「みさの料理なんて、誰が好き好んで食べるんだよ。」
新年の親族会。私は夫の実家の台所で、料理を運んでいた。今しがた夫の直が、笑いながら言った言葉が耳に残っている。
「まともな飯なんて出さないからな。」
親戚たちが笑う。義父の正さんまで、険しい顔をしている。
「みささん、嫁としてもう少ししっかりしなさい。」
私はお盆を置き、直の前へ出た。
「ねえ、直。私の料理、何回食べたことある?」
ほ、私は笑った。
「毎晩、レナさんの家で食べてるでしょう。」
その瞬間、直の笑顔が消えた。
私の名前はみさ。55歳。夫の直は58歳。結婚して22年になる。
私は昔から、押しの強い男性が苦手で、恋愛経験もほとんどなかった。30代になり、両親に進められて何度かお見合いをし、その中で出会ったのが直だった。
一流企業勤めで、穏やかで真面目。結婚条件は、たった一つだけだった。
「仕事はやめて、家を守ってほしい。」
私は、家庭を大切にしたい人なのだと思い、勤めていた会社を退職した。
夫の実家は、代々続く作道教室。義父の正さんは、幻格で、義母のかずさんは、いつも柔らかく笑う人だった。
結婚後、義両親が用意してくれたマンションで暮らし始めた。
ただ、直はほとんど家に帰らなかった。
「今は仕事が忙しい。」
「今日は取引先と食べる。」
「明日から出張だ。」
私は毎晩、2人分の夕食を作った。
夕方になると冷蔵庫を見て、栄養のバランスを考える。帰宅時間が分からない日は、温め直せる煮込み料理にした。
でも、日付が変わっても帰らない。ようやく連絡が来ても、
「今日は無理。」
それだけだった。
翌朝、手つかずの料理を、1人で片付けた。
それでも私は、自分を責めていた。
「もっと居心地のいい家にすれば、帰ってくるかもしれない。」
「料理が上手になれば、喜んでくれるかもしれない。」
料理本を買い、出汁の取り方まで勉強した。シャツにはアイロンをかけ、玄関も磨いた。
でも、直は何も見ていなかった。
それでも、生活費は入れてくれる。暴力も、一度もない。
私は自分に言い聞かせていた。
こういう夫婦もあるのだと。
ところがある年末、義父の正さんから突然電話が来た。
「みささん、今年も新年会に来ないつもりか?」
「え?親が集まるのに、何年も顔を出さないとは何事だ?」
私は混乱した。直からは毎年、「元日は親族の集まりなんてない。弟子の挨拶で忙しいから、来なくていい。」そう聞いていたからだ。
その夜、直に尋ねた。
「どうして嘘をついたの?」
「気を使っただけだよ。お前が行きたくないって言ったんじゃないか。」
「私は行きたくないなんて言ってない。」
「細かいな。」
それで話は終わった。
翌年、私は初めて新年会へ行った。ところが親戚たちの目が冷たい。
「やっと来たのか。」
「家事もしないんだって。」
「直がかわいそうだな。」
私は耳を疑った。直は親族に、私が家事をしない、料理を作らないし、親戚付き合いを嫌がる嫁。そう話していたのだ。私は否定したかった。でも直は隣で、黙って酒を飲むだけだった。
かずさんにも叱られ、私は頭を下げた。
「すみません。」
帰宅後も、疑問は消えなかった。
なぜ直は、わざわざ私を悪者にするの?
ある日、仕事帰りらしい直を偶然見かけ、少しだけ後を追った。
直は自宅と逆方向へ進み、ホテルの多い花街へ。
その時、みさ、振り返ると直が立っていた。
「俺を尾行してたのか?」
「違う。」
「私はただ、家で暇してるから、くだらないことするんだろう。」
その夜、直は言った。
「来月から、生活費は1万円な。」
「1万円?」
「高熱費は俺持ちなんだ。足りないなら働け。パートで。パート、フルタイムだろ。」
そして最後に、
「家事は、今まで通りな。」
私は呆然とした。でも、結果的に、この言葉が私を救った。
以前勤めていた会社に相談すると、幸い復職できたのだ。
朝6時に起きて家事を済ませる。昼は仕事。帰宅すれば、掃除と洗濯。
それでも直は、窓のサンを指でなぞって言った。
「ほら、誇り。」
「私も働いてるのよ。」
「俺と同じだけ稼いでから言え。」
悔しかった。でも、同時に、少しずつ目が覚めていった。
この人に認めてもらうために、私は何を頑張っているんだろう。
給料日に、自分名義の口座に振り込まれた数字を見た時、久しぶりに自分の足で立っている気がした。
だから、私はもう自分で探るのはやめ、調査会社へ依頼した。
調査のプロは違った。夫は何も言ってこない。疑ってもない。
そして、もちろん、届いた報告書は真っ黒だった。
女性の名前は、レナ。
直は私と結婚する前から、関係が続いていた。
レナのマンションから出勤する直。2人でスーパーへ行く姿。宝食店に、レストラン、ホテル。写真の中の直は、私が見たこともない顔で笑っていた。
そして私は気づいた。
直が親族へ私の悪口を言っていた理由。自分が家に帰らないのを、私のせいにするため。そしていつか、「妻に問題があるから離婚する。」そう見せるためだと。
生活費を1万円にしたのも、私に調べるお金と時間を持たせないためだったのだ。
すぐには問い詰めなかった。弁護士にも相談し、証拠を整えた。
そして迎えた、今年の新年会。
「毎晩、レナさんの家で食べてるでしょう?」
直が立ち上がった。
「何を言ってるんだ?」
「自分が悪く言われたからって、嘘をつくな。」
私はバッグから封筒を出し、正さんの前へ置いた。
「嘘じゃありません。ここに、全部あります。」
親族たちは前のめりになり、報告書を開く。
レナと手をつなぐ写真。マンションへ入る写真。2人で食材を選ぶ写真。
義母のかずさんの手が止まった。
「これは何?」
直の声は静かだった。
「違うんだ。」
「母さん、何が違うの?」
私は続けた。
「正さん、私は毎日料理していました。でも直は、ほとんど食べていません。」
「親族の集まりも、ないと聞かされていました。」
正さんの顔色が変わる。
「直、全部お前の嘘なのか?」
逃げ道を失った直は、しばらく黙った後、言った。
「レナとは、結婚前から付き合ってた。」
部屋がざわつく。
「じゃあ、なぜみささんと結婚した?」
正さんが問い詰めると、直は俯いた。
「家から結婚しろって言われてたから。レナとの結婚は反対されると思った。」
「だから、形だけ結婚すればいいって。」
私は息を飲んだ。
形だけ?
「みさなら、大人ないしな。」
直は小さな声で続けた。
「金を渡しておけば、何も言わないと思った。」
胸の奥が冷たくなった。
「そのうち離婚して、レナと一緒になるつもりだった。」
「でも、俺が悪いことにしたくなかった。」
「だから、妻は家事をしない。料理がまずい。親戚嫌い。」
「そう言い続けて、私を悪者にした。」
私は直を見た。
「私の22年って、何だったの?」
直は答えなかった。
親戚の1人が、ぽつりと言った。
「じゃあ、俺たちはみささんを、何年も責めてたのか。」
別の人も、顔を伏せた。
「直の話だけ聞いて、悪い嫁だと決めつけてた。」
私は責める気にはなれなかった。私自身も、長い間、直の言葉を信じていたからだ。
一番怖かったのは、不倫そのものではなかった。
私の知らない場所で、「みさ」という人間が、少しずつ作り替えられていたことだった。
すると、かずさんが立ち上がった。
「直、あなたは、この家の恥です。」
低い声だった。
「みささんに謝りなさい。今すぐ。」
直は頭を下げた。
「すまなかった。」
でも、私はもう何も感じなかった。
正さんも、私の前で頭を下げた。
「みささん、申し訳なかった。息子の言葉だけを信じて、あなたを責めた。」
親戚たちも、次々に謝った。
さっきまで私を見ていた冷たい目は、もうない。
私は静かに言った。
「正さん、お母さん、ありがとうございます。」
そして、直を見た。
「でも、離婚します。」
直が顔を上げた。
「待ってくれ。」
「レナとは別れる。」
私は首を振った。
「違うの。」
「レナさんがいるから離婚するんじゃない。」
少し間を置いて、私は言った。
「あなたが、私を人として扱わなかったからよ。」
その後、直と離婚。直とレナ双方から、慰謝料を受け取った。
レナも、直との立場が悪くなると、離れていったそうだ。
私は今も、復職した会社で働いている。
皮肉なものだ。
私を縛るために直が言った「働け」という一言のおかげで、私は1人で生きていける収入を取り戻した。
義父母とは、今も時々連絡を取っている。
今夜も、仕事から帰り、私は1人分の夕食を作った。
炊きたてのご飯、味噌汁、焼き魚に、小さな煮物。
22年間、私は帰ってこない夫のために、何度も1人分の料理を作ってきた。
でも今は、1人分だけ。
いただきます。
口に入れると、思わず笑ってしまった。
直は、ずっと私の料理はまずいと言いふらしていた。
でも、考えてみれば、あの人は私の料理を、ほとんど食べていない。
人の価値も、夫婦の価値も、本当は食べてもいない料理と同じ。
知らないくせに、勝手に決めつけてはいけない。
1人で囲む今の食卓は、あの頃よりずっと温かく感じている。



