町場の貧乏人は間違いよね。帰れば住む世界が違う。帰りなさいよ。
その言葉とともにコーヒーが顔に浴びせられた。茶色い滴が頬を伝い、安物のスーツに染みが広がっていく。だが男は瞬きひとつせず、顔を拭いもしなかった。ただ一言だけ告げた。
「一つだけお伝えします。御社へは二度と納品しません」
三人が声を揃えて笑った。何かと思えば、取引先の一つや二つ消えたところで痛くも痒くもない。どうぞどうぞ、好きにしなさい。
「ていうかさ、さっきから気になってたんだけど、その手、不潔なんですけど。爪の間まで真っ黒じゃない。よくその手でここに来れたわね。早く帰ってよ」
男は何も言わず、静かに座敷を出ていった。
それから三週間後、土砂降りの雨の日、その大企業の会長は町工場の床に額を擦りつけることになる。
あなたは職人の手をお笑いになりましたね。本社の製品は今日まで、この汚れた手が回してきたんですよ。
笑った一家は、目の前の男が自分たちの会社の命綱を握っていたことを知らなかった。
これは看板ではなく、その手だけで生きてきた男が、静かに筋を通す物語である。
朝五時。まだ暗い下町の路地に、工場のシャッターを開ける音が響いた。真辺徹、四十八歳。真辺製作所の二代目社長である。従業員は十八人。創業は父の代から五十年になる。工場の電気をつけ、機械を一台ずつ見て回る。社長でありながら、今も自分で機械の前に立つ。それが徹の毎朝だった。
七時前、専務の旗中が出勤してきた。父の代からの番頭で、経理も営業も一手に引き受けている。
「社長、また一番乗りですか。少しは若いもんに任せたらどうです」
「機械の音を聞いていないと落ち着かないんですよ」
事務所で朝の打ち合わせが始まる。旗中のノートには、同業者の廃業の知らせが並んでいた。
「川向こうの鉄工所さん、今月で畳むそうです」
「そうか。また一件か」
同業者はこの十年で半分に減った。だが真辺製作所は十八人の給料を一度も遅らせたことがない。広告も出さずに、注文は途切れない。
「うちは広告を出さない。それでも注文は途切れたことがなかった。納めた品物が次の信用を連れてくるからだ。父が常に言ってましたからね。宣伝はしない。その分を従業員の給料と機械に回せ、と」
徹の暮らしは地味なものだった。着るものは色あせた作業着。スーツは量販店の一着きり。住まいは工場の二階。その姿だけを見た近所の人は、あそこの二代目は変わり者だと噂した。徹は聞こえても笑っているだけだった。
夕方、仕事を終えた徹は流しで手を洗った。指は太く、手のひらには硬いタコがある。爪の間には黒い機械油が染みついて、石鹸を三度つけても落ちない。この手を見るたび、徹は父を思い出す。朝から晩まで旋盤の前を離れない、無骨な職人だった。技術は全部、隣で手先を見て盗んだ。機械に向き合う姿勢は、背中を見て学んだ。その父も十年前に死んだ。母は徹が幼い頃に病気で亡くなっている。家族と呼べる人間はもう誰もいなかった。
帰り際、旗中が振り返った。
「社長、仕事もいいですがね。そろそろご自分の身の振り方も考えてくださいよ。縁談の一つでも」
「勘弁してください。この年ですよ」
「その年だから言ってるんです」
夜は工場の二階で一人で飯を食う。寂しいと思ったことはない。ないつもりで四十八年やってきた。
数日後の昼下がり、工場に珍しい客が訪ねてきた。杉浦、七十二歳。手入れのいい白髪に銀の懐中時計。背筋の伸びた老紳士である。
「おお、杉浦さん。ご無沙汰しております」
「おう、トオル君。元気そうだな」
三十年前、真辺製作所は倒産しかけたことがあった。どこの銀行も金を貸してくれなかったあの冬。たった一人だけ、融資の道を探した銀行員が、当時支店長だった杉浦である。杉浦は三日間、工場に通い詰めた。工場と納品先と職人の手元をその目で確かめ、金が帰ってくる根拠を揃えてから本店に掛け合ったのだ。その掛け合いの最後の一言を、徹は父から何度も聞かされて育った。
「数字は揃えた。それに、この工場の品物は嘘をついとらん」
父も、徹も、工場で働くみんなの暮らしも、あの冬に救われた。
応接室で茶を出すと、杉浦はやがて唐突に切り出した。
「トオル君。今日は頼みがあってきた」
「頼みですか。私にできることなら」
「見合いをしてくれんか」
「はあ」
「わしの古い知り合いの家のお嬢さんでな。年は三十五。トオル君、あんたは一人なんだから。町内でも草の陰で心配されとるぞ」
断る理由ならいくらでもある。だが目の前にいるのは、あの冬の真辺製作所を救ってくれた人だ。
「わかりました。杉浦さんの頼みなら。ただ、一つだけお願いがあります。私のことは、町工場の経営者とだけ伝えてください。会社の細かい話はなしでお願いします」
「お、それはまたどうして」
「相手の方には、会社の規模や肩書きじゃなく、この年まで油まみれでやってきた男として会いたいんです。それでダメなら、それまでのご縁です」
杉浦はふっと目を細めた。
「わかった。先方には、会って判断してほしいと伝えておこう。まったく、頑固な親子だ」
その夜、徹は釣書を書いた。白い便箋に筆ペンで。会社の肩書の欄には「真辺製作所 代表取締役」とだけ。嘘は一つもない。ただ飾りもしなかった。
数日後に届いた先方の釣書は、封を開けずに引き出しにしまった。会う前に肩書きで人を見るのはやめておこう。こっちが先に頼んだことだ。
同じ頃。都心の高台にある大手電気メーカー、兵藤電気工業の会長の屋敷。会長の兵藤は、届いたばかりの釣書を妻に手渡し、娘に向かっていった。
「杉浦さんからの縁談だ。会うだけ会ってみなさい」
妻の貴子が老眼鏡をかけ、釣書をめくる。
「あら、四十八ですって。瞳より十三も上じゃありませんの。ええっと、真辺徹さん。聞いたことのないお名前ね。何それ。友達に言えないじゃない」
兵藤は新聞から顔も上げなかった。それ以上の会話は、誰も続けなかった。
「でも、あの杉浦さんのご紹介ですよ。会社の話を伏せてあって判断してほしいだなんて。よほどの家の方かもしれませんよ」
瞳はソファの上で足を組み替え、写真をつまみ上げた。
「地味なおじさんね。これで社長。このスーツ、その辺で売ってるやつじゃないの。なんかくびれてるし」
顔より先に服を見る。それが瞳の人の見方だった。
「まあいいわ。お父様の顔を立てて、会うだけ会ってあげる」
「杉浦さんの顔を潰すな。それだけだ」
会長の言葉はそれで終わりだった。
見合いは十日後、銀座の料亭と決まった。
見合いの日は、梅雨入り前のよく晴れた土曜だった。徹は一着のスーツに袖を通し、料亭へ向かった。青もみじの茂る庭のある一軒家で、予約も取れない格式の高い店だった。通されたのは、床の間付きの広い個室。床の間を背にした上座に、三人が並んで座っていた。中央に、貫禄のある白髪の男。隣に和装の夫人。そして、濃い赤のワンピースの若い女。耳元で大きなピアスが光っていた。
杉浦が形式にのっとって挨拶を述べた。
「本日はお運びいただきありがとうございます。こちらがお話ししました真辺徹君です」
徹は下座に正座し、畳に手をついて頭を下げた。
「初めまして。真辺徹と申します。本日はありがとうございます」
顔を上げた時、向かいの男が名乗った。
「兵藤だ。兵藤電気工業の会長をしている。妻の貴子と、娘の瞳だ」
その名前を聞いた時、湯飲みへ伸びた徹の手が一瞬だけ止まった。だが徹は何事もなかったように茶を一口飲み、改めて頭を下げた。
「よろしくお願いいたします」
その一瞬の意味を知るものは、この座敷にはいない。一方の三人は、目の前の男に視線を走らせていた。値段の分からないスーツの生地、靴の手入れ、そして指先に染みついた黒い機械油。貴子と瞳が目だけで顔を見合わせた。
「では、私は席を外しますので。後はどうぞごゆっくり」
作法のとおり、杉浦は席を外す。本人がいなくなった座敷の空気が変わるまで、そう時間はかからなかった。初めのうちは穏やかだった。だが料理が一区切りつくと、貴子が笑顔のまま切り込んできた。
「それで、真辺さん。お仕事はどういった?」
「町工場を営んでおります。父の代から続く金属加工の工場です」
「まあ、町工場。従業員って、何人いるの?」
「十八人です」
瞳の目から、すっと興味の色が消えた。
「それって、パートさん抜きの数字?」
「パートも含めて全員で十八人です」
「全員で、はあ」
瞳は失礼な笑いを隠そうともしなかった。
「大学はどちらを?」
「高校出てすぐ、父の下で働きました。大学には行っておりません」
貴子の眉がわずかに上がった。
「あら、あの杉浦さんのご紹介ですのに」
兵藤はそれまで一言も口を聞かなかった。だが湯飲みを置くと、初めて口を開いた。
「年収は」
「経営は楽ではありませんが、従業員の生活は守れております」
「聞いたことに答えなさい。数字だ」
「七百万円です。会社に利益が出た年も、私の取り分はここで止めています。残りは機械と従業員の給料に回しますので」
隠しもしなければ恥じもしない。真っすぐな答えだった。兵藤はふんと鼻を鳴らした。
「それで社長とは、よく言えたものだ」
それきり、また庭に目を戻した。質問が一つ進むたび、座敷の温度が下がっていった。三人が期待していた「よほどの家の方は」どこにもいなかった。三人の目に浮かんだものを通り徹は知っていた。品物を値踏みする目だ。それも、買う気のない客の。
貴子が娘のほうへ体を寄せ、聞こえよがしの小声で言った。
「杉浦さんも、お年を召したのかしらね」
「本当、それ」
二人はすぐに、何事もなかったような笑顔に戻った。徹は聞こえなかったふりで茶を吹いた。
食事の締めのコーヒーは、誰も口をつけないまま冷め始めていた。貴子が改めて徹に向き直った。
「時に、真辺さん。ご両親はおあり?」
「母は私が幼い頃に病気で亡くなりました。父も十年前に亡くなり、今は一人です」
「まあ、片親でお育ちになったの? 責めているのではないのよ。ただ、こういうことはお家とお家のご縁ですから。言葉の端々で、お育ちというのは分かるものよ。その年までどなたもお相手がいらっしゃらなかったのも、ねえ。世間様はちゃんと見ているものなのよ。お父様のことを悪く言うつもりはないの。でもね、親の器というのは、この暮らしに出ると申しますでしょう。質の悪い子は、ね」
徹の膝の上の拳が固く握られた。自分への言葉なら聞き流せる。だが、旋盤一筋で自分を育てた父まで値踏みする声は、腹の底に刺さった。張ったこともないくせに。それでも徹は言い返さなかった。じっと貴子の目を見ていた。
その視線から逃げるように、瞳が大げさに顔をしかめた。
「っていうかさ、さっきから気になってたんだけど、その手、不潔なんですけど。爪の間まで真っ黒じゃない。よくその手でここに来れたわね」
徹はその手を隠さなかった。三十年かけて品物を作り続けてきた手だ。
その時だった。兵藤が音を立てて茶碗を置いた。
「もういい。時間の無駄だ」
兵藤は初めてまっすぐに徹を見た。値踏みすら終わった目だった。
「教えておいてやろう。うちはな、君の工場の年間の金を一日で動かす会社だ。住む世界が違うというのは悪口ではない。事実を言っている。間違いだ。帰りなさい。一生下請けのまま、泥でも舐めていることだ。それが君らの文というものだよ」
「町場の貧乏人は間違いよね」
「そういうことね。帰れば」
三人の笑い声が座敷に重なった。
徹は畳に手をつき、腰を上げた。そして瞳を見た。
「差し出がましいことを、一つだけ」
「はあ?」
「この席であなたは一度も、私の目をご覧になりませんでした。ご覧になっていたのはスーツの生地と靴と、この手の油だけです」
「何よそれ」
「生地や靴は、その人の値打ちを教えてくれません。もし今まで、いいご縁に恵まれなかったのだとしたら、多分それが理由ですよ」
座敷が静寂に包まれた。兵藤は眉を上げただけだった。貴子は口元に手を当て、小さく笑った。
「まあ、負け惜しみだこと」
だが瞳だけは違った。みるみる顔が赤くなっていく。見合いの数だけ断り、断られてきた。理由は考えないことにしてきた。それを、今日一番下に見ていた男に言い当てられた。言い返す言葉が出ず、唇だけが震えた。恥が怒りに変わるまで、三秒もかからなかった。瞳がコーヒーカップを掴んだ。
その瞬間、水音が響いた。冷めたコーヒーが徹の顔に浴びせられた。額から茶色い滴が伝い、一着のスーツに染みが広がっていく。
「何様のつもりよ。親もいない、金もない、油まみれの底辺のくせに。あんたみたいなのに説教される筋合いなんてないのよ」
徹は瞬きひとつせず、顔を拭いもしなかった。そして告げた。
「一つお伝えし忘れました。御社へは二度と納品しません」
一瞬の静寂の後、先に笑い出したのは兵藤だった。
「何かと思えば。うちの取引先がいくつあると思っているのかね。君のような下請けが一つや二つ消えたところで、誰も気づきもせん。どうぞどうぞ、好きにしなさい」
「やあね。脅しのおつもりかしら。意味わかんない。早く帰ってよ」
徹は畳に両手をつき、深く一礼した。
「本日はありがとうございました」
座敷を出る背中を、三人の笑い声が追いかけてきた。廊下で茶器を下げに来た仲居が、コーヒーまみれの客を見て小さく息を飲んだ。
「お騒がせしました。杉浦様に、先に失礼しますとお詫びをお伝えください」
深々と頭を下げ、徹は玄関へ歩いていった。濡れた姿を、誰にもだけは見せたくなかった。
その夜、工場の二階で徹は一着のスーツと向き合っていた。量販店の安物だが、幸い家で落ちる生地だ。染みの下に乾いたタオルを引き、薄めた洗剤を含ませた布で叩いて、下のタオルへ汚れを移していく。こすらない。長いこと一人暮らしをしていた徹は、染み抜きくらいは心得えていた。品物の手入れと同じだ。汚されたからと言って、捨てる理由にはならない。
「泥でも舐めてろか」
叩きながら、ふと父の言葉が甦った。
「いいか徹。蓮の花は泥の中で綺麗に咲く。咲いた後は、泥には染まらん」
週明けの月曜朝、七時。徹は旗中と向かい合っていた。
「旗中さん。共同電気さんとの取引基本契約、次の更新は見送ります」
「はい。次の更新は見送り…は?」
旗中の手が、電卓の上でピタリと止まった。
「おい待てください。兵藤電気って、あの大企業ですか? うちの売上の四割じゃないですか」
真辺製作所の削る部品は、兵藤電気の主力モーターの心臓部に使われている。同じ精度で量産できる工場は、国内にうちしかない。あの見合いの席で、この縁を知っていたのは徹ただ一人だった。
「ええ、その兵藤電気です」
「そ、理由を伺っても?」
徹は土曜日の出来事を順を追って晴らした。父への言葉、職人の手の侮辱、そしてかけられたコーヒーのこと。聞くうちに、旗中の顔からいつもの余裕が消えていった。
「社長にコーヒーをぶっかけただと」
「旗中さん」
「なんだそれは」
この男の怒鳴り声を、徹は初めて聞いた。
「相手が誰か分かってやっとるのか。その親子は、うちの会社の心臓を握っとる相手ですぞ。本来なら、うちが足を向けて寝られん立場で。うちの職人の悪口だとか、ふざけるのも大概にせえ」
旗中は電卓を握りしめたまま立ち上がり、狭い事務所を二度、行って戻った。
「わしが行きます。本社に乗り込んで、目の前で教えてやりますよ。あんたが笑った男が誰なのかって」
徹はふっと吹き出した。
「旗中さん、落ち着いてください。その電卓を握って、どこへ乗り込むつもりですか」
「あ、冗談じゃ言っとるんじゃありませんぞ。わしは本気で」
「ええ、分かっています。気持ちは十分いただきました。ありがとうございます」
礼を言われて、旗中の怒りは行き場をなくした。
「うちは品物で飯を食っている会社です。怒鳴り込みは無作法じゃないですか。だから次期の見送りです」
旗中は大きく息を吐いて椅子に戻った。手の中の電卓をそっと机に戻した。
「失礼しました。しかし社長、売上の四割が飛びます。十八人の給料はどうなさるおつもりで…」
言いかけて、旗中の目が止まった。伝票の山が勝手に頭の中で弾き始めている。
「いや、ありますな。引き合いが。わしが断り続けてきた、あの引き合いの山が」
「ええ、うちの部品を欲しがる会社は、兵藤さんだけじゃない。値段の折り合いで、旗中さんに断ってもらっていただけです。十八人を路頭に迷わせるようなことはしません。それだけは約束します。ただし、旗中さん。受けた注文は最後の一個まできちんと収め切ってください。品物で手を抜いたら、うちがうちでなくなる」
「もちろんですとも。偶然も完璧な品を、最後の一個まで収めてやります。その上で、更新はなし」
「ふ。こんなに腹の立つお客さんは、わしの四十年で初めてですわ」
契約を結び直すかどうかは会社の自由である。受けた注文はきちんと納める。喧嘩ではなく、筋を通した取引の判断だった。
その日の午後、旗中は窓口の担当者へ正式な通知を送った。次期契約の更新は見送らせていただきます。
翌日の夕方、兵藤電気の調達部の担当者が、正式な通知を手に駆け込んできた。
「内田さんが、うちとの契約をもう更新しないと。内田さんから仕入れて御社を納める、その流れが来月から止まります。つまり、あの部品がうちに入らなくなるということか」
「金額の話ではないと。理由は経営判断の一点張りで、直接の面会も拒否されました。先方の専務が、どなたとお会いしてもお返事は変わりませんと」
調達部長の顔から、みるみる色が失せていった。
「おい、真辺が抜けたら、主力のモーターはどうなる?」
「止まります。あの精度で量産できるのは、あそこだけです」
その足で調達部長は会長室へ上がった。だが反応は薄かった。兵藤電気が契約を交わしている相手は、あくまで窓口の会社。会長の目に届く資料に、町工場の名前は並ばない。
「相手は真辺製作所。うちの主力モーターの心臓部を、一日に何百個と削っている町工場です」
「真辺…」
数日前、妻が釣書を読み上げたあの名前である。だが兵藤の眉はぴくりとも動かなかった。新聞越しに聞き流した名前を、人は覚えていない。
「ふん。金の問題ではないという人間ほど、金で転ぶものだ。単価を倍にすると言わせなさい。高が町工場だ。それで終わる」
腰を下ろすと、兵藤は書類仕事に戻り、町工場の名前を五分で忘れた。
その夜、徹の携帯に杉浦から電話が入った。
「トオル君。向こうから連絡があってな。ご縁がなかったと。先方は、あんたの方から断ったと言っておるんだが。何かあったか?」
「いえ、ご縁がなかっただけです。相手が違っただけです」
「そうか」
杉浦はそれ以上聞かなかった。だが電話を切った後も、受話器を見つめていた。四十年、業界の荒波の中で人を見てきた目が、今日の話に小さな引っかかりを覚えていた。
三日後、兵藤電気の会長室に調達部長が再び上がってきた。
「単価二倍の条件で、真辺製作所に断られました」
「高が町工場が、いい気になりおって。では三倍だ」
さらに三日後、部長はまた戻ってきた。
「三倍でもお断りすると。先方の専務は、社長の返事は変わりませんの一点張りで」
「なんだと。なら、会社ごと買えばいい。提示を聞いてきなさい」
金で動かなかった人間を、兵藤は見たことがなかった。だが窓口を通じて帰ってきた徹の言葉は一行だけだった。
「金額の話だと思っておられるうちは、この話は永遠に噛み合いません」
「何を粋がっておるのだ」
兵藤はまだ笑っていた。
一方、調達部はなりふり構わず代わりの工場を探していた。国内の同業を片っ端から当たったが、答えはどこも同じだった。
「作るならできます。ですが、あの精度で量産すれば、不良品の山になります」
海外は品質の審査だけで一年かかる。そして倉庫の在庫が、あと二週間分しかないことが分かった。
二週間後、在庫は尽きた。兵藤電気の工場で、モーターの組み立てラインが止まった。一日止まれば損害は億の単位で膨らむ。納期は守れず、取引先からの賠償請求が始まった。株価が下がり、メインバンクからは融資の条件を見直したいと連絡が入った。経済紙に見出しが踊った。
「兵藤電気、主力工場が停止。部品調達に行き詰まり」
役員会で、兵藤は初めて追及を受けた。
「会長、原因は何なんですか。部品一つで、なぜうちほどの会社が止まるのです」
「先方の技術的な都合だ。心配はいらん。私がじきじきに話をつける」
嘘だった。話をつける手立てなど、どこにもなかった。
その頃、杉浦はあの料亭で、古馴染みの女将と向き合っていた。仲介役として、破談の経緯を確かめに来たのである。女将は迷いながらも話した。部屋の外で仲居が聞いた言葉、重なった笑い声、そしてコーヒーまみれのまま「迷惑をかけた」と深々と頭を下げて帰ったあの客のこと。
聞き終えた杉浦は、長いこと目を閉じていた。
「トオル君。あんたはそれだけのことをされて、わしに何も言わんかったのか」
翌朝、新聞の見出しと女将の話が、老銀行員の頭の中で一本の線につながった。杉浦は受話器を取った。
「兵藤さん。一つだけ聞かせてもらう。先方から断ったというのは、どっちの話かね」
「杉浦さん。急に何を」
「料亭で全部聞いた。あんたの奥さんと娘さんは、わしが連れて行った彼を散々値踏みした。おまけに娘さんはコーヒーをかけたそうだな」
「え? いや、あれはその…」
「その男の名前は真辺徹。真辺製作所の社長だ。今、あんたの会社のラインが止まってる理由がまだ分からんのかね」
受話器の向こうで、息を飲む音がした。雨が本降りになった。
その日の午後、真辺製作所の門の前に黒塗りの車が止まった。運転手が傘を差し出し、まず兵藤が降りた。貴子と瞳が、一本の傘で続く。兵藤は、杉浦の電話で全てを知った。翌日、会長が直接伺うと、一方的に連絡を入れさせた。
車の中で兵藤は妻と娘に言い聞かせてきた。
「いいか? 頭は下げるな。所詮、田舎の職人だ。脅して金を積めば、必ず落ちる。わしは五十年、そうやって商売をしてきた」
兵藤の頭の中に、「詫びる」という道だけはなかった。
事務所の前で、旗中が三人を迎えた。徹は作業着ではなく、あの日と同じ灰色の一着を持っていた。
「忙しいところ悪いな。話し合いに来てやった」
兵藤は椅子にどかりと腰を下ろし、足を組んだ。上に立つ者の顔だった。だがその指先が膝の上で小さく震えているのを、徹は見ていた。
「この後に及んで、まだその顔か。お話しすることはありません。お引き取りください」
「ならば、こちらにも考えがあるぞ。一方的に取引を断ち切られたのだ。法廷で争ってもいい」
「どうぞと申し上げたいところですが、会長さん。うちの方が一枚上手でした。御社とうちは、契約書一枚も交わしたことがございません。うちの取引の相手は、窓口の会社さんです。その窓口さんとの契約は期間満了。お受けした分は、最後の一箱まで収め終わっております。どこの誰を、何の権利で訴えるおつもりですか」
旗中が一枚の紙を差し出した。兵藤はそれをひったくるように見た。何やら難しい法律用語が並んでいたが、要するに、法的な言い分がないことは明白だった。
「あ、頭はいいのか、君は」
「いくらだ」
徹は答えなかった。その沈黙を、兵藤は値上げの駆け引きと読んだ。
「単価は五倍出す。迷惑料に一億積んでもいい。いくらなら戻すか、言ってみなさい。金で動かん人間など、この世におらんのだ」
テーブルを叩く音が応接室に響いた。徹は目を伏せた。浮かんだのは父の顔だった。踏まれても、品物の精度だけは一度も落とさなかった男。その男を「気の毒な」と笑った一家が、今、目の前で金を積もうとしている。
「金額の話だと思っておられるうちは、噛み合わないとお伝えしたはずです」
兵藤の顔に、初めて焦りが浮かんだ。脅しも金も効かない。この男の持ち札は、それで全部だった。
旗中が口を開いた。声は低いまま、膝の上の拳だけが白くなっていた。
「会長さん。品物なら値段がついております。いくらでも応じます。ですが、人を踏みつけた言葉には値段がつきません。金では買い戻せんのです」
兵藤がぐっと詰まった。貴子が夫の袖を引いた。そして、打って変わった猫なで声で言った。
「こういう男はね、上に引き上げてあげれば、コロッと落ちるのよ。真辺さん。うちの瞳と、改めて正式にご縁を結んでいただくの。そうすれば、あなたも兵藤の身内ですのよ」
「娘さんがコーヒーをかけたお相手に、今度はその娘さんを。本社の誠意とやらは、随分とお安いんですなあ」
貴子の顔が引きつった。隣で、瞳の体がびくりと揺れた。
「お母様。私を、この男に差し出すの?」
だが口には出せなかった。ラインが止まってから、家の中は毎日、お通夜状態だった。これで終わるなら。
瞳は椅子を立ち、徹のすぐ傍らまで歩み寄った。精一杯の笑みを作る。
「ねえ、真辺さん。あの日のコーヒーはごめんなさい。私、どうかしてたの。クリーニング代もお支払いするからね」
「あの日、不潔と笑ったこの手を」 白い指が伸びる。その指先が届くより先に、徹は右手を開いて、瞳の目の前に掲げた。爪の間に油の黒が染みついた、三十年の職人の手を。
「この手は、あなたが不潔と笑ったあの日のままですよ。油もタコも、一生取れません。働く手とは、そういうものです」
瞳の指が空中で止まった。そして、勝手に引っ込んだ。窓を叩く雨の音だけが響いた。
「それから、クリーニング代は要りません。染みなら落ちました。自分の手で落としました。この胸には、もう何も残っていません」
言われて初めて、瞳はそのスーツに目を落とした。あの日と同じ灰色の一着。染みはどこにもなかった。
「ですが、兵藤さん。古い話にこんなのがあるそうです。悪口は贈り物と同じだと。受け取るものがいなければ、贈り物は差し出した人の手元に残る。あの日の言葉を、私は受け取りませんでした。ですから、あれは今も全部、あなた方の手の中にあります。一生、ご自分でお持ちください。そしてもう一つだけお伝えしておきます。汚れた手だとお笑いになりましたね。本社の製品は今日まで、この汚れた手が回してきたんですよ」
雨の音が遠くなった。兵藤は、掲げられたままのその手を見た。見合いの席では、一瞥もしなかった手だった。
「ちっ、杉浦め。先に行ってくれさえすれば。どうする。どう出れば戻る。ラインが、銀行が、株主が」
兵藤は自分から膝を折った。崩れたのではない。計算の末に、床へ降りたのだった。
「わかった。頭を下げればいいんだろう」
額を、油の染みたコンクリートの床に擦りつける。
「ほら、頭を下げたぞ。兵藤の当家がここまでやったのだ。さあ、契約を戻せ。戻してくれ」
顔を上げた兵藤の目に、謝罪の色は全くなかった。徹はその姿を見下ろさなかった。腰を落とし、目の高さを合わせて告げた。
「頭は取引の道具じゃありませんよ。あなたは最後まで、何も分かっていない。お取引というのは信用で結ぶものです。御社への信用は、あの日の座敷でなくなりました。商売の話は以上です」
旗中が一歩前に出た。
「最後にご報告がございます。当社は本日付けで、御社と同業の大手さんと、十年の長期供給契約を結びました。うちの旋盤が止まる日は、十年一日もございません」
十年。兵藤の頭の中で、何かが音を立てて崩れるものがあった。生産計画、納入先との約束、銀行への説明。肘が折れ、体が床についた。
「わしには会社しかないんだ。頼む。この通りだ。この通りだ」
泣き落としが通じないと見るや、兵藤は妻の方を向いた。
「元はといえば、お前たちだ。お前たちがあいつの悪口を言うから、会社を潰したんだ」
「はあ? 私のせいですって。あなたの顔色を見て、言って差し上げただけでしょう」
見苦しい言い争いが応接室で渦を巻いた。瞳は窓際で立ち尽くしていた。両親の言い争いも、土下座も、全部誰かのせいにしたかった。行き場のない恥が、目の前の男へ吹き出した。
「全部あんたのせいじゃない。町場の貧乏人のくせに、この私に恥をかかせて。あんたなんか、契約がどうだろうと、所詮は油まみれの底辺じゃない」
「油まみれの底辺?」
あの日と同じ言葉だった。この女の本音は、最初から変わっていない。徹は声を荒げなかった。
「今の発言も含めて、全て顧問弁護士から正式にご連絡します」
瞳の顔から赤みが失せた。旗中が事務所の扉を開けた。作業服の従業員たちが通路に並び、誰も何も言わないまま、門までの道をまっすぐに開けていた。
「どうぞどうぞ。お引き取りください」
あの日の言葉が、そっくりそのまま三人に返された。それでも兵藤は徹の足元にはい上がった。
「待ってくれ。三ヶ月、三ヶ月でいいんだ。納品を」
若い従業員が二人、兵藤を抱え起こし、玄関先まで送り出した。玄関の外は土砂降りだった。運転手が慌てて傘を差しかけたが、兵藤は頭の上の傘に気づきもしなかった。門の手前で膝から崩れ、水溜まりの中に両手をつく。
「なぜだ。なぜわしが、こんな町工場に」
五十年、人を値踏みして生きてきた男が、値踏みした相手の門の前で、初めて自分の値段を突きつけられていた。「泥でも舐めていろ」と言い放った男は、すでに泥の中にいた。
「ちょっとあなた、おやめになってよ。いいじゃありませんの。こんな汚い工場。お取引先なんて、他にいくらでもあるでしょうに」
会社の帳簿も、銀行の顔色も、この夫人は一度も見たことがない。何も知らない者だけが、まだそれを言えた。
瞳はさっさと一人で車に戻り、ドアを力任せに閉めた。
「最悪。このワンピース、いくらしたと思ってるのよ。汚れたらどうしてくれるの。大体、あの杉浦って人が悪いのよ。あんな男との見合いなんて持ってくるから」
反省という言葉は、この家の誰の辞書にも載っていなかった。
徹は何事もなかったかのように作業場へ戻り、いつもの作業着に着替えた。機械の音が、雨音を消した。
夕方には雨が上がった。濡れた路地に西日が差し込んでいる。事務所から、調子外れの鼻歌が聞こえてきた。旗中である。帳簿をつけながら、隠す気もなく機嫌がいい。
「旗中さん、随分ご機嫌ですね」
「おや、聞こえておりましたか」
旗中が例の電卓で茶を二つ入れ、片方を徹の脇に置いた。
「いやあ、四十年も番頭をやっておりますとなあ。帳簿をつけるだけで、胸がすくということがあるもんですなあ」
「この前、その電卓を握って怒鳴り込みに行きかけた人が、よく言う」
「はて、何のことですやら」
軽口を叩く横顔に、徹は小さく吹き出した。ひとしきり笑った後、旗中は一応の顔を作った。
「で、一応伺っておきますがね。よろしかったんですか。あれだけ頭を下げられて」
「品物と同じですよ、旗中さん。歪んだものを無理に組み込めば、いつか全部が壊れる。取引も縁も同じでしょう」
「でしょうなあ。ま、わしは今夜の晩酌がうまくてしょうがない予定ですが」
旗中は鼻歌の続きを歌いながら、工場へ戻っていった。
夜、徹の携帯が鳴った。杉浦からだった。詫びの言葉が来ると思った。だが声はいつも通りだった。
「トオル君。近いうち、あの料亭で飯を食おう。わしのおごりだ」
「はい。ぜひ」
電話を切った徹は窓の外を見た。雨上がりの空に、夕焼けの名残りが細く残っている。いつもと同じ一日が、また始まる。
数日後、兵藤電気の本社で臨時の取締役会が開かれた。議題は、この危機の責任は誰にあるのか。法務部長が抑えた声で報告した。
「一部の株主から、正式な請求が届いております。会長の責任を追求する裁判を会社として起こせと。会社が六十日以内に動かなければ、株主が自ら訴えを起こせます」
株主代表訴訟。会社に損を与えた経営者個人に、株主が賠償を求める裁判である。払うのは、兵藤個人の財産である。
「会長はこの役員会で、『先方の技術的な都合』と事実と異なるご説明をなさいました。手立てのないまま対応を遅らせ、損害を広げた。問われているのはそこです」
誰も会長を庇わなかった。金の切れ目を誰よりも早く見抜くのが、この会社の社風だった。一週間後、取締役会は会長職の解任を決議した。兵藤という名前が、会社から消えた。
数ヶ月後、兵藤電気はラインを他社製の部品でどうにか動かした。だが品質は落ち、主力の座は他社に奪われた。裁判は法廷が開かれる前に終わった。兵藤が観念して、賠償に応じたのだ。賠償は退職金と屋敷を飲み込んでも、まだ足りなかった。
兵藤夫婦が今住むのは、下町の外れの古い木造アパートである。持ち出せた荷物はダンボール数箱分。その半分は、貴子が鍋や布団より先に詰めた着物だった。七十歳の元会長は、週に三日、ビルの清掃に出る。年金だけでは家賃が払えない。
雨の日、仕事帰りの兵藤は、ビニール傘の下、スーパーの見切り品の袋を下げて路地を歩いていた。ふと足が止まる。機械の音と油の匂い。小さな鉄工所で、若い職人が手を油だらけにして働いている。兵藤は、洗剤で抜けた自分の手を見た。五十年、半より重いものを持たなかった手が、今は床を磨いて米を買っている。
「わしは、何を笑っておったのかな」
つぶやきは雨の音に消えた。
貴子はその日、駅前の着物買い取りの店にいた。カウンターに畳んだ藤色の訪問着を差し出す。金髪の若い店員が片手でめくり、電卓を叩いて値段を言った。思っていた額の十分の一だった。
「そんな。これ、いいものなのよ。ちゃんと見てくださらない?」
「見ましたよ。着物って正直、今動かないんすよね。これでも頑張った金額っす」
店員は片手のスマホから目も上げなかった。人を値踏みし続けた夫妻が、値踏みされる側の椅子に座っていた。
社交の集まりからの招待状は、パタリと来なくなった。理由を尋ねた電話の向こうで、誰かが小さく笑った。
「あの方、ほら、もうお家柄がねえ」
瞳は生まれて初めて働きに出ていた。雑貨屋の店番。時給いくらの世界で、頭を下げてレジを打つ。ピアスはイミテーションに変わっていた。本物は質屋に売った。それでも婚活だけはやめなかった。
「お父様は、兵藤電気の元会長で」
「それで、お勤め先は? 年収はおいくら?」
相手の目を見ない癖は、変わらなかった。断られるたび、理由は考えないことにした。
仕事帰り、駅前の全国チェーンの安いコーヒー店。昔なら入りもしなかった店である。一番安い一杯が、今の精一杯の贅沢だった。その一杯にも口をつけないまま、コーヒーは冷めていた。見ているうちに、不意にあの男の声が甦った。
「いいご縁に恵まれなかったのだとしたら、多分それが理由ですよ」
「うるさいわね」
誰もいない席に呟いて、瞳は伝票を掴んだ。
三人の暮らしから、多くのものが消えた。
数日後、徹は銀座の料亭の門をくぐった。土に埋められた庭の植え込みも、夏の濃い緑に変わっている。個室の下座に、今日は杉浦が一人で座っていた。
「どうぞ。ここの料理は、今が一番うまい」
酒を交わし、やがて杉浦が杯を置いた。
「トオル君。あの縁のことだがな。わしはあんたに、謝らねばならん」
杉浦さん、と頭を下げかけようとする老紳士を、徹は言葉で止めた。
「三十年前、どこの銀行も貸さなかった時に、うちの工場へ金を貸した人がいます。三日も通って、帳簿と納品先と親父の手元を見て、『この工場の品物は嘘をついとらん』と言った人です。その人の目が、間違っているはずがないでしょう」
杉浦はしばらく黙って、口元を緩めた。
「相手が違っただけか」
「ええ、相手が違っただけです」
いつかの電話と同じ言葉だった。今度は二人で笑った。
「実はなあ、トオル君。もう一件だけ、会ってもらいたい人がおる。商店街で定食屋をやっとるお嬢さんでな。年は三十八。酒よりも味と値段で客を掴む店だ。わしはうまいと思っとる。飯も人もな」
徹は苦笑した。断る理由を探してみた。見つからなかった。
「わかりました。ただし杉浦さん、今度も会社の中身は伏せてください。同じ条件で」
「ははは。頑固なやつだ」
二人の笑い声が、夏の座敷に響いた。
工場は変わらず回っている。新しい長期契約で旋盤が二台増え、若い従業員が一人入った。夕方、作業場で若い従業員の手元を見ていた。
「社長、ここの寸法がどうしても出なくて」
「貸してごらん」
徹の太い指が機械に触れる。削る音が、すっと澄んだ。
「すげえ」
「三十年やれば、誰でもできる。お前の手にも、そのうち油が染みてくる。染みた頃には、できるようになってるさ」
仕事終わり、誰もいない作業場に西日が差し込む。徹は流しで手を洗った。石鹸を三度つけても、爪の間の黒は今日も落ちない。だが徹はその黒を見て、少しだけ笑った。汚れではない。父から受け継ぎ、三十年かけて染みた、職人の証である。
「親父。うちの部品は、今日もちゃんと回ってるよ」
作業場の明かりを消す。明日も朝の五時にシャッターは開く。その手が削るものが、どこで誰の暮らしを支えていくのか、知る人は少ないけれど。品物は今日も、嘘をつかない。



