「それ、どこへ持っていくの?」
私は部屋着を片付けようとドアを開けた。すると長女の真由美が、私のジュエリーボックスを床に広げ、ネックレスや指輪を次々とバッグへ入れていた。
「整理してあげてるだけ」
「バッグに入れることを整理とは言わないでしょう」
「じゃあ言い方変える。売るの」
私は思わず真由美を見つめた。彼女は平然と言った。
「結婚資金が必要なの。彼、会社の社長だから、私もそれなりの指輪が欲しいし。どうせママ、使ってないじゃん。それに、ママのものって言っても、結局はパパのお金で買ったんでしょ」
私は静かに言った。
「返しなさい」
「嫌よ」
真由美は鼻で笑った。
「そもそも私、ママのこと家族だと思ったことないから」
その一言で、不思議なくらい心が静かになった。私は真由美の顔を見て、もう一度だけ確かめた。
「本当にそう思っているのね」
「何回言わせるの?」
真由美はバッグを抱えて部屋を出ていった。
この時、あの子はまだ知らなかった。持ち出した宝石が一つ残らず偽物であることも。そして、自分自身について、夫が十八年間隠してきた秘密も。
私の名前は沙織。五十八歳。夫の達也は五十九歳で、私たちには娘が三人いる。長女の真由美、次女の千尋、そして三女の七海。
私は家事をしながら、二十年以上在宅で経理や資料作成の仕事を続けてきた。収入は決して少なくない。けれど夫は、家にいる私を「養ってやっている妻」としか見ていなかった。
「俺が稼いでるからこの家が回ってるんだ。パソコンいじってるだけで仕事とか、笑わせるな」
そんな言葉は日常茶飯事だった。
しかも夫は、長女の真由美だけを露骨に可愛がった。
「真由美は華がある。千尋は地味だな。七海は愛想がない」
娘を並べて比べるたび、私は止めたけれど、夫は聞かない。やがて真由美まで、父親そっくりになった。
「千尋って、その服似合わないよね」「七海はもっと笑えば?」
千尋も七海も、父親とは必要なことしか話さなくなった。
夫の可愛がりの差は、誰が見ても分かるほどだった。真由美の十八歳の誕生日には十万円を超えるブランドバッグ。一方、次女の千尋の誕生日には「欲しいものがあるなら自分で買え」。三女の七海が塾の教材費を相談した時には「そんなに勉強して意味あるのか?」と笑った。
「同じ娘でしょ?」と私が確かめると、夫は決まって言った。
「真由美は俺に似てるから、放っておけないんだよ」
その言葉を聞くたび、胸の奥に冷たいものが残った。当時の私は、その意味をまだ知らなかった。
私が持っていたアクセサリーの多くは、亡くなった両親から受け継いだものだ。価値のある本物は銀行の貸金庫に預け、家には精巧なレプリカだけを置いていた。思い出の品を手元でも眺めたかったからだ。夫の達也も、長女の真由美も、そんな事情には一度も興味を示さなかった。
そして半年前、達也は突然、生活費を半分近くまで減らした。
「やりくりするのが主婦の仕事だろう。足りないなら、お前がもっと稼げば」
私は何も言い返さなかった。足りない分は自分の収入で十分補えたからだ。ただ静かに、準備を始めた。
実は、私は達也について、もう一つ知っていることがあった。それを知ったのは十三年前、七海を妊娠していた頃だ。達也の机を整理している時、一通の古い手紙を見つけた。差出人は、ある女性の兄。そこにはこう書かれていた。
「妹を独身だと騙して妊娠させたことを許さない。約束どおり、二度と関わるな」
私は目を疑った。
結婚して間もない頃、達也は幼い真由美を突然連れて帰ってきた。
「昔付き合っていた女性が亡くなった。残された娘を、俺は施設には入れられない。俺の子なんだ。育ててほしい」
私は悩み、泣いた。それでも幼い真由美を見捨てることはできず、母親になると決めたのだ。
でも、それは全部作り話だった。
本当は、達也が結婚前に独身と偽って交際した女性との間に生まれた子。女性は達也が既婚者だと知って深く傷つき、育てられない状態になった。最終的に真由美は達也が引き取り、女性側の家族から養育費として三千万円も渡されていたのだ。
私は女性の兄に連絡を取り、事実を確かめた。その時、本当は離婚しようと思った。でも当時、千尋も七海も幼かった。仕事も今ほど安定していなかった。だから待った。悔しかった。とにかく悔しい日々だった。でも、娘たちが自分で立てる年齢になるまでは、と。
そして数年前から、達也にはまた別の女性がいた。達也の二度目の裏切りに気づいたきっかけは、出張のはずの日に見つけた一枚のレシートだった。家から電車で三十分ほどのホテル、二人分の食事の代金。それを見ても、問い詰めることはしなかった。一度目のように証拠もないまま傷つくつもりはなかったからだ。
千尋と七海には、達也の過去を全て話したわけではない。ただ「お母さんはこの家を出る準備をしている」と伝えると、二人は迷わず言った。
「私たちも行く」
その一言だけで、十三年間抱えてきた重さが少し軽くなった。
今度は証拠も集めた。弁護士にも相談した。達也自身が最後の一線を越えるのを待つだけだった。
真由美が私のジュエリーボックスから宝石を持ち出した三日後、夕食を終えた頃、達也が一枚の紙をテーブルに置いた。それは「離婚届」とだけ書かれていた。
「沙織、もう終わりにしよう」
「そう」
あまりにあっさり返したせいか、達也は眉を潜めた。
「俺には好きな人がいる。その人と再婚する」
「そうなのね」
「驚かないのか?」
「驚いてほしかったの?」
笑いが吹き出しそうになり、口元を抑えた。達也は嫌だったように声を荒げた。
「とにかくお前とは離婚する。この家も俺がもらう。お前と千尋と七海は出ていけ」
私は箸を置いた。
「分かったわ」
少し間を置いて、続けた。
「でも、真由美は連れて行ってね」
達也だけでなく、真由美もこちらを見た。
「母親のお前が面倒見ろよ」
「嫌よ」
私は真由美を見た。
「だって真由美は、私の実の娘じゃないもの」
空気が止まった。
「何それ?」
真由美の声が震える。達也が立ち上がった。
「沙織、今それを言う必要はないだろう」
「あるわ」
私は静かに答えた。
「真由美はもう十八歳よ。それに、本人が言ったの。私を家族だと思ったことはないって」
私は十八年前から続く嘘を全て話した。真由美の顔から血の気が引いていく。
ところが次の瞬間、あの子が最初に口にしたのは、謝罪でも涙でもなかった。
「じゃあ、三千万円は?」
私は目を閉じた。
「やっぱり、そこなのね」
「私のためのお金なんでしょ? パパ、残ってるよね」
達也は答えない。
「ねえ、使った? 何に?」
「生活費とか、色々だ」
真由美は絶句した。
私は達也に向き直った。
「あなた、さっきこの家が欲しいと言ったわね」
「当たり前だ」
「先月渡した、住宅点検の報告書、読んだ?」
「あんな嫌がらせみたいな封筒、捨てたよ」
「そう。それでもこの家がいいのね」
「しつこいな。俺の家だって言ってるだろう」
私は頷いた。
「分かったわ。財産分与では、私は家を求めない」
達也が勝ち誇ったように笑った。そこで私は、もう一つの封筒を置いた。達也と女性がホテルへ出入りする写真と調査報告書、そして弁護士が作った書類。達也の笑顔が消えた。
「慰謝料と、七海が成人するまでの養育費を請求します」
「お、お前、知ってたのか?」
「ええ」
「じゃあ、なんで黙ってたんだ?」
「あなたが自分の口で離婚を言い出すのを待っていたの。こんな日が来ると思って、準備していたから」
私は笑った。
一週間後、私は千尋と七海を連れ、用意していた賃貸マンションへ移った。
一ヶ月ほど経った頃、真由美から電話があった。
「ママ、どうしよう。彼に捨てられた」
泣きながら聞かされた話では、真由美が持ち出した宝石を彼氏に預けたところ、全部偽物だと分かり、その直後から連絡が取れなくなったそうだ。
「偽物ってどういうこと?」
「あれはレプリカよ。本物は銀行に預けてあるの」
「じゃあ、本物ちょうだい」
「嫌よ」
私が即答した瞬間、電話の向こうが静かになった。
しかも、私は真由美の彼について事前に調べていた。会社社長という彼の会社は存在しなかった。
真由美が騙されたこと自体は、母親として胸が痛んだ。でも、盗んだ事実まで消えるわけではない。
さらに数日後、今度は達也から電話が来た。
「家の床が沈んでる。業者に見せたら、白蟻で土台がダメだって言われたぞ」
私は静かに答えた。
「だから報告書を渡したでしょ」
「修理にいくらかかると思ってる?」
「それでも家が欲しいって言ったのは、自分でしょ」
達也は何も言えなかった。
離婚後の達也は、再婚するはずだった女性とも別れたそうだ。私は詳しく聞かなかった。もう、私には関係のない人生だ。
今は、私は千尋と七海と三人で暮らしている。朝は少し慌ただしく、夜は三人で食卓を囲む。以前より家は小さくなった。でも、不思議なくらい息がしやすい。
ある晩、七海が聞いた。
「お母さん、真由美お姉ちゃんのこと、もう嫌い?」
私は少し考えて答えた。
「十八年育てたことを後悔したことはないよ。血が繋がっていなくても、私はあの子の母親だった。だからこそ、悲しかった」
「でも、母親だからって、何をされても許さなくていいの?」
千尋が小さく頷いた。
家族は血だけで決まるものではありません。けれど、血が繋がっているからと言って、何をしても家族でいられるわけでもない。
大切にしてくれた人を、大切にする。今の私には、それで十分です。



