息子が家賃として月十三万円の契約書を突きつけてきた。私が三百五十万円もの頭金を出して建てた家で、私は“賃借人”として扱われ、嫁からは「早く出て行って欲しい」とまで言われた。長年蓄えた技術や愛情を「古臭い」「邪魔だ」と否定され、ついに私は静かに笑った。この一瞬、彼らは私の本当の立場を知らない。「この家は俺の名義だ」と自信満々の息子に、私は言おうと思った。明日、弁護士と司法書士に来てもらうと。自…
息子の証午が私の目の前に一枚の書類を差し出したのは、同居を始めてから半年ほど経った頃のことでした。 「母さん、これからはきちんと契約を結んでください。同居するなら家賃を払ってもらわないと」 賃貸借契約書と書かれたその紙を見た瞬間、心臓が大きく跳ねるのを感じました。月額十三万円。敷金二ヶ月分。更新料。まるで本当の賃貸物件のような内容です。 隣に立つ嫁の襟里は薄く笑みを浮かべていました。これまで息子のためにどれほどのものを注いできたでしょうか。教育費に六百万円。結婚資金に、出産祝い。孫の世話も五年間、週に三日は必ず引き受けてきました。 それなのに、今度は家賃を請求されるのです。 私はゆっくりと契約書に目を通し、静かに微笑みました。 「わかりました。サインします」 ペンを手に取り、指定された場所に名前を書き込んでいきます。証午と襟里の顔に、勝ち誇ったような表情が浮かぶのが見えました。けれど私の微笑みは消えることがありません。 この瞬間、二人はまだ何も知らないのです。 私、平野吉恵は六十八歳。和菓子職人として四十年。夫の周一と共に小さな店を守ってきました。息子の証午が生まれた日のことを、今でも鮮明に思い出します。小さな手で私の指を握ってくれたあの温かさ。この子のためならどんな苦労も惜しくないと、心から思いました。 大学の学費は総額六百万円。就職活動の費用、結婚式の援助、そして十年前には同居するための新居の購入資金として三千五百万円を支払いました。孫が生まれてからは、週に三日は必ず世話をしてきました。早朝から夕方まで、喜んで孫の面倒を見続けてきたのです。 けれど数年前から、息子夫婦の態度が少しずつ変わっていきました。 「お母さんの和菓子って、正直古臭いですよね」 襟里がそう言った日のことは忘れられません。四十年かけて磨いてきた技術を、時代遅れだと笑われたのです。 「母さん、もう孫の世話は週一回でいいから」 証午の言葉も日に日に冷たくなっていきます。そしてついに家賃の請求です。 「この家は俺の名義なんだから当然だろ」 そう言い放った証午に、私は静かに微笑むだけでした。なぜなら二人はまだ、本当のことを何も知らないのですから。 契約書にサインをした翌日から、息子夫婦の態度は露骨に変わりました。 「母さん、これからは賃借人なんだから、勝手に冷蔵庫の食材を使わないでください」 朝食の準備をしていた私に、襟里が冷たく言い放ちます。これまで家族全員の食事を作り続けてきたのに、今では自分の分だけを別に用意しなければならなくなりました。 「お母さん、リビングは私たちの共有スペースなので、長居しないでくださいね」 テレビを見ていた私に、襟里は時計を指さします。まるで本当の賃借人を扱うように、部屋の使用時間まで制限されるようになったのです。 夫の周一はそんな光景を見るたびに拳を握りしめていました。 「吉恵、もう我慢しなくていいんじゃないか」 けれど私は周一の手をそっと握り返しました。 「もう少しだけ待っていて」 私の中には確かな計画がありました。 ある日、襟里が友人を家に招いた時のことです。リビングで楽しそうに話す声が聞こえてきます。 「この家って誰が住んでるの?」 「ああ、義母が賃借人として住んでるのよ。月十三万円払ってもらってるんだけど、正直邪魔で」 襟里の笑い声が響きました。私をまるでお荷物のように話しているのです。 「へえ。でも家賃収入があるのはいいわね」 「そうでしょう。まあ、早く出て行って欲しいんだけどね」 廊下で聞いていた私の心は静かに凍りついていきます。けれど同時に、この屈辱を必ず晴らすという決意も固まっていくのを感じました。 週末、襟里の両親が遊びに来ることになりました。 「お母さん、今日はうちの両親が来るので、部屋にいてもらえますか? 賃借人がいるとちょっと恥ずかしいので」 襟里は笑顔でそう言います。自分の両親には立派な家を見せたいけれど、義母である私の存在は隠したいというのです。 「わかりました」 私は静かに自室に戻りましたが、薄い壁越しに聞こえてくる会話が胸に突き刺さります。 「立派なお家ね。証午さん、頑張ったのね」 「ええ、証午が全部やったんです。義母は賃借人として住んでるだけなので」 襟里の声には誇らしげな響きがありました。まるでこの家が自分たちだけの力で手に入れたものであるかのように。けれど真実は違います。この家を建てるための資金を出したのは、私なのです。 そして証午は決定的な言葉を口にしました。 「母さん、正直に言うけど、早く出て行って欲しいんだよ。邪魔なんだ」 夕食後、証午は私の目をまっすぐ見て言います。 「この家は俺の名義だし、俺たち夫婦のものなんだから。母さんは借りてるだけだろ」 「そうですよ、お母さん。ただで住もうなんて、図々しすぎますよね」 襟里も冷たく言い放ちます。その言葉を聞いた瞬間、私の中で何かが決定的に変わっていくのを感じました。もうこれ以上待つ必要はありません。 夫の周一が静かに立ち上がります。 「吉恵、もう見せてやろう。息子に本当のことを」 私は周一を見つめ、静かに頷きました。 「ええ、そうね。もう十分よ」 翌朝、私は一本の電話をかけます。 … Read more