銀座の高級寿司店。予約席のプレートが置かれたカウンターには、息子と嫁が座り、私は一人、奥のテーブル席に案内された。今日は息子の誕生日を祝うはずだった。手作りの栗きんとんと新しいネクタイを握りしめ、私は震える手で小さな茶碗蒸しを口に運んだ。
嫁の利枝子は私を見向きもせず、こう言った。「お母さん、カウンターは予約席なの。あちらのテーブルでお待ちになって。」
息子の修二は何も言わず、利枝子に従った。38年前、夫を亡くし、この子だけは立派に育てると誓った日のことを思い出していた。朝は4時に起きて弁当を作り、夜は内職をしながら宿題を見守った。大学の学費も生活費も、すべて私が工面した。結婚の援助に、マイホームの頭金800万円も惜しみなく出した。孫のために週4日、往復2時間かけて通った。
それなのに今は、月に一度の会食さえ「面倒」と言われる。先月も「忙しい」と断られ、翌日には家族でディズニーランドへ行った写真がSNSに上がっていた。
「お母さん、お料理覚めますよ。」
利枝子の声で我に返ると、目の前に小さな茶碗蒸しが一つ。カウンターの二人は大トロやウニを次々と注文していた。
「お母さん、一人で大丈夫? あら、茶碗蒸しだけ? 遠慮しないで好きなもの頼んでくださいね。でも、お母さんには回転寿司の方が合ってるかもしれませんけど。」
隣の若いカップルがこちらをチラリと見た。恥ずかしさで顔が熱くなった。
しばらくすると、利枝子はスマートフォンを取り出して検索を始めた。
「ねえ、あなた。この老人ホーム、なかなか良さそうよ。月額15万円で個室もあるし。」
「りえこ、今その話は…」
「早めに準備しないと、いい施設は埋まっちゃうわよ。お母さんも一人暮らしは大変でしょう。」
私の存在を無視して、まるで物件でも選ぶかのように老人ホームの話を続ける。そして突然、私に向き直った。
「それにね、お母さん。正直に言いますけど、毎週のように家に来られるのもちょっと負担なんです。私たちにも生活があるし、プライバシーもありますから。」
「利枝子さん、私は孫の顔を見に…」
「孫って言っても、もう小学生ですよ。お母さんがいなくても全然平気です。むしろ、古い考えを押し付けられるのは教育に良くないんです。」
修二は黙って寿司を食べ続けている。やがて、彼も口を開いた。
「母さんも年だし、僕たちの生活もあるんだ。正直、母さんの面倒を見るのも限界があるんだよ。りえこの実家はきちんと施設に入って、お互い気を使わない距離を保ってる。それが現代的な家族のあり方だと思うんだ。」
「現代的な家族のあり方」。その言葉が鋭い刃物のように私の心を切り裂いた。
「お母さん、誤解しないでくださいね。私たちはお母さんのことを考えて言ってるんです。一人暮らしで転んだら大変でしょう。認知症の兆候が出てからでは遅いんですよ。」
「認知症なんて…」
「いえいえ、最近もの忘れも多いじゃないですか。この前も約束の時間、間違えてましたよね。」
それは利枝子が急に時間を変更したからだった。でも、言い返す気力もなくなっていた。
会計の時、利枝子は店員に「お会計別々でお願いします」と言った。自分の分は自分で払えということらしい。震える手で財布を取り出した。茶碗蒸し一つで2000円。年金生活の私には決して安くない金額だった。
店を出ると、12月の冷たい風が頬を撫でた。手には渡せなかった息子への誕生日プレゼントが重く感じられる。
翌朝、息子から電話があった。昨夜のことを謝るのかと思ったが、その期待は見事に裏切られた。
「母さん、昨日の話の続きなんだけど。老人ホームの件、真剣に考えて欲しいんだ。」
「修、私はまだ自分のことは自分でできる。施設に入る必要なんて…」
「母さん、現実を見てよ。もう68歳でしょう。いつまでも一人暮らしは危険だよ。」
利枝子が電話を代わった。
「お母さん、率直に申し上げますね。修二の会社も業績が厳しくて、これ以上の援助は期待しないでください。それに、お母さんの遺産ってもう何も残ってないでしょう。だって、修二の教育費やマイホームの頭金で全部使い果たしたんでしょ。正直、これから私たちに頼られても困るんです。うちの親とは格が違うのよ。父は大手商社の役員で退職金だけで5000万円。母も資産家の娘で、相続した不動産がいくつもあるんです。それに比べてお母さんはただの専業主婦で財産もない。失礼ですけど、私たちの足を引っ張るだけの存在になってません。」
「利枝子さん、私は修のために…」
「ええ、それは過去の話でしょう。今は違います。はっきり言いますけど、お母さん、もう用済みなんです。」
「用済み」。その言葉が私の胸を貫いた。
「修二も同じ意見よね。ねえ、あなた。」
「母さん…りえこの言い方はきついけど、でも正論だと思う。僕たちには僕たちの人生がある。いつまでも母さんに縛られるわけにはいかないんだ。」
そして、利枝子の声はさらに冷たくなった。
「それにね、お母さん。私、妊娠したんです。二人目の子供ができました。だからこれからは自分の家族のことで手いっぱいなの。お母さんの面倒を見る余裕なんて全くありません。…そして、はっきり言います。お母さんにはもう孫に合わせるつもりもありません。古い価値観で子供に接して欲しくないんです。それに正直言って、貧乏臭い服で学校行事に来られるのも恥ずかしいんです。」
「貧乏臭い」。全身から力が抜けた。
「とにかく、来月中には施設を決めてください。私たちが手配してもいいですけど。…あ、そうそう。昨日渡そうとしてたプレゼントとか、もういりませんから捨てておいてください。」
電話は一方的に切られた。
38年間、すべてを捧げて育てた息子にここまで言われる日が来るとは思わなかった。でも、この瞬間、私の中で何かが変わった。
「もう我慢する必要はないのです。」
私は寝室の奥にある金庫へ向かった。金庫の中には、分厚い書類の束が眠っている。株券、不動産の権利書、複数の会社の登記簿。一番上にあるのは「KMホールディングス」という会社の書類だった。
実は、私には誰も知らないもう一つの顔がある。夫が亡くなった時、生命保険金と退職金で3000万円が手元に残った。普通なら生活費に当てるところだが、私は違った。夫の言葉を思い出したのだ。
「さなえ、お金は寝かせておいても増えない。賢く運用すれば必ず大きな実を結ぶんだ。」
システムエンジニアだった夫は、将来のIT産業の発展を予測していた。私はその意思を継ぎ、投資を始めた。朝4時に起きて家事をこなし、図書館で経済新聞を読み、投資セミナーにも通った。1990年代後半、まだ誰も注目していなかったIT企業の株を買い始めた。配当や売却益はすぐに再投資に回した。周りからは「危険だ」と言われたが、私には確信があった。
そうして20年が経った頃、私の資産は想像を超える規模に膨らんでいた。IT株の高騰、不動産投資の成功、為替取引での利益。気がつけば資産は300億円を超えていた。
KMホールディングスは私が設立した投資会社だ。KMは「健三郎メモリアル」の略で、夫との思い出を込めた名前だった。表向きは投資顧問会社だが、実際は様々な企業の大株主として影響力を持っている。その中には、修二が務める会社も、利枝子の父親が役員を務めていた商社も含まれていた。
なぜ今まで黙っていたのか。お金で繋がる関係を望まなかったからだ。純粋に母親として接して欲しかった。でも、もうその必要はないようだ。
私は投資会社の代表である山崎に電話をかけた。
「山崎さん、予定を早めましょう。例の買収計画、明日朝一番で発表してください。それから、S商事の株主総会での人事も予定通り進めてください。」
「承知いたしました。…しかし会長、何か心境の変化でも?」
「38年間演じてきた役から、そろそろ降りる時が来たようです。」
翌朝、修二の会社では緊急役員会議が招集された。
「KMホールディングスが我が社の買収を発表だって。」
社長の動揺した声が会議室に響いた。KMホールディングスはすでに我が社の株式の51%を取得したと発表していた。
その時、会議室のドアが開き、見知らぬ男性が入ってきた。
「初めまして。KMホールディングス代表取締役の山崎と申します。本日は弊社会長からのメッセージをお伝えに参りました。」
社長に封筒が手渡された。
「会長の名前は相原さなえ様とおっしゃいます。」
修二が立ち上がった。
「それ、僕の母の名前です…」
「会長から伝言を預かっております。『用済みの老人にも、できることがあるようです』と。」
会議室が静まり返った。修二は震える手で携帯電話を取り出し、私に電話をかけてきた。
「母さん、これは一体…」
「おはよう、修二。驚いたでしょうね。実は、私は38年前から投資を始めて、今ではKMホールディングスという会社を経営しているの。あなたの会社も、ずっと前から私が大株主だったのよ。」
「そんな…嘘だ…」
「嘘ではありません。今日の午後、株主総会で重要な人事を提出する予定です。」
一方、利枝子の実家では別の騒動が起きていた。
「なんだと? KMホールディングスがうちの会社の役員総入れ替えを要求だと?」
利枝子の父親は、届いた書類を見て激怒していた。20%の株主として臨時株主総会の開催を要求されたのだ。
その時、利枝子の携帯が鳴った。修二からだった。
「りえこ、大変だ。母さんが僕の会社を買収した。」
「はあ? 何を言ってるの? 母さんはただの専業主婦じゃなかったの?」
「違うんだ。資産300億円の投資家だったんだ。」
利枝子は電話を取り落としそうになった。
「300億…」
「それだけじゃない。君のお父さんの会社の大株主でもあるらしい。」
その頃、私は自宅で優雅にお茶を飲んでいた。午後二時、予定通りS商事の臨時株主総会が開かれ、利枝子の父親を含む旧経営陣は追放された。
夕方、修二と利枝子が慌てて私の家にやってきた。
「お母さん、これは何の冗談だ?」
「冗談ではありませんよ。すべて本当のことです。」
「なぜ黙ってたんだ?」
「黙っていた? 違います。あなたたちが見ようとしなかっただけです。『用済みの老人』『足を引っ張る存在』『貧乏臭い』と決めつけて、私の本当の姿を見ようともしなかった。」
利枝子が土下座した。
「お母様、申し訳ございませんでした。昨日の電話は本心ではないんです。」
「あら、『用済みの老人』に頭を下げる必要はないでしょう。『格が違う』んですから。」
「お母様、お願いです。父の会社を元に戻してください。」
「残念ですが、それはできません。経営陣の刷新は会社の発展のために必要な措置です。無能な役員を置いておく余裕はありませんから。」
「母さん、僕の会社はどうなるんだ?」
「それはあなた次第です。親会社の方針に従順な社員なら残れるでしょう。でも、今までのような態度では…」
修二は膝から崩れ落ちた。
「母さん、お願いだ。謝るから許してくれ。」
「謝る? 何を謝るのです? 昨日の…ああ、施設に送るという話でしたね。確かに検討してみます。ただし、私が入るのは最高級の施設です。月額100万円はくだらないでしょうね。」
それから1週間後、修二は会社を解雇された。利枝子の父親も商社から完全に追放され、長年の不正経理が発覚し、損害賠償を請求される事態になった。
利枝子は毎日のように私の家を訪れ、玄関先で土下座を続けた。
「お母様、助けてください。住宅ローンも払えません。お腹の子供のためにも、どうか。」
「利枝子さん、覚えていますか? 『用済み』と言ったのはあなたです。私はもう家族ではないのでしょう。それに『格が違う』ともおっしゃいましたね。確かにその通りです。私は投資で成功した資産家。あなたの実家は不正で財産を失った犯罪者の家族。格が違いすぎて、お付き合いできません。」
修二も頭を下げた。
「母さん、僕が間違っていました。本当に申し訳ない。」
「修、あなたは私を『縛り』だと言いました。『重荷』だと。なら、もう自由になったでしょう。私という重荷から解放されて、清々しているのではありませんか?」
「違う! 母さんは重荷なんかじゃない!」
「今更そんなことを言われても信じられません。あなたのためにすべてを捧げてきた母親を、一瞬で切り捨てた人の言葉など。」
私は玄関を閉めようとしたが、修二が必死に止めた。
「母さん、せめて孫には会ってやってくれ。あの子は何も悪くない。」
「孫? ああ、私の『古い価値観』が教育に悪いから、合わせたくないと言われたあの子のことですか?」
「母さん…」
「でも、一つだけチャンスを上げましょう。一年間、自分たちの力だけで生きてみなさい。私からの援助は一切なし。仕事も自分で見つけ、生活も自分で立て直す。その上で本当に心を入れ替えたと判断できたら、その時は考えてもいいでしょう。それまでは、一切連絡を取らないでください。これが最後のチャンスです。」
修二と利枝子は泣きながら頷いた。
二人が去った後、私は新しい生活を始めた。長年支援したいと思っていた児童養護施設に多額の寄付をし、親に恵まれない子供たちのための教育基金を設立した。シニア向けの投資セミナーも開催し、老後に不安を抱える同世代の人々に知識と経験を伝えた。
私自身も、高級老人ホームではなく、セキュリティのしっかりした普通の賃貸マンションに引っ越した。財産を隠していた時とは違い、ありのままの自分でいられることが、こんなにも心地よいとは思わなかった。
半年が経った頃、修二から手紙が届いた。約束を破っての連絡だったが、読んでみることにした。
「母さん、約束を破ってごめんなさい。でも、どうしても伝えたくて。今、僕は小さな会社で営業として働いています。給料は前の半分以下ですが、真面目に働いています。りえこもパートを始めました。初めて本当の意味で自立することの大切さを知りました。父さんを亡くしてから、どれだけ苦労して僕を育ててくれたか、今になってようやくわかりました。本当にありがとう。そして、ごめんなさい。」
私はその手紙を大切にしまった。まだ許すつもりはないが、二人が少しずつ変わっているのは感じられた。
現在、私は充実した毎日を送っている。投資会社の経営は山崎に任せ、私は社会貢献活動に力を入れている。先日、あの銀座の寿司店の前を通りかかった。あの屈辱的な夜から一年。今の私は、あの時とは全く違う人生を歩んでいる。
結局、本当の財産とはお金ではないのかもしれない。人は見た目や立場で判断してはいけない。親への感謝を忘れてはいけない。そして、真の価値は外見からはわからない。これらの教訓を、身を持って息子夫婦に教えることができた。
私は、完全な勝利者だ。理不尽な扱いに屈することなく、自分の価値を証明し、新しい人生を手に入れた。これこそが本当の意味での幸せなのかもしれない。
もし、あなたが理不尽な扱いを受けているなら、諦める必要はない。必ず道は開ける。自分を信じて、強く生きてください。正義は必ず勝利し、努力は必ず報われるのですから。



