嘘をつく時、人は何かを守ろうとしている。愛する人のためか、長年積み上げてきたものへの執着か、それとも自分でも気づかないうちに手放せなくなった誇りか。嘘の根っこには必ず守りたいものがある。しかし森山安子は、自分がもうどれだけ長くそうやって生きてきたのか、正確に思い出すことができなくなっていた。
あれは26年の梅雨の時期だった。埼玉県の外れにある古い団地で、安子は夫の秀夫と二人暮らしをしていた。建物は昭和40年代に建てられたもので、廊下の手すりは錆びつき、雨の日には壁のシミが濃くなった。安子は63歳。背中は少し丸くなり、来ているカーディガンの袖口は毛羽立っていた。
仕事は近くの総合病院の清掃パート。朝7時に出て昼過ぎに終わる。一日の大半を廊下の雑巾がけとトイレ掃除に使い、ほとんど誰とも話さずに帰ってくる。それでも安子にとってその仕事は大切だった。自分で稼いだお金が手元に入るという事実が、薄い紙一枚分の安心感を与えてくれた。
夫の秀夫は66歳。今年の1月に会社をやめていた。やめたのではなく、やめさせられた。いわゆる早期退職の勧奨だった。30年以上務めた会社は、50代半ばを過ぎた者から順に用済みとして扱った。退職を促す面談は3回あった。秀夫は3回目に提示された条件にサインした。
翌朝、食卓でコーヒーを飲みながら、秀夫は「ところで会社をやめることにした」と言った。安子は何も言えなかった。ただコーヒーカップを持ったまま窓の外を見た。曇り空だった。
秀夫は退職後も毎日スーツを着て出かけた。図書館でビジネス書を読んでいると言い、顧問の仕事を探していると言った。しかし3月が過ぎ、4月が過ぎても仕事は決まらなかった。安子は秀夫に何も言わなかった。言えなかった。秀夫はプライドの高い人だった。それはかつて家族を養うための強さでもあったが、定年後のプライドは違う形を取った。
6月の梅雨入り三日目の夜。安子はスーパーの前に立っていた。団地から徒歩十分の場所にある古い店だ。安子は夕方の6時頃から店内を歩き、値段を一つ一つ確認しながら必要最小限のものだけを買い物かごに入れた。豆腐一丁、もやし一袋、切り干し大根の小さなパック。
店の奥の壁には時計がある。まだ7時50分。あと10分。スーパーの閉店間際になると、担当の店員が値引きシールを貼って回る。半額のシールだ。安子はその列に並ぶことができなかった。並ぶことへの恥ずかしさが消えなかった。同じ団地に住む知り合いと出くわしたらと思うと、足が遅くなる。だから安子は値引きシールが貼られた商品を直接手に取ることをせず、他の棚を眺めるふりをしながら目の端で状況を確認した。
時間になり、店員が弁当売り場に近づいた。少し間を置いて、安子は大きな動きの中に紛れながら幕の内弁当のパックを手に取った。490円が半額の245円。もう一つ、さけのおにぎりが二個入ったパックと、小松菜の煮浸しが入った容器を取った。レジに向かいながら、安子の目は自然と入り口の方へ流れた。もし知り合いと目があった時、何を言えばいいか。こんな時間にこんなものを買っているという事実を、何かで説明しなければならないような気がした。
レジ袋は断った。エコバッグに詰めながら合計を頭の中で計算した。723円。
部屋に戻ると、秀夫はリビングのソファでテレビを見ていた。うとうとしているようだった。安子は台所で買ってきたものを皿に移し、秀夫の分を少し多めに盛った。秀夫は箸を手に取り、皿の上を一瞥した。
「最近は総菜だな」
ため息ともつかない短い息を吐いて言った。安子は「そうですね」と答えた。
「何か手間のかかったものが食べたい。逐然とした煮物とか、ちゃんとした夕飯というのは、家の中に落ち着きが出る気がするんだよ」
「はい、今度作ってみます」
食事が終わると、安子は一人で食器を洗った。お湯の音とテレビの声と、また降り出した雨の音が混ざって台所に満ちた。安子はスポンジで皿を洗いながら、頭の中に数字を並べていた。
今月の収入。パートの給与が7万2000円。秀夫の年金が14万円ちょうど。合わせて21万2000円。そこから家賃が4万8000円。光熱費で3万円弱。食費を何とか月3万円に抑えているが、今月はすでに2万6000円使っていて、残り一週間をどう乗り切るかが問題だった。保険料が1万5000円。通信費が7800円。それだけで13万円近くが消える。残りの8万円で生活の残り全てを賄わなければならない。日用品、医療費、急な出費。
翌朝、雨はまだ続いていた。安子はゴミ出しのため一階へ降りた。雨の日は袋が濡れてしまう小さなゴミ捨て場に袋を入れて戻ろうとした時、「二宗の吉田さんの奥さん」が来た。団地の中では顔が広く、立ち話が長い人として知られている人だ。
「おはようございます」安子は頭を下げた。
「あら、森山さん」
しばらく雨が多いとか洗濯物が乾かないとか、他愛のない話をした後、吉田さんの奥さんが言った。
「ところで、旦那様はその道をされてるんですか?」
安子の胸の奥で何かが一瞬収縮した。
「ええと……おかげさまで、いくつかのお話をいただいていまして。ある企業から顧問の声がかかりまして、近いうちにお返事をする予定なんです。主人の方でも、もう少し条件を確認してから決めようと言っておりまして」
吉田さんの奥さんは「ああ、そうですか。良かったですね」と笑顔で言った。安子も笑った。傘の下で微笑みながら、安子の胃が静かにきつく締まっていく感覚があった。あの感覚はもう何年も続いていた。緊張する時や嘘をついた時、誰かに何かを隠している時に出てくる。
仕事に出かける前、安子は郵便受けを確認するのが習慣だった。その日も一階に降りて扉を開けると、チラシが二枚と小さな封筒が入っていた。薄茶色の横長の封筒。左上に区の名前と「税務課」という文字が印刷されていた。安子は封筒を手に取った。重さはほとんどなかった。折りたたまれた一枚か二枚の紙が入っているだけだ。なのに、手の中でそれはなぜか妙に重く感じた。
仕事中もずっと封筒のことが気になっていた。昼休みに休憩室で一人になった時、安子は封筒を開けた。中に入っていたのは二枚の紙。一枚は短い文章が書かれた本文で、もう一枚は数字が縦に並んだ表だった。
安子は一文ずつ慎重に読んだ。丁寧な役所の言葉で書かれていたが、意味は一つだった。秀夫の年金額が変更になった。そして昨年度まで適用されていた計算方式が変わり、今年度から課税標準額が上がる。結果として住民税と国民健康保険料の追加徴収が発生している。もう一枚の紙を見た。追加額の合計は22万7000円だった。
安子はその数字を三回確認した。一回目は早く読みすぎて正確に把握できなかった。二回目でようやく桁を確認した。三回目でその数字が現実のものであると受け入れた。22万7000円。二ヶ月分のパート給与にほぼ相当する金額だった。納付期限は8月末、一括か三回に分けての分割払いが可能と書かれていた。
安子は紙を折り、封筒に戻した。鞄の中に入れた。窓の外には病院の駐車場が見えた。雨が降っていた。安子はしばらくそこに座ったまま動けなかった。手が少し震えているのに気づいた。誰にも何も言わなかった。言う相手がいなかった。夫には言えなかった。言えば秀夫は傷つき、その傷が怒りに変わることを安子は長年の経験から知っていた。息子を頼るという選択肢は最初から除外していた。息子は今年で34歳、大阪で会社員だ。去年結婚したばかりで、子供も近々生まれると聞いていた。そこへ母親が22万円の話を持ち込むことはできなかった。
病院に着いた時、夜間の清掃スタッフが不足していると主任が言っていた言葉を思い出した。安子はその言葉を頭の中で何度か繰り返した。家への道を歩きながら、心の中で計算を続けた。三回に分けて払うとして一回あたり7万6000円弱。毎月の収入から何を削れるか。食費をさらに切り詰める。光熱費はすでに節約できるところまで節約している。秀夫に内緒にしたまま自分だけで対応するには、パートの時間を増やすか別の収入源を見つけるかしかない。
あの茶封筒を受け取ってから7日が経っていた。安子はその封筒を押し入れの奥の箱の中に入れていた。秀夫が使わなくなったゴルフ道具の袋の後ろ、ダンボール箱の底に、他の書類に紛れ込ませるようにして。見えないところに置くと少しだけ楽になった。しかし、目に見えなくても22万7000円という数字は消えなかった。朝目が覚めた時、仕事中に廊下を拭いている時、秀夫の食事を盛る時、その数字はいつも安子の頭のどこかにあった。
安子が病院の主任に声をかけたのは、封筒を受け取った翌週の月曜日だった。田中主任は50代の女性。物言いが直接的で、それを嫌がる人もいたが、安子はむしろその人の言葉が信用できると思っていた。飾らないからだ。
「先月おっしゃっていた夜間の清掃のことなんですが、もしまだ人手が必要でしたら、私でよければ入っていただけますか?」
田中主任は少し驚いた顔をして、「でも本当に大丈夫ですか。夜は遅いですよ。終わりが午前1時を過ぎますし、体がきつい人もいますから」と言った。
「大丈夫です」安子はすぐに答えた。
そうして安子の夜間シフトが始まった。週に三回、夜の9時から翌朝の1時まで。帰宅するのは1時半を過ぎ、横になるのが3時近く。眠れるのは4時前後。朝は6時半に起きる。以前から眠りは浅かった。夜間シフトを入れてからは、その浅い睡眠の時間がさらに短くなった。それでも安子は続けた。
夜の病院の廊下は昼間とは違う静けさがあった。消毒液の匂いが漂い、病室から時々、監視機器の音や誰かの低い声が聞こえた。ある夜、80代の男性が廊下の窓の前に立っていた。パジャマ姿で点滴のスタンドを引きながら、真っ暗な窓の外を見ていた。安子はモップを持ったままその人の少し手前で止まった。邪魔をしてはいけないと思った。その人の背中から、言いようのない孤独さが漂っていた。安子は静かにモップを動かしながらその人の後ろを通り過ぎた。通り過ぎながら自分のことを考えていた。数年後、自分がああなっていないとは言いきれない。
6月の終わり頃、息子から電話があった。夜の9時半過ぎのことだった。安子はちょうど夕食の片付けをしていた。画面に息子の名前が出た。安子はすぐに画面を見つめ、それから少しの間そのままにして、指で取った。
「もしもし」声は自然に少し高くなった。
息子は近況を話した。仕事が忙しいこと。それから、今年の盆は帰省が難しそうだということ。妻の体調があまり良くないらしく、長距離の移動は今年は控えたいと言っていること。安子はその度に「そうか、それは大変ね」と言った。息子は少し間を置いて、「今年の盆の仕送りなんだけど」と切り出した。安子は手に持っていたタオルを少しきつく握った。
「ちょっと難しいかもしれない。来年子供も生まれるし、今年は家の頭金も動かした。親父たちは年金もあるし大丈夫だと思うけど……ごめん」
安子は息子が言い終わるより先に答えた。
「大丈夫よ。気にしないで。お父さんもお母さんも本当に困っていないから。年金がちゃんと入っているし、生活は落ち着いているの。あなたは奥さんのことをちゃんとしてあげて。それが一番大切なんだから」
息子はしばらく黙っていた。「本当に大丈夫か」と一度だけ聞いた。「大丈夫よ」と安子はもう一度言った。今度は少し笑いを混ぜた。息子は「わかった。ありがとう」と言って電話を切った。
画面が暗くなった。安子は電話を台所のカウンターに置いた。それからすぐに動けなかった。リビングから秀夫がテレビを見る音が聞こえた。安子はタオルを引き出しに戻して、台所の床にそっと座り込んだ。冷蔵庫の横の隙間に背中を預けるようにして膝を抱えた。泣きたいわけではなかった。ただ立っているより座っている方が楽だった。息子が安心するのが、子供の頃から安子の仕事だった。今もそれと同じことをしていた。違うのは、今のこれは自分の力だけではどうにもならない気がしているということだった。
7月に入った。ある日の午後3時頃、玄関のインターホンが鳴った。出ると、背の高い50代の男性が立っていた。町内会長の野村さんだった。野村会長は丁寧に挨拶してから、来月の夏祭りの件で来たと言った。共産金の目安額は3万円。任意だが、実際には払わないという選択が難しい空気がある。
「申し訳ありませんが、今月は少し家計が厳しくて。3000円でも大丈夫でしょうか」
安子が言いかけた時、後ろで廊下を歩く音がした。秀夫が帰ってきた。ネクタイを締め、スーツ姿で。秀夫は野村会長の顔を見てすぐに笑顔を作った。
「ああ、野村さん、お久しぶりです」
「夏祭りの件で」と野村会長が説明すると、秀夫は「うちはもちろんですよ」と言いながら上着の内側に手を入れた。安子は秀夫の手が内ポケットへ向かうのを見た。胸の奥で何かが縮んだ。秀夫は茶封筒を取り出した。それは安子が光熱費の引き落とし口座に入れるために先週引き出してきた現金が入っている封筒だった。秀夫が持ち歩いていることを安子は知らなかった。秀夫はその中から一万円札を三枚取り出して、野村会長に差し出した。
「どうぞよろしくお願いします」
安子は玄関の端に立ったまま動けなかった。3万円。電気代の引き落とし口座に入れようとしていた3万円。野村会長が帰った後、秀夫は「野村さんはいい人だよ。地域のことをよく考えている」と言った。安子は何も言えなかった。茶封筒を言い出せなかった。
夜間シフトに向かう準備をしながら、安子は電気代の引き落とし口座の残高を確認した。残高は不足していた。頭の中で計算してみたが、どうやっても1万円足りない。安子は目を閉じてメモ帳を引き出しにしまった。夜の道を歩きながら空を見上げた。雲が多くて星はほとんど見えなかった。あの夜、廊下の窓の前に立っていた老人のことをまた思い出していた。自分が数年後にそうなるかどうかはまだ分からない。でも今、この瞬間、夜中の道を一人で歩いている自分の背中が、あの老人とどこか似ているような気がした。
7月の最初の木曜日、午前9時20分。安子は市役所の前に立っていた。昼間のパートは今日だけ休みをもらった。田中主任には「所用がある」と伝えた。詳しくは言わなかった。自動ドアをくぐると中は広く、右手に番号発券機が並んでいた。安子は「税務課は2番窓口」と確認し、番号札を引いた。412番。待合いの椅子は黄色いプラスチック製で、すでに十数人が座っていた。全員が静かだった。誰も話さなかった。
電光掲示板の数字がゆっくりと変わる。399、400。隣に座っていた70代らしき女性が時々、小さなため息をついた。401、402。時間が経つにつれて、安子の手のひらが少し湿ってきた。3つある窓口のうち2番には、30代前半に見える若い男性の職員が座っていた。眼鏡をかけていて、表情は平板だった。感情のない声で、業務として説明している声だった。それが悪いということではない。ただ、自分が今日そこに座ることを想像すると、胃の奥がじわりと締まってきた。
410、411。安子は一度深呼吸をした。412、2番窓口へどうぞ。立ち上がった時、膝が少し震えた。
窓口の前には薄いアクリル板が立っていた。名札には「村田」と書いてあった。
「お待たせしました。どのようなご要件でしょうか」
安子はバッグから茶封筒を取り出した。
「こちらを受け取りまして。先日届いた住民税と保険料の追加通知の件で、少しご相談がしたくて」
村田は封筒を受け取り、中身を取り出して読んだ。それからパソコンを操作して何かを確認した。
「こちらは今年度の再計算に基づく追加分のご通知です。ご主人様の公的年金の金額が変更になったことで、課税標準額が変わりまして」
「はい、それは分かっているのですが。実は、今すぐにこの金額を用意するのが難しい状況でして。分割でお支払いすることはできるとは思うのですが、もし何か軽減の制度があれば教えていただけますか?それか、もう少し期間を伸ばしていただける方法があれば」
村田はパソコンの画面を見ながら「世帯の収入状況をお伺いしてもよろしいでしょうか」と言った。安子は給与と年金通知書を取り出した。村田はそれを受け取り、数字を確認し、パソコンに何かを入力した。
「現時点では、ご主人様は就業中ということにはなっておりませんね」
「ええ」
「ハローワークへのご登録はされていますか」
安子は「それがまだで」と答えた。村田は少し間を置いて言った。
「軽減制度の適用については、失業の認定を受けていることが条件になる場合が多いんです。ご主人様が正式に求職活動を登録されていれば、収入状況によっては保険料の減免申請ができる可能性があります。ただ、現状の書類だけでは世帯収入の合算が基準を超えてしまいまして」
安子はしばらく黙っていた。ハローワークへ行くことを、秀夫はずっと拒んでいた。登録する気がないというより、登録という行為そのものを認めたくないのだと安子は感じていた。ハローワークに行くことは、自分が仕事を持っていないことを書類の上で正式に認めることだ。秀夫はそれができなかった。その事情を、安子は今ここで村田に説明することができなかった。
「あの」と安子は言った。「夫に登録を促してみます。ただ、それまでの間、支払いについては猶予のようなものはいただけますでしょうか」
村田はパソコンを見ながら、「分割払いは通知書にも記載の通り三回まで対応しています。猶予の申請については別の書類が必要になりますので、本日はお持ちでしょうか」と言った。
「いいえ」
「それでは、必要書類のご案内をお渡ししますので、揃えてから改めてお越しいただく形になります」
それだけだった。村田は引き出しから一枚の紙を取り出して安子に渡した。安子は受け取り、「ありがとうございます」と言って頭を下げた。村田はすでに画面に目を戻していた。安子は椅子から立ち上がって窓口を離れた。ここへ来る前は、何か糸口が見つかるかもしれないと思っていた。でも、そういうことは何もなかった。ただ、書類が足りず、夫が登録をしていないという事実があり、次に来る時も同じ手順を踏まなければならないということが分かっただけだった。
帰宅すると秀夫は出かけていた。安子は台所で昼食を済ませ、夕方の5時頃、秀夫が帰ってきた。いつもより少し早い時間だった。
「今日は少し早いですね」安子が言うと、「ああ。今日は図書館が早めに閉まった」と秀夫は短く言った。
少し間があって、「今日は少し疲れたな」と秀夫が言った。安子は味噌汁をかき混ぜながら「体のどこかが疲れたのですか」と聞いた。
「そういうことじゃない。なんとなくだ」それから秀夫は言った。「先日、昔の同僚に偶然あった。川島だ。覚えているか?営業部にいたやつで、俺より三つ下」
安子は覚えていなかった。でも「はい」と言った。
「あいつはもう次の仕事を始めているらしい。取引先の中小企業に顧問で入ったらしくてな」
「そうですか」
秀夫はしばらく黙った。「俺が探しているものとはちょっと違うが。あいつが言ったような会社は、俺の経験からすると少し規模が小さすぎる。もう少し規模のある、きちんとした会社の方がいい」
安子は味噌汁の火を落とした。夕食を並べながら、安子は秀夫に言った。
「あのう」と切り出した。秀夫が顔を上げた。「少し話したいことがあるのですが」
秀夫は箸を持ちながら「なんだ」と言った。
「先日、区から通知が来ていまして。住民税と保険料の追加の請求なんですが」
秀夫の表情が少し変わった。「いくらだ」
「22万7000円です」
秀夫はしばらく黙った。「なぜそんなことになるんだ」声のトーンが少し上がった。
「年金の計算方式が変わったみたいで。今年から課税の基準が変わって」
「それは役所のミスじゃないのか」
「違うと思います。制度が変わったということで」
秀夫はしばらく黙っていた。箸を一度テーブルに置いた。「対応策はあるのか」
安子は言った。「ハローワークに登録すれば、保険料の減免を申請できる可能性があるそうです」
秀夫の顔が変わった。「何を言っているんだ」声が低くなっていた。
「私が区の役所に行って確認してきたのですが。正式に求職活動を登録することで、減免の資格が生まれるらしくて」
「俺に公共の職業安定所へ行けと言っているのか」
「制度を使うためだけで、恥ずかしいことでは」と安子が言いかけた。秀夫は箸をテーブルに叩きつけた。音が台所まで響いた。大きな音ではなかった。でもその静けさの中では十分に響いた。
「俺はまだ仕事を探している最中だ。それを役所に行って失業者として登録するなんてことが、できるか」声が震えていた。怒りの震えだった。
安子は座ったまま秀夫を見ていた。40年近く、秀夫が怒るたびに安子は「すみません」と言ってきた。今もそう言いそうになった。その言葉が喉の手前までは来ていた。でも今日は違った。安子は立ち上がった。ゆっくりと立ち上がって秀夫の目を見た。こういう機会はほとんどなかった。安子が秀夫を正面から見ることは普段ほとんどなかった。
「あの」と安子は言った。声は低かった。震えてもいなかった。「私が区の役所へ行ったのも、夜の仕事を入れているのも、全部この問題をどうにかしようとしてのことです」
秀夫は少し黙った。「夜の仕事とは何だ」
「病院の清掃の夜間シフトです。週に三回、夜の9時から入っています」
秀夫はしばらく何も言わなかった。知らなかったのだと安子は思った。知ろうとしていなかったという方が正確かもしれなかった。
安子はもう一度ゆっくりと言った。「私たちには今、お米を買う分のお金しかありません」
その言葉が部屋に落ちた。秀夫はしばらく安子を見ていた。それから顔が赤くなった。「言い訳をするな。家の金のことをちゃんと管理しているのはお前だろう。やりくりするのが下手なんじゃないか」
「そうではありません」
秀夫は何か言おうとして、でも言葉を出す前に立ち上がり、リビングの端にあった傘立てから傘を取った。「少し冷静になって考える必要がある」と言いながら玄関へ向かい、「竹内に連絡して相談してみる。あいつは経営の知識があるから、何か策があるかもしれない」と言った。扉が開いた。そして閉まった。
安子はテーブルの前に立ったまま、しばらく動かなかった。秀夫の椅子の前に箸が転がっていた。夕食がそのまま冷めていた。安子は箸を拾ってテーブルに置いた。それからしゃがんだ。秀夫が箸を叩きつけた時、お盆の上の塩が少しこぼれていた。床の上に白い粒がいくつか落ちていた。安子はそれを指先でそっと集めた。一粒ずつ指の腹で抑えながら集めて手のひらに乗せた。立ち上がって台所のシンクに流した。流しながら、冷たい水が手のひらを流れていく感触だけが、今この瞬間に確かに存在しているものだった。
秀夫が帰ってきたのは10時を過ぎてからだった。安子はお茶を出した。しばらく二人とも何も言わなかった。秀夫がお茶のカップをテーブルに置いて、「ハローワークのことは」と言い始めた。「少し考える」と。
「少し考える」というのが何を意味するのか、安子には分からなかった。行くという意味なのか、まだ迷っているという意味なのか。でも今夜はそれ以上聞かなかった。
結婚指輪というのは、重さのないものだと安子はずっと思っていた。細い金のリングで、つけている時の感触はほとんどない。38年間、安子はその指輪を外したことがなかった。それを外したのは7月の第二週の朝だった。
前の夜、秀夫と静かな言い合いになった。秀夫はハローワークへの登録についてまだ決めかねていると言った。「もう少し自分で動いてみる。竹内から紹介してもらえる会社の話があるかもしれない」と。安子は黙って聞いた。それが事実かどうか確かめる方法を、安子は持っていなかった。
翌朝、秀夫が出かけた後、安子は一人で台所に立っていた。ふと左手の薬指を見た。指輪があった。細くて、少し黄ばんでいる部分がある。それでもずっとそこにあった。安子はしばらく指輪を見ていた。それから静かに外した。するりと抜けた。外した指輪は手のひらに置いてみた。小さかった。こんなに小さかったのかと思った。
引き出しを開けて、奥にしまってあった小さな袋を取り出した。その中には、ほとんど使わなくなったイヤリングが一組と、母から譲り受けた細いブレスレットが一本入っていた。安子は指輪をその袋に入れた。駅の近くに小さな質屋がある。シャッターに「買い取り」と書いた緑色の看板が出ている店だ。以前から存在は知っていたが、入ったことはなかった。入るという理由が今まではなかった。
店員は袋を受け取り、中身を取り出した。指輪とブレスレットとイヤリングを小さなルーペで確認し、秤に乗せた。何かを書き込んだ。「指輪の方はK18ですね。重量から計算して、本日の買い取り価格はこちらになります」と言って紙を差し出した。安子は数字を見た。指輪が9800円、ブレスレットが6200円、イヤリングが1500円。合計1万7500円。思ったより少なかった。でも文句を言う立場ではなかった。
「お願いします」
身分証を提示して書類にサインし、現金を受け取った。1万7500円。封筒に入れてもらったお金を鞄にしまい、店を出た。外に出ると夏の日差しが強かった。薬指に何もなかった。その感触が歩きながらずっとあった。軽かった。軽いのに、何かが消えたような感触だった。
スーパーに寄って帰った。今夜の夕食の材料を買った。豚肉の切り落とし、豆腐、ネギ、玉ねぎ。全部で1200円。レジで支払いをする時、さっきもらった1万7500円から崩した。夕方になって、夜間シフトの前にもう一度出かける支度をしていた時、安子は台所の棚の上にある、見慣れない封筒に気づいた。薄い封筒で、通販会社の名前が印刷されていた。開封されていた。安子は迷ったが、中を確認してみると、それはクレジットカードの明細書だった。
利用明細の一番上に、7月4日の日付で、腕時計のブランド名と思われる英語の文字列と金額が書かれていた。9万8000円。安子はその数字をもう一度見た。9万8000円。明細の下の方には今月の請求合計額と現在の利用残高が書かれていた。カードの利用限度額に対して、残りの利用可能額がほぼゼロになっていた。安子は明細を元の封筒に戻し、棚の上の元の位置に置いた。胃の奥がまた締まった。今度はいつもより深いところだった。
今朝、指輪を売って受け取った1万7500円。そして今、クレジットカードで使われた9万8000円。数字が頭の中で並んで重なって消えなかった。翌朝、部屋のテーブルの上に腕時計の箱が置いてあった。正式な化粧箱だった。蓋が半開きになっていて、中から時計のクッションと本体が見えた。シルバーのケースに白い文字盤。安子はテーブルの前に立ってその箱を見た。手は出さなかった。
仕事の前に郵便受けを確認すると、白い封筒が一通入っていた。クレジットカード会社からのものだった。中に入っていたのは「利用限度額超過のお知らせ」だった。今月の利用額が限度額を超えたため、一時的にカードの利用が停止されているという内容。超過分については速やかにお支払いいただくようという文言が続いていた。安子は紙を折り、封筒に戻した。腕時計の箱の隣に、二つが並んだ。
寝室のドアが開く音がした。台所に入ってきた秀夫は、安子が椅子に座っているのを見て少し足を止めた。
「どうした」
安子は秀夫を見た。それからテーブルの上の二つのものを見た。秀夫もそれを見た。少し間があった。秀夫は椅子を引いて座った。腕時計の箱を手に取り、蓋を閉めた。
「これは」と秀夫が言いかけた。
「カードが止まっています」安子は言った。秀夫は黙った。「超過分のお支払いが必要です」
秀夫はしばらく机の上を見ていた。「あれは」と言った。「安くはないが、ちゃんとしたものを一つ持っていれば仕事の場でも信頼感が出る。顧問として人と会う時、身につけるものは重要だ」竹内から紹介の話が来た時、きちんとした印象を与えられなければ意味がないと。
安子はそれを全部聞いてから、静かに言った。「竹内さんからの話は、まだ来ていないんですよね」
秀夫は黙った。
「昨日、私は指輪を売りました」安子は続けた。「結婚指輪です。質屋で1万7500円でした」
部屋が静かになった。秀夫は安子の左手を見た。薬指に何もなかった。秀夫は何か言おうとして、でも言葉が出てこなかった。口が少し開いたまま閉じた。また開いた。安子は立ち上がった。鞄を持った。
「仕事に行ってきます」と言って玄関に向かった。靴を履きながら、秀夫が台所の椅子からこちらを見ているのを背中で感じた。扉を開けた。外は朝の光がすでに強かった。
その日の昼間のパートを終えて帰る途中、安子はスーパーに寄った。野菜コーナーを回り、特売のキャベツを手に取った。それから魚のコーナーへ向かった。冷蔵ケースの前に立った時、声が聞こえた。知っている声だった。二宗の吉田さんの奥さんの声だった。もう一人、顔は知っているが名前をはっきり覚えていない女性の声も聞こえた。安子はケースに視線を戻した。二人の声が近づいてきた。
「あら、森山さん」吉田さんの奥さんが言った。
安子は振り返った。「こんにちは」と言って頭を下げた。少しの間があって、吉田さんの奥さんが目線を動かした。安子の持っている買い物かごを見た。キャベツと、これから選ぼうとしていた魚のコーナー。その目線の動きを安子は感じ取った。そしてその隣でもう一人の女性が、冷蔵ケースの端の方の値引きシールのコーナーに伸びかけた安子の手を見た。何も言われなかった。でも安子はその沈黙の意味を知っていた。二人とも今この瞬間に同じものを見ていた。値引きシールのコーナーに伸びかけた手と、かごの中のキャベツと。安子は手を引っ込めた。
「ちょっと他のものも見てきます」と言って、ではまた、と頭を下げた。二人の足音が遠ざかった。安子はその場でしばらく動かなかった。胃の奥が締まっていた。今日のこの感覚は、以前に感じたものとは少し違った。恥ずかしさというよりも、もっと乾いた何かだった。安子はもう一度ケースの前に立った。値引きシールの貼られた魚の荒のパックを手に取った。かごに入れた。そのまま野菜コーナーへ戻り、ネギを一本追加した。レジへ向かった。レジに並びながら、安子は前を向いていた。もう周りを確認しなかった。
家に帰ると秀夫がいた。リビングのソファに座ってテレビを見ていた。音量は小さかった。安子は台所に入って買い物袋を置いた。秀夫は何も言わなかった。安子も何も言わなかった。魚を水で洗いながら、今日のスーパーでのことを思い返していた。思い返しながら安子は手を動かした。魚を焼き、ネギを切り、出汁を取った。料理をすることは頭の中を静かにする効果があった。手を動かしていると、考えることが少し遠くなる。それだけのことだったが、今はありがたかった。
夕食の準備ができた頃、秀夫が台所に入ってきた。「今日は魚か」と言った。「あらですが」と安子は言った。「そうか」と言って秀夫は椅子に座った。二人で食べた。会話はなかった。食事が終わって、秀夫が一度だけ言った。
「今日、ハローワークのサイトを少し見た」
安子は洗い物をしながら「そうですか」とだけ言った。
「登録の手順を確認した。来週、行ってみようと思う」
安子は手を止めなかった。スポンジで皿を洗い続けた。それからゆっくりと「そうですか」と言った。今日のことがどこかへつながるのかどうか、安子にはまだ分からなかった。ハローワークに行くといったことが、本当に来週実行されるのかどうかも分からなかった。でも今夜はその言葉だけがあった。
洗い物を終えて、タオルで手を拭いた。薬指に何もなかった。その感触がまた来た。軽いのに、重い感触。安子は台所の電気を消した。廊下を歩いて寝室へ向かった。布団に入って目を閉じた。今夜も同じ屋根の下にいた。それだけが確かなことだった。
人が限界に来た時、大きな声を上げるとは限らない。むしろ静かになる場合の方が多い。怒ることも泣き崩れることもなく、ただある瞬間に、自分がずっとそこにいた場所から静かに足を踏み出す。踏み出した先に何があるかは分からない。でも、そこにいることがもうできなくなっている。森山安子にとってその瞬間は、7月の終わりの蒸し暑い昼下がりに来た。
あの朝から3日が経っていた。秀夫が来週ハローワークへ行くと言った夜から3日。その間、秀夫はその話を自分から出すことはなかった。朝に起きてスーツを着て出かけて、夜に帰ってくる。その繰り返しだった。三日間夜間シフトが続いていた。昼間のパートを終えて帰り、少し横になってまた夜の病院へ向かう。帰宅が深夜の2時近く。眠れるのが3時過ぎ、起きるのが6時半。その繰り返しで、体の底の方から何かが抜けていく感じがしていた。
7月の最終木曜日の朝。夜間シフトから帰ってきた安子が玄関の扉を開けると、廊下に光が差し込んでいた。秀夫がもう起きていた。台所から物音がした。台所に入ると、秀夫がコーヒーを入れていた。
「安子の分も」と秀夫は言った。二人で台所のテーブルに座ってコーヒーを飲んだ。窓から朝の光が入ってきていた。
「今日、行ってくる」と秀夫は言った。「ハローワークに。朝一番に行く」登録だけだと言った。仕事を探すというより書類上の手続きとして、それで保険料の申請ができるならやっておいた方がいいと。
安子はコーヒーを一口飲んだ。「そうですね」と言った。しばらく二人とも黙っていた。コーヒーの湯気が朝の光の中に細く上がっていた。
「指輪のことだが」と秀夫が言った。安子は少し待った。「時計を返品するつもりだ。まだ箱がある。レシートも、購入から二週間以内なら返品できると書いてあった。返品して、カードの超過分に当てる」
安子はその言葉を聞いた。本当にそうなるかどうか、今の時点では分からなかった。でもその言葉が今朝ここで出たということは、秀夫が昨日、どこかで一人でその箱と向き合っていた時間があったということだった。
「分かりました」と安子は言った。それだけ言った。
秀夫が帰ってきたのは、昼の2時を少し過ぎた頃だった。革靴ではなく少し古いウォーキングシューズを履き、スーツではなく薄い色のシャツとズボンだった。どうだったかと聞くと、秀夫は「混んでいた。年寄りばかりだった」と言った。
「手続きは終わった。時計の返品も済ませた。駅前の郵便局から送った。着いたら返金の手続きに入るらしい」
その日の夕方から、安子は体の異変を感じ始めた。胃の奥が閉まる感覚ではなく、重くなる感じだった。食欲もなかった。病院へ向かう途中、田中主任に「少し体が重い気がする」と伝えると、「熱はないですか」と額に手を当てて確かめた。「無理しないでください。今夜は廊下の簡単なところだけにしておきましょう」
その夜の清掃はいつもより短い範囲だった。それでも終わった時には体がいつもより重かった。帰り道はいつもより時間がかかった。足が重いというより、前に進む理由を体が探しているような感覚だった。
翌朝、秀夫が早く起きていた。安子が目を覚ますと台所から音がしていた。出て行くと、秀夫がご飯を炊いていた。
「顔色が悪い。横になっていろ」と秀夫は言った。安子が「いいえ、大丈夫です」と言いかけると、秀夫は振り返らずに「炊き上がったら声をかける」と言った。安子はしばらくその背中を見ていた。それから「分かりました」と言って廊下に戻った。
テーブルの上にご飯と味噌汁と昨日の残りの煮物が並んでいた。秀夫が作ったとは言っても、ご飯を炊いて残っていた味噌汁を温め直しただけだった。でも、並んでいた。安子は椅子に座った。
「いただきます」と言った。秀夫も向かいに座った。二人で食べた。最初は黙って食べていた。セミの声がどこかから聞こえた。
「追加徴収の分は」と秀夫が言い出した。安子は箸を止めた。「時計の返金が来週中に入るはずだ。それで足りない分は、俺の定期を崩す。少し残っているはずだ」
「そうですか」
秀夫は味噌汁の椀を持ったまま窓の方を見ていた。「お前に全部任せきりだったな」
安子は秀夫の方を見た。秀夫は窓の方を見ていた。安子の方を向いていなかった。38年間、秀夫がそういうことを言ったことはほとんどなかった。安子はしばらく何も言わなかった。それから「食べましょう」と言った。秀夫は「ああ」と言った。二人でまた食べた。
その日の午後、安子は一人で押し入れを整理した。特に理由があったわけではない。体が少し楽になっていて、何かしようという気持ちが久しぶりに出てきた。それだけだった。押し入れの奥のダンボール箱を引き出した。秀夫の古いゴルフ道具の袋の後ろにある、安子があの茶封筒を隠した箱だった。箱を開けると、書類の束の中に茶封筒があった。取り出して中を確認した。追加徴収の通知書。数字がそこにあった。安子はその紙をもう一度丁寧に読んだ。以前に読んだ時とは少し違う目で読んでいた。以前はこの数字が全部自分にのしかかってくるものとして読んでいた。でも今日は少し違った。まだ解決したわけではない。でも、秀夫のハローワークの登録証が台所の棚にある。時計の返金の話がある。定期を崩すという言葉がある。まだ何も終わっていないが、一ヶ月前とは少し違う場所に立っている。安子は通知書を折り直して、茶封筒に戻した。今度は押し入れの奥ではなく、台所の引き出しに入れた。見えるところに置いた。
夕方になって、秀夫が外から帰ってきた。手にコンビニの袋を持っていた。中にプリンが二個入っていた。「安子の分も買ってきた。体の具合が悪そうだったから」夕食の後、二人でプリンを食べた。テレビをつけずに食べた。プリンは普通のものだった。コンビニで売っているごく普通のプリンで、特別に美味しいわけでも高いわけでもなかった。でも安子は一口食べて、少しだけ目が暑くなった。泣いたわけではなかった。ただ少し暑くなった。それだけだった。秀夫はそれに気づかなかったか、気づいても何も言わなかった。自分のプリンを黙って食べていた。
「来月からは、もう少しきちんとしよう」と秀夫が言った。食費のことか家計のことか、それとも別の何かのことか、はっきりとは分からなかった。安子も「そうですね」と言った。どちらもそれ以上は言わなかった。
皿を台所に運んで洗った。秀夫が台所に来て、「拭こうか」と言った。安子は少し驚いたが、「お願いします」と言ってタオルを渡した。秀夫はぎこちなくタオルを受け取り、洗い終わった皿を拭き始めた。拭き方が少し雑だった。でも安子は何も言わなかった。二人で台所に立って、洗い物をした。それが何かを解決したわけではなかった。追加徴収の金額は変わっていない。クレジットカードの超過分もまだ口座に戻っていない。昨日のハローワークの登録が実際に何かにつながるかどうかも分からない。来月も来週も、同じように数字を数えながら生きていく日が続くことは変わらなかった。でも今夜だけは、二人で台所に立っていた。それだけが今夜の確かなことだった。
洗い物が終わって二人でリビングに戻った。テレビをつけた。音量は小さくした。秀夫がソファに座って、少しうとうとし始めた。安子は窓の近くの椅子に座って外を見た。団地の夜の中庭に、街灯が一本オレンジ色の光を落としていた。その光の中に虫が集まって飛んでいた。小さな虫が光の周りをぐるぐると飛んでいた。遠くで電車の音がした。最終電車に近い時間の電車だと思った。音が遠ざかった。静かになった。ソファで秀夫の寝息が聞こえ始めた。安子は立ち上がって毛布を一枚持ってきて、秀夫の肩にかけた。それから電気を少し暗くして、自分も椅子に戻った。窓の外の街灯の光が、変わらずそこにあった。何かが終わったわけではない。何かが始まったとも言いきれない。ただ今夜だけは、ここにいることがそれほど苦しくなかった。それだけで今夜は十分だった。



