退職祝いの食卓で、35年間働き続けた夫が「明日からは毎日家にいるからな」と笑った。私は黙って白い封筒を置いた。中身は離婚届。夫は激怒した。「俺を捨てるのか? 養ってやったのに」と。でも私はもう決めていた。彼が友人に「これからは娘に三食作ってもらって昼寝だ」と笑いながら話すのを聞いた瞬間、私の中で何かが終わった。長年誰かのために生きた女が、61歳で初めて自分の人生を選ぶ。…
食卓には、私が腕によりをかけた料理が並び、中央にはちょっと奮発して買った高級な肉料理も置いた。今日は夫の正雄の退職祝い。家族みんなで囲む、35年の勤め上げを讃える小さな宴だ。 「明日からは毎日家にいるからな。朝は7時に起こしてくれ。昼飯も家で食べる。これからは2人でのんびり暮らそう。」 そう笑う夫の前に、私は白い封筒を置いた。退職祝いと思ったのか、夫は封筒を手に取ろうとして、しかし私の表情に気づいて手を止めた。 「なんだ? 退職祝いか?」 「いいえ、違います。」 夫の笑顔が消える。私は静かに、しかしはっきりと言った。 「明日の朝、私はこの家を出ます。」 娘のミキも息子のコウジも、何も言わずに黙って私を見つめている。夫は机を叩いた。 「おい、軽子、退職祝いの日に悪ふざけはやめろよ。」 「悪ふざけではありません。もう記入も済ませましたから。」 私は61歳。正雄と結婚して35年、ずっと妻として、母として、義理の母の介護人として、食事を作る人として生きてきた。夫は真面目な会社員で、給料は毎月きちんと入れてくれたし、家のローンも退職前に払い終えた。だから私は自分に言い聞かせてきた。この人は家族のために働いている。家のことは私がやらなければ、と。 朝早く起きて弁当を作り、子供を学校へ送り出し、洗濯、買い物、そして夫の帰宅に合わせて夕食を並べる。ある日、私が「今日は少し疲れたわ」とこぼしても、夫は新聞から顔も上げなかった。 「家にいるのになんで疲れるんだ?」 子供のことで相談しても、「そういうことはお前が決めればいい」と、決まってそう言われた。 義母の介護が始まった時も、すべて私だった。食事を作り、夜中に何度も起き、病院へ連れて行った。一度だけ、日曜日に見てくれないかと頼んだことがある。娘のミキの学校行事へ行かなければならなかったから。だが夫は言った。 「平日は俺が働いているんだ。日曜日くらい休ませてくれよ。」 そして義母が亡くなった日、夫は泣きながら言った。「最後まで面倒を見てくれて、母も幸せだっただろうな。」だが翌朝には、「黒い靴下はどこだ? クリーニング屋は頼んでおいてくれ」といつもの夫に戻っていた。 それでも、私は期待していた。夫が退職すれば、何かが変わるかもしれない。2人で散歩に行ったり、旅行に行ったりできるかもしれない、と。 ところが退職の数日前、夫は友人と電話で話しながら笑っていた。 「やっと楽ができるよ。これからは娘に三食作ってもらって、好きな時に昼寝だ。長年働いたんだから、それくらい当然だろう。」 台所でその言葉を聞いた時、私は不思議と腹が立たなかった。ただ、自分の中に残っていた最後の何かが、静かに消えていった。 夫にとって退職とは、私と2人で新しい人生を始めることではない。私に世話をしてもらう生活の始まりだったのだ。 その日から、私は少しずつ準備を始めた。まず近所の花屋で週に3日働き始めた。元々私は結婚前、小さな花屋で働いていた。だが子供が生まれた時、夫に言われたのだ。「花を売る仕事なんていつでもできるだろう。今は家のことを優先してくれ。」そのまま35年が過ぎた。 久しぶりに花に触れた日、自分の手がまだ花の名前を覚えていることに驚いた。「軽子さん、花束を作るのが上手ですね。」店長にそう言われ、胸が熱くなった。家では何をしても当然だった。だが花屋では小さな仕事にも「ありがとう」と言ってもらえた。私は給料を少しずつため、駅の近くに小さな部屋を借りた。 さらに、花屋の店長から思いがけない話をもらった。「来年、私は店をやめるの。この場所で続けてみませんか?」古い商店街の小さな店。それでも私には十分すぎる話だった。 目の前の夫は、何度も離婚届けを見返していた。 「お前、1人で暮らせるのか?」 「暮らせます。仕事もしています。花屋で働いています。来月からその店を引き継ぎます。」 夫は目を見開いた。 「花屋からそんなことをしていたのか?」 「半年前からです。」 「なぜ俺に相談しなかった?」 私は少し笑った。 「相談したら、賛成してくれましたか?」 夫は答えなかった。やがて怒ったように机を叩いた。 「俺を捨てるのか? 35年も養ってやったのに。」 その言葉に、娘のミキが立ち上がった。 「お父さん、いい加減にして。お母さんはずっと家族を支えてきたでしょう。おばあちゃんの介護だって、全部お母さんがやった。父さんはお金を入れれば家族の役目が終わると思っていたのか。」 「子供は黙ってろ。」 「もう子供じゃないから、分かるのよ。」 娘は夫を見つめた。 「お母さんが何年も我慢していたことも、父さんがそれに気づかなかったことも。」 夫は私を睨んだ。 「お前が俺の悪口を吹き込んだのか?」 「違います。2人はずっと見ていたんです。」 家族だから、何をしても許される。父親だから、尊敬される。夫は本気でそう思っていたのだろう。 しばらく黙った後、夫は弱い声を出した。 「じゃあ、俺はこれからどうすればいいんだ?」 昔の私なら、食事や洗濯の心配をしただろう。だが私はもう、夫の母親ではない。 「自分のことは、自分でしてください。」 「今更、できるわけがないだろう。」 「私も今更、新しい人生を始めます。お互い、覚えるしかありません。」 … Read more