「全部、差し押さえられた。年金が振り込まれたその日の朝、ATMの画面には『差押』の文字と、残高ゼロが表示されていたんだ」…

「全部、差し押さえられた。年金が振り込まれたその日の朝、ATMの画面には『差押』の文字と、残高ゼロが表示されていたんだ」...

左手が震えていた。その朝、黒川惣一は夜勤明けで帰宅したばかりだった。物流倉庫の警備員として明け方まで働き、家までの電車で半分眠りながら帰ってきた。玄関のドアを開けると、妻の美和子の気配はしたが、声はなかった。いつもなら「お帰り」と言うのに、その朝は何も聞こえなかった。

台所の引き戸が少し開いていて、光が漏れていた。惣一が向かうと、美和子は椅子に座り、テーブルの上に広げられた2枚の紙を見つめていた。老眼鏡は外され、隅に置かれたままだった。彼女の表情は、怒りでも悲しみでもなく、言葉が抜け落ちてしまったような顔だった。テーブルの上には年金額改定通知書と年金振込通知書があった。毎年6月に届く書類だ。

惣一は椅子を引き、妻の隣に座った。数字を追うのに時間がかかった。振込額が、前回より明らかに少ない。いや、激減していた。所得税と住民税の金額が、去年の記憶とはかなり違う。今年の春、政府が所得税の減税を発表した時、美和子は「これで少し楽になるかもしれない」と喜んでいた。年金は今年1. 9%引き上げられると報じられ、そのお金で空気清浄機を買いたいと言っていた。

しかし、目の前の数字はその逆だった。
「これ、去年よりも少ないよな」
美和子は少し間を置いた。
「うん。所得税が去年の倍近くになってる。なんでだろう」
2人はしばらく黙って紙を見た。美和子がスマートフォンを開き、残高を確認した。
「振り込まれてるのはこれだけ」
画面を見た惣一は、何かが頭の中で止まる感覚を覚えた。この金額では、国民健康保険料と家賃を払えば食費がほとんど残らない。

惣一は通知書をより細かく見た。控除と加算の内訳の欄に、去年あった項目がない。家族加給年金。配偶者や扶養家族がいる場合に加算される手当てだ。それが今年の通知書から完全に消えていた。惣一は左手が細かく震え始めるのを感じた。
「加給年金がない」
美和子が眼鏡をかけて通知書を確かめた。
「本当だ。去年は確かにあった。……どうして?」
惣一はため息をつく代わりに、通知書を丁寧に四つ折りにしてテーブルに置いた。
「年金事務所に行こう」

その日の午後、2人は年金事務所へ向かった。待合室は平日の昼間だというのに混んでいた。40分ほど待って呼ばれた窓口で、惣一は通知書を並べ、担当の職員に尋ねた。
「家族加給年金が今年からなくなっています。理由を教えてください」
職員は通知書を確認し、パソコンを操作した。席を外して奥の部屋に消え、3分ほどして戻ってきた。
「黒川様の奥様のご長男、大輝さんとおっしゃる方が今年の1月に届出を行いまして、扶養関係の変更手続きをされています。扶養者の変更届けが提出されまして、黒川惣一様の扶養者リストから関係者様のお名前が削除されています」
惣一は一瞬、意味が取れなかった。
「それは誰が手続きをできるんですか」
「こちらの手続きは、被保険者ご本人、あるいは委任状をお持ちの代理人の方が行えます」
「私は頼んでいない」
「どのようにおっしゃいましても、手続きはされていますので、異動があったということになります」
惣一は窓口の台に両手を置いた。左手の震えが職員に見えているかもしれないと思った。
「もう一つ聞く。うちの所得税がなぜ上がっているのか」
職員は再びキーボードを叩いた。
「税務署からの通知に基づいて天引きをしておりますので、詳しくは税務署の方にお問い合わせいただく必要がありますが……記録を見る限り、前年の課税所得が前々年と比べてかなり増えております」
「増えるはずがない。私の収入は変わっていない」
「お名前でご申告されている所得が増えているという記録です」
惣一は黙った。息子の大輝が1月に手続きをした。扶養から外した。同時に課税所得が増えている。頭の中でゆっくりと繋がり始めた。

外に出ると、梅雨の晴れ間の空は青かった。バス停のベンチに2人で腰かけた。
「大輝に聞かなきゃいけない」
惣一は携帯電話を取り出し、息子の番号にかけたが、誰も出なかった。帰りのバスの中で、美和子はずっと窓の外を見ていた。何かを見ているようで、実際には何も見ていないような顔だった。

帰宅して、惣一は去年の通知書を引き出しから出して並べた。数字の違いがより明確になった。課税所得の欄から逆算すると、誰かが惣一の名義で何らかの所得申告をしている。大輝は40歳になる。数年前から事業を始めたと言っていた。1年半前、会社の運転資金が不足しているからと1ヶ月だけ貸して欲しいと頼まれたが、惣一は断った。まとまった額を出す余裕がなかったのだ。それを告げると、大輝は「分かった」と言って電話を切り、それ以来連絡はほとんどなかった。

その夜、惣一はもう一度大輝に電話をかけた。今度も繋がらなかった。留守番電話に切り替わり、メッセージを残さずに電話を切った。6月の夕方は長く、外はまだ明るかった。台所から美和子が夕飯を作り始める音が聞こえてきた。惣一は通知書を鉄の小箱にしまった。今月の家賃、電気代、健康保険料、食費。頭の中で数字が並んだ。加給年金が消えた穴は、数万円では埋まらない。問題は来月だ。そして、再来月だ。

7月に入ると、惣一の夜勤のシフトが増えた。同僚が腰を痛めて休業に入り、所長から週5回にできないかと声をかけられた。惣一はその場で頷いた。断る理由を見つけられなかった。夜と昼が逆転した生活は、68歳の身体には均等に馴染むものではなかった。左手の震えが以前より頻繁になっていた。美和子の方も、7月から区の行政センターに隣接した地下の文書保管庫の清掃を担当することになった。「新しい人員が入ってくるまでの間だけ」と彼女は言ったが、惣一には妻が自分から頼んだのだという気がした。湿気が多く、古い紙の埃が漂う場所だった。惣一が「地下はきつくないか」と聞くと、美和子は「慣れれば平気」と答えた。

7月の後半になると、美和子の咳が変わった。夜中に咳で目が覚めることが増えた。惣一が気づくと、彼女は布団に顔を埋めて音を出さないようにする。
「薬を変えた方がいいんじゃないか」
「今の薬で足りてる」
「病院に行けば、もう少し強いのを出してくれるかもしれない」
「今度行く」
「今度」という言葉がそのままになっていくことを、惣一は知っていた。市販の吸入薬は処方薬より弱い。処方薬をもらうには診察が必要で、診察代と薬代がかかる。それを美和子は計算していた。

8月の初め、玄関のチャイムが鳴った。夜勤に備えて横になっていた惣一が起きると、美和子が玄関に出る音がした。それから男の声が聞こえてきた。大輝だった。40歳の息子。最後に顔を見たのは1年半前の秋だったが、その頃より痩せていた。頬がこけ、目の周りに影がある。白いシャツは洗いすぎて少し黄ばんでいた。
「急に来てごめん。電話に出られなくて。7月も鳴らした」
惣一は何も言わなかった。
「分かってる。出られなかった。事情があって」
美和子が「上がりなさい」と言ったので、大輝は靴を脱いだ。台所のテーブルを挟んで3人が座った。美和子が麦茶を出した。大輝は一口飲んでから、テーブルに視線を落とした。
「6月の年金の件から電話があったの」
「分かってた。それで出なかったのか?」
「違う。そうじゃなくて、その頃は本当にバタバタしてて。1月に俺の扶養の変更手続きをしたんだ」
大輝は少し間を置いた。
「それは会計士のミスなんだ。本当に申し訳ない。こっちも知らなかった。会社の決算処理を頼んだ会計士が手続きをいくつかまとめてやる中で、間違って父さんの名前を使ってしまったみたいで」
「名前を使った? 父さんの委任状?」
「前に1回もらったやつ。そのコピーが残ってて」
惣一は思い出した。3年前、大輝が会社を立ち上げる際に、銀行口座の連帯保証人になるための書類に署名したことがあった。あの委任状は期限が切れている。
「そうなんだ。けど会計士がそれを確認せずに使ってしまって。本当に父さんや母さんには迷惑をかけた。今年末には税務申告の修正をして、過剰に引かれた税金を返してもらえるようにする。絶対にそうする」
大輝の声は低く落ち着いていた。惣一にはそれが不自然に感じられた。言葉の端々に、何かを先回りして抑えたような形があった。
「今、会社はどうなの?」と美和子が聞いた。
大輝は少し間を置いた。
「正直に言うと、厳しい状態が続いてる。でも、ちょうど今新しい事業の話があって、それがうまくいけば立て直せる」
「どんな事業?」
「会社を立ち上げようと思ってる。法人向けの清掃サービス。小規模から始めて、受注を増やしていく形で」
「清掃……事務所清掃とか、小さいビルのメンテナンスとか。ちゃんと需要はある。俺も色々調べた。ただ、問題は物件なんだよな。事務所の場所を1箇所確保しないと法人登記ができなくて、仕事の受注もできない」
大輝はそこで少し前傾姿勢になった。
「それで、お願いがある」
惣一は大輝を見た。
「事務所を借りるのに連帯保証人が必要で。父さんの年金振込通知書を証明として使わせて欲しい。それで保証人になってもらえれば物件を借りられる」
惣一は何も言わなかった。
「母さんにも、もしよかったら事務所の管理をお願いしたいと思ってる。受付とか書類整理とか、体に負担のかからない仕事。清掃の現場には出なくていい。今みたいに埃の多い場所で働かなくて良くなる」
その言葉が出た瞬間、惣一は大輝を見る目を変えた。息子は美和子の体のことを知っていた。知っていて、それを言葉に使った。そういう計算が見えた。
「帰れ」
大輝が顔を上げた。
「親父、話を聞いてくれ」
「話は聞いた。帰れ」
「俺は本当に立て直したいと思ってるんだ。母さんのこともちゃんと」
「立て直したいなら、自分の力でやれ。6月の損害をどうするかも決まっていないのに、今度は何をしに来た。出ていけ」
声は上げなかった。ただ言葉を切り詰めた。大輝は美和子を見たが、美和子は視線を外した。大輝は静かに立ち上がり、玄関で靴を履いた。ドアを開ける前に一度振り返って「ごめん」と言ったが、誰に向けて言ったのか分からなかった。

ドアが閉まった後、惣一は椅子の背もたれに身を預けた。
「言いすぎたか」
「いいえ」美和子はすぐに答えた。「正しかった」
しかし、彼女の声には何かが混じっていた。

惣一が夜勤に出た後、美和子は一人になった。彼女は大輝の顔を頭の中で反芻した。痩せていた。目の下に影があった。シャツが黄ばんでいた。息子がうまくいっていないことは分かっていた。しかし、今日直接その顔を見て、母親としての何かが揺れた。それを惣一に言うつもりはなかった。寝る前に、彼女は一度だけ大輝の携帯番号に電話をかけた。繋がった。
「お母さん、体は大丈夫?」
「大丈夫。ちゃんと食べてる?」
「食べてる」
しばらく沈黙があった。
「父さんにまた連絡してみなさい」美和子は言った。「誠実に話せば聞く人だから」
大輝は返事をするまでに少し時間がかかった。
「わかった」
美和子は電話を切った。自分が何のために電話をかけたのか、少し考えた。よくわからなかった。ただかけたかったからかけた。そういうことだった。

その後10日ほど何も起きなかった。ある日、惣一が夜勤から帰ってくると、美和子がキッチンのシンクに両手をついていた。背中が小さく上下していた。
「大丈夫か?」
少し待って、急に咳き込む音がした。
「地下は蒸し暑くて、今日はひどかっただけ」
惣一は言った。
「やめろ」
「何よ?」
「地下の清掃、別の人に変わってもらえ」
「頼める人、いないから私がやってるんでしょ」
「なんでお前が、喘息がありながら続けないといけない。やめたら収入が減る。それ以上やったらもっと悪くなる」
美和子はタオルを畳みながら少し考えるような顔をした。
「来週、所長に話してみる」
「来週じゃなくて、明日にしろ」
「明日は所長が休みで」
「じゃあ明後日」
美和子は頷いた。

その夜、惣一はなかなか眠れなかった。今月の収支が頭の中をぐるぐる回る。美和子の咳の音が耳の中に残っている。大輝の顔が浮かんだ。あいつは本当に会計士のミスだと思っているのか。それとも知っていてそう言ったのか。年金事務所の職員は正規の委任状が出ていると言った。3年前の古い委任状が使えるはずはない。それなのに手続きが通ったということは、委任状が本物に見える形で出されたということだ。大輝がそれを知らないはずがない。しかし、確証がないまま息子を責めることができなかった。

次の日の夕方、大輝がまた来た。今度はチャイムを押さずにドアをノックした。惣一が出ると、大輝は一枚の書類を持っていた。
「昨日のことをもう少し説明させて欲しい。書類も持ってきた」
「昨日のことは終わった」
「分かってる。でも、少しだけ話を聞いて欲しい。追い返すなら、聞いてからでも遅くないと思うから」
惣一は大輝の顔を見た。昨日よりも疲れた顔だった。睡眠が足りていない顔だった。しばらく間があって、惣一はドアを開けた。

台所で大輝は書類を広げた。物件の賃貸借契約書の草案だった。連帯保証人の欄に名前を書く形式になっていた。
「この物件を借りれば、清掃会社を立ち上げられる。最初の受注先はもう確保してある。3ヶ月以内に最初の売上が立つ。その後は、毎月の売上から保証人に負担をかけることは絶対にない」
「『絶対』という言葉を使うな」惣一は言った。「事業に絶対はない。それくらい分かるだろう」
「もちろん分かってる。でも、今回は本当に見通しがある状態で動こうとしてる。今までと違う」
惣一は書類を見た。物件の賃料と保証金の金額が書かれていた。連帯保証人として署名した場合、もし大輝が支払えなくなれば、その額が惣一に請求されることになる。
「年金振込通知書が必要だと言ったな」
「それを収入証明として提出すれば、審査が通りやすくなる」
「私の年金が担保になる」
「形式的なものだから。父さんが実際に払うことになるような状況は想定していない」
惣一は大輝を見た。大輝は惣一の目を見て、視線を外さなかった。その時、台所の奥から咳が聞こえてきた。長い咳だった。急に息を使う音が続き、それから少し収まった。惣一は書類に視線を戻した。
「今日は帰れ。置いていくな。持って帰れ」
大輝は書類を静かに畳んで鞄にしまった。
「考えてくれるか?」
「帰れ」
大輝は立ち上がり、廊下に出て靴を履いた。ドアを開ける前に振り返り、今度は惣一の目を見た。
「母さんの体のこと、ずっと気になってた」
惣一は何も言わなかった。ドアが閉まった。

その夜遅く、惣一は眠れなかった。台所に来て椅子に座った。棚の上の鉄の小箱が目に入った。月々の収支を頭の中で確認した。夜勤を5回に増やしても、加給年金が消えた分と税金の増額分は埋まらなかった。美和子が地下の清掃をやめれば、さらに収入が減る。全部が繋がっていた。金がなければ薬が買えない。薬がなければ体が悪くなる。体が悪くなれば働けなくなる。働けなくなれば金がなくなる。

惣一は棚の小箱を取り出した。蓋を開けると6月の年金振込通知書が一番上にあった。広げて数字を見た。大輝の書類が頭に浮かんだ。連帯保証人の欄。この通知書を収入証明として使えば審査が通ると言っていた。惣一は通知書を折りたたんで元に戻した。そのまま動かなかった。15分ほど経って、また小箱を開けた。通知書を取り出し、もう一度数字を見た。寝室から、くぐもった咳が聞こえてきた。一度、また一度。それからゆっくりと収まった。惣一は立ち上がり、大輝に電話をかけた。深夜だったが、大輝はすぐに出た。
「書類、明日持ってこい。それだけだ」
電話を切った。自分がいつ決めたのか分からなかった。眠れない夜の中で、何かがゆっくりと傾いていただけだった。

翌日の夕方、大輝が書類を持ってきた。惣一は6月の年金振込通知書と書類を並べてテーブルの上に置いた。美和子は台所にいたが出てこなかった。惣一はペンを持った。左手が震えていた。右手でそれを抑えながら、連帯保証人の欄に名前を書いた。印鑑を押した。大輝は書類を受け取りながら「ありがとう」と言った。感謝の言葉は短かった。惣一は頷かなかった。大輝が帰った後、惣一は台所に戻った。美和子が振り向いた。
「書類、書いた」
惣一は言った。美和子は惣一の顔を見た。
「そう」
それだけだった。美和子はガスコンロの方を向いた。惣一は椅子に座った。左手を右の手のひらで包んだ。震えはすでに収まっていた。それが正しかったのかどうか、惣一はまだ分からなかった。今夜は夜勤があった。それだけが確かなことだった。

10月に入ると、空気が変わった。年金の本徴収が始まる月だ。1年分の所得税や住民税を後から精算する仕組みで、前年の確定所得に基づく税額が10月の年金から本格的に差し引かれ始める。惣一はそのことを頭では分かっていた。しかし、今年の数字が確定するまでは、いくら引かれるか分からなかった。

10月に入って5日目、郵便受けから封筒を取り出したのは美和子だった。惣一は前日の夜勤明けでまだ眠っていた。美和子は封筒を持ったままテーブルの前に立っていて、惣一が目を覚ます気配がすると静かに声をかけた。
「年金の通知、来てる」
惣一は起き上がり、台所に行った。封筒を切って通知書を広げると、6月の通知書よりさらに大きな数字が並んでいた。本徴収が始まったことで、大輝が付け替えた所得分が完全に反映されていた。差し引き後の実際の振込額は、6月よりもさらに少なかった。家賃を払えば食費がほぼ残らない金額だった。
「いくら?」
惣一は金額を口に出した。美和子は手元の老眼鏡を取り上げたが、掛けなかった。
「米と醤油だけ」
と彼女は小さく言った。冗談ではなかった。惣一は通知書を四つ折りにして鉄の小箱に入れた。2人の間に言葉はなかった。

10月の第2週、美和子の職場で事故が起きた。地下の文書保管庫での清掃作業中だった。狭い通路で書架と書架の間をモップがけしていた時、発作が来た。息ができなくなって壁を掴もうとした際、持っていたバケツを蹴ってしまい、水が廊下に広がった。その水が隣の書架の下段に流れ込み、保管書類の束が濡れて損傷した。その日の午後、美和子は事務所に呼ばれた。施設管理の担当者が「安全衛生管理上の問題があった。持病を抱えた状態での作業は、本人にとっても職場にとってもリスクになる」と説明した。
「今月いっぱいで雇用を終了させていただくことになります」
美和子は「分かりました」と答えた。抵抗しなかった。言い訳もしなかった。

帰宅した美和子は、惣一に今日の経緯を感情を込めずに順番に話した。惣一は途中から口を挟まなかった。
「所長に言えばよかったな。地下はやめるって」
「言ってたら、もっと早く終わっていただけ」
「そうじゃなくて。分かってる」
惣一はそれ以上言わなかった。その夜、2人は白滝と豆腐の鍋を食べた。具はそれだけだった。

それから数日後の夕方、惣一の携帯電話に知らない番号から着信があった。
「株式会社ファーストクレジットサービスと申しますが、黒川惣一様でいらっしゃいますか?」
「黒川大輝様に関連した保証契約についてご確認させていただきたく。8月にご署名いただきました物件賃貸借に付随する保証契約です」
「大輝様とのご連絡が取れない状況が続いておりまして、契約の履行について確認が必要になっております」
惣一は立ったまま、左手が揺れ始めるのを感じた。
「連絡が取れないというのは、どういうことか」
「物件の賃料が2ヶ月分滞納の状態です。加えて、契約締結時に購入された機材のリース費用についても滞納状態となっております」
「大輝はどこにいる?」
「現在連絡が取れない状態で、ご自宅も退去されている様子でして」

電話を切った後、惣一はすぐに大輝に電話をかけた。繋がらなかった。「現在使われていない番号です」という機械音声が流れた。翌朝、惣一は大輝が暮らしていたマンションに向かった。エントランスのインターフォンを押すと、女の声がした。大輝の妻だった。結婚式以来だった。
「大輝はいるか」
「いません」
「どこにいる?」
「知りません。連絡は取れません。先月の末から帰ってきていません。私にも何も言わずに」
惣一は彼女の顔を見た。怒りがあるのか悲しみがあるのか読み取れなかった。ただ疲れた顔をしていた。
「金融会社から連絡が来た。大輝が借りた事務所の賃料と機材のリースが未払いになっている。私は保証人になっている」
彼女は少し目を細めた。
「そうですか」
「それだけか?」
「私も同じですよ。私名義のカードで大量に買い物をして消えました。義父さんに言えることは何もありません。あなたも被害者でしょうけど、私も被害者ですから」
声は平坦だった。感情を使い果たしたような声だった。
「どこに行ったか、本当にわからないのか」
「友人の話だと、九州の方に行ったかもしれないとは聞きました。でも確かめていません。確かめても意味がないと思って」
彼女はドアを閉めようとした。
「待ってくれ」
「私には何もできることがないので」
ドアが閉まった。廊下に惣一一人が残った。

帰宅すると美和子がいた。
「どこ行ってたの?」
「大輝のところ」
惣一は今日のことを話した。クレジット会社からの電話のこと。大輝の番号が使われていないこと。妻に会ったこと。大輝が先月末から姿を消していること。美和子は話を聞きながら首から下げた眼鏡の鎖を指でなぞっていた。
「九州」
としばらくして彼女は言った。「ゆり香さんが聞いたという話だ」
「確かじゃない」
「そう」
また沈黙があった。
「連絡、来ると思う」美和子は言った。「あの子は逃げても戻ってくる」
惣一はそれに答えなかった。

10月の終わり近く、金融会社から書面が届いた。内容証明郵便だった。連帯保証人としての債務履行を求める通知書だった。賃料の未払い分とリース費用を合わせた金額が記載されていた。惣一はその書面をテーブルの上に置いたまま、椅子に座って眺めた。美和子が横から覗いた。
「払える額じゃない」
「分かってる」
「どうする?」
「弁護士に相談しなければいけないかもしれない」
弁護士という言葉を口に出したのは初めてだった。

その翌週、倉庫の前に男が来た。夜勤の途中、午前2時頃だった。正門の前に人影が見えた。車を止めて降りると、作業着を着た中年の男が2人立っていた。
「夜分に失礼します。黒川惣一さんとお会いしたくて」
「何のようだ」
「大輝さんに貸した金の件でご連絡させていただいております。お父様の方にも少しご確認いただけることがありまして」
借金取立て業者だった。惣一には分かった。
「私は保証人になった覚えはない」
「書類はそうなっておりまして」
「ここは警備会社の敷地内だ。ここは私の職場だ。帰れ」
男たちは顔を見合わせた。
「少しだけお話が」
「帰れ。来るなら昼間に来い」
男たちはお辞儀をして去っていった。

翌日の夜、男たちはまた来た。今度は3人だった。正門ではなく倉庫の裏手の搬入口の辺りに立ち、1人が倉庫の外壁にコピー用紙を貼り始めた。惣一が近づいて確認すると、年金振込通知書のコピーだった。惣一が大輝に渡したものだった。その上に赤いマジックで「債務者」という文字が書かれ、金額が記載されていた。惣一は紙を剥がした。男が別の場所に貼ろうとした。惣一はそれも取り上げた。男は笑いながら「もっとたくさんある」と言った。

翌朝、所長が惣一を事務所に呼んだ。
「黒川さん、正直に聞きますが、これは個人的な問題ですか?」
「そうです」
「このままここで続けてもらうのが難しい状況になってきています」
「分かっています。退職届を書きます」
惣一は立ち上がった。退職届はその場で書いた。左手が震えていた。右手で抑えながら書いた。「一身上の都合により」という定型文を書きながら、その言葉が自分の口の中で転がるような気がした。ロッカーから荷物を取り出して倉庫を出た。外はまだ暗かった。夜明け前の4時頃だった。バス停のベンチに座って空を見た。手が震えていた。今度は止まろうとしなかった。

帰宅すると、美和子はまだ眠っていた。惣一は台所で電気もつけずに椅子に座った。夜が明けて、美和子が起きてきた。
「仕事、やめた」
美和子は電気のスイッチの近くに立ったまま惣一の顔を見た。
「なぜ?」
「業者が職場に来た。向こうに迷惑がかかる」
美和子はゆっくりと台所に入ってきて、向かいに座った。
「借金はどこ?」
「大輝が個人で借りていたらしいところ。私が保証人になっていると言っていた」
「本当に保証人になってるの?」
「わからない。大輝が私の名前を使ったかもしれない」
惣一は続けた。仕事を失ったこと。美和子の仕事も今月末までであること。年金は削られていること。借金の請求が来ていること。大輝は連絡が取れないこと。一つ一つ整理するように、感情を込めずに言った。美和子はそれを聞いていた。しばらく沈黙があった。
「ご飯」美和子は言った。それだけだった。立ち上がって米を研ぎ始めた。惣一はその後ろ姿を見ていた。台所に朝の光が入ってきていた。何も言えることがなかった。ただそこに座っていた。それだけが今できる唯一のことのような気がした。

11月になった。空が低くなった。集合住宅の1階は特に冷える。惣一は電気ストーブの設定を最低にして使っていた。電気代のことがあった。美和子は台所で作業をする時、薄手のカーディガンの上にもう1枚羽織るようになっていた。それ以上のことは2人とも言わなかった。

仕事を失って最初の1週間、惣一はハローワークで求人票を探したが、68歳という年齢が最初の壁になった。警備員の求人は複数あったが、多くが65歳までという条件だった。遠い職場は電車賃を考えると現実的ではなかった。翌週から、惣一は近くの公園でアルミ缶を拾うようになった。最初の日は23本だった。スーパーの裏手にある資源回収所に持っていくと、1kgあたりの単価で引き取ってもらえた。金額は少なかったが、何もしないよりはという計算だった。

美和子の仕事は10月末で終わっていた。11月に入ってから、彼女は午前中にスーパーに行き、夕方の値引き時間帯に合わせてもう1度行くという習慣をつけた。惣一は気づいていた。美和子の吸入薬の残量が少なくなっていた。彼女は惣一に見せないように、薬局で一番小さいサイズの市販の吸入薬を買ってきて、引き出しの奥にしまっていた。惣一は気づいていた。気づいていて、先に言い出せなかった。

ある日、惣一は美和子がテレビを見ながらホットラインについて話しているのを聞いた。「収入が少ない人でも弁護士に相談できる国の制度らしい」。後日、彼女は紙に書いた電話番号を惣一に見せた。弁護士への相談費用をどうするか、それが次の問題だった。

11月の下旬、電力会社から支払い督促のはがきが届いた。先月分の電気代が未払いになっていた。惣一はコンビニで一部だけ払った。全額ではなかった。残りは来月に回すしかなかった。

11月の終わり、惣一がアルミ缶を拾っていると、白い軽自動車が路肩に止まり、40代くらいの女が声をかけてきた。
「すみません。缶を集めてらっしゃるんですか?」
「うちの子が学校のリサイクル活動で缶を集めてて、もしよかったらお渡しできるかと思って。今トランクに2袋あるんですが」
「いただけますか?」
「もちろんです」
女は大きなビニール袋を2つ取り出した。かなりの量が入っていた。惣一は2袋を受け取った。
「ありがとうございます」
「こちらこそ」
車が走り去った後、惣一は袋を両手に下げて立っていた。袋が重かった。それは良いことだった。

11月の終わり、美和子は冬のコートを質屋に持っていった。惣一には言わなかった。帰ってきた彼女は、台所で相茶を飲んでいた惣一の前で、鞄から封筒を取り出してテーブルに置いた。
「こうして預けてきた」
惣一は封筒を見た。
「いつ?」
「今日。駅の近くに質屋があるから」
「私のも持っていけばよかった」
「あなたのは仕事に必要でしょう」
「今は仕事がない」
「でも、面接に来ていくものが必要」
惣一は封筒に手をつけなかった。美和子が封筒を引き出しの中にしまった。「春になれば戻せる」と美和子は言った。春という言葉が、今の季節には少し遠かった。

12月が近づくにつれて、2人の話す内容が少なくなった。言葉が減ったのではなく、言うべきことが削り落とされていった。余分なことを言う体力がお互いになかった。しかし、惣一が眠れない時に台所に来ると、美和子がすでに起きていることがあった。スマートフォンの画面を見ている。銀行アプリか年金の情報ページか、どちらかだった。

12月1日、電力会社から最終督促のはがきが届いた。「期日までにお支払いがない場合、12月10日を持って電力の供給を停止いたします」と書かれていた。12月15日より前に電気が止まる可能性があった。惣一ははがきを持ったまま台所に立っていた。美和子が郵便受けから戻ってきて、惣一の顔を見てはがきを受け取った。
「10日までか」
「何とか足りない」
「少しだけ払って、止められないようにできないか。電力会社に電話して事情を話すしかない」
美和子は電力会社の番号を調べた。惣一が電話をかけた。年金生活者で今月の収入が不足していること。12月15日に年金が振り込まれる予定で、そこから全額支払えること。それまでの間、供給を続けてもらえないか。オペレーターは少し待たせてから戻ってきた。
「12月15日までのご猶予ということでご確認ですが、その日に確実にお振り込みいただけますでしょうか?」
「できます」
「承知いたしました。特別猶予の形で対応いたします。12月15日に未払い分を含めた全額のお支払いをお願いいたします」
電話を切った後、惣一は受話器を持ったまま少しの間動かなかった。
「15日まで待ってもらえる」
美和子は小さく息を吐いた。
「15日まで持てばいい」
「ああ。米はまだある。大根も玉ねぎも」
「あとは缶を拾えばいくらかになる」
「吸入薬はもう1本だけある」
「病院は15日以降にする」
2人は台所の椅子に座って、残りの日数を指折り数えるように確認し合った。食費は1日500円以内で納める計算になった。美和子はその数字を聞いて何も言わなかった。ただ立ち上がって冷蔵庫を開け、中を確認して閉めた。
「大丈夫」
それが本当かどうか、惣一には分からなかった。

12月の最初の2週間は静かだった。静かというのは何も起きなかったということではない。毎日、ギリギリのところで何かを調整しながら過ごしたという意味だ。惣一は缶を集めた。美和子は値引き品を探してスーパーを2度往復した。食卓に並ぶものは日ごとに単純になっていったが、美和子は工夫した。惣一はそれをいつも残さず食べた。食べられることが、今は十分なことだった。

ある夜、美和子が咳で目を覚ました。惣一もその音で目が覚めた。美和子の部屋のドアを開けると、彼女は布団の上に起き上がって壁に寄りかかっていた。両手を胸の前で組んで、息をゆっくり整えようとしていた。
「大丈夫か?」
「少し待って」
惣一は部屋の入り口に立ったまま、美和子の呼吸が安定するまで動かなかった。
「もう1本、吸入薬がある」美和子は言った。
「分かってる」
「15日になれば病院に行ける」
「分かってる」
「分かってる」
返事を繰り返しながら、惣一は廊下の壁に肩を預けた。

12月14日の夜、惣一は眠れなかった。明日、年金が振り込まれる。振込通知書はまだ来ていなかった。しかし、毎年12月15日に振り込まれることは過去の記録から分かっていた。惣一は台所に来て鉄の小箱を開けた。去年の12月の通知書を取り出し、振込額の欄と所得税還付の欄を見た。今年はどうなるか。大輝が付け替えた所得分が税務署でどう処理されているか。それが還付の計算にどう影響するか、惣一には分からなかった。しかし、信じるしかなかった。今はそれを信じることが、2人が15日まで持てた理由の一つだった。

12月15日の朝は雪だった。惣一が目を覚ました時には、すでに窓の外が白くなっていた。今日、年金が振り込まれる。その一点だけが、目が覚めた瞬間から頭の中にあった。美和子が起きてきたのは8時頃だった。
「今日だね」
「ああ」
「振り込みの確認、朝一番でできる。銀行が開く前でもATMで確認できる」
「そうだな」
2人でテーブルに向かい合って座った。
「今日のうちに病院に行けるといいね」と美和子が言った。
「昼過ぎに行こう。私が付き合う」
「1人で行ける」
「付き合う」
美和子は惣一の顔を見た。それから小さく頷いた。2人はしばらく窓の外を見ていた。雪が落ちてくる速度は均一で、風がないせいでまっすぐに降っていた。特別なことは何も言わなかった。それでよかった。

9時を過ぎた頃、美和子がスマートフォンで銀行アプリを開いた。
「まだ入ってないかな? 入金は早いと9時頃には反映される」
しばらく待って、更新ボタンを押した。
「入ってる」
その一言だけで、惣一の肩から何かが降りるような感覚があった。
「いくら?」
美和子が金額を読み上げた。惣一は計算した。通常の振込額より多かった。所得税の還付分が含まれているようだった。
「還付が入ってる」
「うん。これだけあれば、電気代と薬と食費と、ホットラインへの相談費用も出る」
2人は顔を見合わせた。笑うような場面ではなかった。しかし、美和子の目の端に、何か柔らかいものが一瞬だけ浮かんだ。惣一にはそれが見えた。
「ATMで引き出してから、電気代を払いに行こう」
「コートがない」美和子は言った。「質屋に預けてた」
「私のを着て行け」
「あなたが着ないと」
「重ね着すれば平気だ」
美和子は少し考えてから「そうする」と言った。美和子は惣一のコートを着た。サイズが合わなくて袖が余った。しかし、文句を言わなかった。惣一はセーターの上にジャケットを重ね、その上にもう1枚薄い上着を着た。2人で玄関に立った。
「行こう」
雪道を2人で並んで歩いた。美和子の足取りがここ数週間で少し遅くなっていた。惣一は歩幅を縮めた。

最寄りのコンビニエンスストアの前にATMがあった。少し並んで順番が来た。惣一がカードを入れた。暗証番号を押した。左手が細かく震えていた。右手の親指で左手の甲を軽く押さえながら、ゆっくりとボタンを押した。引き出し金額を入力した。確認画面が出た。惣一が確定ボタンを押そうとした瞬間、画面の表示が切り替わった。エラーメッセージではなかった。残高照会の画面だった。惣一は一瞬、操作を間違えたかと思った。もう一度引き出しの操作をしようとした。そこで気づいた。残高の欄に表示されている数字が、0だった。

惣一はその数字を見た。もう一度見た。手順を間違えたのかと思ってカードを抜き、もう一度入れた。暗証番号を押した。残高を確認した。ゼロ。さっき美和子がスマートフォンで確認した金額は確かに入っていた。それは間違いなかった。
「どうしたの?」と美和子が隣で言った。
惣一は画面を隠した。美和子がスマートフォンを出した。銀行アプリを開いて更新した。画面を見た美和子の顔が止まった。
「入出金履歴」
彼女は画面を惣一に向けた。今朝振り込まれた年金の入金記録の直後に、同じ金額の出金記録があった。適用欄に「差押」という文字が表示されていた。惣一はその文字を見た。
「差押」
声に出して読んだ。裁判所の命令による口座の差し押さえ。大輝が残した保証契約を元に、金融業者が訴訟を起こして即時判決を得て、口座を差し押さえていた。8月に署名した書類のあの金融会社だった。美和子が先に入金を確認した時点ではまだ差し押さえの処理が反映されていなかった。数分の間に、年金の振り込みと差し押さえの執行がほぼ同時に行われた。

惣一はカードを財布にしまった。ATMの前から離れた。コンビニの入り口のガラス扉の前に立った。美和子が横に来た。2人とも何も言わなかった。雪はまだ降っていた。美和子がスマートフォンの画面をもう一度確認した。残高の数字を見た。それからアプリを閉じた。
「全部」彼女は言った。「全部だ。電気代も薬も食費も、全部引かれた」
声に感情がなかった。惣一も同じだった。感情を動かす余力が、今はなかった。

コンビニの前にプラスチックの椅子が一脚置いてあった。座面に薄く雪が積もっていた。美和子がその椅子の前に立った。
「少し座りたい。ここで、少しだけ」
惣一は手で雪を払った。しかし、完全には払えなかった。美和子は構わずそこに腰を下ろした。惣一は美和子の隣に立った。美和子が急に吸入器を取り出した。1度吸い込んだ。少し待った。また1度吸い込んだ。
「これで最後」と彼女は言った。
「吸入薬が?」
「うん。もうない」
惣一は前を向いたままそれを聞いた。道路の向こうに小さな公園があった。ブランコが一基と砂場があるだけの公園だった。砂場が雪で白くなっていた。

「弁護士に相談すれば、差し押さえを解除できないのか」
「できるかもしれない。でも相談費用が」
「ホットラインは費用を立て替えてくれると言っていた。電話で予約しないといけない」
「今日できる?」
「うん」
しかし、2人ともすぐには動かなかった。それがすぐに解決できる問題でないことは分かっていた。1つを解決すれば、別の問題が出てくる。それはずっとそうだった。6月にこの話が始まった時から、ずっとそうだった。

美和子が首を傾けて、惣一の肩に頭を持たせかけた。ゆっくりとした動作だった。惣一はそのまま動かなかった。美和子の呼吸が肩越しに伝わってきた。少しだけ詰まるような呼吸だった。薬が切れかけているせいだった。惣一は左手を見た。震えていた。寒さのせいか、それとも別の何かのせいか、分からなかった。美和子が惣一の左手を自分の両手で包んだ。冷たい手だった。惣一より小さく薄い手だった。それでも、包んでくれた。震えは止まらなかった。しかし、包まれていた。

「家に帰ろう」と惣一は言った。
「うん」
美和子はゆっくりと立ち上がった。惣一が腕を差し出した。美和子は惣一の腕に手をかけた。2人で雪道を歩き始めた。来た道を戻った。惣一は美和子の歩幅に合わせてゆっくり歩いた。今日の昼に何を食べるか考えた。冷蔵庫に白菜と豆腐の残りがあった。それで何かを作れる。食べられる。電気は今日のところはまだ使える。今夜いっぱいは大丈夫なはずだ。明日のことは、明日考えるしかなかった。それは逃げているのかもしれない。しかし、今の惣一にはそれしかできなかった。

集合住宅が見えてきた。外壁が雪で少し白くなっていた。1階の窓がいつもより暗く見えた。美和子が立ち止まった。
「ねえ」と彼女は言った。
「なんだ?」
「春になったら、コートを質屋から出そう」
惣一は美和子を見た。
「出せるようになったらな」
「出せるようになる」
「そうか」
「あなたのでなくて、私のコートの方が色がいいから」
惣一は返事をしなかった。美和子は前を向いて歩き始めた。惣一も歩いた。玄関のドアを開け、中に入った。靴を脱いで廊下に上がった。2人の足音が廊下に響いた。

台所に入ると、窓の外に雪が見えた。鉄の小箱が棚の上にあった。惣一はそれを見た。今年1年分の通知書があの中に入っている。6月のものから始まって、10月のもの。そして、今日届くはずだった12月のものも、いずれ届く。全部、丁寧に四つ折りにして並べて入れることになる。美和子がコートを脱いで椅子にかけた。それから台所に立って冷蔵庫を開けた。
「白菜と豆腐でお味噌汁にする。それでいい」
「カツオ節が少し残ってるから、ちゃんと出汁を取る」
「分かった」
美和子は白菜を取り出してまな板に置いた。包丁を持った。白菜を切り始めた。音がした。包丁とまな板の音が台所に響いた。惣一は椅子に座った。その音を聞いていた。白菜を切る音、鍋に水を入れる音、ガスを点ける音、カツオ節を出す音。美和子が1度咳をした。短い咳だった。それから、続けた。窓の外では雪がまだ降っていた。

今、この後、何をするべきかは分かっていた。ホットラインに電話する。弁護士の相談を予約する。差し押さえの解除について確認する。電力会社にもう一度電話して、事情を説明する。全部、今日やれることではないかもしれない。しかし、1つずつやるしかなかった。惣一は左手をテーブルの上に置いた。震えていた。見ていた。震えている手を、ただ見ていた。右手で包んでやめるのはやめた。今日は包まなくていいと思った。震えているなら、震えたままでいい。

台所の空気が少しずつ暖かくなっていった。鍋の中で湯が立ち始める音がした。
「もうすぐできる」
「ああ」
惣一は答えた。窓の外の雪は止む気配がなかった。積もった雪の上に、今朝2人で歩いた足跡があるはずだった。コンビニまで行って戻ってきた足跡が。しかし、今は新しい雪がその上に積もって、もう分からなくなっていた。どこを歩いたか、どこまで行ったか、もう跡が残っていなかった。ただ、今ここにいる。それだけが、今確かなことだった。

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