義姉のし子さんが「年金暮らしのくせに、いつまで私たちに面倒を見てもらうつもりですか?」と言ったとき、78歳の義母は膝の上で両手を固く握りしめました。義兄の公平さんは母の顔も見ずに続けました。「母さんには今月中にこの家を出てもらう。」
私は耳を疑いました。その家は、義母が30年以上暮らしてきた家です。しかも義兄は、父親が3年前に亡くなったとき、「母さんの面倒は俺たちが見る」と約束したからこそ、家を相続したはずでした。なのに義兄は薄く笑って言ったのです。「でも今はこの家の名義は俺だから。」
その瞬間、隣にいた夫の良太が立ち上がりました。「兄さん、まさか最初から家だけもらって、母さんを追い出すつもりだったのか。」
義兄は肩をすくめました。「一緒に住んでみないと分からないこともあるだろう。」
義姉も腕を組みました。「こっちにも生活があるんです。年金だけでは何もできない人を、いつまでも抱えてはいられません。」
私は58歳、結婚して35年になる、どこにでもいるパート主婦です。普段は争いが苦手で、言いたいことがあっても一度飲み込んでから話す性格です。けれど、その時だけはどうしても黙っていられませんでした。
「お母さんの年金を毎月家計に入れさせていたのは、し子さんですよね。」
義姉の眉が動きました。義母は月に9万円ほどの年金から、食費と光熱費として毎月6万円を渡していました。さらに掃除、洗濯、食事の支度、義兄が仕事や買い物で出かける日は、中学生の娘の美来ちゃんの世話までしていました。「面倒を見てもらっていたのは、一体どちらなのでしょう?」
3年前、義父が病気で亡くなった後、1人になった義母を誰が支えるか、家族で話し合いました。私たち夫婦も引き取るつもりでしたが、義兄夫婦が真っ先に手をあげたのです「長男の俺が母を見る。その代わり、この家は俺が相続したい。」駅から近い、古い建ての家でしたが、義姉は娘を私立中学へ通わせるため、その家を気に入っていました。義母も息子たちが争うことを望まず、「公平が一緒に暮らしてくれるなら」と、家の名義を義兄に移しました。
最初の半年は、大きな問題もなかったそうです。
ところが美来ちゃんの受験が近づくにつれ、義兄夫婦の態度は変わっていきました。
義母がテレビを見れば「受験生がいるのにうるさい」、台所に立てば「古い味付けを押し付けないで」、少し具合が悪くて横になれば「年金は気楽でいいですね」と、嫌味を言われるようになったのです。
義母は私たちには何も言いませんでした。ただ、以前は綺麗に整えていた白髪が乱れ、会うたびに痩せていきました。
ある日、私が実家から届いたりんごを持っていくと、義母は玄関先で嬉しそうに笑いました「美佐さん、お母様お元気なの?」
ところが奥から義姉が出てきて、冷たい声を浴びせました「玄関で長話しないでください。ご近所に『暇な年金暮らし』だと思われますよ。」
義母は申し訳なさそうに頭を下げました。自分の家だった場所で、まるで居候のように。
それでも夫はすぐには動けませんでした「兄さんが母さんを見てくれているから」と、そう自分に言い聞かせていたのだと思います。私も、私たちが口を出せばかえって義母の立場が悪くなるのではないかと怖れていました。
しかし、私たちの遠慮は義兄夫婦にとって都合のいい沈黙だったのです。
美来ちゃんが第一志望の中学に合格すると、義姉はさらに義母を邪魔者扱いしました。
そしてついに、「年金暮らしの人まで、私たちは面倒見切れません」と言って、義母を家から追い出すことを決めたのです。
しかも、義兄夫婦が出ていくのではなく、義母だけを、です。
義兄夫婦が帰った後、夫は一晩中ほとんど眠りませんでした。
翌朝、夫は食卓の前で私に深く頭を下げました「美佐、母さんをこの家に迎えたい。」
予想していた言葉でした「俺も家事をする。母さんの通院も俺がつきそう。できることは何でもする。」
私は静かに答えました「何でもするなんて言わないで。」
夫が顔をあげました「できない約束をしたら、お兄さんたちと同じになるわ。」
私は夫の隣に座りました「できることを、家族みんなで決めましょう。お母さんにも我慢してもらうだけの同居には、したくないから。」
1週間後、私たちは義母を迎えに行きました。義母の荷物は、古い衣装ケース2つと小さなダンボール箱だけでした。30年以上暮らした家を出る人の荷物とは、とても思えませんでした。
義姉は私の耳元で笑いました「物好きですね。年金暮らしのお母さんを引き取っても、何の得にもならないのに。」
私は初めて義姉の目をまっすぐ見ました「家族を損得で選ぶ人には、分からないでしょうね。」
それだけ言って、義母の手を取りました。
我が家に着いた義母は、玄関で何度も頭を下げました「迷惑をかけないようにするから、家事も全部するから、年金も渡すから。」
私は首を横に振りました「お母さん、ここにいるために働いて価値を証明しなくていいんです。」
義母の目が揺れました「ただ、みんなが無理をしないために、家族会議をしましょう。」
その日の夜、私たちは食卓を囲みました。
夫は週2回、夕食後の片付けを担当する。
私は義母の通院予定を共有する。義母の部屋には勝手に入らない。食費は義母の年金から取らず、必要なものは家計から出す。
そして義母からは、1つだけ希望が出ました「日曜日の朝だけ、みんなでご飯を食べたいわ。」
社会人になった娘も、大学生の息子も、休日は昼近くまで寝ていましたが、2人は「日曜だけなら」と笑って賛成しました。
こうして、私たちの同居生活が始まりました。
もちろん最初から何もかもうまくいったわけではありません。
義母は遠慮して、朝5時から掃除を始めようとしましたが、私は物音で目を覚まし、「そんなに働いたら、こっちが落ち着きません」と掃除機を取り上げました。
逆に私が仕事で疲れて夕食を惣菜で済ませようとすると、義母に気を使わせてしまいましたけれど、その度に家族会議で話しました「手伝いたい時は手伝う。疲れている時は休む。不満を溜めてから爆発しない。」少しずつ、私たちの暮らし方ができていきました。
義母が来て1番変わったのは、日曜日の朝です。
義母は味噌汁を作り、私は卵を焼き、夫は食器を並べました娘がコーヒーを入れ、息子が寝ぼけた顔でパンを運びました「何でもない会話が、食卓に戻ってきました。」
義母は、家事をしてくれるから必要なのではありませんでした。義母が笑うと、家の空気が柔らかくなりました「昔の夫の話を聞けば、子供たちは父親をからかいました」私が仕事で失敗した日は、黙って温かいお茶を入れてくれました。
誰かが誰かを支え、支えられた方が、別の日には誰かを支える。
家族とは、そういうものなのかもしれません。
一方、義母を追い出した義兄夫婦の生活は、3ヶ月ほどで崩れ始めました義母がしていた掃除も食事の支度も庭の手入れも、誰もやらなくなりました私立中学の学費と交通費も重く、義姉は13年ぶりにパートを始めましたが、家事と仕事を両立できず、家の中は荒れていきました。
美来ちゃんも、祖母を追い出した両親に反発しました「元々受験を望んでいたのは義姉で、美来ちゃん自身ではなかったのです。」
半年後、義兄が我が家にやってきました「母さんを、そろそろ返してくれないか。」
夫の顔から表情が消えました「返すって、母さんは物じゃない。」
義兄は慌てて言い直しました「いや、反省もしてるんだ、、家のことが回らなくてさ、、未来も母さんに会いたがってる。」
そこへ義母がリビングから出てきました義兄はほっとした顔をしました「母さん、やっぱり自分の家がいいだろう、、戻ってきてくれよ。」
義母は静かに訪ねました「し子さんは、なぜ来ないの?」
義兄は目をそらしました「まだ気まずいみたいでさ、、でも母さんが戻れば、そのうちうまくいくよ。」
「私の年金も、必要なの。」
義兄の口が止まりました。
義母は、初めて見るほど冷たい目で息子を見ました「家事をする人が欲しい、、年金を入れる人も欲しい、、でも、年を取った母親の面倒は、見きれない。」
義兄は何も言えませんでした
「あなたたちが欲しいのは、母親ではありません、、都合のいい火婦です。」
「でも、未来がかわいそうだろう。」
義兄が娘の名前を出した時、廊下の奥から美来ちゃんが現れました「私を言い訳にしないで。」
義兄の顔が青ざめました。
美来ちゃんは、数週間前、1人で我が家を訪ねてきていました「そして義母に泣きながら謝ったのです『おばあちゃんにひどいことを言った、、お母さんに怒られるのが怖くて、一緒になって傷つけた。』」
義母は美来ちゃんの謝罪を受け入れました「それから美来ちゃんは、時々我が家へ来るようになっていったのです。」
義母は義兄に言いました「私は戻りません、、お金も貸せません。」
「母さん、あなたたちが私を捨てたのではないの、、約束も家族も大切にしなかったあなたたちを、私が見放したの、です。」
義兄はしばらく立ち尽くしていましたが、やがて何も言えないまま、1人で帰って行きました。
その日曜日、私たちはいつものように朝の食卓を囲みました、美来ちゃんも一緒でした」
義母が作った味噌汁を飲みながら、息子が言いました「おばあちゃん、来週は俺が朝ご飯を作るよ。」
義母は嬉しそうに笑いました「楽しみにしているわ。」
年金が多いか少ないか、家事ができるかできないか、、そんなことで人の価値は決まりません「誰かを家族として大切にする人は、自分も大切にされる、、家族を損得で利用する人は、最後には家族から見放される。」
58歳になった今、私はようやくその当たり前のことを知りました「義母を迎えてから、我が家は1人増えましたけれど、不思議なことに、前よりもずっとみんなの居場所が広くなったのです。」



