「ていうか、あんたの家じゃないしね。」
その言葉が、75歳の私の胸に深く突き刺さった。まさか自分の耳で聞くとは思わなかった。それまでの私は、言われたことを黙って受け入れ、身を引いてきた。誰にも迷惑をかけず、ただ静かに生きていくつもりだった。でも、あの一言で何かが確かに変わった。
私の名前は古川はる子。夫には早くに先立たれ、女手ひとつで息子の秋人を育て上げた。苦しい時代もあったが、働きながら家事もこなし、息子にだけは不自由させたくないと一心に頑張ってきた。派手なことはできなかったけれど、私なりに節約し、細々と貯金もしてきた。私の楽しみといえば、庭の草花を眺めることくらいの、特別なスキルも資格もない普通の女だった。
だからこそ、秋人が結婚する時は精一杯応援した。母としてできる限りの援助をしたつもりだった。
あの土地は、私の父の代から代々受け継いできた場所だった。しばらく空き地のままだったが、車通りも多く、目の前は大通りに面していた。駅にも近く、買い物にも便利。若い夫婦にとってはこの上なく良い条件のはずだ。
「母さん、本当にいいの?」
秋人が結婚した時、私はそう言ってくれた彼に笑顔で答えた。
「もちろんよ。使わずに持っているより、誰かの役に立った方がいいわ」
それは本心だった。実はその頃、私は郊外に小さな家を持っていた。夫と暮らしていた古い一軒家で、今も自分の住まいとして残していた。だからこそ、息子夫婦のために新しく建てる家は彼らの生活の拠点になればと思っていた。土地の名義も建物の名義も、全て私の名前で手続きしたけれど、そのことを誰にも声に出すつもりはなかった。ただ心のどこかで、いつか自分もそこで暮らせたら、そんな淡い願いを持っていた。
家が完成し、息子夫婦が新居に移った。私はしばらく様子を見てから、週末だけ泊まるようになった。私専用の小さな部屋に旅行用のバッグを置き、引き出しの一段に洗面用具をしまった。お気に入りの座布団も一枚、そっと畳の上に置いておいた。
「お母さん、いつでも泊まりに来てくださいね」
嫁の美雪は最初はそう言っていた。お世辞でも私は嬉しかった。家族として受け入れてもらえたような気がしたのだ。けれど、心のどこかに小さな違和感があった。美雪は言葉遣いこそ丁寧だったが、視線は冷たく、笑顔もどこか引きつっていた。私が話しかけると、ニコリともしないで頷くだけのこともあった。台所に立てばさりげなく視線を感じ、洗濯機を使おうとすれば「あ、それ洗濯物溜まってるんで」と断り方をされることもあった。
それでも私は気にしないようにしていた。遠慮されてるのね。まだ慣れてないだけかもしれない。そう自分に言い聞かせていた。秋人が笑顔で「母さんありがとうな」と言ってくれるだけで、私は十分だった。だからこそ余計な口は出さなかったし、邪魔にならないよう気をつけていた。自分の部屋にこもって静かに過ごすようにしていた。
ある日、秋人から電話がかかってきた。
「母さん、ちょっと相談があるんだけど」
美雪のお母さんが近くの病院に通院することになったという。朝が早いから通うのが大変らしくて。
「前の日だけ泊まっていいかな?」
私は即座に頷いた。
「もちろんいいわよ。部屋は開いてるし、自由に使ってもらって大丈夫」
その時は本当にそのつもりだった。翌週から、美雪のお母さんが私の部屋に泊まるようになった。挨拶に来た彼女は60代後半ぐらい。華やかな洋服にネイルも綺麗に整えられていた。義母のよし子さんは「黒川さんにはお世話になります」と淑やかに言ったが、目の奥は笑っていなかった。
そのうち、泊まる頻度が増えた。病院の予定がない日でも「疲れたから泊まるわね」と言って帰らない。さらには家事にも口を出すようになった。
「ご飯の味、ちょっと薄いわよね」
「このタオルの畳み方、逆じゃない?」
初めのうちは美雪も戸惑っているようだったけれど、数週間も経つとすっかり二人で家事を回す空気ができていた。私は遠慮して、泊まりに行く頻度を減らした。忙しいふりをして距離を取るのが一番だと思ったのだ。
最初に違和感を覚えたのは、私が自宅に戻った後の週末だった。いつものように小さな旅バッグを持って二世帯住宅に向かうと、玄関に見慣れない靴が並んでいた。ヒールのある靴と、妙に派手なスリッパ。
「あら、来たの」
キッチンから顔を出したのは、よし子さんだった。
「あの、今日は私、部屋を使うつもりで来たんですけど」
「うん。でも明日病院なのよ。朝が早くて、ここからの方が便利だから、美雪が泊まっていきなよって言ってくれて」
それなら仕方ない。そう思って、私は「じゃあ今夜は遠慮します」とだけ言い、自宅に戻った。でもそれが一度きりでは終わらなかった。次の週も、そのまた次の週も、よし子さんの靴はそこにあった。
「すいません。私のクローゼットの中を探してたら、私物が全部ないんですけど」
「あ、それ、神袋にまとめて物置きに置いといたわよ」
言葉が出なかった。あの部屋は私のために用意されたはずだった。それが今では、他人の持ち物のように扱われている。ある週末、私は目にしてしまった。よし子さんが私のお気に入りの座布団に座り、テレビを見ながらみかんを食べて笑っていた。美雪と秋人も一緒だった。まるで家族のように。
私が美雪に声をかけると、美雪は一瞬面倒そうな顔をしてこう言った。
「お母さん、今日は来るって言ってませんでしたよね」
その言い方に、私は胸を締めつけられた。その日から、私は自宅で週末を過ごすようになった。バスに乗って四十分、畑に囲まれた静かな田舎。孤独よりも傷つくのは、邪魔者扱いされることだった。
ある日、思い切って秋人に電話をした。
「ねえ、あの、あちらのお母さん、いつまでいるの?」
電話の向こうで、小さくため息をつく音が聞こえた。
「もう同居みたいなもんだよ。あ、母さんの部屋はもうないから」
その言葉が突き刺さった瞬間、さらに鋭い声が背後から響いた。
「ていうか、あんたの家じゃないしね」
よし子さんの声だった。電話越しなのに、その目が笑っているような気がした。
「それ、誰に言ってるんですか?」
私はそう呟いて、静かに電話を切った。その夜、私は何時間も眠れなかった。ずっと涙が止まらなかった。だけど同時に、胸の奥から湧き上がるものがあった。怒りでも悲しみでもない。覚悟だった。何があっても、もうあの人たちの言葉に傷つかない。何があっても、私は私を守る。私は静かに、深く呼吸を整えた。心の奥底に沈めていた札。それを取り出す時が、とうとう来たのだ。
次の日、私は意を決して新居に行った。秋人と美雪に直接話さなければならないと思ったのだ。玄関を開けると、そこにはよし子さんのスーツケースと買い物袋が積まれていた。彼女が居座っていることを、荷物の数が語っていた。
「お母さん、いらっしゃい」
美雪は笑顔を見せたが、その目は少し冷たかった。
「昨日、電話で話したこと覚えてる?」
私が尋ねると、美雪は無言のままエプロンを整え、秋人を呼んだ。
「母さん、どうしたの? 何かあった?」
秋人は相変わらず淡々とした声だった。
「部屋のことを、私の荷物が物置きにあるって聞いて」
「ああ、そのことか。だってもう使わないだろ」
「使わないって、どういうこと?」
「母さん、ここに来ることないじゃん。だったら別に置いておく必要ないだろう」
私は息を飲んだ。ここに来ることない。それは、私の居場所がもうないと宣告されたようなものだった。美雪が静かに口を開いた。
「お母さん、自分の家があるじゃないですか。そっちでゆっくりした方がいいですよ」
そっちでゆっくり。私の頭の中で、何かが崩れる音がした。言葉を探していると、リビングからよし子さんの声がした。
「夕飯できてるわよ。美雪ちゃん、盛り付け手伝って」
夕飯のテーブルには、湯気を立てる味噌汁と色鮮やかな刺身が並んでいた。その中央には、豪華な牛肉のステーキ。箸を揃えて置かれた席は四つ。私の席はなかった。
「帰ります」
絞り出すように言った私の声に、誰も驚かなかった。ただ秋人が「気をつけて」と言っただけだ。その一言に、私はさらに胸を締めつけられた。
家に戻った私は、誰にも話せず、ただテレビの音に紛れるように過ごした。だけどその夜、スマホにLINEの通知が届いた。差出人は妹の真美だった。
「最近どう? 元気?」
私は一瞬返信を迷ったが、正直に言えなかった。「元気だよ」と打ち込んで送信した。本当は会えていないのに。翌日、古くからの友人に電話をしてみた。
「ちょっと聞いて欲しいの」
勇気を出して話し始めたが、帰ってきた言葉は、「まあまあ、嫁姑なんてどこもそんなもんよ。気にしすぎじゃない?」だった。私は茫然とした。気にしすぎ。頭の中で何度もその言葉がこだました。それは私の苦しみを軽くするどころか、切り捨てる言葉だった。
それからしばらく、私は新居に行くのをやめたけれど、孫の蓮くんのことが気になって、思い切って電話をかけた日があった。
「蓮くんに会えないかな」
電話口で秋人の声が低くなった。
「母さん、今はやめといて。蓮、もうあっちのバーバに懐いてるから」
胸に鈍い痛みが走った。あっちのバーバ。私はもう、ただの外の人になってしまったのだ。美雪の声が遠くで聞こえた。
「ていうか、なんでそんなに会いたがるの? 孫って、あなたの子供じゃないし」
息が詰まった。それでも私は何も言えなかった。受話器を置いた後、私は鏡を見た。目の元に深いクマができていた。泣き腫らした目は、誰にも見せたくなかった。
その夜、私は決意した。このままでは、私は本当に消えてしまう。でも、消える前にやることがある。この手で、私の人生を取り戻すのだ。
ある日、美雪から荷物が届いた。中身は私の通帳と印鑑だった。「管理が面倒なので返します。今後は生活費などの援助は一切必要ありません」というメモが入っていた。私が援助を止めるとは言っていないのに、まるであなたとはもう関わりませんと宣言するような内容だった。私はそのメモを読んだ後、そっと目を閉じた。悲しいとか悔しいとか、そういう感情を超えていた。それはまるで、息子から縁を切られたと突きつけられたようだった。
そう、そういうことね。私は小さな声で呟いた。今更話し合いなんて意味がない。謝罪も後悔も、きっと彼らの中には存在しない。私がどれだけ傷ついたかなんて、これっぽっちも考えていない。だったら、もう黙って私のやることをやるだけ。
私は押入れから一つの箱を取り出した。それは家を建てた時の契約書類と、不動産登記の写し。私の名前がはっきりと記された権利証明の束だった。もう誰にも遠慮する必要はない。心の奥に閉じ込めていた怒りが、静かに形を変えていくのを感じた。冷たい鋼のように、静かで強い決意へと。
私は机の引き出しを開け、奥から一枚の紙を取り出した。それは十数年前に亡くなった父から受け継いだ土地の権利書。そう、この土地に二世帯住宅が立っている、その場所は代々私の家の土地だった。それまで私はそれを切り札にするつもりはなかった。家族だからと信じていた。でも今は違う。あの言葉を聞いた瞬間、私の心に火がついたのだ。
「私の名義だよ。この土地も建物も」
そう呟きながら、私は不動産会社に電話をかけた。信頼している担当者がいる。以前、古い家の査定を依頼したことがあった。
「お久しぶりです。ちょっとご相談したいことがありまして」
その一言で、事態は一気に動き出した。週が明けて、私は弁護士事務所を訪れた。娘の友人が法律関係の仕事をしており、紹介してもらったのだ。
「名義がご本人様であれば、法的には明確です。ただ、今お住まいの方がどのような態度を取るかですね」
そう言いながらも、若い女性弁護士の目は冷静だった。
「必要であれば、通知を出しましょう。退去の猶予期間を設けて通達できます」
私は深く頷いた。
数日後、私はある書類を手にもう一度新居を訪れた。リビングではよし子さんがテレビを見ながらみかんを食べていた。美雪はキッチンで鍋をかき混ぜており、秋人は二階にいるようだった。
「お母さん」
美雪が気まずそうにこちらを見た。
「これ、読んで」
私は封筒を差し出した。中には弁護士からの通知書が入っている。建物の所有者からの使用終了の通告が、丁寧な言葉で記されていた。美雪の顔色が変わった。
「何これ、冗談ですよね」
「冗談に見えるかしら?」私は淡々と答えた。「だって、この家はあなたたちが追い出したのよ。『あんたの家じゃない』って」
美雪は黙り込んだ。よし子さんも顔をこわばらせていた。
「この土地もこの家も、私の名義です。登記簿にもそう書いてある。私が貸していただけ。だけど、それも今日で終わりにします」
「ちょ、ちょっと待ってください」
よし子さんが立ち上がった。
「そんなの突然すぎます。引っ越しなんて、そんな簡単に」
「当然です。そちらが私の存在を無視し続けていた時間の方が、よっぽど長いと思いますけど」
私は初めて声に力を込めた。
「私がここに置いた荷物は、神袋に押し込まれ、物置きに捨てられていた。美雪さん、あなたも見ていたわね。私の居場所を奪ったのはそちらです。だから、返してもらいます」
その時、秋人が階段を降りてきた。手にスマホを持ったまま、立ち尽くしていた。
「母さん、本気なの?」
私はまっすぐに息子を見た。
「本気よ。それとも、私にここまで言わせて、まだ自分たちの方が正しいと思ってるの?」
秋人は言葉につまり、何も言わなかった。
翌週、再び通知を送り、法的に二ヶ月以内の退去が求められた。もちろん、それまでに話し合いができるならと弁護士も提案してくれたけれど、美雪もよし子さんも沈黙を守った。ただ荷物をまとめ始め、秋人は逃げるように職場に泊まる日が増えた。私は怒鳴らなかった。私は泣かなかった。ただ全てを淡々と進めた。それが一番応えたのだろう。
二ヶ月後、二世帯住宅から彼らの姿は消えた。よし子さんの荷物も、美雪の食器も、全て運び出されていた。私は最後に部屋を歩き、カーテンを開けた。光が差し込むリビングを見て、私は初めて深く息を吐いた。やっと、自分の家に戻ってきた。
家の売却にあたり、私はかつてのご近所のつてを頼った。若い頃、私は町内会の役員を務めていたことがある。掃除当番を取りまとめたり、高齢者の見守り当番を交代したり。地味な役目だったが、誠実に真面目にやってきた。その中で知り合った、町内会の元会長の娘さんが今不動産関係の仕事をしているという話を思い出したのだ。
「黒川さん、お久しぶりですね。まさかこんな形で再会するとは思いませんでした」
再会した彼女は昔と変わらずにこやかだった。事情を説明すると、彼女は一言だけこう言った。
「分かりました。私に任せてください」
そこからは驚くほどスピーディだった。二世帯住宅は立地も良く、周囲は駐車場と幹線道路に面していて、日当たりもいい。何より希少な物件として注目されていた。住宅としてだけでなく、小さなクリニックや店舗付きとしての需要もあるという。私は必要書類を整え、売却の手続きに入った。査定額は予想よりも高く、私の老後資金としては十分すぎる額が提示された。
これが、私の家の本当の価値だったのね。
売却の正式通知が二世帯住宅に届いたのは、それから一週間後のことだった。宛名は「居住者各位」、差出人は私と契約を交わした不動産会社だった。秋人からの着信が鳴り続けていたが、私は出なかった。数時間後、家のチャイムが鳴り、玄関ドアが荒々しく叩かれた。
「ちょっと、はる子さん、どういうことなのよ」
ドアの外にいたのは美雪だった。いつものブランドバッグではなく、スエット姿で顔色もどこか険しい。
「勝手に家を売るなんてありえないから。こんなのおかしいって、誰かに相談するわよ。弁護士に言うから」
私は静かにドアを開けた。
「ご自由に。でも、これは私の家です。私が私の名で、私の判断で進めたことです」
「ふざけないで。住んでる人の気持ちを無視していいわけ?」
「住んでいるだけの人が、何を言ってるの?」
その時だった。後ろから秋人の声がした。
「美雪、やめろよ」
「何よ、あんたまで。私たち、追い出されるんだよ。何黙ってんの?」
秋人は私に視線を向け、ぽつりと呟いた。
「母さん、こんなこと、本当に本気でやるつもりだったのか?」
「ええ、本気よ。最初から全部、あなたたちが私を追い出した。あの日から、私はもうこの家に居場所はないの」
秋人は黙り込んだ。その様子を見て、美雪が声を荒げた。
「全部あんたのせいだからね。あんたが出しゃばって、息子まで操って」
私はゆっくりと息を吐き、静かに言った。
「違うわ。あなたたちは、自分の居場所を自分で壊したのよ」
それが、私の最後の言葉だった。
その日を境に、秋人夫婦は急いで新しい住まいを探すことになった。ご近所の誰もが知っている二世帯から急に引っ越すとなれば、理由を聞かれないわけがない。案の定、「どうしたの? あの素敵な家、手放すの?」「お母さんに感謝してるって言ってたわよね」という噂が、静かにでも確実に広がっていった。そして何より、あれほど仲良く見えた美雪とその母の関係も、壊れ始めていたらしい。誰の家でもなかったと知った瞬間から、全てが音を立てて崩れ出していた。
新居を離れてから数日後、私は以前の郊外の家に戻った。懐かしい景色、土の匂い、風の音が聞こえるほど静かな場所だった。でも、どこか違っていた。もう、ここには帰れないのだと思う。誰もいない部屋で、私は一人、音のように呟いた。
私は決して派手な暮らしを望んでいたわけではなかった。ただ息子たちと少しでも近くで過ごし、週末だけでも会話を交わせればと思っていた。だけど、その思いはあの家で踏みにじられた。私の居場所は物置きだった。私の座布団は、ほこりをかぶっていた。もう、あそこには戻らない。戻る理由も意味もない。
私は、私の人生をやり直す。その決意を胸に、私は市内にある高齢者向けマンションの見学に向かった。同じ年代の人たちが、程よい距離感で暮らしているという。郊外の家は思い出が多すぎて、長く住むには辛かった。壁に残る夫の写真、庭の草木、息子の成長を見守った縁側。どれも懐かしいはずなのに、今の私には過去そのものだった。だからこそ、新しい場所で新しい自分として生き直したかった。
施設というほど縛りはなく、自炊も自由。町の中心にも近く、図書館や公園にも歩いていける。バスも通っており、友人に会いに行くのも便利だった。案内してくれたスタッフの女性が、優しくこう言ってくれた。
「古川さん、ご自身のこれからのために選ばれる方、増えてますよ。今からでも十分楽しめます」
私は微笑んだ。
「ええ、私もこれからですから」
あんな屈辱を受けたのに、なぜか心は穏やかだった。もしかすると、私はずっと家族にしがみついていたのかもしれない。でも、もう違う。人は、誰かに許可されなくても、自分で人生を選んでいい。私の人生はまだ終わっていない。むしろ、やっと始まったばかりなのかもしれない。
それから数週間後、不動産会社を通して、秋人夫婦の退去は正式に完了した。息子たちは都内の古い賃貸マンションに移ったらしい。近所の目を気にしてか、夜中にこっそり荷物を運び出し、その後姿を見せることはなかった。美雪の母親も当然ながら一緒に退去した。家の主のように振る舞っていたあの人も、あっけなく消えた。とはいえ、私は追い詰めることも、恨みを言うこともなかった。彼らが自分で巻いた種を、自分で買い取っただけのこと。それ以上でもそれ以下でもない。
その後、秋人から一通の手紙が届いた。差出人の名前も住所も、乱雑な文字で書かれていた。中には、謝罪の言葉が並んでいた。
「母さん、ごめん。本当は途中で気づいていた。でも、何も言えなかった。自分の家じゃないのに黙っていた。許してほしいとは思わない」
私は手紙を読み終えた後、そっと引き出しの奥にしまった。すぐに返事を書く気にはなれなかったが、どこかで彼の中に残っていた良心を感じたのも事実だった。でも、それとこれとは別の話だ。私は今、自分の選んだ場所で、自分のために生きている。もう誰にも遠慮はしない。誰の顔色も窺わない。もし彼らがまた私を頼ってくる日が来たとしても、私は同じ過ちは繰り返さない。そう、心に決めていた。
人生には、思いもよらない出来事が起こる。家族だから信じていた。家族だから分かり合えると思っていた。でも、家族でも分かり合えないことはある。家族でも、傷つけてくる人はいる。それを受け入れるのは簡単ではない。私もずっと「私さえ我慢すれば」と思っていたけれど、我慢を重ねても居場所はできなかった。優しさを注いでも、感謝されることはなかった。それどころか、私の存在そのものが邪魔にされていた。
「ていうか、あんたの家じゃないしね」
あの一言が、私を目覚めさせてくれた。誰かにとっての都合のいい人で終わりたくない。誰かにとっての便利な母親で、人生を終えたくない。自分を大切にできるのは、自分だけなのだ。
私は今、新しい場所で新しい日々を送っている。一人でご飯を食べ、一人で洗濯をし、一人で眠るけれど、不思議と寂しくはなかった。私は私を取り戻した。そんな感覚が、胸の奥にある。もし今、あなたが自分を後回しにしていると感じているなら、もし誰かの顔色を見て生きづらさを感じているなら、少しだけ立ち止まってみてほしい。あなたの人生は、あなたのもの。誰かの犠牲になるために生きているわけではない。どんなに地味でも静かでも、あなたの人生には価値がある。それを、忘れないでいてほしい。



