありません。出ていってください」
玄関の鍵が、静かに閉まる。富田の手には、離婚届だけが残されていた。
翌日、富田と黒木は書類送検された。偽造文書行使などの容疑で、被害者社員六名の告訴状が検察に提出された。富田の名前は、翌朝の経済面に実名で載った。やがて有罪判決が下り、執行猶予がつく。黒木もまた、同じ道を辿っていった。
あれから、五年が経った。
富田裕介は、深夜のスーパーの駐車場で、警備の巡回をしていた。月収十四万円、家賃四万円のアパートに一人。再就職は五十社を超えて全滅し、離婚届に判を捺したのはあの夜からわずか一か月後のことだった。ふと開いたスマートフォンに、一つの記事が表示される。
「テトホールディングス、若手育成プログラム始動——創業会長、山田義雄氏が訪問——」
写真の中では、義雄の隣で、人事部長となった美咲が微笑んでいた。富田は、画面をそっと伏せる。五月の夜風が、駐車場を吹き抜けていった。
黒木理佐の五年も、また地獄だった。裁判の後、夫は娘を連れて家を出て行った。今は駅前のスーパーで、早朝のレジに立っている。あの日、「先生」と呼んでいた相手は、もう連絡もつかない。
その朝も、黒木は機械的にバーコードを通していた。
「黒木さん」
顔を上げて、黒木の指が止まった。レジの向こうに立っていたのは、かつて自分が富田と並んで笑い、退職に追い込んだあの若い社員、岩崎彩佳だった。今は別の会社の制服を着て、まっすぐに背を伸ばして立っている。
「いらっしゃいませ……。ええ……。こんなところに、いらしたんですね」
岩崎の声には、怒りも嫌みもなかった。ただ、どうでもいいものを見るような、淡々とした響きだけがある。かつて自分が、立場の弱い相手を眺めていた、あの目と同じだった。
「あの、私……」
「まあ、何も聞きませんけど。見たら分かりますし。じゃあ」
弁解は、最後まで言わせてもらえなかった。商品を受け取り、岩崎は軽く会釈をして背を向ける。もう、黒木のことなど視界にも入っていないようだった。その背中は、まっすぐで、迷いがなかった。
残された黒木は、震える手で釣り銭を数えることもできず、立ち尽くしていた。次の客が、苛立たしげに商品を置く。
「すみません。まだですか?」
「も、申し訳ございません」
かつて数えきれないほど他人に吐いた言葉を、今は自分が何度も頭を下げて繰り返している。レジの電子音だけが、朝の店内に虚しく鳴り続けていた。
同じ五月の朝、テトコーポレーションの王堂で、義雄はソファーに座り、コーヒーの湯気を眺めていた。
「おじいちゃん、おはようございます」
スーツ姿の美咲が入ってきた。人事部長の職責を持つようになって、二年。背筋は、あの頃と変わらず、まっすぐだ。
「おお、座りなさい。今日は、お客さんも一緒なんだろう?」
美咲の後ろから、小さな女の子の手を引いた女性が、おずおずと顔を覗かせた。
「ご無沙汰しております。岩崎です。あの時は、本当にありがとうございました」
岩崎彩佳だった。あの日、震える手でバリカンを握らされた新人。その腕には、生まれたばかりの赤ん坊がもう一人。
「無事に、お母さんになれたか」
「はい。あの日、急に部署が変わって、わけが分からなくて……でも、後から、会長が私をあの人たちの目の届かない場所へ、移してくださっていたんだと知って……」
岩崎の目に涙が滲んだ。
「結婚式も、ちゃんと挙げられました。髪も、切らずに済んで。あの時、逃げ出さずにいられたのは、声をかけてくれた美咲さんのおかげです」
「私は何も。岩崎さんが、自分で踏ん張ったんですよ」
二人は顔を見合わせ、笑い合った。義雄が、赤ん坊の小さな手に、そっと指を触れさせる。
「いい会社になったか?」
「はい。今は、安心して働ける会社だって、みんなが言ってます」
岩崎は娘を抱き直し、深く頭を下げて、部屋を出ていった。美咲はその背中を見送ってから、義雄の隣に腰を下ろす。
「来月、新人研修なんです。今度は、私が担当します」
「おお」
「岩崎さんの時みたいなことは、二度とさせない。そう決めてます」
「うん。お前なら、できる」
美咲は、少し照れたように笑った。
「不思議ですね。おじいちゃんにそう言われると、本当にできる気がしてくる」
義雄は答える代わりに、ふっと目元を柔らげた。そして、胸ポケットから古い万年筆を取り出す。漆黒の軸に、わずかな金。亡き妻のうみ子が、結婚した日に手渡してくれた一本だった。
「あなたは、肩書きで人を見ない人でいてくださいね」
あの日の声が、今も耳の奥に残っている。肩書きを脱ぎ捨て、雑用係として過ごしたこの会社で、義雄はその言葉をもう一度、なぞるように生きた。
「うみ子。お前との約束、なんとか、守れていただろうか」
顔を上げると、目の前で美咲が湯気の向こうから微笑んでいる。亡き息子に、その妻によく似た笑顔だった。守りたかったものは、ちゃんと、ここにある。義雄の胸に、静かなぬくもりが満ちていった。
「おじいちゃん、どうかしましたか?」
「いや、いい朝だなと思ってな」
「何ですか、それ」
窓から差し込む五月の光が、二つのコーヒーカップを柔らかく照らす。湯気が、ゆっくりと春の光の中へ溶けていった。外では、若葉が風に揺れている。それは、どこか新しい季節の始まりを告げているようだった。



