窓口で提示された数字を見た瞬間、大月重はその場に立ち尽くした。五十九歳で早期退職を選んだ彼は、黒い手帳にびっしりと書き込んだ完璧な計算を信じて疑わなかった。退職金と年金の受給をずらして税負担を減らす「五年ルール」。その制度が今年度から十年に延長され、彼の計算は初日から崩れ去った。窓口でもらった紙に記された税額は、彼が見積もっていた金額の実に四倍近くあった。
彼は何も言わずに家へ帰り、書斎で黒い手帳を開いた。赤いペンで、これまで積み上げてきた数字の列に容赦なく線を引いていく。妻の千鶴は、閉じられたドアの前で立ち尽くすことしかできなかった。
季節は巡り、五月。失業給付の手続きのためハローワークへ向かった重は、そこでまた現実を突きつけられた。基本手当の上限は一日八千六百三十五円。かつての収入の三割にも満たない金額だった。さらに国民健康保険と国民年金の手続きが待っていた。夫が会社の健康保険を外れたことで、妻の千鶴もまた自分の名義で保険料を支払わなければならない。年間およそ四十二万円。黒い手帳の見積もりを大きく上回る出費だった。
六月、市役所から届いた住民税の納税通知書。収入がゼロになった今も、前年の高い収入を基準に計算された税が一括で課せられていた。重は手元の現金を工面するため、二人分の生命保険と民間の医療保険を解約した。その夜、彼は古びたシャツを繕う妻に言った。「これからは私たちは病気になることを許されないのだ」。
秋には車を売り、新聞も解約した。夜遅くにスーパーへ行き、値引きシールが貼られる瞬間を狙って買い物をする。一つ一つの食材の金額を黒い手帳に書き写す日々。千鶴は夫の前でだけは決して弱さを見せまいと、無理に笑顔を作り続けた。
十月の冷たい雨の夜のことだった。玄関のチャイムが激しく鳴り響き、そこには東京で働いているはずの一人息子が、びしょ濡れになって膝から崩れ落ちていた。ネクタイは緩み、全身からはアルコールの匂いが漂っていた。息子は震える声で告白した。飲食チェーンの事業に失敗し、消費者金融から借りた金が雪だるま式に膨らんでいる。来月中に三百万円を用意できなければ、借金の取り立てが実家にも及ぶかもしれないと。重は拳を玄関の框に叩きつけた。皮膚が避けて血が滲んだ。「私の金は私自身が八十六歳まで生き延びるためのものだ。お前の愚かさの後始末をするためのものではない」。
そこで千鶴が泣き崩れた。夫の足にすがりつき、叫んだ。「お願いです。あの子を助けてやってください。あの子は私たちのたった一人の血を分けた子なんです」。そして彼女は続けた。「あなたのその機械のような冷たさがあの子をここまで追い詰めたのではないか」。
長い沈黙の後、重は重い足取りで書斎へ向かった。机の引き出しの奥に眠っていた通帳。家の修繕と緊急時に備えて、最後の最後まで手をつけずに残しておいた虎の子の資金だった。彼は震える手で、その口座から全額を引き出し、息子に差し出した。息子は顔を輝かせ、何度も頭を下げて雨の中へ消えていった。一度も振り返ることなく。
十二月、大型の低気圧による嵐が家の屋根を痛め、天井に染みが広がった。修理する金はなく、重はホームセンターでビニールシートを買い、自ら屋根に登って応急処置をした。銀行口座の残高はゼロに限りなく近づき、六十歳となった彼は再び働き口を探し始めたが、面接のたびに「若い人材を求めている」「力仕事はできるか」と言われ、管理職としての経験は評価されなかった。
千鶴は夫に内緒で、近くのオフィスビルの夜間清掃の仕事を見つけた。夫が寝静まった深夜、そっと家を抜け出し、自転車でビルへ向かう。国民年金の保険料を少しでも自分の力で支えたい一心だった。十二月も半ばを過ぎたある朝、凍結した路面で配送トラックが千鶴の自転車に衝突した。彼女は下半身の自由を失った。緊急手術は成功したが、医師の言葉は重いものだった。「下半身に麻痺が残る可能性は決して低くありません」。
病院の会計窓口で提示されたのは、差額ベッド代、車椅子、特殊な医療材料など、健康保険の対象とならない費用の山だった。六月のあの夜、住民税を払うために解約した保険があれば、この費用の大部分は賄えたはずだった。重は震える手で息子の電話番号を呼び出した。しかし、聞こえてきたのは無機質な音声案内だけだった。「この番号は現在使われておりません」。息子は音信不通になっていた。
年が明け、重は最後の決断を下した。長年住んだ家を手放すことだった。査定額は彼が思い描いていた金額よりもはるかに安かったが、彼は淡々と書類に署名を重ねた。誰もいなくなった家を最後にもう一度だけ歩いて回り、玄関先で少しだけ立ち止まった。そして静かに鍵をかけた。
新しい住まいは、日当たりの悪い北向きの古い賃貸アパートの一室だった。下半身の自由を失った千鶴は、この部屋のベッドで多くの時間を過ごすことになった。かつて優しげだった瞳は、すっかり生気を失っていた。重は妻の世話を驚くほど丹念に、そして几帳面にこなし続けた。彼の体は相変わらず健康だった。しかし、その健やかな体は今や一つの呪いへと姿を変えていた。資金が尽きた後、自分はこの健康な体で困窮の日々を最後の最後まで見届けなければならないのだ。
ある夜、重は座卓の前に腰を下ろし、あの黒い手帳を静かに開いた。家の売却額から、これまでの費用と二人の生活費を差し引いていく。最後の数字を書き終えると、彼は静かな結論を書き加えた。「二十七年九月、資金が尽きる」。八十六歳までの生活を支えるはずだった完璧な計算は、わずか八ヶ月足らずの寿命に縮められていた。
彼は立ち上がり、棚の奥から現役時代に贈り物として受け取り、大切に取っておいた茶葉の缶を取り出した。丁寧に茶を入れ、湯気の立つ茶碗を手に、妻の眠るベッドのそばへ歩み寄った。千鶴はうっすらと目を覚ました。重は彼女の冷えた手を両手で包み込み、いつもと変わらぬ丁寧すぎるほどの口調で語りかけた。「千鶴。私の計算は一度も間違っていたことはなかったのだと思う。ただ、この国の仕組みも人の心の動きも、私の手帳の中には最初から存在していなかったのだ」。
千鶴は夫の顔を見つめたまま、しばらく何も言わなかった。やがて、彼女の目尻から一筋の涙が音もなくこぼれ落ち、彼女はかすかに頷いた。重はその涙を拭うこともせず、ただ彼女の手をいつまでも握り続けていた。窓の外では、冬の冷たい風が古びたアパートの壁を静かに叩いていた。この先、二人がどうなっていくのか。その答えはまだ誰にも、そしてこの手帳にも書き記されてはいなかった。



