「もう来なくていい。」
店長の黒崎達彦がその言葉を吐き捨てた瞬間、フロアの空気が凍りついた。目の前で立ち尽くす新人行員の白石しおりは、唇を震わせながらも何も言い返すことができなかった。二年間の努力の末、ようやく念願の銀行に入った一年目の女性が、たった一枚の契約解除書で職場を追われようとしている。
「聞こえなかったのか?今日付けで契約解除だ。」
「店長、理由を…」
「理由など聞かない。聞く価値もない。お前みたいな運のないやつはな、入った時から分かってたんだよ。タイミングの悪いやつはいつだってそうだ。何年就活しても決まらなかった理由が、今ようやく分かったよ。」
黒崎は懐から契約解除の書面を取り出し、近くの机に叩きつけた。
「サインしろ。」
「…わかりました。」
だがこの時、黒崎は完全に見落としていた。彼女が助けた老人の正体を。
「その話、ちょっと待ってもらおうか。」
――渋いスーツに身を包んだその老人こそが、この銀行の運命を変える存在だった。
あの土砂降りの日、全ての物語が始まった。
朝七時、美藤総一郎は一人分の朝食を整えていた。妻のみさ子がいた頃と同じ手順を、十五年経った今も変わらずに続けている。朝食を済ませると、総一郎は仏壇の前に座り、静かに手を合わせた。
「みさ子よ。お前が逝ってからもう十五年か。」
そのつぶやきと共に、あの夜の病室の景色が胸の奥に静かに蘇ってきた。痩せ細った妻の手を両手で包み、総一郎は祈るように呼びかけたのだった。
「みさ子、わしを一人にしないでくれ。行かないでくれ。」
妻はかすかに目を開け、震える指で総一郎の頬にそっと触れ、ささやくように告げた。
「あなた、泣かないで。明日はきっと今日よりいい日になるわ。」
「お前がいない明日なんか、いい日になるわけないだろう。」
「大丈夫、大丈夫だから。」
その夜、みさ子は静かに息を引き取った。総一郎は変わり果てた妻の遺体に取りすがり、声をあげて泣き続けた。
「嘘だろ、みさ子…」
あの時は、妻が残してくれた言葉の意味など、何ひとつ受け入れられなかった。それでもどれだけ泣き喚いても、朝は必ずやってくる。あの日から十五年、総一郎はこの一言だけを支えにここまで歩いてきたのだった。
「みさ子、行ってくるよ。今日もいい一日にしてくるからな。」
仏壇に深く頭を下げ、総一郎はゆっくりと立ち上がった。色あせたコーデュロイのカーディガンを羽織り、古びたハンチング帽をかぶったその姿は、どこから見てもただの年金暮らしの老人だった。
買い物カートを引いて表に出ると、向かいの家から買い物袋を下げた中年の主婦が出てきた。
「あら、そうさん、おはようございます。今日もまた雨ですね。」
「ああ、おはようさん。お互い足元には気をつけないとな。」
この界隈で総一郎は、穏やかで気さくな近所の優しい年寄りとして知られていた。その人柄から、近所の子供たちにも「そうじいちゃん」と呼ばれて慕われている。
家から歩いてすぐのところに、黒塗りの車が止まっていた。傘を差した秘書の長谷川が小走りで駆け寄ってくる。
「おはようございます。藤堂様。」
「ああ、すみません。長谷川さん。外ではその呼び方は禁止だといつも言ってるじゃないか。」
「申し訳ありません。つい…」
総一郎は苦笑いを浮かべながら、後部座席に乗り込んだ。
「今日はまず神田の小道具屋さんへ。お昼は蕎麦屋さん。夕方には銀座で早めの一杯です。」
「うん。いいな。今日はお前さんの誕生日をちゃんと祝う日だ。」
「いえ、藤堂様。そんな私の誕生日のために、わざわざ予定まで調整していただいて、本当に恐縮です…」
「長谷川さん。お前さんが十五年も我が家の運転手を務めてくれて、わしはいつも感謝している。今日くらい、好きなようにやらせてくれ。」
車は雨の都内を静かに滑っていく。総一郎は窓の外を見つめながら、今日という日が実は特別な日であることを心の中で確認していた。
――十五年前のあの日、みさ子が逝く前に言った言葉。明日はきっと今日よりいい日になるわ。
その言葉が、今日こそ本当になるかもしれない。なぜなら今日は、あの日からちょうど十五年目の、みさ子の命日だからだ。
午後三時、長谷川が運転する車は、雨の神田を抜けて日本橋へと向かっていた。総一郎は窓の外を眺めながら、ふとひらめいた。
「長谷川さん、すまないが、この近くの銀行に寄ってくれないか。」
「銀行ですか? どうされたんですか?」
「いや、ちょっとな。みさ子が生前、この辺りの銀行に用があってな。散歩がてら、寄ってみたくなったんだ。」
長谷川は何も言わずに、車を中央銀行日本橋支店へと向けた。
雨足が強くなる中、車は銀行の前に停まった。総一郎は長谷川に車で待っているよう伝え、一人で傘を差して銀行の中へ入っていった。
銀行の中は平日の午後ということもあり、ほどほどの混雑だった。総一郎は古びたハンチング帽をかぶったまま、順番を待つために椅子に座った。
その時だった。
入口のガラスドアが勢いよく開き、一人の老人がよろめきながら入ってきた。見るからに体調が悪そうで、顔色は真っ青だった。老人は数歩歩いたところで、その場に崩れ落ちた。
「おじいさん!?」
周囲の人間が驚いて立ち上がる中、誰もすぐには動けなかった。しかし、一番近くにいた総一郎は、とっさに立ち上がって老人のそばへ駆け寄った。
「大丈夫ですか! しっかりしてください!」
総一郎は老人を抱き起こし、声をかけた。老人はかすかに目を開けたが、言葉を発する力もないようだった。
「誰か! 救急車を呼んでください!」
総一郎の声に、ようやく周囲が動き始めた。しかし、銀行の行員たちはカウンターの中からこちらを見ているだけで、なかなか出てこようとしなかった。
「おい、誰かいるだろう! こっちに人が倒れてるんだぞ!」
総一郎が叫ぶと、ようやく一人の若い女性行員がカウンターから出てきた。白石しおりだった。
「わ、私、救急車を呼びます!」
しおりは携帯電話を取り出し、震える指で119番通報をした。通報を終えると、彼女は倒れた老人のそばに駆け寄り、総一郎と一緒に介抱した。
「おじいさん、大丈夫ですか? しっかりしてください。」
しおりは老人の手を握り、必死に声をかけた。やがて救急車が到着し、老人は担架に乗せられて運ばれていった。
「助かりました。あなた、本当にありがとうございました。」
救急隊員にそう告げられ、総一郎はほっと息をついた。しかし、その後の銀行の対応に、総一郎は衝撃を受けることになる。
しおりがカウンターに戻ると、店長の黒崎が待ち構えていた。
「白石さん。ちょっと話がある。」
黒崎はしおりを奥の応接室へ連れて行った。
「今日の件、どう思ってる?」
「店長、あの老人が倒れていたんです。放っておけませんでした。」
「それは分かる。だがね、お前はカウンターを離れただろう。その間、他の客の対応が遅れたんだ。クレームが来ている。」
「すみません…ですが、人命がかかっていたんです。」
「人命? あんな老人はどうせ長くないんだ。お前がするべきことは、あんな老人の世話じゃなく、自分の仕事をしっかりやることだ。」
黒崎の言葉に、しおりは言葉を失った。彼女は何も言い返せず、ただうつむくしかなかった。
「いいか、白石。銀行はな、情けで動いてるんじゃない。数字で動いてるんだ。お前みたいな甘い考えのやつには、この世界は向いてないよ。」
黒崎はそう言い放つと、書類の束を机に叩きつけて立ち去った。
その日の夜、しおりはアパートで一人、今日の出来事を思い返していた。彼女は二年間、就職活動に失敗し続けていた。大学を卒業してからずっと、アルバイトをしながら試験勉強を続けてきた。そしてようやく掴んだこの銀行の仕事。それが今、危機に瀕している。
「私は…間違ってなかったはずだ。」
しおりはそうつぶやいたが、その声は誰に届くでもなく、静かな部屋の中に消えていった。
総一郎はその夜、自宅の仏壇の前に座り、みさ子に今日の出来事を語りかけていた。
「みさ子よ。今日な、倒れた老人を助けた若い娘がおったんだ。とても良い娘だったよ。しかしな、何やら店長とやらにこっぴどく叱られておってな。わしにはその光景が、どうにも胸に刺さってならなかったんだ。」
総一郎は深く息を吐いた。
「あの娘は、きっと正しいことをしたんだろう。だが世の中は、必ずしも正しいことが報われるわけではない。それを、わしは嫌というほど知っている。」
十五年前、妻を失った日。総一郎は当時、大きな会社の役員だった。しかし妻の死をきっかけに、すべての仕事を辞めてしまった。それからというもの、彼は静かに暮らすことを選んだ。
「しかしな、みさ子。もしあの娘が明日、あの銀行で苦しんでいるのなら。わしは何かしてやれるかもしれない。」
総一郎はそう言うと、ゆっくりと立ち上がった。そして電話の前へ歩み寄り、一人の男に連絡を取った。
「もしもし。長谷川さんか。すまないが、明日の予定をすべてキャンセルしてくれ。」
翌朝。総一郎はいつもより早く起き、いつもより丁寧に服を整えた。そして、長谷川の運転する車で中央銀行日本橋支店へと向かった。
車中、総一郎は窓の外を見つめながら、静かに言った。
「長谷川さん。今日はわしの本当の姿を見せる日かもしれない。」
「そうさん。まさか…」
「ああ。十五年ぶりに、藤堂総一郎として動く日が来たようだ。」
車が銀行の前に到着すると、総一郎は深く息を吸ってドアを開けた。
中に入ると、昨日と同じように、しおりがカウンターで仕事をしていた。しかし、その表情はどこか疲れているように見えた。総一郎はしおりの前に歩み寄り、声をかけた。
「お嬢さん。昨日はありがとう。おかげで助かったよ。」
しおりは顔を上げ、総一郎を見た。一瞬、誰だか分からなかったようだが、すぐに昨日の老人だと気づいた。
「あっ! 昨日の…おじいちゃん! もう大丈夫なんですか?」
「ああ、おかげさまでな。ただのめまいだったらしい。いやぁ、本当に助かったよ。あなたのおかげで命が延びた。」
総一郎がそう言って笑顔を見せると、しおりも安心したように笑った。
「よかった…本当によかったです。」
その時だった。
「おい、何をやってるんだ。」
後ろから店長の黒崎が現れた。彼は総一郎を見ると、眉をひそめた。
「おい、じいさん。用がなければさっさと帰ってくれ。ここは長居をする場所じゃない。」
「店長! この方は昨日倒れた方で…」
「だからどうした。関連のない客は早く帰ってもらうのが、この店の方針だ。」
黒崎の言葉に、総一郎は静かに笑った。
「ほう。この銀行は、客を選んで対応しているのか。それはなかなか面白い方針だな。」
「はっ? 何言ってんだ、じいさん。いても立ってもいられないなら、係の者に手続きをしてもらえ。」
「いや、用事はもう済んだ。ただ、昨日の礼を言いに来ただけだ。」
総一郎はしおりに向き直り、深々と頭を下げた。
「本当にありがとう。あなたのような人がいてくれて、わしは安心したよ。」
しおりは照れくさそうに、小さく頷いた。
「いいえ…当然のことをしたまでです。」
「当然のことを、当然のようにできる人。それはなかなかできることじゃないんだよ。」
総一郎はそう言って微笑むと、振り返らずに銀行を出ていった。
黒崎はその後ろ姿を見送り、鼻で笑った。
「ったく。昨日の騒動の原因が、あのじいさんだったのか。白石、お前のせいで昨日は迷惑したんだぞ。この埋め合わせは、しっかりしてもらうからな。」
しおりは何も言えず、ただうつむいた。
その日の夕方、中央銀行の本店から一本の電話が入った。
「明日の午前十時、支店長以下、全員が会議室に集合するように。そうさんが直々にお見えになる。」
中央銀行は、実は美藤総一郎が創業者として立ち上げた銀行だった。彼は十五年前に妻を失った後、すべての役職を退き、表舞台から姿を消していた。だが、その手に握る株式は今もなお、銀行の経営を左右するほどの力を持っていた。
「そうさんが…? 藤堂総一郎さんが?」
支店長の声音は震えていた。黒崎はその話を聞いた時、背筋が凍る思いがした。しかし、それを悟られまいと、必死に平静を装った。
翌朝、会議室には支店長を含む全職員が集められていた。黒崎もその中にいた。しおりも後方で小さくなって立っていた。
午前十時、会議室のドアが開き、総一郎が入ってきた。彼は昨日までとは違い、紺色の上質なスーツに身を包み、風格ある姿だった。その姿を見て、黒崎の顔色が変わった。
「おはようございます。私が藤堂総一郎です。中央銀行の創業者であり、現在も筆頭株主を務めさせていただいている者です。」
その言葉に、会議室全体が凍りついた。あの老人が、まさか…。
「私がこの銀行を設立したのは、縁のあった人々を支えるためでした。しかし、どうやら私の理念は、いつの間にか失われてしまっていたようです。」
総一郎は静かに、しかし力強く語り続けた。
「私は昨日、ある行員の素晴らしい行動を目の当たりにしました。倒れた老人を助けるために、自分の仕事を後回しにして、懸命に動いた若い女性がいました。しかし、その行動に報いたのは、叱責と心ない言葉でした。」
そう言って、総一郎はしおりを見た。しおりは突然の出来事に、ただただ驚き、固まっていた。
「白石しおりさん。昨日は本当にありがとう。あなたの行動は、この銀行の理念に最もかなったものでした。」
総一郎はそう言って、深々と頭を下げた。周囲からは驚きの声が上がった。
「そして…黒崎店長。」
黒崎は総一郎の名前を呼ばれた瞬間、体を硬直させた。
「あなたの昨日の対応、そして日頃の言動について、私は大きな疑問を抱いています。この銀行にふさわしい人材とは、数字を追うことではなく、人を大切にできる人だと思います。」
総一郎は懐から一通の書類を取り出した。
「これは、あなたの店長職の更迭を求める書類です。本社の承認も済んでいます。今日をもって、あなたには退職していただきます。」
黒崎は顔色を真っ青にして、その場に立ち尽くした。
「な、何を言ってるんだ…! 私はこの銀行のために働いてきたんだぞ!」
「働いてきた? あなたは、部下を脅し、弱い者を踏みつけ、数字のために人を犠牲にしてきた。それは働くとはいいません。ただの暴虐です。」
総一郎の言葉は、会議室全体に重く響いた。
「白石しおりさん。あなたには、今後もこの銀行で働き続けていただきたい。そして、いつかこの銀行の支店長として、あなたの理想を実現してほしい。」
しおりは涙を浮かべながら、深く頭を下げた。
「ありがとうございます…! 必ず、その期待に応えます!」
その日のうちに、黒崎は店長の座を追われた。そして、しおりは新入社員ながら、特別に昇進の推薦を受けた。
総一郎は銀行を出ると、空を見上げた。雨は上がり、青空が広がっていた。
「みさ子よ。今日は、本当にいい日だったよ。」
そう言って、総一郎は静かに笑った。



