私は島田裕子、58歳。パートの介護士として働く普通の主婦だ。夫の恵二は先日定年退職したばかりで、社会人の息子と大学生の娘はそれぞれ独立している。これからは夫婦二人で穏やかな時間を過ごせると思っていた。だが、それは儚い夢に過ぎなかった。
結婚30年目、突然夫から離婚を言い渡されたのだ。「俺は23歳の可愛い彼女と入籍するから、ババアは離婚届け書いて出て行ってくれ」と。ショックで言葉を失う私を尻目に、夫は得意げに浮気相手との出会いを語り始めた。定年退職後、趣味の骨董品収集にのめり込んだ夫は、やがて派手な身なりで遊び歩くようになり、とある居酒屋で出会った23歳の女性と交際していたのだ。
「一つだけ欲しいものをくれてやるから、さっさと荷物まとめろ」という夫の言葉に、私は絶望から一気に前向きな気持ちになった。「じゃあ、あの壺をもらえるなら黙って離婚に応じるわ」。私は和室の床の間に飾ってある壺を指差した。それは夫が退職金と借金を合わせて5000万円で買ったものだ。夫は渋々了承し、私は壺の返却を要求しないという念書を書いてもらい、その様子を録音録画もした。
離婚届を書き、荷物をまとめていると、浮気相手の愛理という女性が家にやってきた。「おばあさん、まだいたんだ。今日からここは私の家になるの。さっさと出て行ってちょうだい」。得意満面の彼女に、私は丁寧に尋ねた。「あなたがこれから恵二さんの若奥様になるってわけね。お名前は?」。愛理は聞いてもいないのに、夫が52歳の一流企業の部長で、ローン完済の庭付き一軒家に高価な骨董品が並んでいるから結婚を決めたと正直に告白した。もちろん、この会話も全て録音している。
「私はまだおばあさんじゃないわよ。だってまだ58歳だもの。この人の方が65歳のご老人よ」。夫の実年齢を明かすと、愛理は絶句し、口をポカンと開けたまま立ち尽くした。私はその隙に荷物を持って家を出た。背後からは「52歳で部長しているって聞いたから選んだのに、65歳のジジイだなんて聞いてない。騙された!」という愛理の絶叫が聞こえてくる。
私は娘のアパートに転がり込んだ。事情を聞いた娘は大激怒。「あのクソ父、偽物の壺にお金を注ぎ込むだけならまだしも、私と年の近い女性と浮気してたなんて最低」。娘は実家にいた頃から夫と折り合いが悪く、私と一緒に暮らせることを喜んでくれた。
1週間後、元夫から電話がかかってきた。「なあ、これまでのことは全て謝るから、再婚しないか。お前が持っていった壺も数百円程度の価値だろ。これからは俺がバイトで稼ぐから」。私は元夫の言葉を遮って答えた。「いえ、あの壺には1億の価値があったの。本当にいいものをもらったわ。ありがとう」。元夫は絶句し、その後はマシンガンのように話し始めた。
どうやら元夫は、骨董品を全て売ったら50億前後になると見込んでいたらしい。だが実際に査定に出したところ、数十円から数百円程度の価値しかなかった。唯一高値がついたのは300円の壺で、元夫はそれを200万円で買っていた。怒った元夫が店に乗り込むと、店はすでに夜逃げした後だった。浮気相手の愛理も、ブランド品を買い与えなければと激怒し、元夫の顔を引っかいて別れたらしい。家族にも愛人にも見捨てられ、多額の借金を背負った元夫が今どこでどうしているか、私たちが知る由もない。
実は私は以前、息子の正太にその壺の鑑定をしてもらっていた。息子は骨董品鑑定士として働いており、元夫が退職金で買った壺だけが唯一1億円の価値がある本物だと判明していたのだ。私は元夫の電話番号を着信拒否し、娘と二人で新居に引っ越した。息子も娘も同様に着信拒否した。
私は娘との二人暮らしを始め、念願だった介護福祉士の資格を取得して正社員として働いている。元夫からもらった1億円の壺は、いざという時のために大事に保管してある。今日も私は真面目に、熱心に介護の仕事に取り組んでいる。



