朝の5時、目覚ましが鳴る前に体が起き上がる。それが松永秀夫の人生だった。61歳。昨年、山代フレートという運送会社の地域統括本部長を早期退職した男。背筋はピンと伸び、言葉は短く正確。部下からの信頼も厚く、40年間、会社のために全てを捧げてきたと信じて疑わなかった。
退職から9ヶ月が経った3月の朝。ランニングを終え、シャワーを浴び、自分でトーストを焼いて食べた。妻の千鶴は台所にいなかった。最近、朝の時間帯が合わなくなっていた。別に気にしていなかった。書斎で棚を整理していると、ダンボール箱の後ろから古いアルバムを見つけた。日焼けした表紙を開くと、赤い体操着を着た男の子が写っていた。息子の亮平だった。7、8歳の頃だろう。写真の端に千鶴の横顔が映っていた。松永は映っていない。
ページをめくる。海岸で砂に触れる亮平。食卓で笑う亮平。自転車の前で立つ亮平。どの写真にも、松永の姿はなかった。結婚式の写真もあった。千鶴は笑っている。松永の表情は硬い。あの日の式場の雰囲気を思い出そうとした。思い出せなかった。
次に、息子の声を思い出そうとした。低かったのか、高かったのか。笑う時の癖は?何も出てこなかった。亮平は今、31歳のはずだ。食事の時の箸の持ち方。歩き方。二人で話した仕事の話。将来の話。何かを相談された記憶。何も出てこなかった。33年間連れ添った千鶴の笑い声すら、思い出せないことに気づいた。
代わりに、会社の記憶は次々と浮かんでくる。2011年の秋。運動会の日、緊急会議に呼び出された。委託先でトラブルが発生し、クレームが殺到していた。会議の中断中、千鶴から3回着信があった。出なかった。黒川専務が言った。「お前、まさか今日、運動会に行くつもりじゃないだろうな。子供の遊戯会を見に行くために、何千トンの荷物を放置するつもりか。」松永はその日、運動会に行かなかった。会議室の蛍光灯の明るさも、黒川の声の質感も鮮明に覚えているのに、息子がその日、どんな競技に出たのか、一切分からない。
自分は正しく生きてきたはずだった。家族のために働いてきた。家のローンを返済し、学費を出し、毎月欠かさず給料を家に入れた。それが夫として、父としての責任だと思っていた。しかし、今この書斎の床で、自分が人間の形をした履歴書であることを初めて理解した。心臓が一瞬、浅く跳ねた。
アルバムを閉じ、棚に戻した。リビングを通りかかると、台所に人の気配がした。千鶴が床に膝をついていた。何かを拾おうとしているのかと思った。近づくと、違った。両膝をついたまま、両手に紙の束を持って、動かなかった。千鶴の手から書類を抜き取った。消費者金融ではない。債権回収業者による正式な再建回収の通知書だった。債務者の名前は松永千鶴。そして、請求総額が太字で記されていた。
4500万円。
松永は書面を見下ろし、千鶴を見た。千鶴は松永の顔を見ていた。泣いてもいなかった。感情の色のない、ただ疲れ果てた静かな目だった。「これはどういうことだ。いつからだ。なぜ相談しなかったんだ。」声が思ったより大きかった。千鶴は、松永が言い終わるのを待ってから、低く落ち着いた声で言った。「あなたはいつも留守でしたから。亮平が3年前に事業を潰したんです。私が間に入らなければ、あの子がどこかへ消えてしまいそうで。だから借りました。あなたが安心して仕事に集中できるように、私が全部自分で処理していました。」責める口調ではなかった。「ご心配をおかけしたくなかっただけです。」
松永は頭の中で計算を始めた。退職金の手取りは約2300万円。それは定期預金に入れたはずだ。個人の貯蓄も合わせれば、手元には3000万円以上あるはずだった。しかし、通帳を確認すると、残高は約860万円しかなかった。定期預金の通帳を探すと、解約証明書が2枚見つかった。解約日は1年半前と8ヶ月前。合計2250万円。手続きに使われた印鑑は、松永の実印だった。
妻が実印を使っていた。33年間、同じ家に住んでいれば、知っていてもおかしくない。差し引かれた2000万円以上は、すでに返済に消えていた。残っているのは約2500万円。しかし、手元の860万円では、どうしようもない。年金の受給までは数年ある。
翌日、松永は久しぶりにスーツを着た。山代フレートの本社ビルへ向かった。黒川徹也取締役に会うためだ。待合室で30分待たされ、黒川は葉巻を指で回しながら入ってきた。「久しぶりだな、松永。元気そうだ。」松永は退職の撤回か、顧問や嘱託としての採用枠がないか尋ねた。黒川は口元だけで笑った。目が笑っていない、あの嘲笑の表情だった。「退職の撤回はできない。顧問も嘱託も埋まっている。お前の経験が生かせる仕事なら、1つだけある。」差し出された書類には、霧山トランスポートという下請け企業への業務委託契約書の草案が書かれていた。業務内容は夜間輸送拠点における配送調整補助業務。勤務時間は午後10時から午前6時。月額報酬は18万円。松永が本部長時代の4分の1以下の金額だった。「プライドを捨てろと言っているわけじゃない。現実的な話をしているだけだ。受けるかどうかは自分で決めろ。」松永は静かに言った。「分かった。受けます。」
夜間の仕事は、単純だった。トラックの受け入れ確認。データ入力。現場のドライバーからは「補助は役に立たないな」と鼻で笑われた。以前の松永なら、ありえなかった。かつては北関東全域の物流を管理していたのだ。今は、1つの拠点の補助担当。深夜の休憩時間、自販機の缶コーヒーを飲みながら、国道を走り抜けるトラックを見つめた。味はしなかった。
帰宅すると、千鶴はいつも寝室にいた。会話はなかった。ある日、玄関に白い封筒が届いた。中を開けると、「あなたの奥さんが当社に対して負っている借金について…差し押さえの手続きを検討します」と印刷された紙が入っていた。翌日から、見知らぬ番号からの着信が増えた。夜中にもかかってくる。3日後には、玄関前に白い花が供えられた。近所の電柱には、「この住所に住む松永秀夫は借金を踏み倒しています」と書かれた紙が貼られた。剥がしても、翌日には別の場所に貼ってあった。組織的な圧力だと分かった。松永は眠れなくなった。体重が落ち始めた。
4月に入り、松永は亮平に会いに行くことにした。千鶴に住所を聞くと、少し間を置いてから教えてくれた。壊れたアパートの203号室。ドアを叩くと、寝起きの顔をした亮平が立っていた。目の下に濃い隈がある。痩せていた。「何しに来た。」低く、感情のない声だった。松永は言った。「お母さんから聞いた。会社を畳んだそうだな。借金の話も聞いた。その分は俺が何とかする。今、何をしている?」亮平は遠くを見るような目で松永を見た。「何とかする…そういう言い方をするんだな。ずっとそうだった。何かあったら、お前が何とかする。俺が会社を潰した時、お母さんは毎晩泣きながら電話してきた。全部話してくれた。あんたは来なかった。電話もなかった。知らなかったんだろうけど、知ろうとしなかったからだ。違うか。」松永は返答を探した。違うとは言えなかった。亮平は続けた。「俺の記憶の中に、あんたがいる場面がほとんどない。食卓に座っていたことはある。でも、会話があった記憶がない。中学の文化祭も、高校の卒業式も来なかった。社会人になって最初の給料をもらった時、報告したくて電話したら、『今は忙しい』と言われた。それだけだ。」「そんなことがあったか。」松永はつい口にした。「そう、それだ。そういう言い方をする。俺の話が、あんたの中では『そんなこと』なんだ。」部屋は静かだった。松永は「お母さんのこと、頼む」と言って、アパートを後にした。「分かった」とだけ言って。
帰りの電車で、松永は初めて亮平の声を正確に再生できた。低く、感情が削られた声だった。千鶴に「亮平に会ってきた。生きていた。倉庫の仕事をしているらしい。お前のことを頼むと言っていた」と伝えた。千鶴は「そうですか」とだけ言った。夕食は1人で食べた。魚の煮付けから、丁寧に骨が取り除かれていた。千鶴がいた。
数日後、深夜勤務から帰ると、廊下の奥から物音がした。寝室のドアが少し開いていた。千鶴が床に倒れていた。口元に暗い色のものが広がっていた。血だった。救急車を呼び、松永は千鶴の手を握った。細かった。記憶にあるよりずっと細かった。病院で医師から告げられたのは、食道静脈瘤の破裂。肝臓に長期的なダメージが蓄積していたことが原因で、アルコールの影響が疑われるという。「いつ頃からでしょうか。」「肝臓の状態からすると、少なくとも数年単位だと思われます。」千鶴は、松永が知らないところで何年も1人で酒を飲み続けていた。松永が会議の資料を読んでいた夜も、黒川の顔色を伺っていた時間も、彼女はこの家のどこかで、1人で何かを飲み込んでいた。
千鶴は集中治療室に入った。高額な入院費。手元の現金は減っていく。松永はふと、退職時に受け取れなかった功労報奨金のことを思い出した。1500万円。支給されなかった理由は、「業績悪化」だった。しかし、在職中、自分のブロックが赤字だという認識はなかった。物量はプラスだったはずだ。元財務部の渡辺に電話で確認を試みると、「私に聞かれるのは難しいんですよ」と濁された。それで答えは分かった。在職中に承認した覚えのない委託費の記録を見つけた。「霧島物流サービス」。代表者の名前は、黒川浩。黒川徹也の息子の名前だった。松永の決済印を使い、黒川は自分の息子の会社に利益を流していた。松永の名前は、不正の隠れ蓑にされていた。
翌日、松永は本社ビルの駐車場で黒川を待ち構えた。証拠の書類を突きつけ、功労報奨金の支払いを要求した。「1500万円を支払って欲しい。それだけだ。支払ってもらえれば、この書類は俺の手元に止まる。」黒川は静かに言った。「1つ。その書類に押された決済印は、お前自身の印鑑だ。霧島への支払いを承認したのは、書類の上ではお前だ。2つ。お前が今言ったことは、金銭の要求だ。状況によっては脅迫として解釈される可能性がある。お前がどこかで口を開いた瞬間、俺は決済印の話を持ち出す。理解できるか。」論理的には、黒川の言う通りだった。声を上げれば、松永自身の首が締まる構造だった。最初から、使い捨ての承認者として設計されていた。松永が一歩踏み出した瞬間、2人の男に腕を掴まれ、コンクリートの壁に押し付けられた。黒川は何も言わず、葉巻きを指で回しながら見ていた。
それでも、松永にはもう失うものがなかった。名誉はすでに形を失っていた。財産は千鶴の借金に溶けた。残ったのは、使えない証拠書類だけだった。
5月、千鶴が一般病棟に移った。安定した日、松永は家を売ることを伝えた。「他に方法がなかった。」千鶴は窓の外を見て、「そうですか」と言い、続けた。「あなたに相談しなかったのは、あなたが悪いんじゃなくて、私が選んだことです。それだけは言っておきたかった。もういいんです。疲れましたから。あなたも疲れたでしょう。」松永は「俺も疲れた」とだけ言った。
6月、家の引き渡しが終わった。千鶴が退院し、電車で20分ほどの小さな賃貸アパートに引っ越した。25平米の1LDK。松永は料理をした。味噌汁と焼き魚。味噌が濃すぎたが、千鶴は何も言わず、出汁を足して薄めていた。夕食の後、千鶴は「先にお休みします」と言い、廊下で立ち止まって「おやすみなさい」と言った。松永は「ああ」と答えた。深夜の仕事に出る前に、テーブルの上に並んだ2つの箸を見つめた。それだけのことだったが、しばらく見ていた。
数週間後、松永は机の上に置かれた古い手帳を開いた。会議の記録、取引先の名前、数字の列。全部、記憶にあった。倉庫の天井の高さ。交渉相手の顔。深夜に届いたトラブルの報告。それを必要とする場所に、自分はもう立っていない。それでも、それは消えずに、自分の中に確かに残っている。右手の指が無意識に動きかけた。時計の文字盤を叩く癖。指を止めた。窓の外では、風に木の葉が揺れていた。廊下から、千鶴が水を飲む音がした。コップを置く音。それから、寝室のドアが閉まる音。松永はその音を聞いた。手帳は机の上に置かれたまま。開く必要も、捨てる必要も、今夜はなかった。外が少しずつ暗くなっていく。もうすぐ、仕事の時間だった。



