夜の七時過ぎ、玄関のチャイムが鳴った。そう一がドアを開けると、息子の直樹が立っていた。前回より古いコートに、擦り切れた革靴。顔つきは疲れ切っていた。
「借金ができた。あの封筒の金、返すつもりだったんだ。でも、そのうち使ってしまった」
そう一は何も言わなかった。
直樹は続けた。「人から借りた金が返せない。相手が回収の人間を使い始めてる。ここを担保に入れるしかないかもしれない。印鑑をもらえれば、こっちは何とかなる」
その言葉を聞いた瞬間、そう一の頭の中で何かが静かに確定した。彼は立ち上がり、台所へ行った。棚の一番下の引き出しから、果物ナイフを取り出した。
今に戻ると、直樹の顔から表情が消えた。そう一は向かいの椅子に座り、右袖のコートをまくり、前腕をテーブルの上に置いた。ナイフを右手に持ち直し、自分の腕の横に置いた。
何も説明しなかった。ただ、直樹の目をまっすぐ見た。もう、ここに渡すものはない。言葉を使わずに、そう伝えた。
一分ほど経って、直樹が椅子から立ち上がった。ゆっくりと、決めたというように。今を出て、玄関へ向かった。ドアが閉まった。今回は、戻ってこなかった。
そう一はナイフをテーブルに置き、台所で手を洗った。今に戻ると、リツ子が台所の入り口に立っていた。いつからそこにいたのかは分からない。二人は目が合ったが、どちらも何も言わなかった。
リツ子はゆっくり台所に戻り、夕飯の続きを始めた。
その夜の十時過ぎ、外が白くなっていた。そう一が出勤のために玄関に向かうと、リツ子が言った。「雪が降ってる」
東京の初雪だった。そう一は廊下に立ち、少しの間、降り積もる雪を見た。それから仕事へ向かった。
翌朝、帰宅するとリツ子はもうパートに出た後だった。台所のテーブルに水筒と小さなメモが置いてあった。メモには、インクの薄くなった赤いボールペンで「温かいから、ちゃんと飲んで」とだけ書いてあった。
そう一は水筒からお茶を飲んだ。熱かった。ゆっくり飲んだ。
今年起きたことを、順番に思い出した。六月の通知。一つの差。リツ子の目。病院の廊下。直樹の顔。買い取り店の天井。年金事務所の窓口。三回に分けて揃えた書類。受理された申請。処理完了の通知。
来年度から、医療費の上限は二万四千六百円に戻る。住民税の非課税世帯の資格も戻る。一ヶ月分の年金は永久に戻らない。六万円が消えた。それも確定した。
直樹とは、もう会わないだろうと思った。後悔はなかった。悲しみというものがあったとしても、それはもっと前に、何年もかけて消えていたものだった。
リツ子が帰ってきた。玄関で深呼吸の音がして、台所に入ってきた。水筒を見て「飲んだのね」と言った。「飲んだ」とそう一は言った。リツ子は少し頷き、冷蔵庫を開けて夕飯の段取りを考え始めた。
そう一はリツ子の背中を見ていた。エプロンの結び目が、少し曲がっていた。
その夜、リツ子が家計簿を開いた。赤いボールペンで十二月の収支を書き込んでいた。「どうだった」とそう一が声をかけると、リツ子は振り返った。
「来年は、少し楽になると思う」
あの一万四千円の話をしているのだと分かった。「そうだな」とそう一は言った。
そう一はベランダに出た。エコーの箱には、最後の一本が残っていた。火をつけ、煙を吸い込んだ。煙は冬の空気の中に白く混ざり、見えなくなった。
今年も終わっていく。来年が来る。また計算して、穴を探す。穴が見つかれば塞ぐ。塞げなければ、別の方法を探す。それでも足りなければ、また削る。終わらない作業だった。
しかし、二人ともまだここにいた。リツ子の目が見えている。台所に明かりがついている。赤いボールペンで数字が書き込める。手すりを握った。鉄が冷たかった。
タバコの火を消し、空の箱をポケットに入れた。ベランダの引き戸を開け、中に入った。台所の明かりが廊下を通り、今の入り口の辺りまで届いていた。その光の端に座った。
外ではもう雪が降っていなかった。風もなかった。静かな夜だった。



