「いや、医者の弟が中卒とはね。正直なところ、一族の恥さらしですよ。」 披露宴のスピーチで、新婦の父が私を笑い者にした。100人の視線が、最前列の私に突き刺さる。私はただ黙って耐えていた。兄の結婚式を壊したくなかったから。でも、その時、兄が立ち上がった。「父さん、弟の正体にまだ気づかないんですか?」…

「いや、医者の弟が中卒とはね。正直なところ、一族の恥さらしですよ。」 披露宴のスピーチで、新婦の父が私を笑い者にした。100人の視線が、最前列の私に突き刺さる。私はただ黙って耐えていた。兄の結婚式を壊したくなかったから。でも、その時、兄が立ち上がった。「父さん、弟の正体にまだ気づかないんですか?」...

「いや、医者の弟が中卒とはね。正直なところ、一族の恥さらしですよ。」

シャンデリアの輝く披露宴会場に、新婦の父の笑い声が響き渡った。視聴覚の女性が呆然と、マスクを握ったまま立ち尽くしていた。

「いやいや、隠すことでもないでしょう。皆さんもう見てるんだから。ほら、皆さんご覧なさい。あそこの一番後ろの席のスーツの…」

100人の視線の先で、その男は静かに前を向いていた。隣では新郎の母、富江が唇を噛み、声にならない声で息子の名を繰り返していた。

「待ってください。」

その時、最前列の椅子が音を立てた。

「お父さん、弟の正体にまだ気づかないんですか?あなたの病院の手術室を10年間支えてきたのが誰なのか、本当にご存知ないんですか?」

「な、何を言ってるんだ、君は?」

だがその時、最前列の男が穏やかに立ち上がった。

「桐生さん、オペでお使いの鉗子の絵に、小さな刻印があるのをご覧になったことはありますか?」

「ご印?」

「では私がお答えしましょう。」

立ち上がったのは、来賓席の最前列に座っていた老紳士だった。

「あちらに立っておられるのは、世界の心臓外科を支える『鶴巻』の創業者。私は15年間、彼の鉗子で患者の命を救ってきました。」

「そ、そんなバカな。う、嘘だろ。町工場のおっさんだろ。」

笑っていた男たちは凍りつき、涙をこらえていた母は、やがて別の涙を流すことになる。これは、学歴の代わりに手の色一つで生きてきた男が、たった一日で全てをひっくり返す物語だ。

時は、結婚式の朝へ遡る。

その日の朝、東京の下町。商店街の外れに、古びたトタン屋根の小さな町工場があった。錆の浮いた看板には「瀬戸製作所」の文字がかすかに読み取れる。

二階建ての建物である。その二階では、瀬戸鉄平が慣れないネクタイと格闘していた。

「えい、ままならねえな。先の方がよっぽど素直だぜ。」

「鉄平、支度はできたのかい?着付けは9時だよ。」

「今行くよ。」

「たく、45にもなって、体の一つでこのざまだ。」

両販店の一丁欄に袖を通し、鉄平は開花下の作業場へ降りた。電源の落ちた旋盤に、焼けた指が軽く撫でていった。

「おじ、今日、兄が結婚するぞ。四の花むなんて遅すぎて笑っちまうけどな。」

壁の額の中では、若き日の父が旋盤の前で腕を組み、白い歯を見せて笑っていた。

「あんたの息子は二人とも、まあなんとかやってるよ。兄貴は今日、白いタキシードだとよ。似合わねえよな。あ、親父。」

15で取引先の工場に住み込みの奉公に出て、10年油にまみれて腕を磨いた。潰れた親の看板を自分の腕で買い戻したのは28の年だった。

「あんたの看板、ちゃんと守ってるぜ。安心しな。」

写真の父は答えず、ただ懐かしい顔で笑っていた。

「あんたの口癖。俺は一日も忘れたことがねえぜ。」

耳の奥であの声が蘇ってきた。

「いいか、鉄平。手に職は履歴書のいらねえ学歴だ。手を抜くな。指先に嘘をつくな。」

15で工場が潰れて、親父が倒れて借金のゴタゴタで、親戚はみんな離れていった。あれから30年か。早いもんだ。

作業台の棚に並ぶ、銀色に鈍く光る作品たちに、鉄平はそっと声をかけた。

「お前らも留守番を頼むぞ。」

この小さな銀色が、どこで誰の役に立っているのか。知る人間はこの町内には一人もいなかった。

「おら、冷めないうちにお食べ。今日は長丁場なんだから。」

「おお。お、今日の味噌汁はいい出汁が出てるな。」

「あんたのスーツ姿なんて、何年ぶりに見るかしらね。お父さんが生きてたら、どんな顔したかね。」

「笑うだろうよ。似合わねえって。」

「そんなことないよ。ねえ、鉄平。お母さんね、今朝から何度も思い出すんだよ。お父さんが倒れた時、受かったばかりの医学部を辞めて働くって言い出した修平に、あんたが言ったろ。『せっかく受かった夢を捨てるな。家のことは俺がやる』って。」

「昔の話だ。ほら、飯が覚めるぞ。何連れてんだよ。」

「15の子供がだよ。あんたが住み込みで働いて、お父さんの借金もこの家も全部背負ってくれたから、修平は勉強だけしていられたんだ。お母さん、あの夜のことは一生忘れないよ。」

「どせい。俺は机より旋盤が好きだっただけさ。適材適所ってやつだよ。」

「またそうやって。」

富江はそれから、思い出話を次々と広げていった。免許の夜、兄の修平が「俺を医者でいさせてくれたのは鉄平だ。一生かけて恩を返す」と泣きながら頭を下げたこと。鉄平が熱を出した晩、医者だったが病院から自転車を飛ばせて帰ってきたこと。初めて白衣姿を見た日、玄関で三人して泣き笑いになったこと。

一つ話すたびに、富江の目じわが深く柔らかくなっていった。

「あいつは昔から涙もろいんだ。今日も泣くぞ。」

「きっとどうだろうね。それにしても、うちは親戚付き合いもないから、今日は三人きりだね。修平に申し訳ないよ。」

「頭数じゃねえよ。お袋。気持ちの大きさなら、どこの家にも負けねえさ。」

「あんた、本当に口だけは達者になったね。」

それから富江は、緊張しているのか鏡の前で三度も直した。

「お化粧をあげるわけじゃねえだろう。ほら、じゃあ、でも飲んで落ち着け。今日は主役の母親なんだからよ。どんと構えてりゃいいのさ。」

鉄平が食事を終えて立ち上がると、胸ポケットの携帯電話が震えた。

「もしもし。」

「会長、朝から申し訳ありません。例の件で一点だけご報告が…」

「柏木さん、悪いが今日は兄貴の式なんだ。報告は夜でいい。今日の俺はただの町工場のおっさんだからな。」

「承知しました。お兄様におめでとうございますとお伝えください。」

「お、咲いとくよ。あんたも今日は早く帰んな。娘さんの誕生日だろ。」

電話の向こうで、長い付き合いの有能な代理人が小さく笑う気配がした。電話を切って電源ごとを落とすと、富江が不思議そうに首をかしげた。

「お仕事の電話かい?あんた、正月も盆も、その電話だけは話さないね。」

「まあな。長くの商売なんだよ。」

三ヶ月前の両家の顔合わせに、鉄平は遠方の取引先のトラブルで出られなかった。その欠席が、今日どんな形になって帰ってくるのか。この時の鉄平はまだ知らずにいる。

「ああ、鉄平さん、今日は兄さんの晴れ姿。おくさん、別品だね。」

「まあ、口がうまいんだから。帰りに大根を買ってくからよ。負けとけよ。」

「話が早えや。行ってらっしゃい。」

商店街の声に送られて見上げた秋の空は、抜けるように高く澄み渡っていた。

会場は都心の丘の上に立つ、白亜のゲストハウスだった。手入れの行き届いた庭には季節の花が咲き誇り、門前には黒塗りの高級車が次々と乗り込んでいた。

「まあ、立派なところだね。テレビでしか見たことがないよ、こんなの。」

「腰が引けるぞ、お袋。堂々としらいいのさ。」

ロビーには、下手のいいスーツや華やかな着物が溢れ、あちこちで「教授」「先生」という呼び名が飛び交っていた。

「新郎のご親族様でいらっしゃいますね。控室へご案内いたします。」

案内された控室は、豪華な調度の間だった。扉が開いた瞬間、談笑の声がピタリと止み、十数人の視線が一斉にこちらへ向いた。どこか品定めをするような、無遠慮な視線だった。

先に立ち上がったのは、新郎の父であり桐生総合病院グループ理事長の桐生だった。

「本日はおめでとうございます。新郎の母、瀬戸富江でございます。こちらは次男の鉄平です。」

「鉄平です。本日はよろしくお願いいたします。」

だが桐生は、挨拶の代わりに、近眼の眼鏡の奥から二人を上から下まで眺め回した。

「ああ、あなたが修平の弟さんですか。先日は来られなかったそうですね。」

「その節は大変失礼いたしました。仕事がどうしても抜けられませんで。」

「ああ、両家の顔合わせを欠席するほどのお仕事ね。面目次第もございません。取引先の納期の関係で、遠方から戻れなかったものですから。」

「おお、お仕事。伺ってもよろしいかな?町工場で機械いじりしております。」

「まあ、町工場ですって。」

部屋の後ろで含み笑いのさざめきが広がり、扇子の影でいくつもの視線が泳いだ。わざと聞こえるように話しているのだと、鉄平にはすぐに分かった。

「町工場ね。学校は確か中学までとか。」

「はい。中学を出てすぐこの道に入りました。」

「うん。世の中には色々な生き方がありますからな。両家の顔合わせより、仕事が大事という考え方もあるんでしょうな。」

親族席から、今度ははっきりとした嘲笑が上がった。

「どうも、義理の関係になるので一応ご挨拶をと思いましたが、正直この時間、コスパが悪いですよね。手短にお願いします。」

腕時計を見ながら進み出たのは、新郎の従弟で副委員長の桐生涼介だった。

「ご丁寧にどうも。中卒で町工場って、データで見るとかなり珍しいキャリアですね。ある意味興味深いです。あ、名刺は大丈夫です。使う機会がないので。」

「そうですか。ではしまっておきましょう。」

「え、持ってたんですか?名刺、町工場の…」

「失礼。なんてこと?この人たちは。」

フレアスカートの背中に手を添え、鉄平は富江を部屋の隅の席へと促した。

やがて茶が配られ、桐生がおもむろに口を開いた。

「瀬戸さん、うちはね、祖父の代から三代続く医療の家系でしてね。」

「伺っております。ご立派なことです。」

「祖父が診療所を開き、父が病院にして、私の代でグループ三病院にまで育てた。特に心臓外科はうちの看板でしてな、設備も器具も日本最高のものを揃えております。」

「それは患者さんも心強いでしょうね。」

「日本最高の器具ね。」

湯のみを持つ指が、ほんの一瞬だけ止まった。

「うちの心臓外科ではですな。今年すでに300を超えました。県内の症例数ではもう10年、うちが一番です。」

「300例。それは大変なご実績で。」

桐生はそれから、海外への公演予定、病院の設備、果ては別荘の話までに及んだ。新郎である修平の話は、一つも出てこなかった。富江が居心地悪そうに湯呑みへ視線を落とすのが、隣から見て取れた。

「医療というのはね、瀬戸さん、器なんですよ。器。立派な器に一流の人材と一流の道具で、患者が集まってくるもんです。土台が大事なんです。」

「はあ。」

「さっきから中身の話が一つも出てこねえな。」

富江は不満げに茶をすすり、それから声の調子を一つ落とした。ここからが本題だと、その目が語っていた。

「土台ですか?」

「そう、土台です。家というのはね、瀬戸さん、土台が全てなんです。土台のない家はいずれ崩れる。人間も同じですよ。学歴という土台のないものに、本来うちの式は出さんのです。」

穏やかな口調のまま、刃だけが正確にこちらへ向けられていた。刃物のような言葉が、穏やかな笑顔に包まれて次々と投げられてきた。鉄平は湯呑みの茶を一口含み、静かに受け流した。

「無論、修平君は別だ。東大を出た優秀な下界ですからな。だが正直、身内にあなたのような方がいるのは、娘を嫁がせる親としては複雑でしてね。」

「あの、うちの鉄平はそれは真面目に働いて…」

「ああ、お母さん、攻めているわけじゃありませんよ。事実を申し上げているだけです。」

「この人は、笑いながらなんてひどいこと。」

鉄平はテーブルの下で、白くなるほど握られた富江の拳にそっと手を重ねた。

「大丈夫だ、母さん。今日は兄貴の日だ。飲み込む。」

「鉄平。」

その時、会場のプランナーが司会室に入ってきた。

「本日の進行についてご説明いたします。挙式の後、ご親族の皆様のご紹介がございまして…」

「あ、では新郎側はお母様と弟様のお二人でご紹介という形で進めさせて…」

「ああ、その件なんですがね。新郎側の紹介は、お母さんだけで結構ですよ。うちは親族に教授だの委員長だのが並びますから、場の雰囲気というものを考えていただきたい。」

「あの、ですが、ご新郎様の意向も…」

「家のことは両家で決めます。あなたは進行だけ考えてくださればいい。」

「そんな、修平のたった一人の弟なのに…」

「構いません。お母さんだけで頼みます。」

「本当によろしいのですか?」

「ええ。式が滞りなく進むのが一番ですから。」

「鉄平、いいんだ。」

「おっ、話が早くて助かりますよ。身のほどというもの、よく分かっておられる。」

満足げな声を残し、桐生はゆったりとした足取りで親族の輪へと戻っていった。富江は俯いたまま、膝の上で帯締めの房を握りしめていた。

「神風建てりゃ泥を被るのは姉貴と俺だ。安いもんさ。俺の顔なんぞ。」

すっかり冷めた茶を飲み干した。窓の外で、色づき始めた紅葉が嵐も知らずに揺れていた。

挙式は、厳かな静かな時間に行われた。

「あの、再度ご確認なのですが、本当によろしいのでしょうか?ご親族なのにご紹介がないなんて。」

「いいんです。今日の主役は兄ですから。お気遣いありがとうございます。」

「かしこまりました。」

両家が向かい合う中、前に立つのは黒留袖の富江ただ一人だった。

「弟の桐生秀明、医療大学教授をしております。その隣が、大井の信吾大学病院で循環器内科の部長を務めております…」

教授に医学博士に薬剤師と、肩書きが読み上げられる度、桐生の親族は洗練された所作で一礼していった。まるで学会の発表でも聞いているようだと、鉄平は思った。

前に立つのは、黒留袖の富江一人だった。その途方もない人数の差を、桐生の親族たちは嘲笑するような視線で楽しんでいた。

「では、最後に新郎側もどうぞ。」

やがて富江の番が来た。

「大丈夫。息子たちに恥ずかしくないように。」

「新郎の母、瀬戸富江と申します。息子たちのためにしてやれたことは多くございません。それでも二人ともまっすぐに育ってくれました。それだけが私の誇りでございます。修平のこと、どうぞよろしくお願いいたします。」

声は震えていたが、72年の人生がその小さな背中をまっすぐに支えていた。

「お母様、こちらこそ。どうぞよろしくお願いいたします。」

白無垢から着替えを終えて駆けつけた千夏が、真っすぐな声で答えた。桐生が鋭く睨んだが、千夏は父から目をそらし、富江にもう一度深く頭を下げた。

「あんたも隣にいてくれたら心強かったんだけどね。」

「俺がいたら締まらねえよ。立派だったぜ、お袋。」

「もう、この子はねえ。鉄平。お母さん、間違ったことは言ってないよね。」

「ああ、世界一の挨拶だったよ。」

軽口で返しながらも、鉄平は胸の奥に静かな熱がたまっていくのを感じていた。72歳の富江に、たった一人で頭を下げさせてしまったのだ。

控え室へ戻る途中、廊下の座席表の前で富江が首をかしげた。

「あんた、随分後ろの席なんだね。」

「広い会場だからな。こういう配置になるんだよ。」

「そうかい。それならいいけどね。あんまり遠いと、修平の顔がよく見えないんじゃないか。」

「大丈夫だよ。兄貴の顔なんだ。45年も見てきたんだ。目をつぶったって浮かぶさ。」

座席表の自分の名前を確かめながら、鉄平は口の端だけで笑った。分かりやすい嫌がらせだが、腹を立てる気にもなれなかった。

「分かりやすいこった。ま、どこに座ろうが兄貴の弟だ。」

富江を先に控え室へ送り、廊下を進むと、壁の向こうから声が流れてきた。

「しかし君は惜しいな。経歴は申し分ないのに、身内があれではな。」

「学会で身内のことを聞かれたら困りますよね。中卒の義弟とか、正直リスクでしかないですよ。うちのブランド価値がデータで何パーセント下がるか試算したいくらいです。」

「式が済んだら、千夏を通じて修平君に言っておく。今後は弟との付き合いも控えてもらうとな。」

「それが合理的でしょうね。うちのブランドに関わりますから。」

「まあ、千夏もどこであんな家の男を見つけてきたのか。」

「まあ、修平さん自体は優秀ですから、問題は付属品の方ですよ。」

足がその場に縫いつけられた。

「今、なんて言ってた?兄貴の付き合いを控えさせる?冗談じゃねえぞ。他の何を笑われても構わねえ。だが、それだけはダメだ。」

その瞬間、脳裏に葬式の日の光景が浮かんできた。

「鉄平、俺は合格を辞退する。働いて家を支える。」

「ちょっと待ってくれ、お兄ちゃん。せっかく受かったんだぜ。夢を捨てるなんて、うちにとって一番の損だ。借金も家のことも、俺がやる。」

「いや、それじゃ兄貴として親父に胸を張れない。」

「いいんだよ。俺には兄ちゃんみたいな大きな夢はない。それに、机より旋盤が好きだし、多分そっちが性に合ってる。」

あの夜から30年だ。兄貴が初任給で買ってくれた工具箱は、今も元気だぞ。それを、学歴の物差し一本で断ち切れると思ってんのか。

ゆっくりと呼吸を整えて開いた手のひらには、爪の跡が白く残っていた。その場を離れようとした時、扉の奥では上機嫌の会話がまだ続いていた。

「ああ、そうだ。親父。今日の式の映像、ドキュメンタリー風の前撮りプランにしておきましたから。」

「おお、前撮りとな。控室も廊下も全部です。」

「桐生家の記録として残さないと。安い買い物じゃないですけど、ブランドへの投資ですよ。」

「ふん。たまには聞くことをする。三代の節目の式だ。記録は立派な方がいいでしょう。編集して学会の懇親会でも流しましょうよ。病院の宣伝にもなりますから。」

怒りに似た頭では、その自慢話の意味を深く考える余裕もなかった。この何気ない注文が、数時間後に何を招くことになるのか。この時はまだ、当の本人たち自身も知らずにいた。

思い足を引きずるように歩き出した時、廊下の先で別の声が上がった。

「ちょっと、これ誰の指示ですか?」

「はい。何か不都合がございましたでしょうか?」

「この花、一本ずつ角度を直してるでしょう。さっきから見てれば、同じ場所を何往復もして。給料は時間で発生してるんですよ。」

「申し訳ございません。お花の向きは、お客様から一番美しく見える角度に、一つずつ手作業で調整しておりまして…」

「そういうの、過剰品質って言うんですよ。誰も見てないでしょ、こんな細部。その時間、無駄ですよね。もっと効率を考えたらどうですか?」

若いスタッフは何度も頭を下げ、それでも直しかけの花に優しく手を添えていた。その横顔が、取引先に頭を下げ続けた15の冬の自分と重なって、鉄平の目には見えた。

「丁寧な仕事に無駄なんてないですよ。見ている人間はちゃんと見ています。あなたの病院の手術だったって、誰も見ていない細部の積み重ねでしょ。」

「あ、何ですか、急に。」

「ああ、さっきの控室の…あなたには関係ないでしょ。」

「関係なくても、目の前で人の仕事が踏まれてりゃ、口も出しますよ。」

「町工場のおじさんが、手術の何を知ってるんですか?」

「まあいいや。これも時間の無駄なんで。」

「あの、ありがとうございました。」

「気にしなさんな。あんたの整えた花、ちゃんと綺麗だ。手間をかけた仕事ってのはな、ちゃんと顔に書いてあるもんだよ。」

若いスタッフの顔がパッと明るくなり、何度も頭を下げて持ち場へかけていった。その背中を見送る鉄平の目は、弟子を見送る親方のそれになっていた。

「鉄平、こっちだよ。そろそろチャペルが開くってさ。」

「おお、今行く。さあ、兄貴の晴れ舞台だ。嫌なことは全部後回しだ。」

窓の外では、秋の日差しが中庭の紅葉を照らし始めていた。

間もなく修平の挙式が始まろうとしていた。この穏やかな光の下であの一族が何を企んでいるのか。そして自らの正体が何を引き起こすのか。鉄平自身もまだ知らなかった。

花嫁を待つロビーで、30代半ばの眼鏡の男性が遠慮がちに歩み寄ってきた。

「あの、失礼ですが、修平先生の弟さんでいらっしゃいますか?」

「ええ、そうですが。」

「やっぱり、お顔がそっくりだ。私、先生と同じ病院で麻酔をやっております。村井と申します。」

「弟の鉄平です。兄がいつもお世話になっております。」

「修平先生はすごい方ですよ。手術の後、どんなに疲れていても、必ず患者さんのご家族に自分の言葉で説明されるんです。私たち若手はみんな、先生の背中で医療を学びました。」

「まあまあ、そんな風に言っていただけるなんて。」

「本当のことですから。今日はお招きいただけて光栄なんです。実は披露宴で、僕たち若手が余興があるんですよ。『修平先生の手術室あるある』っていう。本人には内緒でお願いします。」

「そいつは楽しみだ。黙っときますよ。」

村井は嬉しそうに一礼し、仲間の輪へと戻っていった。修平が若い医師たちに慕われていた。その事実が何よりも嬉しくて、鉄平は富江と顔を見合わせ、目を細めた。

「兄貴は兄貴の場所で、ちゃんと認められてる。何よりだぜ。」

やがて案内が流れ、参列者たちは聖堂へと吸い込まれていった。

秋の空に、チャペルの鐘が高く響く。

「はあ。いよいよだね。」

天井の高い聖堂には、色とりどりのステンドグラスがはめ込まれ、差し込む光が白い床に淡い模様を描いていた。パイプオルガンの音色と共に大扉が開き、純白のタキシードの修平が真っすぐな足取りで祭壇へと歩いていった。48歳の花婿だ。

白いものの混じった髪を丁寧に撫でつけ、背筋を伸ばして歩くその姿に、隣の富江は早くもハンカチを目に当てていた。

「見ろよ。あんたの息子、立派なもんだろう。」

「まあ、綺麗な花嫁さんだこと。」

続いて、桐生に腕を取られた千夏が入場してきた。祭壇の前で花嫁の手が修平に渡される瞬間、あの傲慢な男の目にも、うっすらと光るものが見えた気がした。

「ふん。娘を思う心はあるにはあるらしいな。」

「新郎、早瀬修平さん。あなたは、健やかなる時も、病める時も、この人を愛し、敬い、慈しむことを誓いますか?」

「誓います。」

千夏にも同じ問いが向けられ、涙ぐみながらも揺るぎない誓いが返された。48歳の花婿と38歳の花嫁を、柔らかな光と穏やかな沈黙が包んでいた。

「良かったね。本当に良かったね。」

指輪の交換では、修平の節くれだった手が千夏の細い薬指にそっとリングを通していった。その光景に、富江の肩が小さく震えていた。幼い鉄平と手をつないで学校へ通っていた息子の手が、今、生涯の伴侶の手を取っていた。

誓いの口づけが交わされ、聖堂は温かい拍手に包まれた。退場の際、修平は最前列の横で一瞬だけ足を止めた。

「鉄平、後で控え室に来てくれ。話がある。」

「あ、ああ、分かったよ。」

聖堂の外では、フラワーシャワーが二人を包んだ。

「あ、皆さん、ありがとうございます。」

「ありがとうございます。鉄平、送れよ。そっちも投げてくれよ。」

「ほらよ。特大やつだ。」

秋空の下、薄紅色の花びらが光に溶けるように舞い、参列者の祝福の声が重なり合った。舞い落ちる花びらの向こうで、修平と目があった。30年分の思いが、その瞬間の視線に全部詰まっていた。

続く庭園での集合写真では、カメラマンが鉄平を前列へと案内した。

「その時、弟さんは後ろでいいでしょう。バランスというものがありますからな。」

「はあ。では恐れ入りますが…」

「ええ、構いませんよ。」

カメラマンは困惑の色を浮かべつつも、最後列の端へと移動させた。富江が抗議しかけるのを、鉄平は目くばせ一つで制した。映る場所がどこであろうと、自分が修平の弟であることに変わりはない。鉄平はそう思っていた。シャッター音の瞬間、鉄平は最前列の端で精一杯の笑顔を作った。

撮影の後、鉄平は言われた通り新郎の控え室を尋ねた。

「来たか。座れよ。」

「どうしたんだよ、改まって。花婿が控え室に弟を呼ぶなんて、聞いたことないぜ。」

「いいから座れ。」

「なあ、控え室でお父さんに何か言われたんじゃないのか。」

「別に、世間話をしただけだ。」

「嘘つけ。目の縁が真っ赤だった。親族紹介もお前だけ外されたそうだな。プランナーさんが教えてくれたよ。」

「大したことじゃねえ。俺は慣れてる。」

「慣れるな。」

思いがけず強い声だった。

「そういうことに慣れるんじゃない。お前が頭を下げるために、俺がどんな気持ちでいるか分かるか?」

「兄貴…」

「鉄平。親父の葬式の日のことを覚えてるか?俺は受かったばかりの医学部を辞退して働くつもりだった。当然なんだからな。それが当たり前だと思ってた。」

「なんだよ。もう昔の話だ。」

「その俺に、15のお前が言ったんだ。『夢を捨てるな。家のことは俺がやる』って。『机より旋盤が好きだ』と笑いやがって。あの一言がなかったら、今日この日はなかった。」

「本当に好きだったんだよ。機械が。嘘じゃねえ。」

「知ってるさ。だがな、15の子供が『好き』っていう理由だけで、住み込みの奉公が勤まるか。親父の借金も、お袋の暮らしも、全部お前が背負った。俺は国立で授業料も免除で、奨学金とバイトで、お前のおかげで家に一円も入れず、勉強だけしていられたんだ。」

修平はそこで言葉を切り、鉄平を見る目になった。

「盆と正月だけは帰ってくる弟の、油の染みた作業着の匂いを嗅ぐたびに、この匂いの分だけ勉強しなければと、自らに誓った日々を、修平は思い返しているようだった。」

修平は不意に鉄平の右手を取った。ゴツゴツして、傷だらけで、油の染みだらけだ。

「だけどな、俺はこの手に医者でいさせてもらったんだ。」

「よせい。照れるだろうが。」

「覚えてるか?研修医の頃、給料前になると決まって差出人のない封筒が届いた。あれ、お前だろ?」

「事故だよ。そんなもん。」

「初任給で工具箱を買いに行った時、店の親父に笑われたよ。『医者が最初の給料で買うものが工具箱か』って。あれは今でも使ってる。20年もだ。」

「丁寧にすりゃ、いいものは長持ちするんだよ。お前はそういう男だ。」

「親父がよく言ってたよな。『手に職は履歴書のいらねえ学歴だ』って。俺はあの言葉の意味を、お前の手を見るたびに思い出すんだ。」

「兄貴、その言葉を、今日、そんな顔で言うのかよ。」

その言葉を聞いた鉄平は、目尻に涙が浮かぶのをこらえた。

「兄貴、本当にいい医者になったよ。親父も喜んでる。」

「まだだ。まだ親父に胸を張れるほどじゃない。」

「ところでだ。千夏さんとの馴れ初め、聞きたいか?」

「お、なんだよ。急にいいね。聞かせてくれよ。」

「病院だよ。あの人は、親父さんのグループには入らず、うちの大学病院で内科をやっててな。患者の家族への説明が丁寧すぎる。効率重視で俺が若手に煙たがれてた頃、あの人だけが『先生のやり方が正しい』って言ってくれたんだ。」

「いい人じゃないか。兄貴にはもったいないくらいだ。」

「ああ、もったいない。ただ、義理の親父さんの方はなかなか手ごわいけどな。」

「違いねえ。」

「そういえばな、千夏さん、今朝一番に、お袋の黒留袖を見て『素敵ですね』って言ってたぞ。」

「あの人は、人の良さを見る目がある。お袋さんとはそこが違うんだ。」

「兄貴がそこまで言うなら、間違いねえな。」

修平が花嫁の話をする時の顔は、48の男とは思えないほど若かった。

「鉄平。30年前、お前は俺を守った。だからな。今日、もし何かあったら、今度は俺がお前を守る番だ。」

「何かって、なんだよ。縁起でもねえこと言うなよ。今日は祝いの席だぞ。」

「いや、何もなければそれでいい。忘れてくれ。」

「兄貴のこの顔は、何かを覚悟している顔だ。ガキの頃から変わらねえ。何を知ってるんだよ、兄貴。」

修平の横顔には、手術前の医師のような静かな決意が浮かんでいた。この時、修平が何を予感していたのかを、鉄平はまだ半分も分かっていなかった。

控え室を出た廊下の角で、老医師と目があった。

「いや、来ておったが。今日という日をどれだけ楽しみにしていたことか。」

「先生、お久しぶりです。今日の私はただの新郎の弟です。」

「お手洗いか。分かってるよ。5年前からの約束だ。私は口の堅さだけが取り柄でな。しかし、君が最前列というのは、性に合ってるんですよ。最前列は、修平君はいい医者になった。手が誠実だ。しびれるな。」

「では、また後でな。」

すれ違い様にポンと肩を叩き、老医師は招待客の輪へと戻っていった。その老医師、東亜医科大学名誉教授の真壁だった。日本の心臓外科を長年支えてきた重鎮であり、鉄平の恩師でもあるその人が、鉄平と旧知の中でいることを知る者は、この式場には一人もいなかった。

ロビーへ戻ると、富江が手招きをしていた。

「あんた、どこへ行ってたんだい?もうすぐ披露宴が始まるよ。」

「兄貴とちょっとな。」

「疲れてないか?送ろう。」

「疲れるもんかね?息子の結婚式だよ。あと10年は長生きできる気分だよ。千夏さんもわざわざ来てくれてね。『お母さん、後でゆっくりお話ししましょうね』って。いい子だよ、あの子は。ただね、さっきお手洗いであちらの親族の方たちが話しているのを聞いちゃったのよ。あんたのことを…」

「色々と聞き流しとけ。そんなもん、あんたが子供の頃からずっと…」

「どうやって全部飲み込んで我慢してきたの?お母さんは知ってるんだからね。」

「我慢なんかしてねえよ。俺は納得してる。自分の手でやってきたことに、何の後悔もがねえんだ。だから、誰に何を言われても、痛くも痒くもねえのさ。」

「あんたは、本当にお父さんそっくりだよ。」

富江はしわだらけの顔をくしゃりと誇らしげに歪めて笑った。その笑顔の前では、朝から浴びせられた数々の言葉も、鉄平には小さなことに思えた。だが、廊下の奥では、次の嵐が静かに準備を始めていた。

披露宴を待つ間、化粧室の近くで、鉄平は半開きの扉から漏れる声に足を止めた。

「だからさ、ゼノバの件は年内に決めるって。鶴巻の鉗子なんて、正直ブランド料ですよ。あんなの。」

「よろしいんですか?理事長に相談しないで。」

「ゼノバの同等品なら、仕入れは半額以下。浮いた分は丸ごと利益です。耐久試験の数値がちょっと足りないけど、報告書ってのは提出用に整えるものでしょう。現場にはもうそう話を通してあるから。」

「い、いいんですか?それ、心臓外科の器具ですよ。」

「なんて、最初は見せ方ですよ。壊れる頃には保証期間切れてるし、何かあっても術者の技量の問題にできますから。親父はどうせ書類なんか読まないし、コスパこそ正義でしょ。」

扉の脇には「メイキング収録中」の札が下がり、天井では小型カメラが赤いランプを点灯させている。親族控室まで含めた全編密着の特別プランを注文したのは、桐生涼介自身だった。

「模造品に偽装データ。それも心臓外科の器具でか。」

鉄平は音なくその場を離れ、ロビーの隅で携帯電話の電源を入れた。

「会長、今日は式でしょう。何かありましたか?」

「柏木さん、例のゼノバ切り替えの件、向こうで動きがあった。年内に独断で決める気だ。データの偽造までやってる。」

「予想より早いですね。すぐ動きますか?」

「いや、式が終わるまでは動かん。柏木さん、書類の準備はできてるか。」

「はい。」

「悪いが予定変更だ。供給契約の書類一式を持って、会場に入ってくれ。」

「承知しました。30分で着きます。」

短く指示を言って電話を切り、鉄平は大きく息を吐いた。祝いの席で事を構える気は元々なかった。だが、心臓外科の器具で数字を偽るような人間だけは、職人として見過ごすわけにはいかなかった。

「役者は揃いつつある。あとはあの一族が、自分の口でどこまで言うかだ。」

ロビーへ戻る途中、長椅子の前で桐生が古い補聴器を手に難しい顔をしていた。

「こんな時に音が出んとは。」

「よろしければ、拝見しましょうか。」

「ああ、あんたに何が分かる?」

「機械いじりが仕事ですので。」

桐生は前のめりになったが、スピーチを控えて席を外せないのだろう。押し付けるように補聴器を渡してきた。鉄平は胸ポケットのルーペと精密ドライバーで手早く裏を開けていった。

焼けた太い指が、まるで別の生き物のように繊細に動き、髪の毛ほどの端子の緩みを探り当てていった。文句を言いかけた桐生は、ふと黙り込み、その指先に目を吸い寄せられていた。

「端子が緩んでいただけです。念のため、後で専門店で見てもらってください。」

「聞こえる?前よりはっきりと。古いものですが、いい機会です。大事に使っておられるんですね。」

「ああ、親父の遺品だ。」

ぶっきらぼうに答えてから、桐生は我に帰ったように咳払いをした。

「機械いじりだけは、達者なようだな。それだけは言っておく。」

歩き去るその足が、二歩先で一瞬だけ止まったことに、鉄平は気づいていた。

「…行ったな。」

やがて開演のアナウンスが、会場に柔らかく響き渡った。

「さて、最後まで何も起きなきゃいいがな。」

だが、その願いが打ち砕かれるまで、あと一時間もかからなかった。

披露宴は華やかに幕を開けた。三階のシャンデリアが天井で輝き、100人を超える参列者のテーブルには白いバラと季節の花が飾られていた。

「それでは、主賓の真壁先生より乾杯のご挨拶を頂戴いたします。」

「新郎の修平君は、私の教え子の中でも飛び抜けて不器用な男でした。ただし、患者に対する誠実さだけは、誰よりも器用だった。皆さん、こういう男は一生ものですぞ。それでは皆さん、ご唱和ください。乾杯。」

「乾杯。」

温かい笑いとグラスの音が重なり、ケーキ入刀とお色直しと、式は華やかに進んでいった。余興では、村井たち若手医師が「修平先生の手術室あるある」を披露し、会場を沸かせた。

「あるある。その三つの並びが1mmずれると、無言で直す。」

「おいおい、俺はそこまで細かくないぞ。」

「直してました。確かに。」

新郎父にまで裏付けされて頭をかく修平の姿に、会場は温かい笑いに包まれた。道具を大事にする医者になった修平を、鉄平は真剣に目を細めて眺めていた。

キャンドルサービスでは、修平夫婦が最前列にも明かりを灯してくれた。

「鉄平さん、お母さん、今日は本当にありがとうございます。」

「こちらこそ、修平をどうぞよろしくね。」

「はい、大切にします。あの、お母様、落ち着いたらお家にも遊びに伺っていいですか?修平さんの子供の頃のお話、たくさん聞きたいです。」

「まあまあ、嬉しいこと言ってくれるね。古い家だけど、いつでもおいで。」

キャンドルの明かりに照らされて、最前列のテーブルは温かい笑いに包まれた。穏やかで幸せな時間が、ゆっくりと流れていった。

「修平の隣にいると、千夏さん本当に嬉しそうだね。」

「ああ、いい夫婦だ。このまま何事もなく終わってくれりゃ、言うことないんだがな。」

「なんだい。縁起でもない。何かあるとでも言うのかい?」

「いや、なんでもねえよ。」

だが、宴が終盤に近づく頃、桐生家のテーブルでは、桐生のワインのペースが随分と速くなっていた。

「だからわしは学会で言ってやったんだ。症例数が全てだとな。おい、ワインもう一杯持ってこい。」

親族たちがチラチラと目くばせを交わしたが、上機嫌の舅を止める者は、桐生家には一人もいなかった。杯を重ねるごとに、声はさらに大きくなっていった。

「それでは、両家を代表いたしまして、新郎の父、桐生様よりご挨拶を頂戴いたします。」

「本日はお集まりいただき、誠にありがとうございます。桐生家は、祖父の代から三代続く医療の家系でございます。グループ三病院、県内一の症例数、最新の心臓外科、来月には海外の学会で公演も控えております。全ては三代の土台であればこそ。」

「挨拶というより自慢だな。」

「新郎の修平君は、東大を出た大変優秀な下界です。娘にはもったいない男だ。ただ、ですなあ、一つだけ残念なことがございます。」

鋭い視線が会場を緩やかに巡り、最前列の鉄平の上でぴたりと止まった。

「実は新郎の身内に、その…中学までしか出ておられない方がいらっしゃいましてな。」

ざわりと100人の会場が揺れた。富江が顔色を変え、マイクに手を伸ばしかけたが、桐生は鋭い目でそれを手で制した。

「いやいや、隠すことでもないでしょう。皆さんも見てるんだから。ほら、皆さんご覧なさい。あそこの一番後ろの席のスーツの…」

100人の視線が一斉に最前列へと注がれた。

「いやあ、医者の弟が中卒とはね。正直なところ、一族の恥さらしですよ。」

笑っているのは、桐生本人だけだった。会場は水を打ったように静まり、桐生家の親族席でさえ、気まずそうに目を伏せる者がいた。富江の顔色は真っ青になり、膝の上でドレスを両手で握りしめていた。

「おい、今の聞いたか?新郎の身内だって。結婚式でそんな…」

会場のあちこちで、押し殺したささやきが交わされていた。結婚式の場で身内を笑い物にするという、そのあまりの異様さに、誰もが自分の耳を疑っていた。村井は箸を置き、信じられないという顔で桐生を睨んでいた。

「お父さん、やめて。お願い、やめて。」

千夏の必死の声は、マイクの音にかき消された。富江が息を飲み、テーブルの上のグラスがカタカタと小さく鳴った。その震える手を、鉄平はそっと包み込んだ。

「怒るな。ここで立てば、兄貴の式が壊れる。飲み込め。飲み込め、鉄平。」

腹の底で煮えるものは確かにあったが、修平の式を壊すわけにはいかないと、鉄平は歯を食いしばって耐えていた。

その時、最前列の椅子が音を立てた。純白のタキシードの修平が、まっすぐに立ち上がっていたのだ。

「お父さん、一つだけ伺ってもよろしいですか?」

「な、なんだね、修平君。あの子が挨拶に割って入るのを聞いたことがないぞ。今は私の挨拶の途中だよ。」

「父さん、弟の正体にまだ気づかないんですか?」

「え?ま、抜けた声がマイクを通して会場の隅々まで届いた。正体とは、何のことでね。」

「お父さんが常々ご自慢の心臓外科。今年はもう300例を超えたそうですね。」

「そ、それがどうしたと言うんだ?」

「その300の手術で使われてきた鉗子とメス。あれを作ったのが誰か、ご存知ですか?」

「何を言っとるんだ、君は?器具の話と今は関係なかろう。」

「修平さん、やめましょうよ。まさか、あそこの町工場のおじさんが作ったとでも言うんですか?うちの器具は世界の鶴巻奇世紀ですよ。中卒のおじさんに、正体も何もないでしょ。」

親族席から、パラパラと追従の笑いが漏れた。

その時、最前列の椅子が静かに引かれた。ゆっくりと立ち上がった男の、よく通る低い声が、ざわめきを裂いて会場へと届いた。

「桐生さん、オペでお使いの鉗子の絵に、小さな刻印があるのをご存知になったことはありますか?」

「ご印?」

「鶴巻。鶴巻正規のブランド名です。あのブランドを最初に刻んだ人間の名前を、あなたはご存じない?」

「鶴巻?おじいさん、ブランド名が読めるっていう自慢ですか?もしかして、うちの器具の検品のパートでもされてましたか?」

桐生家の親族席から、また追従の笑いが漏れかけた。

「私がお答えしましょう。」

来賓席の最前列、熱列で白髪の老医師がゆっくりと立ち上がった。

「改めまして、東亜医科大学名誉教授の真壁と申します。心臓外科医として45年目を迎えてまいりました。あちらに立っておられるのは、世界の心臓外科を支える医療機器メーカー、鶴巻正規の創業者です。私は15年間、彼の鉗子で人の心臓を縫ってきました。」

「理事長、あなたが今、恥さらしと笑ったその方の作った器具で、あなたの病院は毎日患者さんの命を救っているのですよ。」

桐生の顔から、笑みがゆっくりと剥がれ落ちていった。長い沈黙の後、桐生の口から出てきたのは、乾いた笑いだった。

「は、冗談ですかな?真壁君、なかなか凝った演出じゃないか。」

救いを求めるように見回しても、笑い返す者は一人もいなかった。

「なんだね、皆さん。真に受けて。最近の結婚式はこういうサプライズが流行りなんでしょうなあ。涼介、おい、笑わんか、涼介。」

「そ、そうですよ。やめてくださいよ。心臓に悪い。大体、鶴巻の創業者は匿名で有名なんです。顔も名前も、業界の誰も知らないんですから。」

そう言いながら、涼介は震える指でスマホの画面を辿っていった。創業者は経歴非公開。東京下町の町工場出身とだけ記されていた。検索が返す断片の一つ一つが、目の前の現実と重なっていった。

「おお。誰も知らないとね。では、皆さん、昔話を一つしましょうか。」

真壁教授は穏やかに歩を進め、最前列の鉄平の隣に立った。45年目を迎えてきた老医師の声には、会場の全ての耳を引き寄せる静かな力があった。

「15年前、学会で酷評されていた無名の鉗子職人。私は一本だけ預かって、手術で使ってみた。半値の半分の力で、倍の精度が出た。細い血管の縫合が、嘘のように決まる。作った男に会いたいと、手がかりを探して、ようやく見つけたのが、東京の下町の小さな町工場だった。町工場を尋ねた私に、油まみれの作業着の青年は、こう言ったんです。『先生、この刃の向こう側には患者の命がある。だから俺は指先に嘘をつかない』とね。以来、15年、彼の器具しか使っておりません。私の教え子です。」

会場の参列者たちは、息を呑むように聞き入っていた。真壁教授は慈しむように目を細め、それから隣の鉄平に頷きかけた。

「医学会に彼の顔を知る者は、数人しかいない。だが、彼の手を借りなかった医者は、この国に一人もいないでしょう。」

「先生、あの、僕の務める病院も、心臓外科は全部鶴巻です。緊急手術の時、あの鉗子に何度助けられたか。」

会場の中ほどで、村井が思わず立ち上がっていた。同じテーブルの若い医師たちも、最前列の男を見つめたまま固まっていた。彼にとって、そのブランドは毎日手術室で握りしめている、命の道具の名前だった。

医療関係者の多い会場のあちこちから、驚きのざわめきが波のように広がっていった。

「そ、そんな話があるわけが…」

そこへ、会場後方の扉が静かに開いた。スーツに身を包んだ初老の紳士が、革の書類鞄を手に一礼して入ってきた。

「お話、失礼いたします。鶴巻正規で顧問弁護士を務めております、柏木と申します。本日は会長代理として、披露宴にお招きいただいておりましたが、遅れました。お詫び申し上げます。」

「会長?」

「はい。弊社創業者であり、現会長の瀬戸鉄平です。15年前、たった一人で創業して以来、今も自らの手で製品を仕上げる、うちの大黒柱ですよ。大口の取引は全て私どもが窓口となり、会長の名は契約書の製造責任者欄に、職人の署名としてイニシャルが刻まれるのみ。ハはありふれた姓ですから、お気づきになる方は、まずおられません。」

テーブルに差し出されたのは、桐生グループと鶴巻正規の供給契約書の写しだった。

「理事長ご自身も、10年前の契約にご署名いただいております。製造責任者の欄を、どうぞご覧ください。」

「じ、10年前の契約書など、一々覚えとらん。事務所が持ってきたものに判を押しただけで…」

「ええ、存じております。ですから、今日までお気づきにならなかったのでしょう。ご自分の病院が、誰の手の上で回っていたのかを。」

桐生は触れる手で老眼鏡をかけ、署名欄の一点を食い入るように見つめた。

「T…瀬戸…」

「そんなバカな。」

横から書類を覗き込む涼介も、そのまま石のように固まった。決算書類を見慣れた副委員長には、その印影が本物であることが、骨まで分かってしまったのだった。

その時、桐生の耳の奥で、治ったばかりの補聴器がかすかに音を立てた気がした。あの日焼けした太い指が、髪の毛ほどの端子を迷いなく直していく様を、つい先ほど自分は確かにこの目で見ていた。「機械いじりだけは達者なようだな」と鼻で笑った自分の声が、頭の中で嫌になるほど繰り返されていた。

富江はハンカチを握りしめたまま、動けずにいた。

「鉄平。あんた…30年、夜中まで機械の音をさせて、何にも言わないで。あんた、そんな大きなこと、たった一人で…お父さん、見てますか?あなたの息子ですよ。」

「お袋、驚いたか。俺も知ったのは5年前だ。」

「あんた、知ってたのかい?」

「学会で真壁先生から聞かされてな。あいつ、口が堅くてやがったんだ。俺に言うと心配するし、近所に知られたら面倒だからって。」

「あの子は、昔からそういう子だよ。」

驚きの波の中を、鉄平は静かな足取りで桐生の元へと歩き出した。

「桐生さん、あなたは今朝、私にこう教えてくださいましたね。『土台のない家はいずれ崩れる』と。」

「そ、それは…いや、あれはその、一般論というやつで…」

「ええ、いいことだと思いましたよ。私も30年、同じことを考えて生きてきましたから。」

静かな声だった。怒りもせず、攻め立てもしない。だが、その静けさこそが、桐生には誰の怒声よりも恐ろしかった。

「おっしゃる通りです。土台のない家は崩れる。ですが、桐生さん、あなたの病院の手術室は、今日まで10年間、あなたが『恥さらし』と呼んだ、その土台のない男が削った鉗子の上に立っていたんですよ。」

静かな声が、誰の怒号よりも深く、桐生を貫いていた。

「あ、私は…」

「お父さん、弟は今日まで、自分の口から正体を明かすつもりはありませんでした。俺が黙っていられなかっただけです。ただ、これだけは分かってください。俺は今日、この人の兄として、あなたの娘さんと家族になったんです。もし、修平君と弟と縁を切れと言われたら、俺は迷わず弟を選びます。それくらい、この男に借りがあるんです。」

「しかし、あなた…なぜ黙って会長と…」

「ああ、そういう方がなぜ名乗りもせず、最前列などに?」

「名乗る必要がありますか?私は今日、会社の看板を背負ってきたんじゃない。兄の結婚祝いに来た、ただの弟です。最前列で十分ですよ。それにね、桐生さん、肩書きを言わなきゃ人として扱われないような家なら、どこに座っても同じでしょ。」

「う…」

「学歴は確かにありません。中学を出て、30年、鉄を削ってきただけの人間です。ただ、この手だけは、一日も嘘をついたことがない。それだけです。」

火傷の跡の残る太い手が、静かに持ち上げられた。100人の参列者が息を飲んで、その手を見詰めていた。修平は椅子に戻らず、鉄平のすぐ後ろに立って、落ち着いた声でその背中を見守っていた。

「なお、理事長、この場でお伝えするのは本意ではありませんが、業務上、報告しますので申し上げます。弊社は本日を持ちまして、桐生総合病院グループとの独占契約の更新協議と、新規のご注文の受付を、一時停止いたします。」

「な、停止?」

「はい。契約更新の可否は、会長の判断となります。ただし、会長の指示により、納品済みの器具の保守と緊急対応は、患者さんのために従来通り継続いたします。」

「患者のために…」

「言ったでしょう。桐生さん、あなたの病院で使われる患者には罪はない。俺が供給を止めるのは、新しい注文の分だけです。」

桐生家の親族席が、蜂の巣をつついたような騒ぎになった。先ほどまで含み笑いを浮かべていた者たちは、額に汗を浮かべ、涼介は真っ青な顔で腰を浮かせていた。医療に関わる人間であればあるほど、今の言葉の重みが分かるのだ。鶴巻の器具が入らない心臓外科など、翼を失った飛行機と同じだった。

桐生は絶望したようにテーブルの縁を掴んで、体を支えた。66年かけて築いた価値観の土台が、足元から音を立てて崩れ始めていた。

「し、しかし、新しい注文が入らんとなると、来年の予算も、学会の公演も…」

「いや、それどころの話では…」

「ちょ、ちょっと待ってくださいよ。うちは月に30件も心臓の手術があるんですよ。新しい器具が入らなかったら、うちの心臓外科は…」

「おお、副委員長。あなたは分かっておられるようだ。鶴巻の器具は、職人が一本ずつ手で仕上げる特注品です。代わりは、世界中どこを探してもない。そして、道具は使えば必ずすり減る。では、伺いますが、補充の入らなくなった心臓外科が、一体何ヶ月持つのかね。」

言葉に詰まる涼介の額に、じっとりと汗が浮かんでいた。だが、次の瞬間、追い詰められた男は、思わぬ方向へ口を滑らせたのだ。

「そ、それはだ、大丈夫です、親父。実はもう、手は打ってあるんです。ゼノバメディックスから、同等品を入れる…」

「同等品?」

「そ、そうですよ。データだって、遜色ない数字が出てる。」

「鶴巻が降りるなら、こっちはむしろ好都合で…」

「ゼノバメディックス副委員長、今、ゼノバと言ったか?あの会社は、鶴巻の模造品で係争中の会社だぞ。君はまさか、模造品を心臓外科に入れる気だったのか。」

「模造品じゃありません。同等品です。」

「データでは、医療業界で通用しない名前だ。」

会場の空気が、一気に張り詰めた。

「お取り込み中、恐れ入ります。桐生涼介様ご依頼の記念映像の件で、一点ご確認いただきたいことがございまして。」

「は、映像?今それどころじゃ…」

「それが、その…控室のご談話も含めた前撮りの映像を残す特別プランをご注文いただいておりましたので、全て録画されておりまして。編集の者が確認作業の際に、そのお客様のお立場に関わる内容に気づいたと申しまして…」

「あ、あのワイン…天井の赤いランプ…消してください。その映像は…」

「え、や、その、確認します。私が自分で。」

「それはお客様のご注文の商品ですので、勝手に消去することはいたしかねます。」

気まずい返答が、この場では何よりも残酷に響いた。控室のワイングラスと、上機嫌の自慢話、そして天井で点滅していた小さな赤いランプが、次々と脳裏に蘇っていった。それが一つに繋がった瞬間、涼介の膝が目に見えて揺れた。

「桐生さん、場所を変えましょう。ここから先は、お客さんに聞かせる話じゃない。」

「わかりました。」

かすれた声でそう答えた桐生は、もう会場に立っていられなかった。階段を降りる足取りは、上がった時とは別人のように重かった。

こうして両家の代表たちは、ざわめきの残る会場を後にし、親族控室へと移っていった。

親族控室には、重い沈黙が立ち込めていた。窓の外はいつの間にか夕暮れに変わり、明りの灯った庭園では紅葉が赤色に染まり始めていた。

会場では歓談の時間が延長され、参列者たちは何も知らされないまま、デザートとコーヒーを楽しんでいた。テーブルを挟んで、鉄平と修平、真壁教授、柏木が座り、向かいには桐生と涼介、そしてドレス姿のままの千夏がいた。富江は席を外してもらい、ロビーで村井が付き添ってくれている。

「千夏さん、君は席を外していても…」

「いえ、私はもう早瀬の人間です。それに、桐生の娘として、見届ける義務がありますから。」

ウェディングドレスのままの娘の毅然とした横顔に、桐生は目を合わせられずにいた。部屋の隅では、式場の支配人が記録映像の再生装置を準備していた。

「映像って、まさかあの控室の…」

「あの映像の確認なんて、必要ないでしょ。ただの雑談ですよ。」

「雑談なら、聞かれても困らないはずです。それとも、副委員長、聞かれて困る雑談をなさってたんですか?」

「そんなことは…」

「では、問題ありませんね。千夏さん、お願いします。」

「ま、待った。個人情報です。こういうのは、勝手に再生するのは問題でしょう。」

「つまり、撮られて困る話を、ご自分の注文したカメラの前でなさったということですが。前撮りの特別プランに署名したのは、桐生涼介さんです。」

逃げ道を失った男が黙り込むのを待って、画面に控室の映像が映し出された。

「ゼノバの同等品なら、仕入れは半額以下。浮いた分は丸ごと利益です。耐久試験の数値がちょっと足りないけど、報告書ってのは提出用に整えるものでしょう。現場にはもうそう話を通してあるから。データなんて、最初は見せ方ですよ。壊れる頃には保証期間切れてるし、何かあっても術者の技量の問題にできますからね。」

再生が止まると、部屋の温度が二度は下がったように感じられた。

「お前、今のはどういうことだ?わしは何も聞いとらんぞ。何の話だ?」

「ち、違うんです。そうや。それはその、経営判断の話で…」

映像の中の自分と、目の前の桐生を見比べながら、涼介は口を開いて閉じることを繰り返していた。どれだけ頭の中で数字を並べ直しても、答えの出る式はもう残っていなかった。

「桐生副委員長、伺いますが、ゼノバ社との発注のやり取りは、病院の正式な決算を通していますか?」

「そ、それは…」

柏木が、先ほど事務所より届いたという書類を数枚取り出した。

「お答えにならなくても結構です。ゼノバ社は弊社製品の模造で係争中でしてね。裁判所を通じて入手した同社の営業記録に、桐生副委員長、あなた個人のお名前での発注が含まれていました。日付は三ヶ月前。病院の決算記録に、この案件は存在しませんな。」

「なんで、そんなものまで…」

「つまり、あなたは理事長にも理事会にも確認せず、独断で進めていた。違いますか?」

涼介は先行調査だと言い張ろうとしたが、発注の記録の前では、その言葉はあまりにも軽かった。逃げ道は綺麗に塞がれていた。自分で仕掛けたカメラが自白を取り、相手側のサーバーには発注の記録が残っていた。

「なお、ゼノバ社の模造品問題には、すでに海外の複数の報道機関が調査に入っております。導入が実行されていれば、桐生グループの名前は、『患者の命を金に変えた病院』として、世界中に報じられていたでしょう。」

「親父、そんなところまで…」

「お、お父さん、待ってください。まだ発注していません。予約だけです。実害はゼロですよ。数字で見れば、まだ…」

「数字?お前は…」

「僕は親父のやり方を、効率よくやろうとしただけです。無駄を省いたのは、筋だ。親父がそう教えたんじゃないですか。」

部屋がしんと静まり返った。桐生の顔から、怒りの色がゆっくりと抜けていった。息子の口から出る言葉は、一つ残らず自分が長年言ってきた言葉だったからだ。効率と数字ばかりの息子に育てたのは、学歴と家柄で人を並べてきた、この自分ではないのか。その問いが、初めて桐生自身の胸に突き刺さっていた。

「ですから、親父。あれは病院の利益のためで…」

「黙れ。」

初めて聞く父親の怒声に、涼介はびくりと肩を跳ね上げた。

「いや、怒鳴る資格が、わしにあるのか。効率と数字ばかりの息子に育ったのは、学歴と家柄で人を並べてきた、このわしではないのか。」

その時、それまで黙って映像を見つめていた真壁教授が、穏やかに口を開いた。

「桐生副委員長、一つ、医者として聞いておきたい。君の病院は、月に30件の心臓手術をやると言ったな。年にすれば360件。強度の足りない鉗子の鉗子が、手術中に破損したら、患者はどうなるか。君は考えたのかね。」

「そ、それは…確率的には低いと、データでは…」

「データではなく、患者の話をしてるんだ。」

温厚な老教授の一喝が、部屋を震わせた。

「その道具に嘘を仕込むということはな、一人一人の背中を、後ろから刺すのと同じことだ。45年、手術室に立ち続けた老医師の言葉には、一切の反論を許さない重みがあった。涼介はだまり、一言も返さなかった。」

「血管を掴んだ鉗子が先端から折れれば、患者は数分で失血する。君が『提出用に整えろ』と言った、その数字の向こうには、360人の患者とその家族がおるんだぞ。君は、それでも医者か?」

「お兄さん、私、医者になって14年、ずっとあなたに聞きたかったことがある。患者さんの顔を、最後に見たのはいつ?」

「千夏…」

「あなたの口から出るのは、いつも数字とコストの話ばかり。今日という今日で、よく分かった。あなたが見ていたのは、患者さんじゃなくて、帳簿だったのね。お父さんもです。私の結婚式で、この人の大切な弟さん。私の家族になった人を、100人の前で笑い物にした。学歴がどうとか、家柄がどうとか、そんなものを娘の幸せより上に置くなら、私はもう桐生の姓に戻ることは、二度とありません。」

「ち、わしは、お前のためを思って…」

「私のため?いいえ、全部、桐生の家の体面のためよ。私、38年間、ずっとお父さんの決めた道を歩いてきた。医学部も、勤務先も、全部。でも、今日だけは、自分で選んだの。この人と、この家族を。ねえ、お父さん、修平さんのどこが好きになったか、教えてあげましょうか。偉い人にも、掃除のおばちゃんにも、同じ顔で頭を下げる人なの。お父さんが笑った、こちらの弟さんと、そっくりなのよ。」

38年、父の敷いた道を黙って歩いてきた娘だった。その娘が初めて父の目をまっすぐに見据えて放った言葉に、桐生は肩を落とした。そこへ、ロビーから戻った富江が静かに歩み寄った。

「桐生さん、大変な席で騒動を起こしまして、申し訳ございません。」

「おお、おやめください。お母さん。頭を下げるのは、こちらの方で。」

「いいえ、言わせてください。うちの鉄平はね、15から30年間、朝から晩まで鉄を削って生きてきました。学歴はありません。盆に帰ってくるたび、手の傷ばかり増えてましてね。向こうの親方さんが、後でこっそり教えてくれました。夜中に指を怪我しても、風を引いても、納期だけはいつも破らなかった子だと。でもね、桐生さん、この子の手を『恥』と言った人に、その手が作った道具で命を預ける患者さんが、あんまりかわいそうでございますよ。」

攻めるのではなく、ただ事実だけを述べる富江の声が、この日のどんな言葉よりも深く、桐生を貫いていた。

「お母さん、わしは…わしは、何と詫びればいいのか?」

「詫びなんていりませんよ。ただ、覚えておいてくださいまし。それだけで十分でございます。」

重い沈黙の中、鉄平は手の火傷の跡にそっと触れ、それから低い声で語り始めた。

「桐生さん、一つだけ、俺の話をさせてください。親父は町工場の職人でした。腕は一流だったが、時代に飲まれて工場を潰しましてね。倒れたのは、兄が国立の医学部に受かった、その春でした。」

30年前の春の夜が、その場の全員の目の前に立ち上がってくるようだった。

「心臓でした。救急車の中で親父の手を握ったんですが、病院に着く前に亡くなりました。あと10分早ければ手術ができたと、若い医者が悔しそうに言ったのを、今でも覚えています。」

真壁教授が静かに目を閉じた。15年、内の友人の口からその話を聞くのは初めてだった。なぜこの男の鉗子だけが、一秒を削ることにあれほど執着するのか。15年の謎が、今、落ち着いた声で解けていた。

「あの時、俺は医療ってやつを恨みそうになった。でもね、恨む代わりに決めたんです。それなら、俺は医者の手を支える側になろうと。俺の削った刃が、一秒でも手術を早くすりゃ、親父みたいに間に合わない人間が、一人でも減るかもしれねえと。」

鉄平の言葉に続くように、修平が語り出した。

「僕からも言わせてください。あの夜、合格を辞退すると言った俺の襟首を掴んで、椅子に戻したのは、この弟です。弟が借金と家を背負ってくれたから、俺は勉強だけしていられた。弟が道具を作り、俺が命を縫う。兄弟で、親父にできなかったことをやろうと決めたんです。俺が手術室で握る鉗子の重さは、この弟の30年の重さなんです。」

「兄貴。」

鉄平は改めて桐生に向き直って、はっきりとした口調で言った。

「だから、桐生さん、俺はあんたの病院を潰したいわけじゃない。あんたの病院で使われる患者さんに罪はねえんだ。ただ、データをいじるような手にだけは、俺の道具は渡せない。それだけです。」

「う…」

「学歴抜きの話をしましょうか。桐生さん、あんたの言う通り、俺には学歴がないけどね。うちの工場には、30年分の納品書がある。一枚も嘘のねえやつがね。俺はそいつを、卒業証書だと思ってます。」

桐生は膝の上の拳を、震えるほど強く握りしめていた。自分の卒業証書は、壁に飾った額縁の中で誇らしげに輝いていた。だが、目の前の男の卒業証書は、30年間、人の命を救い続けてきた。どちらが本物か、答えはもう問うまでもなかった。

夕暮れの最後の光が差し込む部屋で、桐生がゆっくりと立ち上がった。そして、次の瞬間、66歳の理事長は、その場に膝を折り、床に両手をついたのだった。

「申し訳ありませんでした。」

それは絞り出すような、かすれた声だった。

「瀬戸さん。いや、鉄平さん、私は今日、あなたに二度、救われていたんですな。」

床に手をついたまま、桐生は途切れ途切れに語り始めた。

「一度目は、この補聴器です。親父の遺品が壊れて、スピーチもできんと焦っていた私に、あなたは何も言わず手を差し伸べてくれた。あの時のあなたの指を、私は確かに見ておった。ああ、本物の職人の手だと、心のどこかで思っておったんです。それなのに、私はその口で、あなたを『恥さらし』と呼んだ。」

声が小さく震えていた。

「言い訳はしません。私は、学歴という物差ししか持たない、哀れな年寄りです。人は、測る物差しが一本しかないから、あなたの手の値打ちが見えなかった。昔はね、私にも、そんな物はなかったんです。開業医の頃は、田舎の診療所で、泥田だらけの農家のじい様の脈を取って、お礼の帰りに大根をもらって喜んでおった。患者の顔だけ見ておった。それがあいつからが、理事長と呼ばれ、先生先生と持ち上げられるうちに、人間を出身大学で並べるようになった。医者として、いや、人間として一番大事な物差しを、どこかに置き忘れてたんですな。」

その告白は、会場での謝罪よりもさらに苦しいものだったに違いなかった。66年の人生の誤ちを、出会ったばかりの男の前で認めたのだ。そして、桐生は床に額がつくほど深く頭を下げた。

「あなたが鶴巻の会長だから謝るのではありません。それなら、私はただ強いものに頭を下げるだけの男だ。そうではなく、私は、補聴器を直してくれた、あの手に頭を下げたいのです。どうか、この愚か者の詫びを、受け取ってはいただけませんか?」

長い沈黙の後、鉄平は静かに歩み寄り、桐生の腕を取って立ち上がらせた。

「顔をあげてください、桐生さん。あんたのその言葉を聞けただけで、十分です。」

「鉄平さん…」

「それにね、桐生さん、あんたが大事に使ってた、あの古い補聴器。ああいうのを見りゃ分かるんです。物を大事にできる人間は、本当はそんなに悪い人間じゃねえ。」

桐生の目から、耐えていたものがついに溢れ落ちた。66年、人前で涙などを見せたことのなかった男が、両販店のスーツの男の前で、声を殺して泣いていた。鉄平はそんな桐生の肩に、軽く手を置いた。

「桐生さん、うちの親父がよく言ってました。『道具ってのは、狂ったら直せばいい。捨てるのは、直そうとしないやつだけだ』ってね。直せばいい。66だろうが、70だろうが、今日気づいたなら、今日が直し時ですよ。」

桐生は何度も何度も頷き、ハンカチで顔を拭った。やがて、桐生は涙を拭って、修平に向き直った。

「会場に戻って、皆さんに詫びを入れさせてほしい。それから、弟さんとの付き合いを控えろなどと、わしは口が裂けても言わん。あんな話は、忘れてくれ。」

「お父さん…」

「涼介、お前はわしと一緒に行こう。理事会には、わしの口から全部話す。逃げることは許さん。」

「おお…」

こうして一行は、参列者の待つ会場へと戻っていった。長い中断の間、会場をつないだのは、気の利いた司会と真壁教授だった。老教授は医療の未来を語って客席を沸かせ、一行が戻ってきた時には、会場には不思議と柔らかな空気が満ちていた。

会場に立った桐生は、マイクを握り、100人の招待客に向かって深々と頭を下げた。

「先ほどは、このぼけが、取り返しのつかない暴言を吐きました。新郎の身内を、皆様の前で心なく嘲りました。この通りです。誠に申し訳ありませんでした。」

会場は静まり返っていたが、その静けさは、先ほどまでとは違う、温かい種類のものへと変わりつつあった。

「私は今日、娘の結婚式で、一番大事なことを学びました。人の値打ちは、卒業証書には書いていないということです。新郎のご家族に、そして皆様に、改めてお願い申し上げます。どうか、二人を末永く、見守ってやってください。」

深い一礼の後、会場から少しずつ、そして確かな拍手が湧き起こった。その拍手の中心には、真っ先に手を打ち鳴らした真壁教授の姿があった。

「桐生理事長を認められるものだけが、明日の医療を語れる。ようこそ、こちらへ。」

老教授の一言に、桐生は会場でもう一度深く頭を下げた。村井をはじめとする若い医師たちも、温かい拍手でそれに答えていた。

続いて、司会に促された修平が、新郎の挨拶のためにマイクの前に立った。

「本日はお集まりいただき、ありがとうございます。最後に、少しだけ、私の家族の話をさせてください。」

修平は最前列の鉄平と富江を見つめた。

「私の父は、私が国立の医学部に受かった年の春に、工場と一緒に倒れました。私は合格を辞退して、働くつもりでした。その私の襟首を掴んで止めたのが、当時15の弟です。『受かった夢を捨てるな。この家のことは俺がやる』と。」

会場のあちこちで、ハンカチを取り出す気配があった。

「弟は中学を出て、住み込みで働き、父の借金と母の暮らしを、たった一人で背負ってくれました。おかげで、私は家に一円も入れずに、勉強だけをしていられた。医者になって、最初の給料で、私は弟に工具箱を送りました。店の親父には、『医者の最初の買い物が工具箱か』と笑われましたが、私にとってあれは、命の恩人への、精一杯の恩返しのつもりだったんです。」

会場の涙が、笑いの混じった温かいものに変わった。

「その工具箱を、弟は20年、錆一つつけずに使い続けてくれています。皆さん、私を医者でいさせてくれたのは、大学ではありません。あの夜、私を椅子に戻した、その弟の、その手です。」

修平の声が初めて震えた。

「父はよく言っていました。『手に職は履歴書のいらねえ学歴だ』と。私は今日ほど、この言葉を誇りに思った日はありません。鉄平、母さん、ありがとう。俺はあんたたちの家族で、本当に幸せだ。」

スピーチの後、司会がためらいがちにマイクを掲げた。

「あの、もしよろしければ、新郎の弟様からも一言、頂戴できますでしょうか?」

会場中の視線が最前列に集まり、鉄平は頭をかきながらゆっくりと立ち上がった。

「えっと、人前で話すのは、鉄を削るより苦手でして。」

会場から笑いが起きた。

「兄貴、千夏さん、おめでとう。俺から言えるのは、一つだけです。夫婦ってのは、道具と同じで、毎日ちょっとずつ手入れするもんだそうです。錆びる前に磨く、狂う前に直す。そうやって30年もすりゃ、何よりの一生のものになります。二人なら、できますよ。」

短い言葉だったが、会場は今日一番の温かい拍手でそれに答えた。会場の修平夫婦が、涙と笑顔で深く頭を下げた。最前列で、富江が声をあげて泣いていた。30年分の苦労が、30年分の誇りに変わる瞬間を、富江は両手で顔を覆いながら聞いていた。鉄平も目頭の熱さを隠しきれず、天井を仰いで何度も瞬きを繰り返した。

「泣いてんのは、どっちだよ、兄貴。」

最前列の端では、千夏が修平の隣で涙を拭いながら、最前列に向かって深く頭を下げていた。会場は、この日一番の大きな拍手に包まれた。

そして、最後に司会からもう一つの案内がなされた。

「皆様、お帰りの前に、両家のご希望により、集合写真の取り直しをさせていただきます。」

庭園に明かりが灯され、両家が改めてカメラの前に並んだ。今度は誰の差しずもなく、鉄平は修平のすぐ隣に立った。その反対隣には富江が並び、後ろには桐生が少し迷ってから、そっと鉄平の肩に手を置いた。

「では、撮りますよ。皆様、笑ってくださいね。」

シャッターの音と共に、秋の夜空に温かい笑い声が上がった。こうして、波乱の披露宴は、誰も予想しなかった温かさのうちに、幕を閉じたのだった。

お開きの後、会場の玄関で、桐生は鉄平にもう一度深く頭を下げた。

「鉄平さん、契約のことは、どんな結論でもお受けします。ただ、これだけは信じてほしい。うちの手術室で、あなたの鉗子を握る若い人たちには、何の罪もない。」

「分かってますよ。だから、宿題にさせてください。あんたの病院が、これからどう変わるのか。それを見てから、決めます。」

「宿題ですか?」

「ええ、期限は切りません。じっくりやってください。」

桐生は口元を緩め、それから何かを決めたように力強く頷いた。

それから一ヶ月が過ぎた。桐生総合病院グループの臨時理事会は、荒れに荒れた。

「全て、わしの監督不行き届きです。処分は、このぼけごとお決めください。」

桐生は宣言通り、涼介の同等品導入計画とデータ偽装の指示を、包み隠さず理事会に報告した。

「この映像と発注は、事実ですか?」

「事実です。」

録画映像と発注記録という動かぬ証拠の前に、涼介は釈明の言葉すら持たなかった。決議は満場一致で、副委員長の解任だった。

涼介は系列の小さな病院へ移されたが、部下への高圧的な態度は変わらず、三ヶ月と待たずに、部下が退職をした。退職の直前、涼介は一度だけ、鶴巻正規の代表番号に電話をかけてきた。電話に出た柏木は、別人のように猫なで声だったという。

「会長、あの時は大変失礼しました。実は私、系統データ分析には自信がありまして、是非、御社で私を使っていただけないかと。」

取り次いだ柏木は、会長の言葉をそのまま伝えた。

「会長からの伝言です。『うちの工場には、データをいじる手の仕事はありません。以上です』と。」

電話はそれきり、静かに切られた。窮地に立ってなお、この男は肩書きと尊厳でしか人を繋がれなかったのだ。

その後、医療機器メーカーへの転職を試みたものの、業界に知れ渡った偽装の噂が消えることはなかった。

「なんでだ?データの読みなら、誰にも負けないのに。」

面接には落ち続けているそうだ。最後まで人を数字で測ってきた男は、最後には自分が、数字にもならない男として扱われることになったのだった。

一方の桐生は、全ての報告を終えた後、自ら理事長の職を辞した。そして、退任の前に、最後の仕事として、一つの決裁書に判を押した。かつて経費削減の名の元に雇い止めをした、高卒の臨床工学技士たちの再雇用の辞令だった。

「遅すぎた詫びだが、受け取ってくれ。」

桐生はさらに、院内の給与体系から学歴による差別の壁を取り払い、技能と実績で人を評価する制度への改革案を、退任の置き土産として残した。若手の理事たちから反発が起きたというが、桐生は一歩も引かなかったという。

「理事長、今更、なぜそこまで?」

「わしはな、娘の結婚式で教わったんだ。人の値打ちは、卒業証書に書いてない。この歳で教わったことを、次の世代に渡さんで、何が理事長か。」

そして三ヶ月後、鶴巻と桐生総合病院の供給契約が、新しい経営体制の発足を待って、正式に再開された。契約書の署名式で、鉄平は新理事長に選ばれた委員長へ、一本の鉗子を手渡したという。受け取った新理事長は、その鉗子を両手で押しいただき、深々と頭を下げたそうだ。箱には、また新しい名前が刻まれていた。

「鶴巻。指先に嘘をつかないこと。」

三ヶ月後の正月。門松の並ぶ下町の商店街を、晴れ姿の親子が歩いていた。その外れの小さな町工場に、この日はいつになく賑やかな声が響いていた。集まっているのは、鉄平、富江、そして年始の挨拶に訪れた修平夫婦だった。

縁側には、富江が漬けた大根の切れ端を目当てに、近所の猫までが顔を出していた。

「鉄平さん、このお雑煮、美味しいです。お餅が香ばしくて。」

「鉄平が焼いたんだよ。この子、旋盤だけじゃなくて、餅焼き網の使い方も一流なんだから。」

「お袋、余計なことは言わなくていいんだよ。火加減と目を離さねえこと、それだけだよ。」

「旋盤と一緒だわ。何でもお仕事の話になるんですね。鉄平さんは、修平さんと一緒だわ。」

こたつの上には、雑煮の椀とみかんが並び、笑い声の絶えない正月だった。

「そうだ。鉄平。お父さんから預かってきた。お前にだそう。」

こたつの上に、達筆の毛筆の封書が置かれた。達筆の毛筆で綴られた手紙には、理事長を退任したこと、かつて雇い止めしていた技士たちの再雇用が全て済んだことが報告されていた。そして、最後の一枚を、修平が声に出して読み上げた。

「『若い医師たちに、物作りの心を教える勉強会を開きたく思います。講師の名前は伏せますよ。どうか、あの手の話を聞かせてやってはいただけませんか?』だってさ。あの桐生さんがね。人間、いくつになっても変われるもんだね。」

「へえ、あの桐生さんも変わったもんだ。で、受けるのか?」

「名前は出せねえって。初見つきでな。」

照れ隠しに餅をひっくり返す鉄平の横顔を、修平は嬉しそうに眺めていた。

「それとね、鉄平さん。東亜医科大学が、鉄平さんに名誉博士号を送りたいって、真壁先生が張り切ってるんです。」

「ああ、そいつは真壁先生に、丁重にお断りしといてくれ。」

「え、どうしてですか?すごいことなのに。」

「俺の学歴は、この手にあるからさ。博士号もらっちまったら、親父の教えと違っちまう。親父が聞いたら、『名前負けするな』って笑うぞ。」

「違いない。」

「そういえば、涼介さんの話、聞いたか?知り合いの伝手でようやく仕事が決まったらしい。物流倉庫の夜勤だとさ。」

「そうかい。現場ってのはな、兄貴。ごまかしの聞かねえ、いい学校だよ。あの人にも、いつか分かる日が来りゃいいがな。」

昼食の後、作業場を見学した千夏が、棚の試作品の前で目を輝かせた。

「これが、あの鉗子になるんですね。綺麗。宝石みたい。」

「宝石よりよっぽど役に立ちますよ。」

棚に並ぶ銀色の試作品は、ストーブの明かりを受けて静かに光っていた。この小さな輝きが、今日もどこかの手術室で、誰かの命をつないでいる。それを知る人間が、この正月から少しだけ増えていた。

「なあ、鉄平。親父の写真、今日はなんだか笑って見えないか。」

「ああ、息子二人が揃ってるんだ。機嫌も良くなるさ。」

額の中の隣には、式の最後に取り直した両家の集合写真が飾られ、今度は誰も端に追いやられてはいなかった。

「ねえ、鉄平。あちらのお父さん、言ってたろ?『土台のない家は崩れる』って。」

「ああ、言ってたな。」

「お母さんはね、思うんだよ。うちには確かに立派な土台なんてなかった。でも、崩れなかったじゃないか。あんたの手と、修平の手と、みんなの手で、支え合ってきたからだよ。」

「お袋、うまいこと言うじゃねえか。」

「72年も生きてりゃ、これくらい言えますよ。」

千夏がくすっと笑い、自分もこたつに入れてほしいと言った。富江はもうとっくに入っているよと、こたつはまた笑いに包まれた。

「さてと。親父、今年もやるぞ。」

正月の澄んだ空の下、この小さな工場から生まれた銀色の道具たちは、今日もどこかの手術室で、誰かの命をつないでいる。

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